十二話 異変の匂いは煙に乗って
しばらく湖畔を歩くと、獣道より少しはマシ程度の切り開かれた道が見えてきた。
人の手が入っていることを示すそれに安堵していると、トトの足がピタリと止まった。
首を傾げつつ見上げると、道が続く森の奥、その空に黒い煙が幾筋か立ち昇るのが見える。
「間に合わない……そういうことか」
トトが何事か呟き、荷物を置いて走り出した。
身軽になったテテもそれを追いかけていく。
「ちょっ」
「シエラさんは来ないで!」
うわ、足速いな二人とも。
理由を聞く間もなく、二人の後ろ姿は森の中へ消えていった。
「ええ……?」
もう口癖になりそうだなこれ。
しかしどうしたものかな。
言われた通り荷物番をして待つか……それとも追いかけるかの二択。
あの黒い煙は、これから行こうとしていた村からのもので間違いないだろう。
村は今、間に合わない……つまりは手遅れ、若しくはそうなりつつある状態で、俺には近づいて欲しくないという。
それは単純に危ないからなのか、他にも理由があるのかは分からない。
考えながら、自然と紙箱に手が伸びていた。
「んー……、ん?」
とりあえず荷物(すんごい重い)を木の陰までズルズルと引き摺っていると。
木々の間から濃い灰色の……ああ、陽の下だと薄っすらと青も混じっている、狼を二回り以上も大きくした体躯の、魔獣がのっそりと現れた。
「ひ……っ」
思わず叫びそうになった。
声を上げなかったのは、驚きすぎて逆に息が詰まったからだ。
一歩ずつ地面を踏みしめながら近づいてくる魔獣は、あの夜に見た姿よりさらに大きく見える。
え、俺こんなのと一緒に寝てたの?
馬鹿なの?
目を逸らせず四肢も動かせない俺に、魔獣は悠然と歩み寄る。
だらだらと……ああこの身体、汗流れるんですね。
いやあ高機能だなぁこれは冷や汗かな、それとも脂汗かな?
現実逃避を始めた俺の胸中を知ってか知らずか、魔獣は鼻先を近づけ……すんすんと匂いを嗅ぎ始めた。
品定め……いや、違うか。
「……あぁ」
そもそも。
こいつが魔獣と呼ばれる生き物なら、俺を喰う必要はないのだと……あの夜に結論付けたではないか。
いやでも、うん。
怖いものは怖い!
鼻先を俺の身体に押し付けるように嗅ぎまくった魔獣は、満足したのか木陰の荷物の脇に寝そべった。
え、何しに来たのお前。
……匂い嗅ぎに来たの?
そういえばテテも何か言ってたな……懐かしい匂いとか。
あれ、もしかして。
「……荷物番、任せていい?」
番犬ならぬ番狼。
俺がいるよりよっぽど役に立ちそうだ。
魔獣は俺の言葉に鼻をふん、と鳴らすと、そのまま目蓋を閉じた。
大丈夫そうだ。
むしろ早く行けと言われた気がする。
「そのうち礼をしないとな」
またも助けられてしまった。
ひらひらと手を振りながら、二人が駆けて行った方へ向かう。
黒い煙はその密度を明らかに濃くしていた。
おいおい山火事とか洒落になんねーぞ。
気持ち足早に、だけど向かう先の注意は怠らないように。
二人の言葉を俺は多分、どこか軽視していたんだと思う。
まだ森の中から抜けていないにも関わらず、異変はもう起きていた。
村から逃げ出して来たのだろう、人……のようなものがところどころ燃えたまま、一部は消し炭になって、道端に点々と転がっていた。
嫌悪感は既に振り切れていて、鼻につく何かが焦げた酷い臭いも耐え難いけど、不思議と吐き気は催さない。
この身体の機能の問題か耐性があるのかは分からないけど、今はありがたかった。
時折ビクビクと痙攣しているそれらは、素人目に見ても手遅れだった。
「おいおい、なんだよこれ……」
この中に二人が混じっている光景を想像してしまいそうになり、頭を振る。
まだ付き合いは短いけど、それはちょっと、耐えられそうにない。
呼吸を止めて走る。
向かう先から木々の葉を細かく揺らす爆発音が響いた。
迷う心配はどうやら無さそうだ。
走り出してすぐに、長いボロボロの布切れを引き摺る、まだ息のある初老の男と遭った。
「おい、何があっ……」
駆け寄りながら掛けた言葉を飲み込む。
人……なのだろうか。
なんというか、シルエットが歪すぎてそれと断じるのに抵抗がある。
不意に見てしまった魔力が氾濫する様は、まさに決壊した堤防のそれ。
「お゛……おお゛ぉぉ……っ」
身体の各所が酷く肥大化していてバランスの悪いその初老の男は、俺を見てあろうことか手を組み、ひざまずいた。
涙すら流して。
「なん……っ、いや待って。話を聞いてくれ」
滂沱とはこのことを言うのだろう。
祈るように手を組んだ男は、そして小刻みに震え、地面に血の染みを作った。
「お゛おぉ……っ、かみ、さま……あ゛ぁ……」
その一言を言い切り、男は動かなくなった。
……助けが来て喜んでいたのでは、なかったのか。
俺の姿が、村を救いに来た何者かに見えたのではなかったのか。
この男は、そんなものを求めていなかった。
「……何なんだよ、くそ」
あの涙は、あの最期の声は、恐ろしく満ち足りたもので、そのひざまずき祈る姿は、正しく敬虔な神の僕のそれだった。
……意味が分からない。
理解を超えた出来事の数々に、何もかもが追いつかない。
動かなくなった男の背中を衝動的に蹴り飛ばそうとして、止めた。
息を深く吸う。
ゆっくりと吐く。
「……勘違いさせて、悪かったな」
吐き捨てて前を向いた。
あの二人は無事だろうか。
俺が一人急いだところで、何ができるとも思えないけど。
朝まで握っていた手の温もりはもう消えてしまっている。
今の俺よりは少しだけ大きい、だけど泣き虫な二人の手をできるならば、もう一度握りたいと思った。




