四十一話 ヴィオーネ・エクスフレア
「おチビちゃんは、神様に会いに行くんでしょう?」
俺が通されたのは、屋敷の二階にあるヴィオーネの私室だった。
家具の類は少なく、大きなベッドと散乱する魔術書、何かに使うのだろう得体の知れない道具が散らばっている。
この人、片付けられない人だ……。
促され、そこだけは妙に整えられているベッド、その端に座る。
香が焚かれているのか、空気それ自体が少しだけ甘く、重い。
「そうです、けど」
そこまで話した記憶がないけど……どこで知ったのだろうか。
「ごめんなさいね」
そういってヴィオーネは目の前に立ち、俺の頬に手を当てた。
そのまま滑った手が、俺の左耳のピアスを片手で器用に外した。
壊れていると、思っていた。
「……なるほど」
全て筒抜けだったということか。
しかし、これはお互い様か。
俺も三狂の魔女を、利用しようとしていたわけだし。
……んん。ってことは。
「可愛い顔して相当なキス魔ね、あなた」
「……っ」
あああああーーっ!!
顔が熱い。血は流れていない筈なのに。
だとしたらこれは魔力だ、感情の昂りに呼応して魔力が身体の中を駆け巡っている。
部屋の中の魔素が見える、髪に違和感、獣の耳が生えたか、尻尾も登場してますねこれは。
「あわわ……え、えぇと、いや、その」
「別に責めてるわけじゃないんだけど」
くすくすと笑いながら、ヴィオーネの手が俺の髪を撫でる。
その手は優しく、油断するとほだされそうになる。
落ち着け、主導権を握られるな。
素数を数えるんだ、いち、にい、さん、よん……。
ヴィオーネの長い指が、現出してしまった獣の耳を摘んだ。
「本当に面白い子ね……ふぅっ」
「ひゃぁっ」
……っ!?
なんだ、今の、声は。
背中をぞくぞくとした何かが駆け上り、体内の魔力がぎゅんぎゅんと廻る。
獣の耳に、息を、吹きかけられたのか。
見上げるように睨みつける。
ヴィオーネの顔は俺の視線を受けて尚、笑みを絶やさない。
うわぁ、すっげぇ悪い顔してる……。
「……で。話って、なんですか」
咳払いをしつつ強引に舵を切る。
魔術書に夢中になった妹二人と無防備に眠りこけたソラを置いて、ヴィオーネは俺を部屋に連れ込んだのだから。
お話をしましょう、と言って。
「畏まってするものでもないわよ。……妹二人を篭絡した悪い子に、お仕置きしようと思って」
篭絡て。
長女という立場からしたらそうなる、のか……?
ヴィオーネの瞳が妖しい光を湛えている……背中に冷や汗が伝う。
「冗談よ」
そう言ってヴィオーネは再び俺の頬に手を添え、親指で唇を撫でた。
ああ駄目だ、まだ耳が戻せない……。
「返り討ちにされそうだもの」
その笑みは妖艶で、大胆に開かれた胸元に目が吸い寄せられる。
恐ろしく綺麗な人だと思う、けど。
長い指が頬から顎を伝い、首筋に滑る。
「世界の中心にある『神の樹』……そこに居る、というのは誰でも知っている」
神さまのことか。
良かった、話は本線に戻ったようだ……ヴィオーネの手は俺の肩を這っているけど。
触り方がいちいち艶めかしい!
「だけど、その存在を目にした者は、かつて誰一人としていない」
あの女、ヒイラギは確か、高密度の魔力体と言っていたか。
しかしあの語り口は、それが居ること自体は……確信していたようだった。
ヴィオーネの指は肩から後ろへ滑り、首の後ろを撫で回す。
「……ふぅっ」
「ひゃうっ」
ちっ、くしょう……っ!
背中に意識を持っていかれ、不意打ちでまた獣の耳に息が吹きかけられた。
これ以上遊ばれてたまるか、と目の前の長身の女を除けようとして……気がつく。
それは、あまりにも遅かった。
「……あの、ヴィオーネ、さん」
「なぁに、おチビちゃん」
その口調は、舌なめずりをする、蛇のよう。
腕が……動かない。
「何か、しました……?」
恐る恐る聞いてみる。
ふふ、と微笑みを浮かべた三姉妹の長女は、舌をぺろりと出して……俺の鼻を舐めた。
「強いて言えば、この部屋に、かしら」
部屋……この匂い、空気、焚かれている、香。
いや待て待て、この身体は毒とか効かない筈だろなんでどうして。
焦りと恐怖と困惑とが顔に出ていたのだろう、ヴィオーネは薄く笑い、俺の背に回した手で、ワンピースドレスのリボンを解いた。
「……冗談、ですよね?」
俺の問いへの答えは、獣の耳への甘噛み。歯を噛み締め、今度こそ声は出さない。
ヴィオーネの細く長い指が、着るのがなかなかに面倒な服を、いとも簡単にするすると脱がせていく。
やばいこの人手馴れてる……。
転移だ、転移の魔術を……右腕が持ち上がらない……!
上半身を覆っていたものが綺麗に剥かれ、代わりに絶望感が俺の身体を覆う。
うおお! 動け! 俺の身体!
魔力をフル動員した俺の全力の抵抗は、しかし獣の尻尾がシーツを撫で回しただけに終わった。
あーだめだ、なみだでてきた……。
「なぁに、そんなに尻尾を振っちゃって……待ちきれないのかしら」
「ち、ちが……っ」
た、助けて、ソラ!
俺の胸中の叫びも空しく、軽く肩を押され……ベッドに押し倒された。
「泣いちゃだめよ、おチビちゃん。……興奮、しちゃうから」
「ひ……っ」
ヴィオーネの舌が、へその下……『竜の心臓』に触れた。
「これも、アーティファクトかしら」
唾液を含ませたそれが、肌と赤い結晶を交互に這う。
指先が腰を撫で、早く答えろと急かす。
「『竜の心臓』……。に、二番目の、です」
「……そう」
痛みはほとんど感じないこの作り物の身体なのに、今は酷く鋭敏に感じる。
高機能だなぁちくしょうだれかたすけて。
ぬるりとした熱を持ったそれが這い上がり、へそに到達する。
「どういうものか、教えてくれるかしら」
へそに差し込まれた舌が、身体の奥を目指そうと水分を含み、音を立てる。
熱い息が腹を撫で、肌をくすぐった。
「ま、魔力への、干渉……と。っは……ぁ、変質、です……」
くすぐったくて、呼吸が苦しい。
恐らく廻る魔力が暴走しているからだろう、なんかもう制御できそうにない。
ああ、『地均す甲竜』がいれば……!
なるほどねぇ、と呟きながら、熱い舌は身体の正中線をゆっくりとなぞっていく。
同時に腰から腋へと柔らかく撫でた指が、俺の肩を掴んだ。
鎖骨を這い、くぼみをねぶり、首筋を舐め上げる熱いそれに翻弄されそうになる。
漏れそうになる声を噛み締める。
逆転の目は、まだある。
ヴィオーネの舌が首から本来の耳まで上り、耳たぶを噛んだ。
「左目、魔術が刻まれてるわね……それは?」
やはり、分かるのか。
自分で見たときは全く分からなかったけど。
「……城塞都市の、アーティファクト、です」
覗き込むヴィオーネの目は爛々と輝き、少しだけ潤んでいる。
「羊皮紙のような見た目だと聞いていたけれど……」
身体を這いずり回った舌が、俺の左目に狙いを定めている。
覆い被さったヴィオーネ、その両手が俺の頭を抑えながら、耳たぶを優しくこねる。
「ま、って……ぇ、……っ」
「だぁめ」
喉の奥から漏れた制止の声は、垂らされた唾液で抑えつけられた。
続けて、にゅる、と焼けるような熱をもったそれが、眼球を這い回る。
声が出ない。何故か懐かしいこの感触は、当たり前だけど慣れる気がしない。
熱い涙がとめどなく流れ落ち、シーツを濡らしていく。
いや違う泣いてなんかない、これはヴィオーネの唾液だ。
だれでも、いいから、たすけて、まじで。
「これはどういうものなのかしら」
涙なのか唾液なのか分からないそれを舌で舐め取りながら、ヴィオーネは質問を続ける。
濡れた赤い舌が、目の前でちろちろと踊る。
「……ま、魔力が見える、目……です」
「それだけ?」
考えがうまくまとまらない。
あの感覚は、なんて説明すればいいのだろう。
「……多分、俯瞰……月が自分の、目になったように……」
「……なるほど、ね」
拙い説明だけどしかしヴィオーネは納得したらしい、弄んでいた舌の動きがようやく止まった。
お、終わった……?
「それで、神様のことだけど」
終わってなかった……。
ぺろり、と舌なめずりをしたヴィオーネ、その下あごから首筋が視界を過ぎ去り、豊かな胸が身体に押し付けられた。
狙いは、俺の頭の上。
「え、ちょ……っ、ま、やめ……っ、~~っ!」
その感触は、眼球を舐められたときとはまた別のベクトルの気持ち悪さだった。
獣の耳に、熱い舌がぬるりと差し込まれた。
「……っ、ま、ぇ……っ、びお、ね……っ」
神経をそのまま舐められているような。
痛みはない、けれど強烈すぎる刺激は、そう、直接体内を侵食されているような感覚。
「は……っ、ぁ、ぁ……っ」
ねぶられる音が、熱さが、頭の中を支配する。
髪を撫でる手は優しいのに、一切の抵抗を許さない。
涙が止まらない。左目がぽかぽかと温かい。
「『神域の庭』は……今は確か、魔族が支配しているのよね」
見えないけど恐らく邪悪な笑みを浮かべているのだろう、濡れた獣の耳が甘く噛まれる。
ヴィオーネの声が、ほとんど頭の中に入ってこない……!
「そしてそこに向かうにも、海路は絶望的」
「……それは、どういうこ……っ、お、……っ」
無事だったもう片方の獣の耳に、熱い何かが流し込まれた。
何かというか唾液だった。
そしてそれを追うように舌が遠慮なくねじ込まれる。
ヴィオーネの手が、ぎゅう、と俺の頭を抱えて自らの身体に押し付けた。
その甘い匂いは、しかしあまりにも危険すぎる。
「うちの子たちなら、何か知っているかもしれないわね」
この屋敷にいる『木々を食むもの』のことだろう、今は屋敷の中と外を総出で片付けている筈だ。
二人の顔を思い浮かべる、けれど獣の耳に注ぎ込まれる熱い水音が思考を塗り潰していく。
ヴィオーネの少し汗ばんだ身体が、焦らすように離れていく。
警戒能力の象徴を唾液まみれにされ、シーツの海に横たわる俺の身体に、無事なところは最早ない。
身動き一つ取れない俺の、頬のすぐ横に手をついたサディストは、顔をゆっくりと近づけてくる。
きた……逆転の目。
散り散りになった意識をかき集める。
唇に口付けた瞬間、ヴィオーネ、お前の魔力を(限界ぎりぎりまで)吸い尽くしてやる……。
「……おチビちゃん」
唇が触れるか触れないか、という距離で顔を止めたヴィオーネが、笑みを浮かべた。
その笑みはまるで、捕食者のような……。
ぺろり、と下唇が舐められる。
「悪いこと、考えてる顔よ」
「……っ」
……バレてた。
胸の中で渦を巻くこの感情はなんだ。
絶望だ。
すい、と唇が離れ、顎から首筋へ熱く唾液を含ませた舌が滑る。
「物欲しそうな目をしてもだぁめ」
指で唇をぷにぷにと突かれ、それに噛み付こうとして、避けられた。
胸からお腹まで撫でながら下りた指先が『竜の心臓』で止まり、爪がその縁をなぞる。
カリ、カリ、と。
俺が部屋から解放されたのは、それから一時間後のことだった。




