二十話 映るは懐かしい匂い
「がぼ……っ!?」
ごぼごぼごぼ。
次の瞬間には俺は、水の中に居た。
パニックになり手足をバタバタと動かすも、すぐに全く苦しくないことに気がついた。
少しの間沈むに身を任せていると、数秒で底に足が着いた……一安心。
不自然につるりとした水底、透明度が高いように見えて先を見通せない、不思議な水中の光景。
魚も水草も、生物の気配が一つもない。
「ごぼ、ごぼぼごぼ」
あ、これ湖の中だわ。
初めて沈んだときと違うのは、見上げても湖面が見えない深さなのと、近くに冬の枯れ木のような樹木が湖底から生えていることくらいか。
そこかしこから生えている樹木の肌は硬質化しているようで、触れると冷たく、硬い。
生きているのか死んでいるのか分からないそれにしがみ付き、とりあえず湖面を目指すことにした。
浮力をほとんど感じず身体は重かったけれど、大した時間も掛からず水面から顔が出た。
そのまま登れるところまで登り、ガチガチに固まっている枝に腰掛ける。
木々の密集具合、湖岸との距離……湖のど真ん中だった。
「まじかー……」
陽の位置は多分変わっていない……時間は経っていないみたいだから、あれは位置座標の転移魔術で間違いなさそうだ。
にしても。
「なんで、ここなんだろ」
術者が帰る為の魔術。
ほんの少しだけ、元の世界……あのアパートの狭いワンルームに帰れるかもなんて、淡い期待も浮かんだのだけど。
流石にそこまで都合良くはいかないか。
万が一この姿のままだったら目も当てられないしな……。
それはそれとして、とりあえず湖岸に渡る方法を考えよう。
見える範囲に同じような木が十数本、飛んで渡れる距離ではないけど……。
足に魔力を込めて飛び、まばらに生えている木を渡っていけばある程度の距離は稼げるだろうか。
落ちてもまた手近な木に登ればいいだろうけど……問題は後どれだけの時間、湖の水に浸かっても平気なのかが分からないことか。
魔力の加減も分からないし、ぶっつけ本番でやるには状況が微妙すぎるけど……やるしかない。
と、覚悟を決めたときだった。
視線を、感じる。
「なんだ……?」
周囲を見回す。湖岸の、森の中からではない。
あの魔獣の視線は、こんなに死を匂わせるような冷たさではなかった。
もっと近く……もっと、近いところから。
ぞくり、と。
背中が粟立つ感覚。
近く、しかも複数から見られている。
張り付くような、ねめつけるような、今まで感じたことのない種類の視線。
気持ちが悪い。
周囲を見回す。
湖の水を、いや魔力を吸いすぎたのだろうか。
湖面から突き出ている木……そのうろが、絶望に打ちひしがれる落ち窪んだ目に見える。
そのうろが、決して届かない怨嗟の声を上げ続ける口腔に見える。
暗く、真っ暗なそのうろは、見続けていると吸い込まれそうな感覚に襲われる。
「あ」
ふわりとした一瞬の無重力感。
どぼん。
そんなに長く浸かってなかったと思ったんだけど。
俺の身体は何かに引っ張られるようにバランスを崩し、背中から湖に落ちた。
「……シテ」
ジタバタしてもどうしようもないので、湖底に着いたら……もういっそのこと歩こうか。
そう思いつつ沈むに身を任せていると、何か声のようなものが聴こえてきた。
水の中で声が聞こえるわけがないので……幻聴かな。
だとしたらもうまずい。
「……ス、ケテ」「コ…、…テ」「オ、………」「タ………、…」
直接頭の中に浸透するような寒々しい声。
手で耳を塞いでもすり抜けてくるそれは、身体が吸収する魔力とともに流れ込んできているようだ。
ようやく湖底に足が着いた……多分。
視界はもう、何十何百もの薄い虹色の膜に覆われているようで、自分が今立っているのか浮いているのか、それすらもあやふやだった。
とめどなく流れ込んでくる声のせいで頭が膨らんでいくような、そんな錯覚さえ覚える。
そのまま破裂してしまうんじゃないか、なんて馬鹿げたことを思いながら、ようやく手探りで一本の木に触れた。
歩くのは却下だ……もう一回、登ろう。
今の俺の状態は、恐らく、とてもヤバい。
だけどもう、腕にも足にも力は入らず、視界は白く染まっていき、幻聴はどんどん酷くなっていく。
「タスケテ」
触れた木肌から、より鮮明に声が聞こえた。
木が喋っているのだろうか。
だとしたら俺は既に、夢でも見ているのだろう。
「オねがイ」
感覚は曖昧で、意識は朦朧としている。
ただ、流れ込んでくるその意思だけが、酷く冷たくて、悲しい。
「もウ、いやダ」
視線は、その声は、湖底から生えている木々からのものだ。
木に意思がある? そんな馬鹿な。
いや違う、これは……。
「ころして」
そして、初めて湖に入ったあのときのように、ガクンと意識が落ちた。
「樹木は、魔素を葉から取り込み、大地に返す。
樹木は、大地から魔素を吸い上げ、空に返す」
女の声は朗々と響いている。
「魔術師は、森を愛している。
私は、森を愛している」
その声に感情の色はない。
「だから、種を植えよう」
その動作に感情の色はない。
「立派に、育てよう」
切り開かれた腹に女の白い手が無造作に突きこまれた。
血は流れない。
「たくさん、実を落とすよう」
吊るされた同胞は皆、どうしてか生きている。
生かされている。
「可愛い守り手たち」
その笑みは、酷く優しい。
「げほっ……あ゛ー……ほんと、夢見が悪い」
気がつくと、雲が掛かる大きな二つの月に見下ろされていて、陽は傾きかけていた。
……ここ、どこだ?
仰向けに倒れていたらしい。
なんとか上半身だけ起こすと、見覚えがあるようなないような……不思議な感覚に襲われる場所にいた。
地面が妙に硬くつるりとしていて、葉のない枯れ木がそこかしこに生えていて、水溜りが無数に残っている……随分見通しの良い平地だ。
「んん……?」
すぐ近くに生えている硬そうな木は……湖の中に生えていたあれ、だよな。
この付近の木々の密集具合、遠く離れるにつれまばらになるそれら。
枝からはぽたぽたと雫が滴り落ちている。
いやそんな、まさか。
「水、どこいった……?」
疑問が口を突いて出たものの、答えはもう分かっていた。
全部、まるっと、俺の中だ……。
起きたときからもうずっと魔素が見えっぱなしだったからね、ああ駄目だこれ目が戻らねぇ。
吐く息すら魔素の色になってるんだけど、大丈夫なのかなこれ。
立ち上がり、辺りを見回す。
一瞬ふらついたけど、他は特に問題なし。
中央が一番深い、というわけではなかったらしい……見渡す限り多少でこぼこしているもののずっと平らで、湖岸だけ浅くなっていたのだろう。
近くに視線を移すと枯れ木の中、注視するとなんだか歪な……魔力の残滓のようなものが見える。
ずっと浸かっていたからだろうか、うろからはまるで涙のように水がこぽこぽと流れ出ている。
何か……何か、焦燥感のようなものに駆られて、近くの枯れ木に足を向けた。
踏み出したその先、遥か遠く……恐らく村跡がある方向に。
見覚えのある黒煙が上がっていることに、俺はようやく気がついた。




