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最後のアーティファクト  作者: 三六九
第一章 覚醒する魔女
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三話 独白は煙に混じり

「むかーし昔ある所に、うら若きピチピチの乙女がおりました。

 十八の誕生日を目前に控えたある夏の日の、夕暮れのことでした。

 それは唐突で、あまりにも突拍子も無く起こりました。

 自室のベッドに腰掛け、本を読んでいた女は、ふと気がつくと全く見知らぬ場所にいたのです。

 雪がちらつく、見渡す限り何もない平野でした。

 女は驚きました。そしてあまりの寒さに自らの身体を抱え、震えました。

 無理もありません。女は蒸し暑さに堪えかね、半袖のシャツに短パン姿だったのですから。

 女は最初、夢だと思いました。脳が、理解を拒みました。

 しかし、夢にしてもその寒さは肌を刺すようで。

 このままでは死んでしまう。

 女は歩きました。唯一手にしていた、文庫本一冊だけを抱き締めながら」


 女は一呼吸置くと、石から生えたマグカップに手を伸ばした。

 合わせて俺も、薄く湯気の立つ薄い茶褐色の液体で満たされた思ったより軽いそれを手に取る。

 香りはほとんどしない。

 女が口を付けるのを見てから、後を追うように唇を湿らせた。

 味はなんだろう、ぼんやりしていて分からない。

 白い薄く骨の浮いた手がマグカップを置き、女は再び口を開いた。

 その口調は心なしか楽しそうだ。

 反面、俺の心は何故だか落ち着かない。


「一日経ち、三日経ち。

 死に物狂いで一週間を生き延びて、女は確信しました。

 これは夢ではないのだと。

 その後、女は世界を転々としました。

 元居た世界に戻る為の方法を探し求めながら。

 この世界は、生きるだけならさほど難しくはありませんでした。

 この世界の独自の理にも、時間はかかりましたが慣れました。

 しかし、それでも女は、帰りたいと願い続けました。

 結局、それは、叶わぬ夢でしたが」


 女の独白は淡々と続いた。

 ただその端々から、隠しようのない悲嘆の色が滲んでいた。

 喉は渇いていないけどマグカップに手を伸ばした。

 小さな白い手は死人のよう。

 俺が喉を鳴らすのを待って、女はまた語りだす。

 この話の終着点が今ここ、この時ならば……女は何を成し、何を得たのだろう。


「女が元の世界に帰ることができないのだと悟ったとき、しかし心には何も浮かび上がってはきませんでした。

 女は、帰ることができないという事実ではなく、その事に何も感じなかったことこそに恐怖して、絶望しました。

 そして女はもう一度全てを見つめ直し、世界を巡りました。

 何十年という過程で女は魔術を究めましたが……やはり、結論は変わりませんでした。

 この世界に飛ばされた異邦の者は、元居た世界に戻ることは、適わないのだと」


 女は深く息を吐いた。

 俺もいつの間にか、息を止めていたらしい。

 闇の中に深い赤を湛えた瞳はしっかりとこちらを見据えているけれど、その焦点は多分、別のところに結ばれているのだろう。

 先はもう、長くない。


「ただ、一つだけ。

 一つだけ、可能性と呼ぶのもおこがましい思いつきがありました。

 女がこの世界で積み上げてきたもの、築き上げてきたものを全て投げ打っても尚その始まりに届くか否かという、途方もない思いつき。

 ……この世界の、神を殺す。

 馬鹿げていると、笑われました。

 どうかしていると、呆れられました。

 ふざけていると、怒られました。

 それでも、しかしそれでも、女はこの思いつきに縋ろうとしました。

 この世界に繋がりはいくつもあれど、未練は露ほどもなかったのです。

 しかしそれを実行するには女はもう、年を取りすぎていました。

 だから……」


 俺を見ていたはずの女と、やっと目が合った。

 暗く、深い黒の瞳は全てを見透かしているようで何も映ってなどいなかった。

 その真っ暗なうろからは感情を読み取れない。

 だけど、多分。

 女の静かな口調は、強すぎる感情を抑える為のものなのだろう。


「だから、造りました。

 女は持てる技術、魔術の全てを注ぎ込み造り上げました。

 老いることのない頑丈な魂の容れ物。

 神を、超高密度の魔力体を殺せる四肢を持った器。

 私の考え得る全てを結集した傑作品。

 それが」


 女は、俺を指差し、言った。

 それは憎悪にも似た。


「お前が入っている、ソレさ」


 テーブルに据え付けられている燭台、その蝋燭の小さな火が揺れた。

 女の瞳が燃えたような気がした。

 何千、何万回と見てきた自分の……本当の自分の手とは違う小さく白いそれは、生気を感じない。

 俯いた拍子に髪が一房、視界の端を僅か占領する。

 透き通るように白く、長い……柔らかな髪。

 うっとおしさにそれをかきあげた指が、知らず震えている。

 別人どころか。

 別物だった。


「ここは、夢じゃないよ」


「……」


 器。容れ物。傑作品。

 目を瞑り、深く息を吸った。ゆっくりと吐く。

 頬を軽くつねる。髪をくしゃりと触る。

 無機質な物には到底思えない、感触と感覚。

 ぷらぷらと所在なさげに揺れるこの脚は、あまりに小さく頼りない。


「人の形をしたモノ。良くできてるだろう。区別なんて、つかないくらいに」


 笑えてくる。いや、笑えもしない。

 胸に手を当てる……手触りの良い明らかな上物の服越しに、柔らかく薄い脂肪。

 それなら心臓も無くて当たり前ですよね、なんて……素直に納得できる筈もない。

 そう、所詮、夢の中の与太話だ。

 どうやら駄作の方らしい。


 女は溜め息を一つ吐いて、懐から小さな紙箱を取り出した。

 煙草だろうか。

 一本を口に咥え、もう一本をこちらに差し出してきた。

 背伸びをして口で迎え、座り直す。

 女が再び口を開くと同時に、煙草に似たその先端に音もなく青白い火が点いた。

 さっき見た、魔素の色に似ている。


「私はもう、直に死ぬ」


 薄い青混じりの声に返せる言葉は何もない。

 きっと、先は長くないのだから。

 最期まで聞き届けようという気分にはなっている。

 煙を深く吸う。先端の火は怠けているのか、すぐには動きそうにない。

 この身体に肺はあるのだろうか。満たされる感覚は心地良い。

 女の口が艶めかしく開くのを、薄くなった青い煙を吐きながら眺めた。


「別に、恨んではいない。

 ソレには私の魂を植え付けるつもりでいたけれど、上手くいく要素はほとんどなかったから。

 むしろ、そう。感謝しているんだよ。

 ソレが動くところをこの目で見ることができるとは、思ってもいなかったからね」


 先端から灰は落ちず、細かな薄く青い粒子になって宙に溶けていく。

 女は、にぃ、と笑った。


「ソレに明確な性別はないけれど、ベースは一応、私だから。

 最初は不便だろうけど、まあ、そのうち慣れるだろう。

 元の身体は……どうかな。悪いけど、私には分からない。

 取り残されているか、消滅しているか。あるいは、奪われているか。

 それでも、お前は運が良いと思うよ。

 今はまだ分からないと思うけど、ね」


 大仰な手振りは胡散臭いことこの上ない。

 一際大きく息を吐いた女は、だるそうにテーブルにもたれかかった。

 それは演技ではなさそうだった。

 最期の、恐らくもう僅かな時間をこの女は……どうやら俺の為に使っているらしい。


「おいで」


 女は重そうに身体を持ち上げると、石のテーブルを床に押し込んだ。

 音もなく床に沈み込み、元のごつごつとした岩肌の地面には僅かな跡も残らない。


 俺は困惑したまま椅子から降り、淡い光を内包する冷たい地面を踏みつけた。

 数歩、腰掛けたままの女の下へ。

 そしてすぐに、ゆるりと細い腕で身体を引き寄せられた。

 鼻先をくすぐるこの香りはなんだろう、分からないけど妙に落ち着いた気分になる。

 背に回された腕にほとんど力は込められていないけど、何故だか懐かしく離れがたく思うのは俺の……いやこの身体の、立場的には母になる創造主だからだろうか。


「……最期に、同郷と話せて良かった」


「そう、ですか」


 酷い夢だ。


 女の細い指が、俺の背を撫で髪を梳く。

 その緩慢な櫛は酷くやるせなくなる。

 だけど、好きにさせておくことにした。

 先はもう、長くない。

 だから、女の背に手を回した。

 一瞬、女の手が止まったけれど、またすぐにゆるゆると動き出した。

 空気が和らいだ気がしたのは、多分気のせいだろう。


 時間の流れが遅く感じる。

 このまま目が覚めればいいのにと思う。


 されるがままに身を任せていると、不意に女の動きが止まった。

 後頭部に添えられた手が、くしゃりと少しだけ乱暴に髪を撫でた。

 女の最期の言葉は、簡素だった。

 それは多分、呪いだった。


「シエラ・ルァク・トゥアノ」


「……なん?」


「お前の名前さ。白くて、小さい、可愛いもの。

 名付けたのは、私ではないんだけどね。

 もしかしたら、会うこともあるだろう」


 ぽんぽん、と背中を叩き、女は身体を引き剥がした。

 間近に見る女の顔は随分と晴れやかだった。

 ただその表情に、一抹の寂しさが紛れ込んでいることに気がついてしまった。


 女の両の手が俺の顔を挟む。

 引き寄せられ、額がごつんとぶつかった。


「それじゃあ、さようなら。……息災で」


 瞬間、視界が魔素の色に染まった。

 俺がその言葉の意味を理解した時には、もう、目の前に女の姿はなかった。


 椅子の上には小さな紙箱が一つだけ、遺されていた。

 一本を取り出し、口に咥える。

 音もなく青白い火が点いたけれど、煙は見えなかった。


 煙草に似たそれが散り散りに溶けて消えるまでにけっこうな時間を要した。

 椅子は独りでに地面に帰った。

 夢から覚める気配は、微塵もない。

 そういえばここは、酷く静かな場所だった。


「……どうするかな」


 夢は覚めそうにない。

 女が歩いて来た方を見やると、岩肌に全く似つかわしくない扉が見えた。

 妙に軽い身体に違和感を覚えながら足を踏み出した。

 女の独白を思い出しながら。


 扉に辿り着いて、ふと後ろを振り返った。

 そこは、壁も地面も天井も全てが淡く青白い光を湛える岩肌で、半球状に空間が広がっていた。

 ここは、どうしようもなく行き止まりだった。

 俺が目覚めた台座だけがその空間の中央で、寂しくぽつんと屹立したままだった。


 女の最期の表情を思い出す。

 まだ納得はしていない。

 順応したわけでもなく、覚悟が決まったわけでもないけれど。

 駄作に甘んじるのは性に合わない。

 神を殺す為の、不老の器か。


「神様とやらに、会いに行きますか」


 そして俺は、精緻な模様の刻まれたご立派な木造りの扉を小さな両手で押し開いた。

 扉の中に吸い込まれる感覚は、まるで眠りに落ちていくようだった。

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