三十八話 白き魔女
その数日間のことは、靄がかかったように何も思い出せない。
最初は気になっていたけど、思い出せないってことは大したことではないのだろう。
そう思うようにした。
上のお姉ちゃんはその時くらいから、より一層魔術にのめり込むようになった。
下のお姉ちゃんは元々本が好きだったし、難しい魔術書を読んで、二人はどんどん魔術師らしくなっていった。
あたしは勉強が嫌いだけど、大好きな二人とずっと一緒にいられるならと、がんばった。
多分、お姉ちゃんはあたしに何かを隠している。
気にならないわけではない。
だけどそんなのは些細なことで、どうだっていい。
二人といられるなら。
他には、何も。
「……っ」
夢に似た、何か。
意識を覗き見たような、思いを盗み見たような……そんな感覚。
耳元で微かに雑音が鳴っている。
気がつくと、光を失って灰色にくすんだ、魔力の結晶だったものの山に埋もれていた。
触れた先からざらざらと粗い砂のように崩れていくそれから抜け出すのに苦労した。
ドアは開きっぱなしで、どうやら時間はあまり経っていないようだ。
身体の中の魔力は絶望的に空っぽで、脚にはほとんど力が入らず、這うように祭壇に近づく。
身体を起こそうとすると、左の手の平に痛みが走った。
見ると白く小さい手の平に、見たことのある色の……ああ、血を思わせる赤黒い、気味の悪い紋様が刻まれていた。
月に眼が張り付いたような……キュビズムっぽいなと気の抜けた感想を抱いた。
触れてもやはり凹凸のないその痕は、見ていると今にもずるずると何かが這い出し動き出しそうだ。
祭壇に手をかけ、なんとか立ち上がると羊皮紙……アーティファクトはお腹いっぱいになったのだろうか、丸まっていた。
恐る恐る手に取ると、なんてことはないただのざらついたちょっと厚い紙だ。
「……げっつ」
酷い目にあったけど目的は果たせた。
後はここから脱出すればミッションコンプリートなわけだけど。
残念ながら魔力は空っぽで、歩く力すら残っていない。
幸い、と言っていいかどうかは分からないけど、この尖塔に兵士が来る気配はない。
……と、思っていたんだけど。
階下がやけに騒がしく、人間の気配が増えている。
祭壇に何か仕掛けられていたのだろうか。
耳に付けたピアスからはずっと異音が鳴っている。
壊れているのだろうか。
声を受け取る為のほんの少しの魔力すら残っていないからかもしれない。
開けっ放しの扉の向こうから足音が聞こえる……声と金属が擦れるような音も。
窓すらないこの小さな部屋には逃げ道も進む道もない。
さて、どうしますかね。
果たしてやってきたのは。
「シエラか。まさかとは思ったが」
騎士団を率いる団長、レイグリッド・トルーガその人だった。
祭壇の上に腰掛け、足をぷらぷらと揺らしながら相対する。
「遅かったですね」
笑顔は大分上手くなったと思う。
他に見知った顔は……いないか。
レイグリッドの後ろにはクロスボウを油断なく構えた随分と重装備な兵士が、こちらを睨みつけている。
「どういうことだ。こんな所で何をしている」
さてどう答えたらいいものか。
馬鹿正直にアーティファクトを頂きに来ました、とは言えない状況だ。
「お忘れですか。……協力すると、言いましたよね」
「何……?」
手で祭壇の縁を掴んでいないと倒れそうな状態だけど、不敵に笑う。
丸まった羊皮紙を掲げ、周りを見渡す……灰色の砂になった魔力の結晶。
「魔力は、全てこの中です」
「……そうか。王の念願が、叶うのか」
明らかに警戒していたレイグリッドの表情に、諦めにも似た安堵の色が浮かぶ。
反対に、囲む兵士の表情には一切の余裕が感じられない。
一抹の恐怖を、憎悪と敵意で塗りつぶしたような色。
「では来い、シエラ。口添えはしよう」
「……いいえ、レイグリッドさん」
差し出された手がピクリと震え、固まった。
付いていけばあの大げさな物言いをする若き王に、このアーティファクト共々利用されるだけだろう。
もう一度周りを見渡した。
やはり俺は、この国を好きになれそうにない。
兵士の構える矢の照準は、俺の額を射抜いている。
「あなた達にこれは渡せない」
「……考え直せ。さぁ、来い」
一歩を踏み出し緊迫した表情のレイグリッドに対し、そもそも動けない俺にできるのは笑みを浮かべることだけだった。
それはほとんど諦めの意味だったのだけど、慣れの差だったのだろう。
既に俺と会い言葉を交わしていたレイグリッドと、ここで初めて俺の姿を見た兵士たちの間に横たわる、絶望的な認識の差。
「……魔女め!」
点。
ガツン、という音が頭の中で響いた。
衝撃で頭が強制的に上に跳ね、息が詰まる。
「なぜ撃った!!」
レイグリッドの激昂にしかし答える声はない。
左目を抉った後ろへ貫通はしなかったそれに痛みはなく、ただただ熱い。
ゆっくりと首を戻した。その動きは人形のようだっただろう。
引き金を引いたと思しき兵士はなぜか震えている……緊張、いや塗り潰せない湧き出た恐怖だろうか。
熟練だろう他の兵士も同様に、矢の狙いが定まっていない。
……魔女、か。
「あ……、はは……っ」
勝手に声が漏れた。
少し狭まった視界の中、真正面に立つレイグリッドは剣の柄に手をかけている。
左手で、矢が刺さったままの左目を押さえた。
ぬるりとした熱く赤いそれは頬を伝い、真っ白なワンピースドレスに落ちる前に、じゅう、と青白い炎を上げて蒸発する。
分かってはいたけれど、流れ出てきたのは血液じゃなくて魔力だった……実際に目にすると、ちょっと引く。
「はぁ……、ああ」
右手で握り締めていた羊皮紙……アーティファクトが、音もなく独りでに青白い炎に包まれて消失した。
同時に、左目に深々と刺さっていた矢も同じ色の炎を上げて塵になった。
左目がぽかぽかしている。身体が揺れる。
ぬるま湯に浸かっているような、奇妙な安心感がある。
押さえている左手、指の隙間から青白い炎が這い出して頬を髪を舐めていく。
相対する兵士たちは動かない。
いや、動けないのだろうか。
流石の胆力と言わざるを得ない、レイグリッドは剣を抜いた。
「シエラ、お前は……一体」
「……魔女、だそうですよ」
魔術師と魔女の違いはなんだろう。
場にそぐわない疑問を浮かべながら押さえていた手を離し、何度かまばたきをする。
痛みも熱さもない……よく見える。
ああ、とてもよく見える。
「レイグリッドさん」
呼ばれた相対する男は身体を強張らせた。
灰色の山の中に埋もれている、まだ僅かに魔力を残した結晶。
それらを見つけ、最後にもう一度、笑った。
視界内の薄い魔素が全て励起する。
「さようなら」
帰りたい、それだけを願う。
横たわり見上げる空は、大きな二つの月を半分隠すように雲がかかっていた。
つるりとした地面には覚えがある……渇いた湖の底だ。
どうやら帰還の魔術は成功したようだ。
これで正真正銘、魔力は空っぽだ。
左目はどうなったのだろうか。
ちょっとぽかぽかしているけど、普通に見えている。
身体は動かない。
そして酷く、眠い。
重い瞼に抗っていると、水溜りを踏みつける音が聞こえてきた。
ぱちゃ。ぱちゃ。
「……ひさしぶり」
覗き込む青い瞳は、相変わらず何を考えているのか分からない。
すんすんと鼻を鳴らして一通り匂いを嗅いだ魔獣は、その鋭利な牙が並ぶ口腔を開いた。
「え」
そして、俺の意識は途絶えた。




