十七話 ちからをとりもどせ
マクロレン商会リフォレ支部の中には、充分な数と広さの居住スペースも確保されている。
俺とソラの為に用意された部屋に戻ると、待っていたのは……灯りも点いていない静寂だった。
ソラはもう寝ているのだろう、手荷物をテーブルにまとめて置き、少しだけお腹に意識を集中する。
着ていたワンピースドレスが青白い炎に溶けていく。
眠いわけではないけれど、夜通し出歩くのもはばかられる。
『閲覧者』があれば、一晩かけて黒き魔女の魔術書を読んでみたかったんだけど。
「遅かったですね」
ベッドの上の塊がもぞりと動き、ソラの声。
「起きてたのか」
見れば、外より暗い部屋の中で、青い瞳が輝いている。
……微妙に、剣呑な空気を感じる。
「……お団子買ってきたけど」
「いりません」
冷たい空気が背中を撫でた。
どうして不機嫌なんでしょうねこの子は。
「シエラちゃん。私は……お腹が、空いています」
「……お、お団子」
すぅ、と切れ長の大きな青い瞳が、細く……獲物を狙う捕食者のような、鋭い目つきに変わる。
もう一度選択肢を間違えたら、喰われそう。
靴とケープをぽぽいっと脱ぎ、ベッドに上がる。
身体を起こしたソラに手を引かれ……ベッドに押し倒された。
俺の身体に覆い被さり、一度鼻を鳴らした素っ裸のソラが、目を見開いた。
「……私の魔力が、消えてます」
ソラの魔力……? 言われて、少しだけ考える。
ああ、リフォレに来る道中、橋の検問を突破するのに吸収したあれだろうか。
んん、もしかして。
俺の身体に生えた獣の耳と尻尾は、ソラの魔力そのもののせい……?
自身の魔力を変質させたと思っていたけどそうではなく、『空駆ける爪』の魔力を使って自身の身体に再構成していた、ということか。
つまり、その魔力がなくなったから獣の耳も尻尾も、生えなくなった。
「……使い切った、からか」
原因は恐らく、『断罪』と左目の『かぐや』を使い、さらに魔力の供与をして魔力が空っぽになったからだろう。
ということは、この身体で色々な『魔力の変質』を試しても、魔力を使いきれば元に戻れる……?
ぺたり、と肌と肌を合わせるように体重を預けてきたソラは、唇と唇が触れ合う距離で、再び口を開いた。
「空っぽになったシエラちゃんを、私は二回、見ています」
「……うん」
一回目は、城塞都市レグルスでアーティファクトに魔力をごっそり吸われ、帰還の魔術を使った時。
枯れた湖の底で、ソラに助けられたんだっけ。
「魔力が底をついた人間がどうなるか、知っていますか」
「えぇと……仮死状態になる?」
「はい」
唇に、唇を押し付けられた。
魔力のやり取りのない、ただ単純な、互いの体温の押し付け合い。
時折漏れるソラの吐息は熱く、頬を滑る。
なかなか離れようとしないその唇に少しだけ魔力を流し込むと、ソラは小さく嚥下して、唇を離した。
「……人間は魔力が尽きたら、普通はそのまま死にます」
放っておけばいずれ死ぬ、と言ったのは誰だったか。
あの時、魔力を抜き取られていた栗色の髪をした少女……コリン・クリシュは、かなりギリギリの状態だったのかもしれない。
「呼吸により魔素を体内に取り込み、魔力に変換する。それができない仮死状態は、つまりは死ぬことと同じ意味です」
「……ソラが助けてくれたんだよな」
「いえ」
ソラの声色は、ずっと硬い。
何かに怒っているような……そんな気配をずっと纏っている。
「シエラちゃんは、勝手に生き返ったんです」
あの時も、そして今回も。
そう呟いたソラの声は冷たく、しかし再び押し付けられた唇は、俺のそれより熱をもっていた。
……一度死んだみたいな、言い方をしているけど。
「シエラちゃん。あなたは……人間では、ないですよね」
「……うん」
小さく頷くと、ソラの顔が逸れ、頬と頬が触れた。
すりすりと頬を擦りつけるその姿は甘えているのだろうか、喉の奥から小さく呻くような声が漏れている。
腕を回し、ソラの髪を撫でる。
柔らかく、獣臭い。
「……いつから気付いてた?」
「最初から」
「そか」
と言っても、俺自身の意識や自覚は……人間そのものなんだけど。
「でもあの方の娘であることはきっと、間違いないですから」
ようやくソラは少しだけ笑い、二度目の口付けをした。
閉じた唇がこじ開けられ、薄く長い舌が口内を柔らかくねぶる。
その自分勝手な舌を唇で捕まえ、また魔力を少しだけ流し込んだ。
「ん、んぅ……、はふ」
頬を赤らめ口を離したソラは、俺の両手を掴まえて指を絡めた。
俺の目を覗きこむ青い瞳は濡れている。
「シエラちゃん。……魔力を使い切るのは、もう止めて下さい」
「それは、どうして」
死ぬことすらないのなら、問題はなさそうだけど。
いやまぁ、何日も眠りこけるのは問題か……迷惑ってレベルじゃない。
「あの方の匂いが、どんどん濃くなっています」
アーティファクトを取り込む度、あの遺品を使う度、そして、魔力を使い切る度に。
黒き魔女の匂い……魔力の色が、濃くなっているという。
それはまるで、侵食するように。
それが良いことなのか悪いことなのかは分からない。
この少女の姿をした魔獣にとっては、どっちなんだろう。
「……気をつける」
「はい」
両の手に指を絡め取られ動けない俺の額に、ソラは鼻を押し付けてすんすんと鳴らした。
俺の身体の貧相なそれに、ソラの柔らかな胸が押し付けられ、温かい。
「それじゃあシエラちゃん」
「……なに」
機嫌は直ったのだろうか、浮かんだ笑みはちょっと悪そうな顔だった。
「警戒能力を、取り戻しましょう」
「えぇ……?」
いや確かにあれは便利だけども。
フードを被ってると窮屈に折れ曲がって、サイズの小さい服を着ているような感じがして苦手なんだよなぁ……。
俺の身体の上に跨るソラは尻尾を揺らし、またおそろいになるまで逃がさない、と謎の決意を固めている。
そもそもこの体勢になっている時点で、逃げられる気はしない。
「……はいはい」
諦めの声を上げ、手をにぎにぎした。
ぺろり、と舌を出したソラがにんまりと笑みを浮かべ、体重を預けてくる。
本当にこの子は、温かい。
柔らかく僅かに突き出された唇に、唇で触れた。
魔力を吸い取ると、ソラの喉の奥でくぐもった声が漏れた。
『魔力の変質』、その偶然の産物だと思っていた。
獣の耳と尻尾は、そもそも自身の魔力ではなかった……ソラの魔力を保持して身体に再構成させるだけなら、感覚はきっと『地均す甲竜』のときのそれに近い。
つまり自分の意思で、オンオフが可能な筈。
あの時よりずっと『空駆ける爪』という魔獣を、その少女を知った今なら、上手くできる気がする。
跨ったままのソラが唇を離し、身体を起こした。
その手が俺の胸を腹を優しく撫で回す。
なんだか背中がぞくぞくするのでやめてほしい。
目を瞑り、お腹の『竜の心臓』に意識を集中する。
「っふぅ……」
目を開いた。
ぴょこ、という音は勿論鳴らなかったけど、ソラの反応を見るに、どうやら成功したらしい。
お尻の下の窮屈感がはんぱない。
「あは。やっぱり可愛いですね、シエラちゃん」
「……どうも」
俺の身体を撫で回すソラの手つきが、微妙に妖しい。
ヴィオーネに悪い影響を受けている気がする……。
身体を起こした俺をソラはゆるりと抱きとめ、耳元で囁いた。
「私にも寵愛を、くださいな」
思わず小さく笑ってしまった。
色んな人間から良くも悪くも影響を受けているらしいソラは欲求に素直で、そこがまた、可愛らしい。
髪を撫でると、首筋に鼻を押し当てられ、ソラの熱い吐息が鎖骨を撫でた。
「いっぱい、ください」
「……うん」
お互いの獣の尻尾がシーツを撫で、自然と笑みが浮かんだ。
月明かりの遮られた暗い部屋の中、押し付けられた柔らかな体温に釣られ、俺の身体もぽかぽかと温かい。
ああ、まったく。
本当に湯たんぽみたいだな、この子は。




