九話 力の代償
その不吉な影を纏った女は笑っていた。
半身の感覚がない私を見下ろして。
私は生きたかった。
私は死にたくなかった。
だからその女に捧げた。
或いは売り渡した。
私の身体を、魔力を、存在を、言われるがまま。
そうして私は生き永らえた。
およそ人間ではない存在として、しかし永遠に近しい命を得た。
女は色々なことを教えてくれた。
魔術師として、女として、魔獣として。
だけど女は、一つだけ教えてくれなかった。
死に方だけは、教えてくれなかった。
だからその光は……眩しくて、綺麗だった。
「……あぁ」
身体のほとんどが冷たい水に浸かっていて、ひんやりと気持ち良い。
顔に身体に雨粒が当たり、こっちは少し鬱陶しい。
砂混じりの溜まり水を踏む足音が近づいてきて、俺のすぐ脇で止まった。
身体は痺れているのか動かしづらい。
首を巡らせると、顔が水に呑まれた。
ごぼごぼ。
「なにやってんだよ」
呆れたようなルデラフィアの声に、引っ張り起こされる。
「あいたた……」
身体の節々がぎしぎしと痛む。
手足はところどころ焼け焦げ、ワンピースドレスもこんなにぼろぼろになっているのは初めて見た。
ああ、靴がなくなってる……。
「……使うなら、もっと上手く使え」
「……はい」
初めて聞くルデラフィアの声色は怒っているようだったけど、泣いてもいるようだった。
抱き起こされ、降り注いでいたのは雨ではなく、空まで巻き上げられた川の水だということが分かった。
魔力を全て使いきったわけではないけれど、傷の治りは遅い。
身体にまとわりつく青白い炎は、吹けば消えそうなほどに薄い。
霧はすっかり晴れていた。
『渦巻く海竜』の姿は見当たらない。
遠く、桟橋の近くで魔術の気配がする。
「早く行ってやれ」
ルデラフィアの声に背を押され、視線の先、うずくまるスティアラとアイファ、その陰の。
足が重い。
こちらを振り向いたアイファの顔が一瞬怯え、すぐに力のない笑みを浮かべた。
全身に青白い炎を纏わせた真っ白な少女がふらふらと歩み寄ってきたのだ、仕方のないことだった。
スティアラはアイファの背に手をかざし、治癒の魔術だろうか集中している。
初めて見るそれは、柔らかな淡い光。
見ればアイファの背は酷い火傷を負っていた。
スティアラの隣、少女の姿で横たわるソラは、眠っているように見える。
視界が滲む。
俺がもっと早くアレを使っていれば、こんなことにはならなかった。
自惚れと、慢心……なんとかなると、思っていた。
ソラの傍らに膝をつき、頬を撫でる。
温かな、ともすれば本当に、眠っているようで……。
「んぅ~……むにゃぁ……」
「……っ」
普通に眠っていた。
いや、お前……。えぇ……?
「お前のアレとこいつの治癒があって、死ぬほうが難しいだろ」
遅れてやってきたルデラフィアの声に、力が抜けた。
視界が歪み、涙と嗚咽が溢れ出た。
「……うぅ、なんだ、よ……ばかぁ……っ」
スティアラがへたり込む俺を横目で見つつ、口を開いた。
「アイファが、守ってくれたんですよ」
『断罪』による余波はやはり周囲を巻き込んだらしい。
ルデラフィアは自分で捌いたようだけど、動けなかったソラとスティアラを、アイファが身を挺して庇ったという。
「……そう、だったん、だ。あいふぁ……うぅ、ごめん、なさい。……ありがとぅ」
「いえ、そんな。……私は何も、できなかったので……これくらい」
俺の情けない声に、アイファは力なく笑いながら答えたけれど、その小さな背中は痛々しく爛れている。
俺が、やったのだ。周りを顧みず、この手で。
直撃を受けたであろうこの借り物の身体はもうなんら問題なく動いて、傷も塞がっていく。
魔力は空っぽに近いけれど、時間が経てば元に戻るだろう。
勇気を振り絞って師を、そしてソラを助けてくれたこの生きている少女の背中の傷は、きっと痕が残る。
「……あの、あいふぁ……その、嫌じゃ、なかったら……私の魔力を」
きっとこの少女は、人として魔術師として、俺を……『白き魔女』を、恐れている。
だけどこの魔力には強力な再生能力がある。
「嫌だなんて、そんな。うれしいです、お願いします」
スティアラもこちらを見やり、僅かに笑みを浮かべた。
師のお許しも出たらしい。
よろよろと這い寄り、アイファ・ルクの前にひざまずくと、目を瞑り唇を柔らかく突き出してきた。
可愛らしいその姿に、少しだけ罪悪感が湧く。
俺の中の魔力も底を尽きかけているけど、そんなことはどうでもよかった。
恐怖か緊張か、震える長い睫毛を見ながら頬に手を添える。
綺麗に治れば、いいのだけど。
不意に、意識が覚醒した。
ずっと、真っ暗な海に揺られていたような、不思議な感覚から、目が覚めた。
「そ、そんなことになってたなんて、わたし……っ!」
「いちいち反応が大げさね、コリンは」
ふかふかな温かいベッドの中、聞き覚えのある女の子の会話が聞こえる。
身体が少し重たく感じるのは布団のせいではなく、ああ、獣臭い素っ裸の少女が抱きついているから。
ゆっくりと目を開くと見たことのない天井が見え、視界の端にはお高そうな調度品も見える。
「んぁん……んぁ~……」
……獣臭い。
生温かい、薄く長い舌が頬を鼻を唇を這い回る。
やはりこの感触は気持ち良さよりも、気持ち悪さのほうが少しだけ上回っている。
薄く目を開け、ソラの頭を両手で挟む。
少し切れ長な青い瞳をぱちくりとさせたソラの半開きの唇に、唇を触れさせた。
「……おはよう、ソラ」
パッと笑顔を咲かせたソラは、すぐに舌を絡ませてきた。
「んぅ、しえらちゃんっ、しえら、ちゃん、んぅ~……っ」
部屋の中の会話がピタリと止んだ。
ごくり、と生唾を飲む気配。
そういえばここは何処なんだろう、そして部屋の中には誰が……。
「んぷぁ、ソラ、ちょい、んぅ」
犬のようにぺろぺろと顔を舐めまわすソラの目は少しだけ潤んでいる。
危うく、つられて泣きそうになる。
……ああ、元気そうで良かった。
またがるソラを抱きながら身体を起こす。ああ、俺も素っ裸ですね。
見回す部屋は広く、やはり見覚えはない。
高そうなテーブルと椅子、そこに座っていたのはアイファ・ルクと、コリン・クリシュだ。
頬を染めている二人は、見てはいけないものを見てしまったかのような……目を合わせてくれない。
「えぇと……おはよう」
首筋に鼻を埋めるソラの髪を撫でながら、とりあえず気まずい空気を払拭すべく声をかけたものの。
「お、おはようございます、お姉さま……」
「……おはようございます。シエラ様」
ほんの少しだけよそよそしい態度の二人は、やっぱり視線が定まっていない。
ベッドの脇には船に預けていたケープと紙箱、トトの短剣、それと『吸血鬼』の柄が置かれている。
素晴らしい出来だったショートブーツも、お金が入った革袋も、消失してしまった。
ああ、櫛もない……ニャンベル印のぱんつも。
小さく溜め息をつく。
自業自得とはいえ、色々なものをいっぺんに失くしてしまうのは、やっぱりつらい。
ソラの頬をむにむにと摘んでから、立派なベッドから下りた。
「あの、シエラ様。お召し物を」
「ああ、大丈夫。ありがとう」
少しだけお腹に集中する……ぼう、と青白い炎が肌を舐め、いつもの真っ白なワンピースドレスを再構成した。
延焼は……してないな、よし。
ケープを羽織り短剣を腰の後ろに、『吸血鬼』を横に差して紙箱はポケットの中。
「ほ、ふおぉ……っ!?」
ガタッ! と椅子から立ち上がったコリンが変な声を上げ、アイファも目を丸くしている。
「お姉さまっ! なんっ、なんという魔術ですかそれっ!?」
「い、今のは……一体……?」
魔力での生成は一般的なものじゃないのか、ソラさん、説明を……!
助けを求めた俺の視線に入ってきたのは、ベッドの上で枕の匂いを嗅ぎながら安らかな眠りに落ちていくソラの姿。
おお、幸せそうな顔をしている……起こしづらい。
「そ、その話は後で。……えっと、アイファ、その」
「は、はい」
アイファが用意してくれていた靴を履きながら声をかける。
脛まで覆うブーツタイプで少し硬めだけど、サイズはぴったりだった。ありがたい。
「……背中は、大丈夫?」
ああ、とアイファは明るく言い、俺の前に立ってからくるりと後ろを向いた。
するり、と肩紐をはだけさせた背中は滑らかで、触り心地が良さそう。
「痕にならなくて、良かった」
首元から肩甲骨の間に手を這わせ、撫でる。
「ひゃ……シエラ様?」
「……良かった、本当に」
くすぐったいのか、艶めかしい溜め息を漏らすアイファの背中、浮いた背骨を指でなぞっていく。
我慢しているのだろう、身体をふるふると震わせるその姿はいじらしい。
「……そういえば、ここはどこなの」
俺の言葉にコリンはハッとした様子で答えた。
「そ、そうでした。お姉さまが目覚められたら、連れてくるように言われていたのでした!」
いそいそと服を直すアイファを横目に、分かった、と返事をしつつ。
寒々しいこの下半身の感覚も今や懐かしい、けれど早々にどうにかしたい。
「アイファ、お願いがあるんだけど」
「はい、なんなりと」
背の高さはそこまで大きな差はないけれど、ソラ>アイファ≧俺>コリンの順。
ちょうど俺と同じくらいの背丈のアイファなら、恐らく合うだろう。
「アイファ(と同じくらいのサイズ)のぱんつが欲しい」
「へ……っ?」
コリンも居るということは、恐らくここは港湾都市リフォレのマクロレン商会か、クリシュ家のどちらかだろう。
この規模の都市なら何かしら売ってるだろうし、悪いけど呼び出されている間にひとっ走り行ってきてもらおう。
「っ……わ、分かり、ました……っ」
「助かる。お金は後で工面するから」
「う、うぅ……っ」
お金はとりあえずマクロレン商会に借りるとして。
彼女が持ってきてくれるまで、この空虚な感覚は我慢しよう。
あの包まれるような温かさが懐かしい。
そのアイファ・ルクは顔を耳たぶまで真っ赤にして、眉根をひそめている。
流石に小間使いみたいな扱いは失礼だったか。
と、前言を撤回しようと口を開こうとするも……固まった。
俺の目の前でアイファは……覚悟を決めたような、しかし歯を食いしばり、少しだけ泣きそうな顔で。
するすると、ぱんつを脱いだ。
「ちょ」
「お、お姉さま、むしろ私が」
むしろの意味が分からない。
いや、なぜこの場で……?
自身の言葉の足りなさに考えが巡ることはなく。
「ど、どうぞ……っ」
差し出されたアイファの脱ぎたてぱんつを受け取った。
あれぇ……?
「いや、……えぇと」
「し、シエラ様、あの、早く……穿いてください……っ」
「……は、はい」
まだ少女の温もりが残っているそれを、本人に目の前で見つめられながら穿く。
なんだこれなにやってんだ俺。
「ど、どうですか?」
どう、とは一体……それはどんな言葉を期待しての発言なんですかね。
とりあえず俺が言えることは、一つだけ。
「ありがとう」
それだけだった。




