二十三話 水底に絡まる
嫌な予感がする。
けれど、足が何かに絡め取られたように動かない。
湖底を流れる雨水がやけに粘性を帯びている……どろどろと、纏わりつくように。
こんな状態になるまで気がつかないなんて、どうかしていたのだろう。
頭の先からつま先まで……まさか、この雨水をすら媒介にしているのだろうか、全身から魔力が力が抜けていく。
『木々を食むもの』の残り火、そして魔力溜りを余さず吸収したのにこの減り方……尋常じゃない。
既に右腕すら持ち上がらない、四肢に廻らせていた魔力も消え、濡れそぼっていた獣の尻尾も消失した。
目だけはかろうじて維持している、しかしそれももってあと僅かだろう。
だから、視界に飛び込んできたそれに反応できなかった。
湖の中心から這うように出てきたそれは、泥の塊のように見えた。
人間の腕の形をしたものが雨水を引っかき、続いて頭が出てきた。
ほとんど身動きの取れない俺には、それを見ていることしかできない。
雨水に打たれそいつの頭を覆っていた泥が剥がれ落ちていく。
やけに黒く長い髪は雨に濡れて肌に張り付いている。
ずるり、と泥に塗れた全身が這い出てきて、その目がこちらを確かに、見た。
「ア、あぁ……本当に、不快な魔術だ」
声変わりをする前の少年のような澄んだ声は、ざぁざぁと降り続く雨の中で不思議と良く聞こえた。
その声に聞き覚えがある。
いやしかし、姿格好が以前とは……。
「……ルッツ・アルフェイン?」
「へぇ、覚えててくれたんだ」
立ち上がった少年……いや、最後に見たときより髪がかなり伸び、身体つきがなんというか……女の子にしか見えないのだけど。
でもアレは付いてるな……というかなんで裸なんですかね。
「あの爺さんがやられるなんて、思わなかったけど」
……性別がどうとか格好がどうとか言ってる場合じゃないか。
彼が何をしに現れたのか……頭上のあれと関係あるのか。
敵意や殺意の類は感じないけれど。
「でも、役には立ってくれた」
なんとか維持できている左目でルッツを注視すると、途端に気分が悪くなった。
『生きている魔力』と『死んでいる魔力』が混在している。
なんだこれ……。
「それ……どうなってるの」
吐き気を飲み下しながらの言葉に、少年だか少女だか分からないルッツは律儀に答えた。
僅かに笑みを浮かべながら。
「これ? ああ、前にも言ったよね。僕は『変質』が得意だって」
自らの膨らんだ胸を撫で下ろし、水が滴る綺麗な黒髪を手で梳くその姿は狂気に満ちていた。
身体を……変えたということだろうか。
……いや、聞きたかったのはそっちじゃないんだけど。
「……その、魔力は」
「ああ、やっぱり見えるんだ。すごいな……ああ、たまらなく」
魔術の気配、魔力の波動。
分かっていても、見えていても、動けない。
「欲しい」
踏み出された足、振り上げられた腕、それらに一斉に魔力が走った。
俺の身体に抗う力が残っていないことは既に分かっているのだろう。
愚直に直線的に飛び込んできたルッツに為す術もなく押し倒され、ばちゃりと雨水が跳ねた。
黒い髪が垂れ、爛々と輝く両の瞳に魔力が燃え盛っている。
「師匠、ああやっぱり師匠の匂いがする。僕は、あなたと……僕は、あなたに」
大した力ではないように感じる、けれど全く抵抗できないのは廻る魔力がほとんど残っていないからか。
雨を遮るように俺に覆い被さったルッツの身体は、間近で見ると少女の柔らかさを帯びていた。
以前見たときとは明らかに違う、両性具有と呼ぶべきなのか。
「あなたに、なりたい」
その言葉は狂っているようで、しかし真っ直ぐだった。
この少年はずっとあの女の影を追っていたのだろうか。
けれどあの女は恐らく、この世界もこの世界に存在する何者も、眼中になかった。
「……ヒイラギのことが、好きだったの?」
突いて出た言葉は単純な疑問だった。
今この時この場で聞くようなことではなかった気がするけれど、何故か口からこぼれ出てきた。
俺の肩を押さえる腕の力が抜け、燃えるような瞳が少しだけ揺れた。
「……そんなんじゃ、ない。あの人は、あなたは……僕に」
ごつん、と。
酷く鈍い音と同時、目の前にまで迫っていたルッツの顔、その目がぐるんと裏返った。
べちゃ、と力が抜けた驚く程冷たい身体が覆い被さり……体格の割に随分と重い。
「なに、してるの。こんな、ところで」
気絶したらしいルッツの後ろ、小さな人影が分厚い本を片手に仁王立ちしている。
……それはこっちの台詞だと思うんだけど、少しだけ怒っているような声色は、ああそうか。
すぐに戻るという約束を、すっぽかしたからか。
「えぇと……色々、あって」
ふぅん、とつまらなそうに答えたニャンベル・エクスフレアは頭上をちらりと見上げ、視線をこちらに戻した。
そして俺の身体の上に倒れこむルッツを足で雑にどかし……今こいつ魔力吸収したな。何その技術。
「はぁー」
わざとらしい溜め息をついたニャンベルは、懐から魔石を幾つか取り出し、これまた雑にぽいっと辺りにばら撒いた。
月の光すら届かないこの場所で尚光り輝く、美しい魔力の結晶。
それが着水し、何事か呟いたニャンベルはその場で可愛らしくくるりと一回転すると……周囲の魔素が一斉に励起した。
うわまぶしい。
これはどういう魔術なんだろう。
俺の身体を覆っている雨水が何かに反応している……ニャンベルを中心に、これは魔力の波動だろうか。
追加でぽいっと小さな手から放たれた魔石が空中で円状に固定され、上空に吸い上げられていた魔素の動きが止まった。
「はぁ、まったく、面倒な」
溜め息とともに呟いたニャンベルが指をぱちんと鳴らすと、ばら撒かれていた全ての魔石が弾けて粉々になり、光をばら撒いた。
「ひやり、ひやり、もひとつ、ひやり。空とぶ、かげも、こおりて、落ちる」
囁くようなそれは変換機構だったのだろう。
ニャンベルの手から魔石に繋がる魔力の導線が見えた瞬間、視界が真っ白に塗りつぶされた。
「わっぷ」
水蒸気、いや、細かく小さな氷の粒が一斉に花開き、足元を覆っていた泥のようなそれが凍り、押し固められた。
全身からぱらぱらと氷に変じた水分が舞い落ち、身体が軽くなる。
なにこれすごい。
「はぁ。早く、帰ろ」
呆気に取られて、すぐに言葉が出なかった。
「……そう、ですね」
そして恐らく意識はしてないだろうその帰ろうと言う言葉に、胸がじんわりと暖かくなった。
見上げれば頭上の魔法陣はゆるゆると解けるように霧散していき、顔に当たる雨粒はうっとおしいけど嫌な感じはしない。
横たわるルッツ・アルフェインを抱え上げ、薄く凍ったそれに足を踏み出すと思ったよりがっちりと固まっていた。
割れる心配はなさそうだけど滑りそうで怖い。
「どうするの、それ」
「どうもしないですけど……流石にここに置いとくわけにもいかないので」
さっきのニャンベルの魔術で辺り一帯凍ってしまっている。
素っ裸のまま放置するのは流石にちょっと。
きしきしと鳴る薄く張った氷の上を歩き、ようやく湖のほとりへ辿り着いた。
適当な木の根元へ横たえ、ワンピースドレスを再構成して被せておく。
「よく分からないけど……いつかゆっくり話しましょう」
魔力が混在していて生きているのか死んでいるのかすら不透明なこの少年は、この身体に何を求めていたのだろう。
鈍色の彼らの目的はバラバラで、何がしたいのか、何を目的としているのか。
この湖の惨状を見た後だと、黒き魔女に利用されていたのではないか、なんて考えが浮かんでくる。
ぽふ、と考え事をしている俺の背に柔らかな気配が飛び乗ってきた。
振り返りつつ口を開く。
「……で、あれはなんだったんです?」
「? 分からない、けど、多分」
ニャンベル曰く、あれはこの場所自体に刻まれた魔術の罠。
条件を満たせば自動的に発動する、術者の意思を介在しないとてつもなく高度な魔術。
誰が、何の為に、こんなところに。
「あの時、のは、フィアが、切ったから」
お持ち帰りされたあの日も、同じような魔法陣が頭上に展開されていた。
あれはルデラフィアが使った魔術ではなかったらしい。
そんな魔術の存在を知ってか知らずか、ルデラフィアが魔術ごと焼き切ったと。
条件……思いつくのは大量の魔力とそして……器の存在くらいだけど。
あの時俺は殺されかけたと同時に、助けられてもいたのか。
背負うニャンベルの手が俺の獣の耳をふにふにといじり、撫で回す。
そして満足したのか、にゅっと伸びてきたニャンベルの手が、俺の眼前で魔術書をぱらぱらと開いた。
魔素が薄く励起していく。
ちょっとまって。
「あの、ニャンベルさん」
「なに」
「ソラたちのところに行きたいんですけど」
ぐい、と首を後ろへ廻らせると、こちらを覗き込んでいたニャンベルの額がこつりと当たった。
あ、ちょっと不機嫌そう。
「……かえる、かえるよ」
「待って」
問答無用で帰還の魔術を発動しようとするニャンベルの声。
眼前で広げられていた魔術書をぱたんと閉じた。
没収。
「かえして」
「駄目です」
届かない魔術書に伸ばされる必死なそれを見つつ、森の中の小屋を目指す。
雨も弱まり、鬱蒼とした木々の群れの中に入れば、葉っぱの屋根に遮られ軽い雨音は遥か頭上。
獣の耳を意識して動かすと、早々に諦めたニャンベルの興味はそちらに移り、再びふにふにといじられ始めた。
周囲に魔獣の気配はない。
あの湖の状態では、しばらく寄り付くことさえできないだろう。
切り開かれた小さな広場にひっそりと佇む小さい簡素な家。
以前訪れたときと違うのは屋根の上、ようやく顔を出した月明かりを受け、青い眼光が鋭く輝いている。
空気が張り詰めたのが分かった。
「ニアちゃんと竜の子は、中で寝てますよ」
ソラの声色は低いけど、その言葉にとりあえず安心した。
俺もなんだか疲れたし、眠ってしまいたいんだけど。
どうやらそうもいかないらしい。
「で、どうしてベルちゃんがここに?」
「迎えに、きただけ」
愛称で呼んではいるものの、声色は依然として冷たく、返す言葉もまた同様に。
仲直りした筈なんだけどなぁ。
「シエラちゃんから離れてください」
「やだ」
ピリ、と。
漂う魔素が重くなったような、気がした。
溜め息をつき魔術書を手渡す、背中のニャンベルをその場に置き去りにして、小屋の入り口に転移した。
振り返り、口を開く。
「仲良くできないなら、もう知らない」
吐き捨て、立て付けの悪い木の扉を閉めた。
魔力が抜け落ち、疲労感が全身を廻っていたのもあって、冷たい言い方になってしまった。
助けてくれたのに。
けれどもう、今は、何も考えたくなかった。
小屋の中には土下座するように身体を丸めて眠る竜の少女と、横になり静かな寝息を立てているニアリィ。
二人から離れた壁際に腰を下ろし、脚を抱えてうずくまった。
もう何も考えずに。
眠りたい。




