二十五話 涙は陽に溶けて
顔に当たる二人の涙も雨粒も、温かいのか冷たいのか、もう分からない。
手も足も口も何も動かないけど、視界だけがまだ残っていて、良かったと思った。
二人の綺麗な金の髪は濡れて汚れてぐしゃぐしゃだった。
本当は泣き虫な姉と、本当は泣き虫な妹は、しきりに何かを叫んでいるけど、もう耳も聞こえていないから、吐きそうなほど静かだった。
私はもう、こんなだから。
二人をどうか。
その黒い髪は、死の匂いを纏っていた。
二人には救いに見えていたようだけど、私にはそうは見えなかった。
まだ生きている二人と、もう生きられない一人を見下ろして、その笑顔はとても不吉だった。
けど、そんなことはどうでもよかった。
二人をどうか。
どうか。
「まる、二日」
目が覚めたときに目の前にいたニャンベルは、とてもとても不機嫌そうな顔をしていた。
あの夜から丸々二日間、俺はニャンベルのベッドを占拠していたという。
「えぇと……ごめんなさい」
まったく実感がないので釈然としないものの、あのルデラフィアですら恐れていたように見えた目の前の少女……下手な言い訳はしないほうが良さそうだ。
原因は……どう考えてもあれだろう。
何かの罠だったのか、それとも副作用なのか。
「その、何か変わったことは……?」
具体的には、おね……いや、魔力漏れ的なこととか。
ニャンベルは俺のその疑問には答えず、黙々と身支度を進めている。
沈黙がこわい。
大きな姿見に映る自分の顔にもようやく見慣れてきた。
赤い大きな瞳、生気を感じない白い肌、そして白く長い髪は……今、後ろで現在進行形で結われている。
そうですか今日はお下げ風のツインティルですか。
ああやっぱりおそろいですかあら可愛いですね。
「できた」
「……ありがとうございます」
そしてまた着付けを手伝わされた俺は、手を引かれてドアの外へ。
その長い廊下を、陽が昇り始めた窓の外を眺めながら歩いていたときだった。
ジジジ、と。
蝉の鳴き声に似た、どこかで聞いたことのあるような音が、ワンピースドレスのどこかから鳴った。
俺がそれを探すより早く、ニャンベルの手がリボンベルトの隙間をまさぐり、何かを取り出した。
陽を鈍く反射するそれは、細かな傷の付いた銀のバングル。
いつの間に……いや、あの時か。
ルデラフィアの炎の剣、その間合いから俺を吹っ飛ばした風の塊……ああ確かに、ちょうど腰の辺りだった。
全く気が付かなかった……。
ニャンベルは指で摘んだそれをつまらなそうに見やり、こちらにぽいっと投げて寄越した。
おや、お咎めなし。
受け取った鳴き続けるそれに試しに魔力を流そうと試みる……昨日の、櫛のように。
分かってたけど、うん。できない。
溜め息をついたニャンベルに手を取られ、魔力が流し込まれた。
「……い、………、………か…、…お………」
ノイズが酷くてほとんど何も聞き取れない。
バングルはぷすぷすと煙を吐き今にも爆発しそうだ。
え、大丈夫かこれ。
一歩後ずさり訝しむ俺の手から、ニャンベルは素早くバングルを取り去ると、それを指でぱちんと弾いた。
でこぴん(?)されて細かくそして大きく震えたそれは魔力を消失し、すぐに元の無機物に戻ってしまった。
「ここじゃ、使えない、よ」
その声色は変わらず平坦で、再び投げて寄越されたそれに対し、特に何も思っていない様子。
あの時の風の魔術は俺を助けると同時に、連絡手段を忍ばせたものでもあったらしい。
風……恐らく、あの細い目をしたコンサと呼ばれていた男の仕業だろう。
そうは見えなかったけど、実はすごい使い手だったりするのかもしれない。
細かな傷が付いたそれをしかし、俺は一人で使うことができない。
現状では、これでどうこうできそうもない。
「いいこと、思いついた」
俺が左手首に嵌めたそれを見やり、ニャンベルは独りごちた。
そのいいことは果たして誰にとってなのか……気になるところだけど。
右手の親指で、人差し指の付け根を撫でる。
刻まれた魔術を試してみたいけど、少なくとも今ではない。
一階は正面玄関から広いロビー、そして大きな階段へと繋がり、上部は吹き抜けになっている。
大階段の裏には細い廊下が隠れていて、どうやらあの地下室に続いているようだった。
左右に長い構造のこの屋敷に、ふと学校の校舎を思い出す。
「ごはんの、前に」
そう言ってニャンベルは俺の手を引き、一階の端にある周りと比べるとこじんまりとした部屋に入った。
物置のようだけど整頓はされているその部屋の中には、四肢に薄く青い結晶を生やした……ああ、くすんだ赤茶色の髪はやはり無造作に跳ねている。
「シエラさんっ!」
「……やぁ」
ぴょんっと身体ごと跳ねさせた姉のテテが声を上げた。
弟のトトは気が抜けたのか、ああ良かった、と呟いて力なく笑顔を見せた。
見たところ二人とも怪我などはなく、小綺麗な身なりをしていた。心なしか初めて会ったときより顔色も良い。
こちらに歩み寄ろうとした二人の足は、すぐ傍らのニャンベル・エクスフレアを見てぴたりと固まった。
「二人とも、無事でなにより」
「僕たちは……っその、大丈夫です、全然。……すみません、またご迷惑を……」
申し訳無さそうにうな垂れるトトと、交互に見やるテテ。その二人は今は侍女の格好をしていた。
いや、なんでだ。
「……ニャンベルさん?」
「なに」
「えぇと、そっちのトトは……男の子な筈だけど」
「ふぅん」
ふぅん、て。
いや、まぁ、いいや……。
それはさておき。
「ね、迎えに来てくれたの、シエラさんっ」
テテの声が容赦なく俺を打ち据える。
勿論そのつもりだった。
彼らをあの小さな家に帰すことが、最善の選択だと思っていたから。
「シエラさん、その……僕たちは」
そしてそれを、彼らは既に望んでいない。
あの家を出た朝に、彼らの目はもう先を、未来を見据えていた。
巻き込んでしまったことへの後悔が胸を締め付ける。
「わたいたちはね、役に立ちたいんだぁ……」
だからこそ、用意していた言葉を吐かなくてはならない。
小さく深呼吸する。
この償いは、いつか。
「シエラさんの、役に立ちたいんです。……だから、一緒に」
「いや」
トトの声を遮る、もう自分の声色にもすっかり慣れてしまった。
俺は今、酷く冷たい目をしているのだろう……それこそ、人形のような。
「邪魔だから。……石は石らしく、おとなしくしてて」
「……え」
びくん、と身体を震わせて絶句したのは姉のテテだった。
何を言っているのか理解できない、そんな表情。
弟のトトは困惑している……賢い子だから、頭の中を色んなことが巡っているのだろう。
「行こう、ニャンベル」
「ん」
わざわざ会わせた意図は分からないけど、善意ではないのは確かだろう。
長居するとボロが出そうだ。
踵を返す俺とニャンベルに、テテの声が追いすがる。
「え、え……? なんで、しえら、さん」
「気安く名前を呼ばないで……石ころの、くせに」
「……っ!」
横目で見やりつつ吐き捨てた言葉は、狭い部屋の中を凍りつかせた。
テテが床に膝をつく、その音が静寂を壊し、酷く重たく感じる足を無理やり動かす。
弟のトトが何か言おうとして、口をつぐんだ。
さっさとドアを開くニャンベルの横顔には何も浮かんでいなかった。
最初から興味がない、それならここに俺を連れてきたのは……ただの気まぐれか。
「わたぃは、それでも……っそれでも゛、い゛い……から゛ぁ……うぐ、う゛ぅ……っ」
「……ごめん」
ドアを閉めるまでの時間がやけに長く感じる。
後ろは振り向かない。
振り向いてしまえばきっと、決意が揺らぐ。
廊下は差し込む陽の光でほんのりと温かい。
この広い屋敷で何度か見た侍女たちは皆、身体のどこかに結晶を抱えていた。
彼らの表情に三姉妹への怯えは多分にあるものの、虐げられているという印象は受けなかった。
首、手首、足首に付けられた首輪で従えている……若しくは反抗を抑止しているのだろう、脱走防止もありそうだ。
だけどそれは、少なくともこの場所に居れば安全だということだ。
テテが言っていた……家畜のような扱いを、受けることはない。
そういう意味では彼女たち三姉妹は信用できる。
魔術の探求に心血を注ぐ彼女たちは、魔力の結晶を生み出す彼ら『木々を食むもの』を、みすみす弱らせることはしないだろう。
……ルデラフィアはちょっと危ないかもしれないけど。
それでも俺と共に外の世界を歩くよりは遥かにマシだろう。
力もなく、知識も足りない……今のままでは、あの二人に頼られる資格などない。
「……荷物、取ってこないとな」
ニャンベルはやはり何も変わらず俺の手を引いていく。
興味がないのか、面倒くさいのか、あるいはその両方か。
まだ低く柔らかい光は、ほとんどが木々に遮られている。
やけに眩しく感じて、目を拭う。
この作り物の身体は、本当に高機能だな。




