四話 逆月は重なって
目を開くとそこは、木漏れ日がまばらに散る薄暗い森の中だった。
鼻腔をくすぐる湿った空気は新鮮そのもの。
頭上を見上げると、十数メートルはあるだろう木々が折り重なるように枝葉を広げて陽光を奪い合っている。
足の裏は湿り気を帯びた土の感触。
背丈の短い草や苔が水分をたっぷりと蓄えて丸々と自己主張をしていた。
そんな少し重たい土と、ふわふわした苔を踏み潰しながら歩くこと……多分半日ほど。
「あー……綺麗な湖、だなぁ」
湖面に当たる陽光が細かく揺れ、網膜をこれでもかと刺激してくる。
対岸が随分と遠くに見える、立派な湖だった。
湖の中には葉のついていない木がまばらに生えていて、遠く中心付近では密集しているように見える……不思議な光景だ。
分厚い枝葉に覆われたひんやりした森の中を歩いてきたせいか、浴びる陽射しが心地良く感じる。
湖面に映る揺れる空に違和感を覚えて、視線を上に滑らせ……目を見開いた。
「月が……」
巨大な月が二つ、折り重なっていた。
幻想的、というよりも……恐怖感の方が幾分か勝るそれは、ここが完全に別の世界だということを分かりやすく教えてくれていた。
途方もなく遠くにあるだろうそれは、まるで地上を睥睨し隅々まで監視しているよう。
「月、でいいんだよな、あれ」
名称はさておき。
白んだ二つのそれは、ふた周り程小さいのが手前に、大きい方がその後ろに鎮座していた。
阿呆みたいに口を開けながらそれを見ていた俺は、ざぁっと前から吹き抜けた強い風で我に返った。
随分と透明度の高い湖のほとりに近づき、水面を見下ろす。
長く白い髪が視界に入り、鬱陶しさに手でかきあげた。
んん……感触が、微妙によろしくない。
「あー……歩き通しだったしな」
森の中は背の高い草葉は少なかったものの、進むにつれ樹木が立派になっていき、露出した根を飛び越え回り込み掻い潜るなかなかのアスレチックぶりだった。
視点の低さと手足の短さになかなか慣れなかったのもあり、盛大にすっ転ぶこと何度も。
改めて見ると、湖面に映る人形みたいな女の子は酷く汚れていた。
……まだこのお人形さんみたいな女の子が自分だと認められない俺がいる。
同郷の女が全てを注ぎ込んで作った……傑作品、か。
「あー、あー。ん、んん」
可愛らしい声だこと。
さて。
「……洗うか」
見たところ周囲に生き物は居ないようだし。
ここまでの道程にもそれらしい生物はおろか、小動物すら見当たらなかった。
運が良かっただけなのか、そもそもこの森には存在しないのか、それとも……避けられている、なんて可能性もあるのだろうか。
目を細めて、改めてぐるりと見渡してみる。
湖面の揺れは幾分穏やかになっていて、周りの木々(結構な大木だ)は、少し高くなった陽を気持ち良さそうに浴びていた。
ここは随分と魔素が濃い。特にこの湖の周辺はやけに濃密だ。
空に溶けていくような、薄い、酷く薄い青。
この世界のどこにでも存在するというそれに働きかけ、変化させ、現象を起こす……あのとき見た光景。
魔術と呼ばれるもの。
どうやって使うのだろうか。
どうせなら使ってみたいなぁ。
拝借してきた紙箱を地面に置く。
そして無惨に汚れきった白い上質な服を捲り上げ、脱いだ。
そのまま捨てていく、という選択肢は今のところ採れそうにない。
素っ裸になった自身を見下ろす。悲しいかな起伏はなだらかで、肌は滑らかだけれど。
触っても重みの感じられない、ちょっと柔らかいだけのそれ。
あの女は自身をベースにした、と言っていたけど……どうせならあと三年分くらい増して欲しかったな。
ふにふに。
さてさて。
湖の水は澄んでいて、飲めるかどうかは分からないけれど汚れを落とすだけなら問題はなさそうだ。
喉の渇きも空腹も今のところ感じていない。
いや正確に言うと、深く息を吸うと……なんだか、満たされるのだ。
特にこの湖に着いてからは、体調はすこぶるご機嫌だった。
この身体はもしかしたら魔素がエネルギー源なのではないだろうか。
澄んでいるように見えるけど、底は不思議と見えない。
泥と苔に塗れた小さい足を恐る恐る湖面に差し入れると、ゆるゆると汚れが溶けていき、すぐに足が着いた。
冷たくもなく、温かくもない。感じていないだけかもしれない。
少し歩き、膝下まで浸かったところでおもむろに服を突っ込んでかき混ぜる。
これで綺麗になればいいけれど。
ばっしゃばっしゃと端から見れば一人で水遊びをしているように見えるだろう、雑な洗い方をすること数分。
元通りというわけにはいかなかったけど、目立つ汚れは落とせた。
「……こんなもんか」
一息ついてから、もう少し歩を進めて深いところを目指す。
腰まで水位が届いたところで空を仰ぎ、後ろ向きにゆっくりと倒れていく。
この大きな湖で、湖面を葉っぱのように漂いながら、まだ違和感の塊でしかない大きな二つの月を見上げる……そんな妄想をしながら。
馬鹿馬鹿しさに自然と笑みを浮かべてしまう。
そして、そのまま、沈んだ。
手元を離れた白いワンピースドレスだけが俺の妄想そのままに、ゆらゆらと気持ち良さそうに揺れている。
そのままゆっくりと湖底に着水した。
……浮く気配は微塵もない。
そっかー、浮かないかー……。
水中で身体を起こす。
透明度が高くまだ浅いところにも関わらず、光は底まで届いていない。
ゆらゆらと揺れる膜が何重にも掛かっているような、先を全く見通せない不思議な感覚。
そして魚の類が見当たらないどころか、水草の一本も生えていないのはなんでだろう。
湖底も異様につるりとしている。
息苦しさはない。
この身体は酸素を必要としていないのだろうか。
ずっと水中で暮らすことも可能なのだろうか、なんて馬鹿げた考えが頭をよぎったとき、白くてふわふわしたアレが思ったより遠くに浮いていることに気がついた。
「……っ!」
ごぼごぼ。
流石にあれを無くすのはまずい。
いや決して着たいわけではないのだけど……現状他に着るものもない以上、大事にしないと。
一応、貰い物だし。
浮かない身体は思ったより動きづらく、距離はなかなか縮まらない。
そして俺が思っていた以上に、時間は経過していたらしい。
この湖の名前は、神鏡の湖。
その名を知るのは、もう少し後のことだった。