八話 小さな家に名など無く
森を切り開いた広場にぽつんと建つ木造りの簡素な家は、二人で住むにしては些か窮屈に見えた。
軒先に見たことのないグロテスクな果実が干されている以外は、目につくものは特にない。
ボロ布(いや、布団だった)に包帯女を物のように放り投げた少年は、足を拭いていた俺をボロ布(座布団だった)に手招いた。
座り心地の悪さはこの際気にしないでおこう。
木製のカップになみなみと注がれた、柑橘系の香りがする温かい飲み物は酷く薄いけど、舌がピリリとするのが少しおもしろい。
一息ついたところで少年が口を開いた。
「えぇと……近くの人里まで、行きたいとの……ことでしたが」
先程までの淀みない言葉遣いとは一転、なんだか気まずそうな、見てはいけないものを見てしまったような……少年の視線が定まっていない。
「そうだけど……どうした?」
恐らく年下であろう少年、年の頃は十五、六くらいだろうか。
随分としっかりしているように見えるのは、姉と呼んでいたあの包帯女のせいだろう。
などと値踏みしていると、少年の顔が気のせいか薄っすらと赤くなっていた。
なんだこの反応。と思った所で、ようやく思い至る。
「あ、悪い」
何も考えず普通に胡坐をかいていた。
まだ俺は、自分の身体と状況が、ちゃんと飲み込めていないらしい。
すみません、丸見えでしたね……。
「い、いえ……」
この服防御力低すぎだろ、と胸の中で悪態を吐きつつ……ということは、ああそうか。
年下だと思って接していた少年だけど、見た目だけなら今の俺の方がもっと下なのか。
今更訂正するのも面倒だし……まぁいいや。
それよりもどういう風に座ればいいんだろ。というか座ると意外と短く感じるなこの服……。
「それであの、お聞きしたいことがあるんですけど」
なんでこの少年はこんなに畏まっているんだろう。
なんだか壁のようなものを感じる。
そしてその丁寧な口調とは違い、眼光はやや鋭く……睨まれているように感じる。
「あなたは村の方ではない……ですよね。何処から来たんですか?」
返答次第では、という含みがあるような。
考えすぎだろうか。
「それは……地理的な意味、でいいのかな」
「……? えぇ、それも、ですけど」
それも、とはどこまでを聞いているのだろう。
いや、どちらにしろ答えづらいな。
現状俺が分かっている、知っていることは非常に少ない。ほぼ皆無と言ってもいい。
目の前にいる少年はこちらに敵意こそ無いものの、多少なりとも怪しんでいることは分かる。
問題は……何に対してなのか、だ。
正直に全部話したところで信用してもらえるかどうか。
んー……信用か。
まぁとりあえずは。
「……そうだな、先に自己紹介しておくよ。俺の名前は……えぇと」
色々頭を過ぎったけど、間は一瞬だったと思う。
「しぇ……しえら、るぁく……とぁ、の……」
「……シエラさん、ですか?」
いや、噛まずに言えたよ。
言いづらいにも程があった。
こっそり練習する必要がある。
「そう、それ。シエラです。よろしく」
「……よろしく、お願いします」
そして数秒間、この小さな家の中は静寂に包まれた。
あれ……自己紹介って普通、お互い名乗りあうものですよね……?
「いや、あの。名前を教えて欲しいんだけど」
「……?」
少年は自身を指差し、俺はそれを見て頷く。
この反応はなんだろう。
まるで俺の言っている言葉の意味が、理解できていないような。
まさか言葉が通じてない? いやいや、さっきまで普通に会話できていたのに。
と、表情には出さず内心で焦りまくる俺の胸中は、すぐにさらなる焦りで上書きされることになった。
少年が唇を噛み締め、大粒の涙をこぼし始めたから。
「えっ」
理解が追いつかない。
というより、会話ができたというだけでどこか安心……いや、油断していたのだろう。
俺の持つ常識なんて、沈まない月が二つ浮かび魔素が漂うこの世界では、何一つ頼りにならないというのに。
「うぅ、ぐぅ……っふうぅ……っ」
拳を握り締め、声を上げないようポロポロと涙を溢れさせる少年に、異変を察したのか伸びていた包帯女が目を覚ました。
ああ、面倒なことになる予感がひしひしとしてきましたよ。
「どっどしたぁ……お前、わたいの弟に何したぁ!?」
何もしてないよぉ……。
少年のもとに足音をバタバタと立てて駆け寄り、声を荒げる包帯女。
いや本当に何が原因でそうなったのかも分からないけれど、とりあえず指で指し示しながら答える。
「いや、えぇと……自己紹介をして」
「それで」
「名前を聞いたんだけど」
「な、ま゛っ……なま……ぇ」
生?
掴み掛からんばかりの包帯女はしかし、口をパクパクさせて固まった。
え、名前を聞くのが常識的にありえないとかそういう……?
それくらい一般常識がここではズレているとしたら、この先どれだけ苦労するのだろう。
と、半ば絶望に沈みかけていると……包帯女まで、声を上げて泣き出した。
「ふぇっ……ふぅえええぇぇっ」
「んぐっ、ううぅ……っ」
「ええ……?」
姉弟が抱き合う形で泣き続けるのを、申し訳程度に味のする水をすすりながら、ただ見ていた。
多分、死んだ魚のような目になっていたと思う。
それでも二人が泣き止むまで待ったのは罪悪感からではなく、勿論これからのことを考えての打算的なことだった。




