四十話 閲覧する者
「おいで、おチビちゃん」
屋敷の正面玄関前、ヴィオーネ・エクスフレアが手を広げ、俺を呼んでいる。
俺の後ろを付いてきているソラの冷たい視線が後頭部に刺さる。
この子どんどん嫉妬深くなっている気が……。
「えっと、ヴィオーネさん。すみません、遅くな……っ」
ぐい、と。
引き寄せられ、抱き締められた顔に当たるそれは思っていた以上に柔らかく、ふくよかだった。
素晴らしい。
「大きな借りを作っちゃったわね」
頭を撫でられながら、ちょうど目の前のたわわなそれを存分に堪能する。
あー、すごい、いいにおいがする。
「いえ、まぁ。協力関係ですし」
そうね、と言いながら屈んだヴィオーネは、俺の前髪をよけて……おでこに唇を押し付けた。
「聞きたいこともあるし……中に入りましょうか」
エクスフレア邸の中は、廊下が色々な跡で歩くのも困難な状態になっていたが、部屋の中は綺麗なものだった。
丸い大きなテーブル、あの時とは違い今回は隣にソラが座っている。
「まず、今回の件だけど」
ぶどう酒で唇を湿らせてから、ヴィオーネは口を開いた。
「黒き魔女が表舞台から姿を消すのと同時期に鳴りを潜めた魔術師の一団……『使徒』の仕業でしょうね」
鈍色のローブを纏った者たち。
黒き魔女を慕い、付き従っていたという。
「世界の救済だかなんだか、胡散臭ェこと言ってた奴らだろ」
それはかなり、というか滅茶苦茶怪しい。
大仰なことを言う輩は詐欺師か宗教屋と相場が決まっている。
「あいつらの目的は、シエラちゃんとあの方の秘宝です」
ソラの声色は硬い。
理由は分からないが、なんだか三姉妹を目の敵にしているような……。
「……ところで、その子は?」
ヴィオーネが首を傾げつつ、ソラへ視線を向ける。
そういえば紹介してませんでしたね。
「あなた達に名乗る名なふぉお」
ぷに、とソラの頬を摘む。
じろり、と横目で俺を睨むソラの青い瞳は、見るからに不機嫌そのもの。
「えっと、この子は私の……」
私の、俺の……ソラは、なんだ?
友達、仲間、戦友……しっくりくるものが思いつかない。
考えていると、ソラは小さく溜め息をつき、口を開いた。
「私はソラです。シエラちゃんの伴侶です」
「えっ」
「あら」
背伸びする子を見守るような、微笑ましいものを見るような、そんな表情がヴィオーネの顔に浮かんでいる。
おや、隣のニャンベルさんからは険悪な空気が漂ってますね……。
心なしかテーブルの向こう、斜め前のルデラフィアも目つきが険しい。
「……ソラさん、伴侶の意味を、知ってますか」
「当然です」
「そうかよし言ってみろ」
「婚姻関係になることです」
……こいつ、本当に知ってて言ったのか。
えっと、つまり、どういうこと?
「私は、シエラちゃんとの間に、子供が欲しいと思っています」
「???」
ダイニングルームが静寂に包まれた。
この子は何を言っているんだろう。
さっきの戦闘で頭でも打ったのかな……?
「……一応聞くけど、ソラお前、女の子だよな」
「はい」
そうだよね。うん、そうだよね……。
え、じゃあなんで?
「おチビちゃん」
「はい?」
見るに見かねたのか、ヴィオーネが口を挟む。助け舟かな。
「魔獣に私たちでいうところの厳密な性別の区分はないわよ」
「えぇと……つまり?」
「可能ってことよ」
何がだよ。
まさかの追い討ちだった。いやなんでちょっと楽しそうな顔してんだこの人は。
というかソラが魔獣だと既にバレてる……。
「ヴィオーネちゃんでしたか。あなた、いい人ですね」
「手首柔らかいなぁお前」
しかもちゃん呼びかよ怖いもの知らずだな。
生きている年数からしたらそうなんだろうけど。
「その話はおいおい詰めるとして」
「詰めないでいいです」
「ニャンベル、本を」
俺の抵抗をスルーしたヴィオーネは、俺の横顔をじぃっと見続けていたニャンベルに声をかけた。
頬にそろそろ穴が空きそうでしたよ。
テーブルの上に置かれた立派な装丁のそれには見覚えがある……魔術書『転移魔術』だ。
だがしかしその表紙に背表紙に、タイトルは刻まれていない。
ぱらり、とニャンベルの小さな手が捲った中身も、真っ白なページが続く。
「フィアとおチビちゃんが飛んでから二日後には、もう消えていたのよ」
ずい、と俺の前に分厚い本が寄せられた。
装丁だけは立派な、しかしタイトルのないその表紙に、手を触れる。
「……ああ」
目を切り替えた。
本の真上に魔素がゆっくりと集まっていく……頭の上に視線が集まっているけど、今は置いておこう。
「そうか、これは……」
たゆたう魔素に導かれるように、手を指を躍らせる。
その度に魔力が魔素へ伝わり、本へ流れ込んでいく。
確信した……アーティファクトは、この身体の為にあると。
「アーティファクト、『閲覧者』」
表紙に再度触れる。
相変わらず表紙には何も書かれていない、けれど、きっと。
ページを捲る。
何も書かれていなかった空白のページに、びっしりと羅列されているこれは、魔術書のタイトル。
覗き込むように、三姉妹が立ち上がり……息を呑んだ。
「転移魔術は、この中の一つだったんですね」
呟く俺の声に、そういうことね、とヴィオーネが小さく答えた。
隣のニャンベルは瞳をキラキラさせている。
「この世界に存在する魔術書を全て閲覧できる魔術書」
理解したそれを口にしながら、ページを捲る。
時折見える懐かしい言語のタイトルは、あの女が書いたものだろう……というかそれ以外のものは、悲しいかな何一つ読めない。
鼻息が荒くなってきたニャンベルに声をかける。
「観たいものは、ありますか?」
「拒絶空間」
即答だった。
独りでに捲られたページの中、読めないけど分かるそれを、指でなぞる。
全てのページの文字が意思を持ったように蠢き、文字を再形成していく。
数秒も経たず完成したそれは、表紙にもしっかり反映されていた。
著者は、やはり読めない。
「キルケニス・オーグリア……」
むんずと魔術書を奪ったニャンベルが独りごちながら中身を物色していく。
確かあの老人の名前だったか。
ぺらぺらとページを捲る小さな手は止まりそうにない。
テーブルを回ってきたルデラフィアも、ニャンベルの頭越しに魔術書を覗き見ている。
「とんでもねェな、これ」
ルデラフィアの声も少しだけ興奮しているように聞こえる。
世の魔術師にとってこのアーティファクトの存在価値は……それこそ計り知れない。
「話を戻すけど」
ヴィオーネは魔術書に盛り上がる妹二人を放置して、俺を見た。
「おチビちゃん、あなたは……黒き魔女の娘、よね」
「……はい」
少しだけ、迷った。
目の前のグラスに手を伸ばし、澄んだそれを一口、喉に落とす。
「彼らの襲撃はこのアーティファクトを狙ってのものだったのでしょう。
だけど……これを正しく使えるのはおチビちゃん、あなただけだと、私は思うのだけど」
「そう、だと思います」
そう。
恐らくこれは、魔素が見えないと条件を満たすことができない……ただの分厚い、真っ白な本だ。
「所在の明確なものから片っ端に、だとしたら近いうちにまた……。いえ、次はおチビちゃんかしらね」
それとも一番最後なのかしら、とヴィオーネは呟き、グラスに手を伸ばした。




