二十二話 毒となりて埋伏す
そこは湿り気のある、空気の冷たい土壁の部屋だった。
足元には赤黒い塗料で紋様が描かれ、それは壁にまで侵食している。
壁際には小さな祭壇のようなものが設置されていて、よく分からない動物のぬいぐるみが所狭しと並べられている。
ごっそりと魔力を抜かれたからだろうか、目は自然と元に戻っていた。
「こっち、来て」
足早に出て行くルデラフィアの背中を見やり、握られたままの手を引かれる。
薄暗いここは天井も低く、出入り口は一箇所しか見当たらない。
まずは内部構造の把握、か。
手すりもない狭くて急な階段を上がっていく、薄い金の尾が視界から消えた。
石をそのままくり抜いたのか、階段と壁にはつなぎ目がなくのっぺりとしている。
その石壁も等間隔で小さく四角にくり抜かれ、置かれているランタンがかろうじて足元が見える程度に照らしている。
階段の先はちょうど、先に出て行ったルデラフィアの後姿をドアが隠すところだった。
あの部屋は地下だったのだろう、ニャンベルがドアにぺたりと手を触れると、それは音もなく奥へ開いた。
僅かに魔素の揺らぎが見えた……魔術で施錠でもされているのだろうか。
ドアの向こうは明るく、肌に感じる温度がガラリと変わった。
カーペットが敷かれた狭い廊下、壁にはガラス製の明かりが柔らかく灯っているけれど窓はなく、明るさに反して閉塞的に感じる。
そして壁際に……侍女だろうか、動きやすそうなエプロンドレスを身に付けた女性が身体の前で手を重ね、頭を下げていた。
「お、おかえりなさいませ……ニャンベル様」
出迎えられたニャンベルはそちらには目もくれず、空いている手を伸ばした。
それに答えるように侍女らしき女性がおずおずと手を差し出す。
その姿、その動きから目が離せない。
二の腕の辺りで窄められた細いリボン付きの袖……そこから手の先までところどころに生えている、薄く青いそれ。
膝のすぐ上で揺れる緩いプリーツ、裸足の足先までまばらに、魔力の結晶が生えていた。
その首に、その手首に足首に、それぞれ歪な形の環が嵌められている。
『木々を食むもの』の一族。
ニャンベルが差し出された手を取った瞬間、軽い虚脱感に襲われた。
同時に、手を掴まれた『木々を食むもの』の女性は溜め息を漏らし、膝を震わせて壁にもたれかかった。
その姿がまばたきの間に消失し、驚愕に口を開いた次の瞬間には、足元の床が消失していた。
「う、わ……っ?!」
その浮遊感は一秒にも満たず、ぽふんっと柔らかい何かに尻から着地した。
この質感、弾力、広がるシーツの海……ベッド、ですね。
ニャンベルが侍女と俺の魔力を使って転移魔術を使ったと気がついたときには、そのニャンベル本人はベッドから軽やかに降りていた。
そのまま拉致した俺には目もくれず、ドアに手をかけ。
「ちょっと、待ってて、ね」
と言い残し……部屋を出て行った。
「ええ……?」
唐突すぎる放置プレイに戸惑いを隠せない。
ここはあの女……ニャンベルの部屋なのだろうか。
なんというか、淡い色で統一された、女の子の部屋だった。
家具はほとんどが木製の温もりあるアンティーク調で、色は白……いや、薄いクリーム色が多い。
ベッドが大きく感じるのはこの小さな身体のせいだろうか、俺が四人寝転んでもまだ余裕がありそうだ。
高さもある立派な造りのベッドから飛び降り、部屋を見回す。
……うーん、居心地が良くない。そわそわするというか。
なんだか良い匂いするし。
とりあえず出られるか確認しよう、小走りで奴が出て行ったドアへ。
取っ手に手を掛ける、開かない。施錠、ヨシ。
窓は……ドアと反対側に大きなレース状のカーテンがあり、これまた大きな格子窓が透けて見えた。
外は見えるだろうか。
淡い期待を胸に駆け寄り、ちょっと背伸びしつつ覗き込む。
窓の向こうには鬱蒼とした森が広がり、奥には薄っすらと雪化粧した険しい山脈が連なっていた。
「……どこだよ、ここ」
木々の高さから察するに、ここは恐らく建物の二階の部屋だろう。
生えている木々、その葉の形状に見覚えはない。
多分……あの森ではない、と思う。
角度を変えて視界を確保するも、見えるのは森と、山と、奥に向かって暗くなっている綺麗な空だけだった。
もうどうにでもなれ、と半ば自棄気味に部屋の中を漁ることにした。
真っ先に服を探そうと思ったけれど……この貰い物の白いワンピースドレスの異常な耐久性は捨てるには惜しい。
このままでいいや。なんかもう慣れてきたし。
と、そこで思い立つ。
「ぱんつ!!」
声に出てしまった。
そう、下着だ。
いや、決してこの部屋の主の下着を拝見したいわけではない。
穿きたいのだ。
いや違う、そういう意味でもない。
背の高い衣装棚、その下部にある引き出しに目をつけて開け放つ。
なかなかに良い勘をしているらしい俺は、お目当てのものを一発で引き当てた。
わぁ、色とりどり。
「防御力高そうなの、ないかな……」
ずっと下に何も穿いてなかったんですよね。
もう、どれだけ心細かったか……。
引き出しの端に、それはあった。
もこもこしたそれはとても温かそうで。
「こ、これだー!」
柔らかな白い毛糸のパンツだった。
素晴らしい。
三狂の魔女と呼ばれ恐れられている三姉妹の一人、ニャンベル・エクスフレアの私物だという認識は、既にどこかへ消え去っていた。
そして今、俺がしていることはただの下着泥棒だということも、完全に頭から抜け落ちている。
それ以上に不安だったのだ。
下半身の低すぎる防御力が。
いそいそと足を通す。
ああ。
「あたたかい……!」
確かな満足感に包まれた俺は、脱出の糸口を求めて改めて部屋を見回した。
大きな姿見に映った白い少女は、ルデラフィアとの戦闘を経て薄汚れていた。
そういえば、と自身の手足を見下ろすと、焼け焦げた四肢は……綺麗に治っている。
まじか。
改めて凄いな、この身体は。
そして何となしに見た本棚は、手に余りそうな分厚く大きい本でびっしり埋まっていた。
すぐにはその違和感に、気がつかなかった。
それはあまりにも当たり前で、だけどここでは当たり前ではない……日本語で書かれた背表紙。
その本だけが、多く並ぶ本の中でも明らかに異質で、浮いていた。
よく見れば背表紙に日本語が書かれているのはその一冊だけで、他は全て見たこともない字だ。
駆け寄り、手に取る。
ずっしりと重いそれは見るからに立派な装丁で……タイトルは、『転移魔術』。
「……なんだこれ」
著者は、『ヒイラギ』と片仮名で書かれている。
開いた中の文字も日本語で、だけど平仮名と片仮名と漢字が入り混じり、読みづらいことこの上ない。
恐らく日本語など存在しないこの世界で、この本を書いたのは……。
「あの女……かな」
黒い髪の、魔女めいた女。
可能性は高い。
けれどまだ出会ってない別の誰か、という可能性もある。
俺はこの手に余る本を抱き、ベッドに腰掛けた。
適当に開いた最初の方のページ、その序文。
「魔術的アプローチでは帰ることは叶わないという結論に至った。
しかし空間転移魔術は移動手段の乏しいこの世界においては非常に有用である。
その運用については多大な魔力を消費する為以下の点を留意する」
空間転移魔術。
ワープ。テレポート。自身を遠く、別の場所へまばたきのうちに移動させる。
そんなものが確立されているなら、この世界の文化水準はとんでもないレベルだろうと推測できるけど。
「還元魔力体の使用、新鮮な魔力素体の使用、術式の並行使用……んー……?」
よくわからない。
適当にページを捲る。
「えー……基本骨子は外二、内二の四重円を用いる……? これは接続負荷の分散だけでなく、術式の安定に必要不可欠で……」
ページを捲る。
「……転移魔術を略式の魔術紋で使用する場合は四肢全ての他に補助が必要となる為実用的ではない。
仮に採用するならば骨埋め込み式だろうか。だがその場合のデメリットとして……」
そっと本を閉じた。
一息ついて、目頭を指で揉む。
駄目だ……何一つ分かんねぇ。
「続き、読んで」
「……のおっ?!」
真後ろ、耳に吐息を感じるほどすぐ近くからの声に俺はベッドから飛び上がり、床に顔面から落ちた。
「ん゛ぐ……っ」
慌てて起き上がると、ニャンベル・エクスフレアがベッドに足を投げ出して座っていた。
神出鬼没にも程がある。
転移魔術は相応の魔力と面倒な準備が必要な筈だけど、さっきからこの女は一体……。
その目は眠そうに半開きだけど、初めて見たときからそうだったから、これが通常状態なのだろう。
そのやる気のない手がベッドをぽふぽふと叩く。
お呼びらしい。
害意はないみたいだけど……こいつの目的は、何だろう。
「……あの」
「?」
「私を連れてきた理由は、何です?」
立ち上がり、ベッドの上のニャンベルに問い質す。
初めてあの村で相対したとき、三姉妹の目的は恐らくあの湖だった。
レイグリッドたち、城塞都市レグルスの騎士団から逃げるように立ち去ったのは戦力の差からではなく、たまたま居合わせた『木々を食むもの』の二人、つまり魔石の確保を優先したのだろう。
彼女らの再来襲はやはり湖の水……エリクシルと言っていたか。
今は多分、俺が全て飲み込んでしまったそれ。
転移魔術で魔力を吸われたものの、俺の身体の中にはそれでも尚、溢れんばかりの魔力が渦巻いている。
……バレている、のだろうか。
「エリクシル」
俺を指差し、面倒臭そうに口を開くニャンベル。
「その、魔力の量。興味が、ある」
バレてた。
一瞬脳裏に、いつだったか見たカブトガニの体液採集の画が浮かんだ。
「けど、それは、もういい」
「……どういうことです?」
ニャンベルはもう一度、俺と同じくらいの小さな手でベッドをぽふぽふと叩いた。
一緒に床に投げ出された本、『転移魔術』を拾い上げる俺の手は、知らず小さく震えている。
「それ、どうして、読めるの?」
「……っ」
そういうことか。
三狂の魔女、その強すぎる魔術への探究心……恐らくこの世界には存在し得ない言語で書かれた、これも恐らくだけど魔術が記された書に興味を示さない筈がない。
今俺が喋っている言葉は紛うことなく日本語なのだけど……聞き、話す際に何かしらの変換が行われているのだろう。
答える前に、本を開く。
パラパラと捲ると、記憶に引っかかる紋様が幾つも描かれている。
目の前の女が使用していた、そして俺が地面に描いて発動させた、帰還の魔法陣を構成する要素。
「……読めないのに、よく再現できましたね」
はぐらかした俺の言葉に、ニャンベルは持っていた分厚い魔術書をこちらに向けて開いた。
赤黒い、地下室のような場所でも見た塗料が、藁半紙みたいな質感の紙の上に紋様を描いている。
写本だろうか。
「苦労、した」
溜め息をつきながらページを捲る手はやはり小さく、十二、三くらいの女の子にしか見えない。
今の俺と、同じくらいの。
「文字の、形、つながり……。まだ、ほとんど、理解できない」
それは、そうだろう。
平仮名、片仮名、漢字が満遍なく使われた文章は、俺でも読みづらいことこの上ない。
暗号めいたそれはまるで……この世界の人間に読まれ理解されることを恐れ、拒んでいるよう。
それでもバラバラに配された紋様をつなぎ合わせ、記された魔術を再現したニャンベル・エクスフレアは、やはり並大抵の魔術師ではないのだろう。
ページを捲る手は止まらない。
その手が時折ページの上を指差していく。
「ここ。……ここも。あと、ここ。……ここもね」
「……?」
何が書いてあるかは、全く分からない。
紋様とそれに対する注釈のようだけど。
「私の、おりじなる。……ふふ」
悪戯が成功したときのような可愛らしい自慢気な笑み、その意味を理解するのに数秒かかった。
理解不能な言語で書かれた魔術書、それをこの女は独学でオリジナルを混ぜつつ、再構成したということらしい。
それがどれほど凄いことなのかは、今の俺には想像もできない。
「でも、無理やり、だから。制限が……はぁ」
ニャンベルは再度、ベッドをぽふぽふと叩いた。
来い、そして続きを読めと促されている。
「……分かりました。けど条件があります」
「なに?」
「貴方たちが連れ帰った二人を、帰してください」
ニャンベルの反応は薄い……というか、表情の変化がほとんど読み取れない。
感情が希薄なのか、わざとなのかは分からないけど。
「なんだ、そんなこと。……二つで、いいの?」
「……? ……っ」
ぞくり、とした。
その何気ない一言は、俺とこの女の理解が根本的な所からズレていることを如実に表していた。
……いや、少し考えれば分かることだ。
彼女らの魔術に対する異常な執着性、魔力の結晶を幾つも保有していない筈がない。
出迎えの女性もそうだった……ここに、何人いるのだろうか。
ニャンベルの目は静かに鈍い光を湛えている。
……落ち着け、俺。
「……とりあえず、二人に会わせてもらえませんか」
あの反応、この魔術書を読めるのは現状、俺だけの筈。
ニャンベルにとって俺は代え難い存在だろう、それこそ……エリクシルとやらよりも、だ。
どこまで吹っかけられるか、試してみてもいいかもしれない。
「いいよ。……でも、ちょっと眠いから、明日ね」
くあぁ、と小さくあくびをしたニャンベルは、しかしベッドに横にはならなかった。
魔術書を放り投げ、気だるそうにベッドから下りると、俺の手を取りドアへ向かう。
「え、どこへ?」
「お風呂」
なんだお風呂か。
そういえばこの世界で目覚めてから、一度も入ってない気がする。
……ところで、何で一緒に行く必要があるんですかね。




