十話 木々を食むもの
ぬるくなってしまったであろう飲み物に口をつけようと手に取った瞬間、不思議な奇声を上げた包帯女にカップを奪われた。
なんで……?
「あはっあははー……。おおおかわり、持ってくるのでえー!」
「あ、ありがとう」
ススス、と部屋の隅にある台所へ逃げるように向かう包帯女と入れ替わるように、奥の布団で突っ伏していた少年が起き上がってきた。
頬が少し腫れている。
「えぇと……大丈夫?」
「はい。その、なんと言うか……すみませんでした」
少年はちらりと姉の方を見つつ、頭を下げた。
いや、そこまでのことはしていないと思うけど。
「お身体の方は、何ともありませんか?」
「……? いや、俺は別に何とも」
「そう、ですか。すみません……あれ、毒だったんですけど」
「えっ」
戻ってきた包帯女はこちらを見ずにしずしずと俺の目の前におかわりを置いた。
中身がさっきまでのものとは違う。
……毒を盛られていたらしい。
「そんなに危険なものでも、強力なものでもありませんが……」
「息ができなくなるくらいだよ」
「いやそれ死ぬだろ」
包帯女の横やりに思わず突っ込んでしまった。
そうかー、あのピリピリしたのは毒かー……。
しかしその対応でおぼろげながら、彼らの境遇みたいなものが見えてきた。
新しく注がれた飲み物はほんのりと甘く、優しい味がした。
「俺はその、ど田舎……。いや、辺境から出てきたばかりでさ。
木々をはむはむ? とかそこら辺の事情に疎いんだよね。その辺、教えてくれると助かるんだけど」
改めて口を開いた俺に二人は居直して、分かりました、と頷いた。
納得した様子ではなかったけれど、何かしら察してくれたのだろう。
そして二人は語り始めた。
この世界の一端と。
彼らの一族に起きた悲劇を。
少年……弟の名はトズルドート。包帯女……姉の名はティグリデーテという。
俺も改めて二人に名前を告げた。
シエラ・ルァク・トゥアノ。今度はちゃんと言えた。そして言いづらいからシエラでいいと。
長いから二人のことも、トトとテテと呼ぶことにした。
そう言うと二人は、涙を滲ませながら破顔して承諾してくれた。
「僕たち『木々を食むもの』は……、『神域の守り手』と呼ばれていました」
呼ばれていた。
確か、さっきもそう言っていた。過去形で。
「僕たちはこの世界を支える『神の樹』の膝元……『神域の庭』で暮らし、生きてきました。
そしてその身は死をもって供物となり、捧げられ、神の樹の一部となります」
その語り口は誇らしげだけど、同時に悲壮感を漂わせている。
多分それはその慣習にではなく、もうそれをすることができないのだという事実に。
「……『災厄』については、ご存知ですか?」
おかわりを飲み下しながら首を横に振る。
姉のテテは一瞬おや、という顔をしたけど、口には出さなかった。
意外と空気の読める子だった。
「……もう何年も前の話です。『神域の庭』に、彼ら……魔族が侵攻してきました」
魔族。
魔獣とはまた違うのだろうか。
知らない言葉がポンポン出てきて既に付いていけそうにない。
「彼らの目的は恐らく、『神の樹』でした。恐らく、というのは……何もかもがあまりにも唐突で、僕たちは隠れることしかできなかったからです。
……気がついたときにはもう、全てが終わっていました」
鎮痛な面持ちの二人に掛けられる言葉はなかった。
同情も慰めも、何も知らない俺がすべきことではない。
「戦える者はごく僅かでした。彼らがどうなったのかは分かりません。
『神の樹』が今どうなっているかも、分かりません。そして僕たちを逃がしてくれたのは、たまたま訪れていた旅の魔女でした」
「黒い髪の、綺麗な人だった」
……心当たりがある気がするけど、とりあえずスルーしておこう。
早とちりは良くない。うん。
「魔族の侵攻は世界中、あらゆる国に及んだと聞きます。
それだけの数の魔族が何処に潜んでいたのかは、未だに分かっていません」
魔獣よりよっぽど厄介な存在なようだけど、あの女は何も言及していなかったな。
それにしても物騒な話だなと頷いていると、少年……トトは話を続けた。
「方々の街や都市に逃げ込んだ僕たちは、人々に助力を求めました。
『神の樹』になにかあれば、世界そのものの危機だからです。……だけど」
二人の手に力が篭る。
それは悔しさか、それとも憎しみか。
或いはもっと別の。
「彼らは……魔族の力は強大で、それこそ人々全てが団結してようやく敵うほどの力を持っていました。
しかしそれは、団結さえすればどうにかなるということでもありました。
でも、そうはならなかった。
人々は国家間での争いで疲弊していましたし、何より……彼ら魔族が、『木々を食むもの』を差し出せば他の人間には一切手を出さない、と盟約を掲げたからです」
なるほど、巧妙なやり口だ。
そしてそれは徹底すればするほど効き目は大きいだろう。
「関与したものをすら刈り取る徹底的な彼らのやり口は実際、効果的でした」
「わたいたち一族の『名』が禁忌になるのにも、時間はかからなかった。少しでも関われば、殺されるから」
「ついには僕たち一族が『災いを呼ぶ者』として、忌避され追い出されるようになりました」
この話……彼ら一族の話は、この世界の誰もが知っている一般常識なのだろう。
だからこそ、あの反応か。
別の国に来た程度の気持ちでいたけど……異なる世界、か。
気がつかないうちに誰かの逆鱗に触れ、痛い目に遭うなんてことは想像に難くない。
しかしそれでも、名前へのあの反応は少し……。
ああ、あの大柄な男は何て言っていたっけ。
「それでもそんな僕たちを、匿う人たちがいました」
そして少年……トトは、腕に巻かれている包帯を解いた。
姉のテテがぎょっと目を見開いたけど、それを止めはしなかった。
少年の腕には薄く青い、もう見慣れた色の結晶が、鱗のように生えていた。
「……やはり、驚かれないのですね」
それはどちらの意味だったのだろう。
知らなかったが故にか、それとも逆に、か。
「僕たち『木々を食むもの』は、一生を掛けてこの身体に魔力の結晶を造り、育てて」
「それを供物とする、か」
こくんと頷いたトトは、そこでようやくカップに口を付けた。
窓もない小さな家に静寂が訪れる。
陽が傾き始めたのか、木の壁の隙間から差し込む光がテテのくすんだ赤茶色の髪を照らしている。
不意に目に力が入り、視界が……見える世界が変わった。
「……あぁ」
目に飛び込んできたのは彼らの腕と脚に、いや、これは……。
全身の骨に絡みつくように生えている、薄く青い魔力の結晶──。
「……魔素は自然界において、目に見えることはありません。
魔術の素養がある者は、濃い薄いがなんとなくの感覚で分かるようですが」
呼吸で体内に取り入れて魔力を作りますからね、と続けるトト。
「そして魔力は……魔素が生物の体内で変換された、つまりはエネルギーです。
気体でも液体でも固体でもないそれが、物質化することはありません。作り出すことも不可能です。……例外を除いては」
「……その例外が、君たちか」
一息吐いたトトがその鱗のように結晶の生えた、僅かに震える腕を抱いた。
「魔術師にとって感じ取り意識はできるけれど、触れることはできないそれが物質化される。
それは、喉から手が出る程に求めて止まないもののようでした」
石。
……似たようなものを、見た気がするのだけど。
壁一面の床一面の、そして頭上を覆う。
「『災いを呼ぶ者』であると同時に魔力の結晶を……彼らが『魔石』と呼ぶ結晶を生み出せる僕たち一族は、魔術師と呼ばれる者たちに匿われ、そして……」
「魔石を作り出す……ただそれだけの為に、生かされていた」
家畜のように、と呟いたテテの声色はあまりに自虐的で、消え入りそうだった。
……何が、疎いから教えてくれると助かる、だ。
気軽に聞いていいことではなかった。
薄い胸の中に痛みが走ったような気がした。
頭を下げようとした俺に、だけど二人は明るく言った。
「だから、ありがとうございます」
差し込んだ光が、酷く眩しい。
「僕たちはもう、諦めて……互いの名前すら、呼ばなくなっていたんです」
「だから……ありがとうございます。名前を聞いてくれて」
そんなに感謝されることではなかった。
ただの無知からの、しかも仮初めの信用を得る為の名乗り、その延長だったのだから。
だからこそ、謝るのは違うと思った。
立ち上がり、涙を滲ませる二人のくすんだ赤茶色の髪を撫でる。
ほんとにこいつら泣き虫だな。
「でもやっぱり、お前らの名前長いから、テテとトトな」
ぽたぽたと床に染みを作る二人を見下ろし、思う。
本当にこの世界に、神さまとやらはいるのだろうかと。




