二十四話 置き土産は血に刻まれて
「……ん」
部屋に戻ってきたニャンベル・エクスフレアに手渡されたのは、紋様が刻まれた目の粗い櫛だった。
あーはいはい髪を梳かすんですね。
バスローブを羽織りベッドに腰掛けたニャンベルの後ろに座り、まだしっとりとしている赤金色の髪をすくい取る。
何度か適当に櫛を通していると、あれ、横目で睨まれている……。
「なに、してるの」
「えっ」
櫛を手渡されたからてっきり……。
と困惑していると、こちらに向き直ったニャンベルに手を取られた。
その手から何か……いやこれは、魔力がほんの僅か流れ込んでくる。
その薄く、か細い魔力は俺の魔力と混じり、櫛へ流れ込む。
「お、おお……?」
刻まれていた紋様が淡く反応して、櫛がほんのりと熱を帯びていく。
「はぁ……」
少し呆れた様子で溜め息をつきつつ背を向けたニャンベルの髪をもう一度梳かしていく。
なるほど、こういう道具だったのか。
先に説明してくれよ。
首をゆらゆらと揺らし眠そうなニャンベルの柔らかな髪に櫛を通していく。
ここに来るまで俺は、ソムリアの三狂の魔女……彼女たち三姉妹を、勝手に悪で敵だと思い込んでいた。
あのレグルスの騎士団が絶対的な正義だとも思わないけど、それでもなんとなく正しい方と間違っている方で区別していた。
あの村への対応。『木々を食むもの』への、そして俺への。
……どっちが味方でどっちが敵とか、そういうのではないのかもしれない。
少なくとも今目の前にいる首をがっくんがっくんさせているニャンベルとは、もう少し話をしてみたい。
考え事をしながら他人の髪を梳くのは妙に集中できるな。
気付けばニャンベルの髪はふわっふわになっていた。謎の達成感がある。
「……できましたよ」
「ん」
身体を反転させつつベッドを這う姿は芋虫のようだ。
そのまま眠るのかと思いきや、今度は俺の番らしい。
「……どうも」
小さな手で髪をすくい取られる。
上手い下手は分からないけど、髪にするすると櫛が通される感覚は心地良い。
エリクシルの代わり、と言っていたか。
湖の水……大量の魔力は、今は俺の身体の中にある。
あれだけの、これだけの膨大な魔力を欲する理由……魔術を貪欲に求めるという彼女たちだ、俺には分からない様々な使い道があるのだろう。
邸宅内の『木々を食むもの』の侍女たちも、やはりただの燃料扱いなのだろうか。
魔力を蓄えた石。それを生み出し身体に蓄える人々。
「あの」
「なに」
平坦な声からは感情が欠落していて、何を考えているのか全く読み取れない。
酷く、不安になる。
「……二人のことなんですけど」
ニャンベルの手は止まらない。
機械的ですらあるその動きにも、感情の色は皆無だ。
「石は、ね」
そう切り出したニャンベル・エクスフレアの言葉は、眠いのだろうかたどたどしく、分かりづらかった。
『木々を食むもの』がその身に生成する魔力の結晶は、体調や精神状態に大きく影響される。
純度の高い良質な結晶を生成してもらうには、それなりの手間がかかる。
奴隷のように身体と心を痛めつけられて生命を絞り出すように作られた結晶は、小さく脆い、粗悪なものにしかならない。
ニャンベルは、そう語った。
「でも彼らの意思は……」
ぽふ、と返事の代わりに背中に軽い衝撃。
振り返ると、急に静かになった……ニャンベルが俺にもたれかかり、眠っていた。
電池が切れたように。
その小柄な身体をベッドに横たえ一息つくと、部屋の灯りが静かに落ちていく。
部屋の主と連動でもしているのか、便利なものだ。
さてどうしたものか。
部屋からは出られそうにないし、おとなしく朝まで……ああ、そうだ。
ふと思い立ち、本棚の傍へ。
夜の間にあれを読んでおこう……眠くないし、何より同郷の女が書き記したものだろうそれには興味がある。
魔術書『転移魔術』を手に取ってベッドの傍らに座る。
侍女の仕事だろうか、随分綺麗になったワンピースドレスから紙箱を取り出して一本を口に咥えた。
どうせ出るのは魔素だし室内でも問題ないと思うけど、一応目を切り替えておこう。
さて、腰を据えて取り組みますか。
身構えてから本を開く。
その変化は、青白い魔素の色で薄く満たされている部屋の中で、酷く幻想的に見えた。
開いた本、その直上で魔素が揺らめき何かを形作っていく。
ああ、初めて開いたときは気がつかなかった。
これは罠か……それとも、魔素を見ることができる者へのメッセージか。
魔素に彩られた浮かぶ紋様を指でなぞる。
それはすぐに崩れ、またすぐに別の紋様をかたどる。
「……ああ」
本は独りでにパラパラとページを捲っている。
この手は自らの意思で動いているのか、もしかしたら誰かに操られているのだろうか。
滑らかに淀みなく紋様を宙に刻んでいくその手は、青白い光の中で細く、やはり生気を感じさせない。
両の手が魔素を掻き混ぜるように宙を踊っている。
まるで綾取りのようなその動きに、もう俺の意思は介在していなかった。
ただ嫌な気配はしない。むしろどこか、安心していた。
多分それは……あの黒い髪の、同郷の女の存在をどこかに感じているからだろう。
最後のページが閉じられ、裏表紙の上に俺の右手が重ねられた。
その手の人差し指に、本から滲み出してきた赤黒い……血のような液体が絡みつく。
おぞましさを覚えるそれは、ちょうど指の付け根に集まり指輪状の痕を刻み込んだ。
「……熱っ!」
じゅう、と刺すような熱さに慌てて手を引っ込める。
右手の人差し指に二本の線が……そのそれぞれが二重のらせん状になった線が、平行に走りぐるりと環になっていた。
触っても表面上滑らかなそれは、この白く小さな手には酷く歪に映る。
「なんだ、これ」
これは、あの女が……神を殺したいと願ったあの女が仕組んだもので間違いないと思うのだけど。
その意味は分かるけれど、意思は分からない。
もしかしたら他にもあるのだろうか。
同郷のあの女が遺した、俺にしか読めない遺志が、この世界のどこかに。
手をひらひらと振る。もう熱さは残っていない。
咥えていた一本もちょうど、散り散りに消えた。
ちらりと後ろを覗き見る……ニャンベルはぐっすりおやすみ中だ。
その無防備な姿は恐らく油断ではなく、何かしらの魔術で守られているからだろう。
「……寝るか」
魔術を刻み込まれた反動なのか、少しだけ身体が重く感じる。
隣で眠るくらいなら許されるだろうか。
ベッドによじ登って腹這いに進み……眠っているニャンベルの腹まで到達して、意識が途絶えた。




