十八話 これはまりょくだから
慎ましやかな、しかし柔らかなそれに手を当てる。
その先端がくすぐったいような、微かな痺れに似たものが生まれると同時に、お腹の下に甘く、温かな何かが溜まっていく。
今のところそういった欲求は湧き上がってはこないけれど、ぽかぽかした感覚は心地良い。
肌触りはやはり人間のそれにしか思えない、しかし胸の奥……脈打つものの存在は感じ取れない。
つるりとした、或いはさらさらとしたお腹の下は悲しいかな、見晴らしがいい。
あの女は自分の身体をベースにしたと言っていた……つまりは若い頃、少女と呼ばれるときの身体か。
小さく背徳感のようなものが芽生える。
見てはいけないものを、見ているような。
「……さて」
まぁ見ますけどね。
隅々まで確認するとしますか。
すぐ外には見張りの兵士が立っているから、静かにこっそりと。
ふわふわした感覚に身を任せていたら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
魔力がくるくる回るような、よく分からない感覚だった。
そして。
「これ、は」
目覚めは、考え得る限りの最悪だった。
あの洞窟で目覚めて、今まで色々……理解が追いつかないくらい色々あったけど。
多分、今がいちばん、つらい。
あ、なみだでてきた……。
「……どうして、こんなことに」
素っ裸のまま、立ち上がることすらできず、呆然とすること数分。
宛がわれた周りより造りのしっかりした天幕の中、硬さを感じるものの寝心地はそこまで悪くない寝床、まぁまぁな質感の敷かれたシーツ、そこに染み込んだ、多分これは……液体化した魔力。
も、漏らした……?
どうしようこれ……。
寝る前にはトイレに行けと小さい頃あれほど、いやでもこの仮の駐屯地にはトイレなんて。
絶望に打ちひしがれていると、天幕の外がにわかに騒がしくなってきた。
どうやら外はもう活動を始める時間らしく、俺のところにも迎えがきたようだ。
まぁいきなり開け放たれることはないだろう、とりあえずこれ魔力なら吸収できるかな。
なんて考えていると、天幕の入り口が無造作に開かれた。
うっそだろおい。
「起きてるかぁ、嬢、ちゃ……」
逆光の中、闖入者は固まっている。
そりゃそうだろう。
騎士団の協力者、魔獣を従えし者、神鏡の湖の女神……尾ひれが付いた色々な呼ばれ方をしている素性不明の女の子が、天幕の中、裸でおねしょ現場を前にうなだれて涙を流しているのだ。
そんなん俺だって固まる。
いや今はそれよりも。
「……」
入ってきたそいつの顔を見て、ゆっくりと立ち上がる。
逆光の中の、狐を思わせる細い目をした男……確かコンサと呼ばれていたか。
息を呑み、何かに気づいたようだけど、もう遅い。
腕に魔力が流れる。
歩み寄る俺に、何か言い訳でもするつもりなのだろうコンサの口が開いた。
それを見やり、息を短く吸い、一歩大きく踏み込んだ。
脚にも魔力が流れる。きっかけを掴んでしまえばなるほど、難しいことではなかった。
ありがとう、そして出て行け。
軽く跳び上がり、魔力を存分に帯びた拳を振り下ろした。
「ま゛……っ!!」
甲高くひしゃげたような声は、天幕の入り口を翻らせて吹っ飛んでいった。
着地、反転。急いで寝床に駆け寄る。
シーツの染みに手を当てる、まだほのかに温かい。
魔力の流れは掴んだ、吸収……あれ、できない!?
「な、なんで?!」
八つ当たり気味にシーツを叩く。湖の水はあんなにそれこそむさぼるように吸収してたのに!
むしろ叩く程にシーツ全体に徐々に染み渡っていく。
天幕の外は大騒ぎだ。
また人が近づいてくる気配がする。
ああ、もう。
シーツを一旦諦めて立ち上がり、先に服を着ることにした。
「グレイスだ。入るぞ」
首の後ろでリボンを結び、ようやく着替えが完了すると同時に、大柄な男が窮屈そうに頭を下げながら入ってきた。
ああ、終わった……。
「貴様、俺の部下に何……を……」
不自然に途切れた言葉尻、グレイスは目に飛び込んできた光景を見て、呆気に取られているようだ。
言い訳、何か言い訳を……。
「え、えぇと、あの、これはですね……」
シーツを隠すように立ちつつ、駄目だ何も出てこない。
仕方がない、こいつの記憶も飛ばそう。
後ろ暗い決意を胸に、手足に魔力を込めていく。
そんな俺を無視してグレイスはずかずかと歩を進め、シーツの前に膝をつけた。
そして目の前のそれを手に取った……その手は僅かに震えている。
「ちょ、ちょっと、グレイスさん……?」
え、怒ってらっしゃる……?
いや、しかし好機だ。その無防備な後頭部に一発食らわせてやろう。
きっかけを掴みスムーズになった魔力の流動。
「……これは、魔布か。恐ろしい純度、そして精密さだな」
「……はい?」
腕に込めた魔力が霧散した。
まふ?
グレイスの無骨な手がシーツを広げ、撫でつけ……匂いまで嗅ぎ始めたぞおい誰かこいつ止めろ!
「魔素の濃い肥沃な牧草地の厳選された羊毛を使い、専門の魔術師が七日七晩かけてもこれだけの物はできんぞ……」
急に早口になった気持ち悪い……何を言ってるんだこいつ。
それは俺が……言いたくはないけど、おねしょしたシーツだぞ。大丈夫か。大丈夫じゃないのか?
グレイスの横にしゃがみ、シーツに手を触れる。
しっとりとしたそれは既に万遍なく染み渡り、確かに全体に魔力を帯びてはいるけど……。
ええ……?
グレイスはすっくと立ち上がり、俺に手を差し出してきた。
「今までの無礼な態度を許して欲しい。そして改めてよろしく頼む、シエラ」
「……あ、はい。よろしくです……」
険の取れた凛々しい顔に微笑を浮かべ、感動的なシーンですらあるのだけど、もう片方の腕におねしょシーツを大事そうに抱えるのはまじでやめてほしい。
「どれ、あいつらにも見せてやろう。驚くぞ」
「ちょっ、待って……」
「どうした。これだけの逸品、何処に出しても恥ずかしくないぞ」
どこに出す気だよやめてくれ。
「できれば、その……内密にしておいて頂けると、助かるんですけど……」
「何を言って……いや、そうか」
僅かに眉根を寄せて思案したグレイスは、すぐに合点がいったとばかりに声を潜めた。
抱えたシーツをさらりと撫でる。
「これだけの腕、噂が広まれば依頼が殺到……どころか国同士の争いに巻き込まれかねん。
……俺としたことが浮かれていたようだ。すまない」
おねしょが、国の争いに……?
流石は神を殺す為に作られた最高傑作だ。スケールがとんでもねぇ。
「ああ、そういうことか。……すまんな、部下の非礼も重ねて詫びよう。
コンサ……俺の部下はその秘術を盗み見てしまったのか。それは追い出されても、文句は言えまい」
いやあいつが見たのはおねしょの現場なんですけどね。
「……えぇと、うん、はい。そういうことなんです。……それ、お近づきの印に差し上げますよ」
「おお……。大切にさせてもらおう」
なんだろう、前進したのに前に進むどころか道を踏み外したような気がする。
いそいそとシーツを折り畳み懐に仕舞うグレイスの表情は、今までになく嬉しそうなものだった。
こうして俺は不本意ながら、城塞都市レグルスに所属する騎士団、その中の混成魔術師部隊隊長、グレイス・ガンウォードの信頼を得ることに成功した。




