一話 空を駆ける爪
ただひたすらに爪を振るい牙を突き立て生きていた私に、あの方は別の生き方を与えてくれた。
命の恩人でもあり、生きることの喜びを教えてくれたあの方は、しかし私の前から姿を消した。
同じ匂いを纏うその正反対な色の少女を見つけたとき、私は理解した。
この少女に、あの方の全てが託されているのだと。
あの方は、まだ諦めていなかったのだと。
ならば、私は。
目が覚めたとき最初に思ったのは、温かい、だった。
自分が一体何者で、どこに居て、今が何日の何時なのか、何一つ思い出せない数秒間の後、ようやく天井と壁とその隙間から差し込む光を見て……焦点が合った。
「あ゛ー……」
乾燥した声は少女のそれ。
「……ああ、そうか」
眠っていたらしい俺は、起きあがろうとして身体が動かないことに気がついた。
首を廻らせて、目に飛び込んできたものを見て、一気に意識が覚醒する。
し、知らない女の子に抱き付かれている……。
いや、それだけならまだそこまで(?)問題ではない。
問題なのは、俺とその少女が、一糸纏わぬ姿だということ。
「……っ」
僅かに青みがかった濃い灰色の髪は柔らかいけれど、寝癖だろうか一部……いや。
ぴく。ぴくん。
なんか動いてる……。
どこからどう見ても獣の耳が、女の子の髪の間から可愛らしく生えている。
それよりも、この毛色とこの獣臭さは……。
「……お、おはよう」
意を決して声をかける。
恐らく耳であろうそれが俺の声を受けて、ぴくぴく、と震えた。
何度かむにゃむにゃと言葉なのか鳴き声なのか分からない何かを喉の奥で鳴らしてから、少女は目を薄く開いた。
くあぁ、と大きなあくびで見えた、人間とは思えない鋭利な牙はやはり……。
と、疑問が確信に変わりつつある中、少女はずりずりと這うようにこちらの頬に顔を寄せ、
「んぁ~っ……んぁん……っ」
唸りながら俺の顔を舐め始めた。
生温かい、長く薄い舌が頬を這い回る感覚は、気持ち良さよりも若干、気持ち悪さが勝っている。
「ちょ……ま……っ」
喘ぐように絞り出した声でようやく少女の蛮行は治まった。
少女は少し切れ長な大きく青い瞳をぱちくりとしばたかせ、一度目を泳がせてから立ち上がると、無表情を保ったままススス……と身体を滑らせて外へ出て行った。
……なんだったんだろう。
身体を起こすと見覚えのある、ここは『木々を食むもの』の二人、テテとトトの家だった。
小さくて狭い、隙間だらけの。
「んん……」
どういう状況なんだろう。
そもそも俺はなんでここにいるんだっけ……?
と、頭の中の記憶を探ろうとすると。
たし、たし、と足音を立てて少女が……いや、大きな魔獣が戻ってきた。
何度も俺を助けてくれた、確か……『空駆ける爪』と呼ばれていたか。
大きな大きな狼のような外見で、その鋭い爪と牙はまさしく捕食する側のそれ。
魔獣は狭そうに入り口をくぐり抜けて家に入ると、俺からやや距離を置いてのっそりと丸まった。
澄ました顔で、ふんようやく起きたのか、みたいな空気を纏わせて。
「いや、遅ぇよ」
俺の言葉に魔獣はぷいっと顔を逸らした。
こいつ、さっきのあれをなかったことにしようとしている……。
家の中を見回すと、そういえば預けていた二人の荷物と、トトの短剣が置いてあった。
そして徐々に思い出してきた。
ああ、つまり。
「またお前に助けられたのか」
ふん、と鼻息で返す魔獣に俺は思わず苦笑しつつも、改めて頭を下げた。
「ありがとう。……なんでそこまでしてくれる?」
魔獣はもう一度鼻を鳴らしてから立ち上がり、俺の前まで来ると、大きくうな垂れた。
そして皮膚にだろうか、体毛でよく見えないけれど紋様が浮かび、ぼう、と大きく青白い炎を上げ……その姿がまばたきの間に変化した。
裸ではない、同郷のあの女が纏っていた重苦しく黒いローブを着た、少女の姿へと。
「それがあの方の望みだからです。ヒイラギの娘」
「……っ、どこまで、知ってるんだ?」
驚きで声が詰まった。
ヒイラギ……魔術書にもあった、あの黒い髪の女の名前で間違いないだろう。
その娘、立場的にはまぁ確かにそうなる、のか?
「私は何も。あの方はこの世界ではない、別のところへ行きたがっていました。
晩年、間に合いそうにないと沈んでいましたが、諦めていなかったのですね」
……別のところ、ね。
別の世界の人間だとまでは言っていなかったようだけど。どういう関係なのだろうか。
「あなたの中に、あの方を感じます。あの方の願いを、私は成就させたい」
願い……その内容まで知っていての発言なのだろうか。
この世界の神を殺す。
それはつまり、この世界を壊すことに繋がる可能性もあると思うんだけど。
そんな願いを、この世界に生きるものが肯定するとはちょっと考えにくい。
突っ込んで聞くべきだろうか。今の俺にはこの魔獣の意思を判断する材料がない。
「この世界の神さまに会いにいく。……一緒に行くか」
「言われなくとも、勝手についていきます」
これまで通り、と浮かべた笑みは、少しだけぎこちなかった。




