十七話 神鏡の湖
数年前、この森に突然湧き出たという水を一番初めに見つけ、何の気なしに飲み下した男は、神を見たらしい。
酩酊するようなあの感覚……一種の中毒症状なのだろう。
酷く濃密な魔力を保有していたこの身体でああなったのだから、普通の人間が直接飲めば、むべなるかな。
数歩で膝下まで湖面が届いた。ゆっくりと振り返る。
通常存在し得ない筈の、液体化した魔力の中で。
幻視、幻聴、多幸感。
この湖が神格化されるのに時間は掛からなかったようだ。
少しずつ広がる湖、その濃密な魔力は周囲の動植物をも変質させ、それはとても希少なもので。
村は潤い、ますます湖への信仰心は高まっていった。
「この水が、欲しいんですよね。お手伝い、しますよ」
直接触れることすら危険なこの液体化した魔力を、村人たちは肉体が変質しても飲むことを止めなかった。
そんな時にほうほうの体でやってきた『木々を食むもの』の二人は、まさに僥倖だったのだろう。
二人を森に匿う代わりに、この液体化した魔力を汲ませ、運ばせていた。
村人は魔力の結晶などには興味がなかったから……二人にとっても、悪くない話だったのかもしれない。
恐らく結晶の成長は著しく促進されて、痛かっただろうけど。
「間に合いませんでしたからね? 使う予定だった、村の人間は」
精一杯、微笑む。
二つの月を背負う俺は、彼らの目にどう映っているだろうか。
希少な素材の多過ぎる流通量、それはすぐに疑念を持たれ、突き止められるのは早かったのだろう。
かくしてこの村はレグルスとソムリア、両陣営から目を付けられることになった。
大筋はこんなところだろう。
足は……身体には別段、異常は見られない。
お腹の辺りが少しぽかぽかしているくらいか。
「……目的は、何だ。……いや、貴様は、本当に人間か」
グレイスの目にはこれまでで一番の、明確な殺意が込められている。
その下に湧き上がる何かを押さえ込むように。
水の蒐集に対する助力、これが彼らにお近づきになるのに一番の近道だと思ったのだけど、なんでだろう心証が悪化しているような気がする……。
そしてグレイスの後方、森の奥で眼光が煌いている……出てくるなよ、今出てきたら取り返しがつかなくなるぞ。
いつの間にか大分近く、湖のほとりまで来ていた兵の一団、ざわつくその中から一際大きく声が上がった。
「村の最後の生き残りが、間際に言っておりました。神鏡の湖、その主は美しき少女だったと。この方は、もしかして……」
「いやそれ多分幻覚ですよ」
手を挙げて遮る。
これ以上紛らわしいこと言うんじゃねぇ。
というか島国出身って言っただろさっき。
別のところから声が上がる。
「この世の物とは思えないきめ細やかなその衣服はもしや……」
「あ、これ母の手作りなんですよ」
やっぱり目立つんだなこれ。
あの女魔術師三人も近しいもの着てた気がするけど。
そしてまた別のところから。
「何よりその美しい白い髪は、まさに人為らざるものの」
「その宝石のように赤い瞳は」
「いやその白く細い」
「いやその」
やいのやいの。
たった数メートル、水際を挟んでのやり取りは白熱していった。
何が彼らをここまで駆り立てるのか、もうほとりのすぐそこまで押しかけてきてるけど、この人たち大丈夫ですかね。
頭を抑えて嘆息するレイグリッド。彼らを冷ややかに見つめるグレイス。
ああなるほど、この方たちは免疫が若干……そういえばこの集団、女性の姿が見当たらない。
いやでもこんなおチビちゃんにその反応はちょっと……。
と、詰め掛けた男たち、その程近い一人の兵士の身体が大きく傾いだ。
「う、わ」
男が咄嗟に身体を捻って伸ばした手は空を切った。
周りの兵士たちの顔面が蒼白になる。
踏み出した小さな足に、無意識のうちに魔力が流れ込んだ。
盛大な水しぶきが後方で上がり、男の身体はすぐ目の前。
おお、間に合った……?
水際で人という漢字が出来上がり……下で支えているのが俺だ。
一瞬の静寂の後、引っ張り起こされた兵士は、走馬灯が見えた、と呟いている。
少しだけ冷静になった彼らは湖のほとりから距離を置き、口々に勝手なことを叫びだした。
「やっぱり女神様だったんや……!」「俺、改宗します!」「万歳ー!」
「可愛いー!」「ありがたや……ありがたや……」
じとり、とレイグリッドの方を見る。
早くどうにかしろよこいつら。
その視線で伝わったのか、可笑しそうに傍観していた彼らの長……レイグリッドが、一つ咳払いをした。
それだけで場が静まり返る。
「いいだろう、欲しいのは情報だったな」
「レイグリッド、正気か」
わぁい。
なぜか兵たちも喜んでおられる。
それも、俺以上に。涙を流している奴もいる。え、そんなに?
「お前も昨晩、言っていたではないか。その子のことだろう、面白い小娘がいたと」
「それは、そうだが」
湖畔に上がる。身体がぽかぽかしている。
兵士たちは少し距離を置きながらも、手拭いを寄越してくれた。
かがり火に照らし出される彼らの顔には、興味と喜びとほんの少しの……やはり、恐怖が浮かんでいる。
そして改めて二人の前に立った。
「魔術師のことはグレイスが詳しい。任せるぞ」
「……ああ、分かった」
渋々、と言った様子だが協力は得られたようだ。
さらに踏み出し、見上げて手を差し出す……なるべく笑顔で。
「シエラです。……よろしくお願いします、ね」
「……ふん。グレイス・ガンウォードだ。妙な気は起こすなよ」
握り返されたその手は大きくて硬く、細かな傷だらけで……やはり威圧的だった。
にこりともしない。怖い。
妙な、ね。
それ、周りでそわそわしている兵士たちに言ったほうがいいんじゃないかな。
「持ち場に戻れ。ここはもう最低限でいい」
レイグリッドの一声で浮ついた空気は消え、機敏な動きで戻っていく兵士たち。
「話は明日、聞かせてもらうぞ」
そう言ってグレイスも戻っていった。
かがり火も撤収されていき、辺りはどんどん暗く静かになっていく。
いつの間にか魔獣の視線も感じなくなっていた。
ようやく一人になれた。
「……なんか、身体が熱い」
そう。
気のせいだと思っていたんだけど、気のせいじゃなかった……湖を見やる。
大きな二つの月の光でまだ十分よく見える湖面は、静まり返ったままだ。
その水位が、多分。
「減ってる、よなぁ……」
気のせいじゃなかった。
目測だと分からないけど、この暗さだと対岸がほとんど見えない、かなりの大きさの湖。
その湖面が、初めて見たときよりも明らかに低い。
……もしかして吸収してるんじゃないかなぁ、これ。
もう一度、湖に入った。
意識を体内に集中する。
気持ち悪いほどに濃密な、どす黒い魔力の塊。
頭と身体の真ん中にあるそれは、∞の字を描くように魔力が行き交っている。
そしてああやはり、貪り食っているように見える……ごくごくと。
たまらず外に出た。
余剰分を身体が排出したがっているのだろうか、尿意のような感覚もある。
いやでもこの場合、出るのって……。
考えつつ、天幕の方へ足を運ぶ。
作業をしている兵たちは皆フレンドリーだ。
随分とノリの良いおっさんや青年、協力を得られたのは彼らのおかげでもあるだろうし、なるべく笑顔で声を掛けていく。
駐屯所の方でも話題になっていたらしく、遠巻きに注目されるのは少し恥ずかしかった。
天幕の中で服を脱ぎ捨て、寝床にぺたりと座る。
……腕に捕まったとき、魔力を込めようとしたあの感覚。
湖の中で、足に流れ込んだ魔力のあの感覚。
何度か見た、魔術師たちの魔力の使い方、その流れ。
「できるようになれば……」
見えるだけでは意味がない。
目を瞑り、身体の中の魔力に意識を向けていく。
この身体のことを、もっと知らなければならない。




