十八話 無慈悲なまでに
あの方はきっと、私に何も求めてなどいなかった。
私が求めたものは何でもくれたけれど、あの方は私に何も求めてはこなかった。
ただ一言。
「その姿を見られただけで満足しているよ」
あの方はそう言って、しかし笑ってはくれなかった。
私はただ、一度だけ。
あの方の笑顔を、一度だけでいいから、見たかった。
明くる日。
湾沿いの商会が立ち並ぶ一角に、マクロレン商会が所有するだだっ広い資材置き場がある。
三方を壁に囲まれたここは今はがらんどうで、運動するにはもってこいの場所だ。
朝も早くからソラが、軽く身体を動かしたい、と言うので受付のお姉さんに教えてもらった穴場すぺーす。
汚れると困るしケープを畳んで、入り口に置いてある端材で組んだのだろう木の椅子に置くと……猫様が鎮座された。
……なんでついてきたんだろう、今日も毛並みがよろしいですね。
お目付け役かな?
「……さて」
ソラは既に奥の方で真っ黒なローブを翻らせ、髪を後ろでぱぱっと結んだ。
その大きめのハンカチーフには、俺の魔力が未だに染み込んだままだ。
「ふふ……いつでもいいですよ、シエラちゃん」
ソラの表情と声色は、単純に今から行う遊びを楽しむもの。
その声に答えず、俺は左手で『吸血鬼』を握り、魔力を流し込んだ。
どす黒く揺らめく刀身は、朝の柔らかい陽を浴びて尚、不吉な色。
目を切り替え、四肢に全力で魔力を廻らせる。
やはり連動するように獣の耳と尻尾が生えた……結局、独立させて扱うことは諦めた。
「いくぞ」
軽く『吸血鬼』を振るい、足を踏み出す。
ソラは構えもせず、ただ自然体で立ち、その顔にふんわりと笑みを浮かべている。
軽く身体を動かしたいというソラの要望と、身体の動かし方を教わりたいという俺の要望が合致した結果。
この手合わせは、ソラにとっては遊び感覚だけど……俺は、本気で挑みますよ。
十メートル弱の距離を数歩でソラの元へ到達し、『吸血鬼』を真っ直ぐ突き出す。
ひょい、と無駄のない動きで横に避けたソラ、即座にその真上に転移して、身体を捻りつつソラの後頭部目掛けて『吸血鬼』を振り下ろす。
こちらを見もせずに(耳がぴく、と動いた)軽いステップで避けたソラは、身体を反転させながら俺の腰を、ぺちっと叩いた。
身体のバランスを崩し手をつきながら着地、振り向きながら切り上げるとそこにはソラの姿はなく、回りこんでいたソラの指が、俺の頬をぷにっと突いた。
「……まじか」
今のやり取りだけで、早くも絶望感しか湧いてこない。
まったく本気ではないソラに、多分俺はもう、二回殺されている。
「んふふ」
含み笑いを残しつつ、ソラは軽やかに距離を取った。
……まだ諦めるのは早い。
右手の中指、その付け根をそっとなぞる。
俺はもう、この破壊力を突き詰めた魔術は、使いたくない。
無造作に立ち上がり、もう一度真っ直ぐ距離を詰める。
さっきより一歩遠い間合いから、『吸血鬼』を突き出し、魔力を注ぎこむ。
無防備なソラの腹を目掛けて揺らめく刀身が伸び、しかし半身になったソラのローブにすら掠らない。
ソラの避ける動作、それはもう攻撃する為の一歩。
くるりと身体を滑らせるように俺に肉薄した、伸ばされるソラの手、左手を引き戻しながら転移の魔術を発動させる、ソラの真後ろに現出。
真横に切り払った『吸血鬼』の刀身は空を切った。
その場に屈みこんで避けたソラは、そのまま俺の足を払い、一瞬だけ宙に浮いた俺の身体を抱きとめた。
またお姫様抱っこ……。
「んふー、楽しいですね、シエラちゃん」
「……そうですね」
これは勝ち負け以前の問題ですね?
視界の端で見守っていた(かどうかは分からないけど)猫様がくあぁ、と盛大なあくびを披露した。
「ソラさん、どうすれば一撃当てられますかね」
「んぇ? 無理じゃないですか?」
「……」
容赦がない……。
ずっとソラにおんぶに抱っこというわけにはいかないと、一応男の子な俺としては、思っているわけなのですけども。
「相性の問題ですよ」
「相性、ねぇ……」
「私には『竜』は倒せませんから」
俺の頬に唇を押し付けてから地面に降ろしたソラは、後ろを見ずに器用に片足でぴょんぴょんと距離を取っていく。
そして、おいで、と言わんばかりに両手を広げた。
「ふうぅ……」
四肢に魔力を込め、常人より速く動けている筈なのに触れることもできないのは、恐らく初動が読まれているのと、動きが連動していないから。
ソラの動きは綺麗だ。見惚れるほどに。
『吸血鬼』の刀身を消し、柄だけになったそれをしまう。
目標を変えよう……まずは素手でソラの身体に触れる。
「……よし」
あまりにも低い目標に少しだけ悲しくもなるけれど、仕方ない。
それほどまでに、俺とソラの実力はかけ離れている。
笑みを絶やさないソラに向け、再び足を踏み出した。
「よォ、何処行ってたんだ?」
マクロレン商会リフォレ支部。
戻ってきた俺とソラを、ルデラフィアがロビーで待ち構えていた。
「ちょっと、運動を」
手を握るソラは汗一つかいていない。
結局あれから三十分かけても、俺の手は一度もソラに触れることができなかった。
泣きそう……。
「へェ。今度暇なら、あたしともヤるか?」
「……遠慮しときます」
消し炭にされそうなので。
なんだよつれねぇな、と俺の頬をぷにぷにしながら、思い出したようにルデラフィアは言葉を続けた。
「これ、お前が持っとけ」
アーティファクト『閲覧者』……この世界に現存する魔術書を全て閲覧できる魔術書。
今は、どのページも真っ白になっている。
手に馴染む、この感覚はやっぱり、あの女の。
「あたしが持ってても意味ねェしな」
「……分かりました」
俺も現状、使い道ないんだけど。
……いや、そうか。
さっきまでのソラとの戦い(遊び)を思い出す……何か補助的な魔術があれば、もしかしたら触れることくらいならできるかもしれない。
「そうだ、フィア。私に何か魔術を……」
「お姉さまぁっ!」
と。
ロビーの扉がけたたましく開かれ……栗色の柔らかな髪をなびかせて、コリン・クリシュが飛び込んできた。
勢いそのままに、振り向いた俺に飛び込んでくる。
四肢に魔力を流し、抱きとめた。
「おはよう、コリン」
「んはっ……おはようございます、お姉さまっ」
朝から元気な子だな。
床にそっと降ろすと、コリンは身だしなみを整えてから改めて挨拶をした。
「ソラちゃん、ルデラフィア様。おはようございます」
「あァ」
「はい」
この子も顔が広いな。
俺が眠っている間に交流を深めていたのだろうか。
コリンは俺に向き直り、背筋をしゃんと伸ばしてから口を開いた。
「お姉さま。おじい様がお呼びです。可能であれば、すぐに来てほしいと」
「……分かった。すぐに行く」
なんだろう、分からないけど良い予感はしない。
ルデラフィアの方をちらりと見る。
「あたしはここの酒を飲み尽くすっつー仕事がある」
「はは……」
「冗談だよ。明日には発てるようにしとくからな」
冗談に聞こえなかったんですけど。
それまでに戻ってこいよ、と手をひらひらと振り、ルデラフィアはロビーの奥へ我が物顔で歩いていった。
「ちょっと待ってね」
『閲覧者』を両手で持ち、お腹に意識と魔力を集中する。
ああ、やっぱりあの女……ヒイラギはすごいな。
青白い炎は上がらず、ぽんっ、と小気味良い軽い音を立てて、アーティファクト『閲覧者』は消失し、『竜の心臓』に取り込まれた。
はわわ、と目を輝かせるコリンの頭の上に手を置き、微笑む。
「じゃあ、行こうか」
さて、面倒な用件じゃなければいいけど。




