三話 一人と一匹と
エクスフレアの邸宅に行きたい、と魔獣の少女ソラに相談したところ。
え、行けばいいじゃん。みたいな顔をされたので、現状の俺の知っている限りの知識を披露した。
情報の共有は大事。
「? ……すんすん」
整理した情報を伝えるうち、ソラの表情が怪訝なものになっていく。
そして眉根を寄せて何かを確認するように、改めて匂いを嗅がれた。
そうだよー、黒き魔女の最高傑作だよー。
「はぁ……。それならまず人間の街に行けばいいのでは」
ということで。
ソラの知っているここから近くて最も大きい街へ出向くことになった。
俺よりほんの少し背の高い少女の姿のソラは、人間の姿に変化するときにローブを纏えるらしい。
曰く、おねだりしたら追加してくれた、とのこと。
「あの方とおそろいです。かっこいいでしょう」
でもその中は素っ裸なんですよね……露出狂かな?
俺の手持ちはお金の入った革袋、紙箱、それとトトの短剣。
刃物はできれば持ちたくないんだけど……それぞれベルトリボンに括り付け、ポケットに入れておく。
森を抜ける前に湖跡に寄ると、遠く中心の辺りに水溜りがぽつぽつと見えるだけで、やはり枯れていた。
あの僅かに残る水溜り、いや魔力溜りか……あれをソラは回収してきたのだろう。
レグルスの兵士は湖の水が枯れたすぐ後に、僅かな人員を残して引き上げていったそうだ。
枯れてしまった湖、そして周回する『空駆ける爪』を見て、残された兵士の心中は察するに余りある。
大きな狼の姿に戻ったソラは、乗れよ、と目で促してきた。
跨り、ソラがゆっくり歩き始めると途端にバランスを取るのが難しくなる。
体毛を掴むのはちょっとためらわれるし、と考えているそばから顔面から落ちた。
何やってるんだこいつ、みたいな目で見られながら再び跨る。
ふと思いつき、試しに魔力をソラの体毛に流し込もうとするも、やはり手足から自分以外のものに魔力を流すのは上手くいかなかった。
イメージはヴィオーネが初遭遇時に使っていた、別々のものを繋げる魔力の糸だったのだけど。
思い出したくはなかったけど、あの魔術それ自体の完成度と手際は美しいものだったし。
そんなこんなで。
村の跡を迂回するように森を抜けた。
障害物がなくなってからは、その異名は伊達ではないと身体に教え込まれることになった。
街道から大分離れた、辺りを一望できる小高い丘に着くまでに三回振り落とされた。
責任を感じているのか、少女の姿になったソラは可哀想なほどに耳と尻尾がしおれていた。
「いや、落ちたのは俺が未熟だからだし……」
「それは、そうなんですけど」
容赦がない。
魔術を究めたというあの女と常に比べられるのは、なかなかきついものがある。
「とりあえず休憩しよう。今はどの辺なんだ?」
丘のてっぺんには幹が三本捩れた木が生えていて、その近くの手ごろな岩に腰かけた。
遮るものがなにもないここは見晴らしが良く、風が気持ちいい。
心なしか空に浮かぶ二つの月も近くに感じられる。
身体をなすり付けるように隣に座った、きちんとローブを纏っているソラは、指で指し示しながら口を開いた。
「後ろのあの森が、私たちが先ほどまでいたところです。湖を望むには高さが足りませんね」
遠く、密度の濃いその森は山に抱かれるような形をしていた。
後方の山々はかなりの高さで、ほとんど雪で覆われている。
……もうこんなに離れていたのか。人間の足ではどれくらいかかるのだろう。魔獣という生き物の凄さを改めて感じてしまう。
「見えますか? あの木々が突き出した辺りの向こうが、村があった場所です。そこから右に向かって道が伸びています」
目がいいのだろう、ソラの注釈は細かい。
なるほど位置関係が少し分かってきた。
「起伏で見えませんが、街道をずうっと北上すると大きな川に当たります」
ソラの指、その鋭利な爪が右へすぅ、と滑る。
なだらかな丘陵は背の高い草に覆われ、徒歩で踏破するのは難しそうに見える。
空を飛ぶように走るこの大きな狼には、なんの障害にもならないのだろうけど。
「その辺りは広い平地で、人間の小さな村がいくつかあって……」
視線を滑らせると遠く、真っ直ぐな水平線が見える。
何か違和感を覚えたけど、それが何かは分からなかった。
「この辺りは海が近いですね。切り立った崖になっているので、危ないです。
向かう街は、海沿いに行くと遠回りになります」
どれくらいの距離があるかは分からないけど、ソラの脚ならあっという間だろう。
そう思えるほどの速さだった。
「……いいですね、こういうの」
ソラはそう言って一息ついてから、俺の首筋に鼻を押し付けた。
「すんすん……。こうしてあの方と、人間のように一緒に……はふ」
もうやだこの子、獣臭い……。
おとなしくしていれば美人さんなのに。
「……旅をしてみたいと、思っていました。……すんすん」
それはもう叶わぬ願い。
「……かっこいいお名前をお持ちのソラさん。再会してから匂い嗅ぎすぎじゃないですかね」
「そうですね……ふぅう。いえ、初めて嗅いだ時よりあの方の匂いが……すんすん。はぁ……濃くなっているような気がして」
そうですか。
よく分からないけどくすぐったいので早く離れてほしいですね。
視線を遠く、まだ見ぬ街へ思いを馳せようとしたときだった。
「……?」
草が伸び放題になっている、ほど近いここから見ると丘に挟まれた狭い平原のように見えるそこで、何かが動いた。
ほぼ同時にソラの耳が器用に横を向く。
「ソラ。何かいる」
ぴくん、と大きく耳を動かしたソラは、獣のような俊敏さで身体を反転させた。
小刻みに角度を変える可愛らしい獣の耳を見つつ、目を切り替える。
と、なんだろう、微妙に焦点が合わない。
魔素は森ほどではないけど、満遍なく辺りに柔らかく漂っている……目を戻した。
左目だけ度を間違えた眼鏡を掛けてしまったような感覚だった。
ザザザ、と大きく蛇行するように草が揺れ動き、こちらに近づいてきている。
姿は見えないけど、明らかにこちらを認識している動き。
「あれは『双頭の毒蛇』ですね。どうします? ……えぇと」
「なに」
何かを言いよどんだソラに視線を向け、しかし近づいてくる音にすぐに視線を戻す。
こちらが勘付いたことを察したのか、草を揺らし薙ぎ倒す速度が上がっている。
蛇って言ったけど、いや待てなんか、でかくねぇ……?
「いえ、すみません。なんて呼べばいいのかと」
「今!?」
俺の叫びと、そいつが飛び出してくるのと、ソラの身体が変化するのは、ほぼ同時だった。
狙いは俺の何歩か前にいたソラで、しかしその人間一人を簡単に丸呑みにできる口腔が閉じた空間には、翻るローブが青白い炎に消え……既にソラの姿はない。
大きな狼の姿に変じたソラは、捩れた幹に勢いと重さを乗せ、大きくしならせていた。
その姿を視界の端に置き、俺は『双頭』の意味を履き違えていたことに気がついた。
口を閉じはみ出した牙から垂れた液が地面に垂れ、じゅう、と音を立てる、その後ろから鞭のように尻尾が、いやその先のもう一つの頭が、俺を目掛けて迫ってきている──!
その速さはあの時、俺の左目を貫いた矢を幻視させた。
だから右手の人差し指、その付け根を甘く噛む。
どちらも、避けられない速さではなかった。
視界がブレ、岩の後ろに俺の身体は現出した。
直後、バキン、と何かが折れる致命的な音。
さっきまで俺が座っていた岩、そこに噛み付いた蛇の牙は、薄い黄土色の液体を撒き散らして破断した。
その触ったらやばそうな液体から逃げるように岩を回り込む。
『双頭の毒蛇』の全体を視界に収めたときには、ソラの鋭利な牙がもう一つの蛇の頭、そのすぐ後ろを深々と穿っていた。
どちらも体躯がでかいせいか迫力が半端ない。
一つの首に二つの頭、Yの字みたいなのを思い描いていたけど、そうかこういうのも双頭と呼ぶのか。
と、既に観戦モードに入っていた俺の目に、えぇとどっちが頭でどっちが尻尾だ……?
いや今はどっちでもいい、岩に噛み付き牙を折った方の頭、その牙が……めきめきと嫌な音を立てながら、綺麗に生え変わっていた。




