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必然の恋(前世チェンマイ王朝に始まる恋の所以を探る)

作者: 中谷秀松

本小説は恋の必然をテーマに書きました。

私たちが遭遇する出来事は、すべて「偶然」のものでしょうか?振り返ってみれば、私たちの人生には、とても偶然の産物とは思えないような出来事や出会いが散りばめられているように感じるのです。

この小説を読み終えたのちに、必然の恋を感じて頂ければ幸いです。前世のチェンマイ王朝の話は、すべて創作によるもので、歴史的事実に全く無関係です。

**竜太と阿蓮〈あれん〉の最初の出会いと別れ**

昭和20年神戸も空襲に遭い、大部分の家は焼け、ほんの一部の地域の家だけが空襲を逃れた。

高台にあった竜太の家の2軒下からすべて焼け野原であった。

竜太は終戦2年後の昭和22年に生まれたので、物心着いた時には、遊び場所といえば、焼け跡や防空壕の跡だった。戦争自体を知らない竜太は、その環境が当たり前のように存在しており格好の遊び場所だった。焼け跡の庭にはイチジクの木が残っており、よくそれを食べていた。そういう竜太も今年10歳で小学校4年生になっていた。

竜太の家は、祖父の家から独立した隣家の70坪程の平屋の一軒家で8畳、6畳二間、4畳半の和室と3畳ほどの板の間の台所兼食堂と玄関とトイレと五右衛門風呂があった。玄関を上がったところは3畳の畳があり、1畳分をカーテンで区切って兄が勉強部屋のように使っていた。竜太の居場所は、玄関南横の八畳の座敷の廻り廊下の片隅にあった。廊下の端の壁の前に本箱がありそれを背にして良太は平机に向かっていた。当時、子供に勉強机があるのはマシなほうだった。竜太の兄も専用の机を持っていた。戦前貿易会社を営んでいた祖父がアメリカから取り寄せたもので洒落た作りで竜太は兄の机を憧れていた。それでも竜太の居場所は廊下の窓ガラス越しに庭の木々を眺められる特等席のようなものだった。東側の庭には大きなビワの木、廻り廊下を右に回った南側の庭には橙の木があり、毎年多くの実を実らせていた。せっかくの果物なのに家族の中でビワを食べるのは主に竜太だけだが、時折、家の前をいつも通学で通っている中学生が、竜太の母にビワを取らせてと頼んでくる。竜太は自分の取り分が減るため不服であったが母は気前よく許していた。母は誰にでも親切で、ルンペンに物乞いされると市場で買ったお造りを入れる容器にご飯と簡単なおかずを添えて渡すほどだった。ある時中学生がビワの木に登っていると蛇に遭遇したらしく大きな叫び声を出しながら転げ落ちるように降りてきて帰っていった。竜太はその慌てふためいた姿を見て大いにわらった。その後この中学生は二度と来なくなった。橙は毎年50個近く実るのだが、あまりの酸っぱさに食べるのは竜太と姉の美和子だけであった。竜太と美和子はそのままではやはり酸っぱくて食べられないので一つずつ皮をむいてお皿に入れそこに砂糖をまぶして、しばらくして砂糖の味がしみ込むようになってから食べたので酸っぱさも気にならずおいしく食べられた。ほかの家族はいちいち皮を剥くのがめんどうなためか誰も食べようとしなかった。姉は竜太に

「楽しておいしいものは食べられないのよ」

と言うとニコリと笑った。

この戦後間もない貧しい時代に竜太はイチジク、ビワ、橙の果物に恵まれていた。


庭を見渡せるこの半畳程の空間が竜太にとっては誰にも邪魔されない自分の陣地であった。ここで本や漫画を読みながらその世界に入り込んで主人公になったり、いろんな想像の世界を巡らしていた。

ある日、竜太が机に向かって宿題をしていると庭の木戸口から隣家の”あれん”が小走りにやってくるのが竜太の目に入ってきた。”あれん”は5歳であった。

(来たか)

竜太にとっては嬉しいような面倒なような複雑な気持ちだった。

「竜兄ちゃん。遊ぼうよ」

「もう少しで宿題終わるから、もうちょっとだけ待って」

「もう少して、後どのくらい」

「十五分くらい」

「じゃあ、ままごとの用意しとくね」

“あれん”は家に戻り、いつもの様に縁の下からゴザを取り出し庭に広げた。たたみ2畳の広さだ。また廊下の縁の下からままごと遊びの食器などを入れた洗面器とミカン箱を取り出し、家の台所の様に食器を並べた。いつものことで慣れているせいか、見事なほど手際がよかった。ミカン箱は食卓として使う。小さなバケツに水を入れてほぼ準備万端だ。

「あれん。コーヒー作っといて」

竜太は”あれん”が退屈しないように宿題をしながらままごとにも参加していた。

「ミルク入れる?」

「入れといて」

“あれん”はコーヒーカップに水を入れ、庭の片隅から取ってきた泥土をカップに入れてスプーンで混ぜた。別の入れ物にいれておいた雑草のスイスイの小さな花を小さく刻んでコーヒーカップの上に散らした。これでミルク入りコーヒーの出来上がりだ。

“あれん”は竜太の奥さん気取りだ。

二人の家は隣どうしで、竜太の家は、父の姉家族と竜太の家族の二世帯が同居している。竜太は4人兄弟の末っ子で兄と姉がいたが、兄は7歳上なので、年が離れ過ぎて兄弟で遊ぶことが殆どなかった。一方“あれん”の家族は両親とボクちゃんと呼ばれている3歳の弟の4人家族でホテルのオーナーをしている内川さんの家に同居している。内川の家族は夫婦と娘の“あき”と姪の“みどり”の4人家族である。内川の家も竜太の家と同じ造りで、ただ、風呂だけは廊下の端に後から増築していた。空襲で焼け出され家が無い家庭が多かったので、このように一軒屋に二~三世帯が同居しているのが普通の時代だった。

竜太と”あれん”は、門から出入りしなくても、家の境界にある塀に小さな木戸があり、そこから自由に出入りできた。


竜太はいつも内川の家に入り込んで、そこの子供たちと兄弟姉妹の様に戯れて遊んでいた。

“あれん”はおかっぱ頭で、いつもニコニコして無邪気で明るく誰からも可愛がられていた。竜太は末っ子だったので、“あれん”を妹のように可愛がった。“あれん”も竜兄ちゃんと本当の兄のようになついていた。しかし、さすがに竜太も高学年になると、学校友達と遊ぶ時間が増え、家から外に遊ぶときは“あれん”に見つからない様にコソーっと出かけることが多くなってきた。竜太と遊ぶ時間が少なくなってきた“あれん”は、この頃は竜太を見つけると、逃がさない様にしっかり見張るようになっていた。

二人をいつも見ている竜太の母は、”あれん”を遊びに出かける夫を監視している妻のように見えるのが微笑ましくていつもニコニコしながら見ていた。


ある日、いつものように隣から聞こえる“あれん”の声が聞こえなかったので、竜太は不思議に思って母に尋ねた。

「“あれん”ちゃんとこ、今日はお出かけみたいやな」

「そうやないんや。さっき内川さんの奥さんに聞いたら、昨日の晩引越したんやて。内川さんも詳しいわけは聞いてないんや。借金取りに追い立てられている様子もなかったし、何でやろうと不思議がってたわ」

「そんな。“あれん”ちゃんかわいそうに。犬のローズもいないの?」

「ローズも一緒に連れて行ったらしいよ」

竜太はボー然と立ち尽くした。最近あまり遊んでやれなかったことを後悔した。思いもしなかった急な別れは、妹がいなくなった様なショックだった。あれんの存在が自分の中でこんなに大きかったことに今更ながら気付いたが竜太はふとある出来事を思い出した。

“あれん”がバレーを習っていると聞いて、踊って見せてと竜太がせがんでも、いつも恥ずかしがって踊ってくれなかった。ところが引越しの前日、珍しく“あれん”の方から恥ずかしそうに頼んできた。 

「竜兄ちゃんバレー見てくれる」

「今日はどうしたんや。いつも嫌がっていたのに」

「別に」

“あれん”は急に下を向いて悲しそうな表情をした。竜太は、こんなさみしそうな“あれん”を見たのは初めてだった。

「よっしゃ。いいよ。プリプリマドンナ“あれん”のバレーみせて」

竜太は空気を変えようとわざとふざけて言った。

「プリプリマドンナはひどいよ。プリマドンナです」

「そうか。しらなかった。ごめんごめん。プリがたくさんつく方がいいのかと思ったよ」

“あれん”は、それを聞いて納得したのかやっと機嫌をなおしてくれた。

丁度母が買い物に出かけていたので、”あれん”が恥ずかしがらないように座敷の障子を閉めきって二人だけの空間の中で踊ってくれた。”あれん”は最初少し恥ずかしそうに下を向いていたが、急にキリッとした目で上を向くと、踊りだした。バレーというより、幼稚園の学芸会の踊りの様であったが、それでもそれなりにしとやかに女らしく舞う姿に、竜太はドキッとして見入ってしまった。竜太が初めて異性を感じた瞬間であった。竜太は熱くこみ上げる不思議な気持ちに戸惑った。

明日の別れを“あれん”が知っていて、最後にと思って見せてくれたのだろうかと思うと、なぜか涙が出てきた。

その後、竜太は寂しさを紛らわすために、その頃から始めた野球に以前より増して、打ち込む様になった。それでも、昼間廊下の机に座っていると、塀の木戸から「竜兄ちゃん」と呼びながら、あれん”がやって来るような錯覚に何度も陥った。それでも数年もするとその残像も次第に薄れていった。


**神戸駅での出来事**

“あれん”一家が家を出てから10年経っていた。竜太は大学の2年生になっていた。“あれん”のこともすっかり忘れていた昭和42年7月のある日の出来事であった。

竜太は当時神戸を代表する新開地の劇場“聚楽館”でソビエトの〈戦争と平和〉の映画を見に行った。

その時代は、一部の若い人にとってロシアは一種のあこがれのような存在だった。竜太はロシアについて知っていることと言えばロシア民謡から想像する世界だけであった。それにロシア文学を代表する”戦争と平和”のビッグネームと、当時の世界の二大強国のソ連が国家の威信をかけて制作した映画にロシアをもっと深く知ろうとしたことがこの映画を見に行く動機であった。

慣れ親しんでいる娯楽性豊かなアメリカ映画に比べると、ソ連の映画は何か文学的なというか楽しむと言うより考えさせられる内容で、戦争場面ではふんだんにお金をかけて作った映画だなというのが正直な感想であった。

映画を鑑賞したこの聚楽館は神戸の人にとっては特別な存在だった。竜太は聚楽館の名前はよくしっていたが実際に行くのは初めてであった。

神戸では、誰かに

「今日はどこ行くの?」

と聞かれると、

「エエトコ、エエトコ聚楽館」

と行先をあえて言いたくない時に、歌う様に答える一種の挨拶言葉のようなものだった。何の答えにもなっていないのに、それで皆が納得するから考えてみると不思議な言葉だった。どちらかと言えば、子供たちの方がよく使っていた。大人が使うのは余程親しいもの同志でしか使わない言葉だった。

映画を見終ったあと

(家に帰るにはまだ時間があるし、大丸でも行って時間をつぶそう)

竜太にとっては時間つぶしというより何となく映画の深く沈んだ残像から抜け出すための気分転換のような目的だったかもしれない。普通、好きな映画の後なら主人公の気持ちになりきって、その感情のまま家に帰ることが多かったことからみても、この映画は竜太にとっていつも見る娯楽的な映画とは真逆なまじめで重く心に入り込んでくる映画であった。

竜太は、聚楽館のある新開地から市電に乗って大丸百貨店へ向かった。その頃、何もする事が無ければ、デパートに行くことが多かった。なんせ、デパートは冷暖房完備で、見るだけならお金もかからず、その時代の流行の先端が見られ、おまけに阪神間の上品でセンスのある美しい女性を見ることができ、目の保養にもなるからだった。

大丸に入った時は、雨は小降り程度だった。竜太は傘を持っていなかったが、夏だし気にならない程度の小雨であった。一時間ほど店内をぶらついた後、そろそろ家に帰ろうと、玄関へ向かうと出入り口が人でごったがえし、なにやらガヤガヤと騒がしい。

「何かあったんですか」

竜太は、近くにいた店員に聞いた。

「急な土砂降りの雨なんです」

店員は店のせいでもないのに申し訳なさそうな表情で答えた。

ショーウインドウの窓越に外を見ると大粒の雨がバシャバシャと窓を打ちつけていた。今まで見たことが無い強烈な強さだった。

(天気予報では何の前触れもなかったのに)

竜太は混雑する人の間をすり抜ける様に前に出て驚いた。道路は歩けるかどうかギリギリの深さまで水があふれていた。周りの人の様子を見ても、誰もこんな大雨を予想してなかったようだ。傘を持っている人も殆どいない。雨はすぐにやみそうになかった。

(この降りだと当分止みそうにないな。濡れるの覚悟で走ってかえろうかな)

竜太は年老いた両親が待っている古びた家が心配だったこともあり、濡れるのを覚悟して、心の中でエイッ・ヤーと気合を入れて、傘もないまま元町駅に向かって走り出した。

ドボッ、ドボッ、ドボッ、ドボッ

水の流れの抵抗が思った以上に大きく、思うように走れなかったが何とか元町駅にたどり着いた。頭から足の先まで全身びしょ濡れだ。靴を脱いで水を吐きだし、ハンカチで体を拭いたが、当然そんなものでは何の慰めにもならなかった。幸い夏だったので、寒さに震えることはなかったし、体温で濡れた体を乾かすことができると思って、そんなには気にはとめなかった。

ここから山手の家まで歩くには遠すぎるし、坂も急で水の流れも激しくなり元町駅から帰るのは無理だとあきらめた。どうしようかと迷っていると見知らぬ一人の老人が声をかけてきた。

「兄さん、山手に帰るのか?」

「そうですが」

「元町の上は流れが急だから危ないよ。神戸まで行ってそこから上がるほうがいいよ」

「そうですか。ありがとう」

竜太も瞬間的にそう判断し改札口に向かった。途中で、どこの老人だろうともう一度確かめようと振り返ったが、もうその姿は見えなかった。念のため辺りをもう一度見渡したがやはり見えなかった。

(ついさっきなのに消えてしまった)

竜太は不思議に思いながらも一駅向こうの神戸駅まで電車で行き、そこから歩いて帰ることにした。

後から考えると、これが竜太の人生の転機となる事件の始まりだった。

神戸駅からなら、山手の家までの坂の傾斜もまだ少しは緩やかなので、水の流れはましだと考えたのだが、それは甘かったようだ。いざ神戸駅で電車を降りて一階構内に降りると、水が浸水しこれ以上増水するとトイレの床にすら浸水しかねない状態だった。雨は段々と勢いを更に増してきている。

「道路のマンホールの蓋が浮いているらしいぞ。」

誰かがラジオのニュースで聞いたことを周辺に話しているのが聞こえた。

(これじゃ走って帰るのは危ないな)

竜太はしばらく雨の勢いが止むまで神戸駅でじっとしておこうと覚悟を決めた。しかし時間が経つにつれ、心配している母の顔が浮かび、早く安心させようと公衆電話を探した。公衆電話の場所は直ぐに見つかったが、既に電話の前には長蛇の列が出来ていた。

(まずいなあ。どこか空いている公衆電話ないかな)

1階構内をしばらく捜し歩いたがどこも同じであった。何とか早く連絡しなければとあせった。その時、駅長室の前に立って居ることにフト気づいた。

(そうや。ここや)

竜太は駅長室に飛び込んだ。

「すみません。年老いた母が心配して待ってるんです。早く連絡したいのでお電話お借りできませんか。なんせ公衆電話がどこもいっぱいなもんで」

いかにも人の良さそうな駅長が出てきて、切羽詰まった竜太の顔を見るとニコニコしながら

「いいですよ。どうぞ使って下さい」

(本当、いいの。ヤッター。あかんと思ってたのに)

竜太は良い意味で肩すかしを食らった感じであった。

「ありがとうございます。本当に助かります」

竜太は何度もお辞儀をして家に電話した。

「もしもし。母さん。僕や、竜太や。今神戸駅に居るんや。雨がすごくて直ぐに帰れんけどそっちは大丈夫か」

「天井のあちこちから雨漏りがして往生してるの。早く帰ってきて。しかし、流されたらあかんから、流されんぐらいになったら帰ってきて。それまで父ちゃんとがんばるし。無理したらあかんで」

それを聞いた竜太は、今日一日遊びまくって親不孝していたことを悔いた。

竜太は、電話をかけ終わってから、思い切って頼んで良かったとホットしながら、駅長に再度お礼を言って駅長室から出てホールに向かって歩いた。

(それにしても俺は機転がきくな)

竜太は、咄嗟に駅長室に飛び込んだ作戦が見事に的中した判断を自画自賛した。すると、少し先から、紺色のベレー帽を被った中学生らしい女の子が、真剣な表情をして歩いてきた。大勢の人が歩いているのに不思議にその子が竜太にクローズアップしたように迫ってきた。

竜太はこの子に何か声をかけねばならない衝動に駆られた。

「電話探しているの?」

これが咄嗟に出た言葉であった。

「ハイ。どこか知りませんか」

こちらを別に警戒することもなく必死の顔で聞いてきた。

訴えるように見つめる彼女の顔を見て、竜太は不思議な感覚に襲われた。

(どこかで会った?)

すぐ正気に戻り答えた。

「知ってるよ。こっちへおいで」

竜太が早足で歩くと、その後を女の子は遅れまいと必死についてきた。すぐに竜太と女の子は駅長室の前に着いた。竜太は、先ほど出て行ったばかりの駅長室に入った。

「すみません。この子も、困っている様なので電話を貸して頂けませんか」

駅長は、その子の真剣な表情を見るや、すぐに対応してくれた。

「こちらからかけなさい」

女の子は一瞬ほっとしたように表情が落ち着き、家に電話をかけていた。

駅長は、廊下に出て構内の様子を見ると、ようやく混乱する現場の状況を察したのか、すぐさま部下に命じた。

「電話でお困りの人に、駅長室の電話を使ってもらうように」

駅長の命を受けた駅員が前を通る人に声をかけ始めた。するとみるみる内に沢山の人が並び始めた。竜太はその女の子と目を合わせ、無言でうなずき合った。

(それにしても、この駅長さんでよかった。普通の公務員的発想の駅長なら、駅長室の混乱を避けるため一般の人を駅長室にいれないのに)

竜太は今日の豪雨は災難だったが、不思議に自分は運が良い方向に運ばれているように感じていた。

竜太は、彼女のほうにフト目をやると何だか懐かしい思いがした。少女の可愛いらしさと言っても色々な可愛らしさがあるのだが、竜太にもこれといったハッキリとした定義はないのだが、以前感じた様なものを感じていた。

彼女は家と連絡が通じ、もう安心したのかベレー帽の奥のホットしたような笑顔を見せていた。

駅長室も電話客であふれる様になり二人は、押し出される様な感じで外に出て、言葉を交わす間もなくそのまま別れた。あとから竜太は名前でも聞いておけば良かったと思ったが

(こんなのが一期一会と言うんだろうな)

しかし、なんとなくあの子を知っているよと別の自分の声が聞える様な不思議な感覚が竜太を覆っていた。


**思わぬ再会**

神戸の水害から更に7年経っていた。

竜太はもう27歳になっていた。日曜日の午後、大丸百貨店近くの本屋でなんとなく本をさがしていると、『メナムの残照』という題名になんとなく興味をそそられた。

(メナムというと東南アジアのタイの川だったな)

竜太は特別タイに興味があったわけではなかったが、なぜメナムという文字に惹かれたのだろうと思いながらも本に手を伸ばすと、偶然横から同時にその本に手が伸びてきたのでお互いに顔を見合わせてびっくりした。

「オー。欧やないか」

「珍しやー。そういうお前は阪本竜太」

二人は高校時代の同級生で剣道部でも一緒だった中国籍の欧だった。

高校卒業以来の再会であった。高校時代は二人とも坊主頭であったが、長髪に代わっていても不思議に違和感を覚えることもなくすぐに相手を認識できた。積る話もあったので、二人はサンチカタウンにある喫茶店に場所を移した。

「竜太、ほんまに久しぶりやな。高校卒業してから年賀状だけの付合いになっていたが。ところで、今、独身か」

「いきなり、そう来るか。そうだよ仕事が忙しすぎて、なかなか出会うチャンスがないんだ。お前はどうなんだ」

「俺は去年結婚したばかりだよ。おまえもそろそろ嫁さんもらわんと。ところで、俺の嫁さんの従妹にいい子がいるんだけど、結婚する気はないか。ちょうど、嫁さんからいい人探してあげてと頼まれていたところなんだ。その子も元々中国人だけど、両親が事故で亡くなってから親しくしていた日本人の家庭の養女になっているんだ。性格も良いし、可愛い子だよ。お前より五歳下だし、丁度いいと思うんだが。今日、竜太に会ったのは、何かの縁だな。何か鴨がネギしょってきたみたいだよ」

「俺は鴨か。まあいいけど。俺は人物本位だから国籍は問わないよ。中国人なら全く違和感ないよ」

神戸では学校でもクラスに一人か二人中国籍や韓国籍の同級生がいたので、特に違和感は覚えなかった。

「そうか、それなら善は急げだ。早速今度の日曜日どうだ」

「たまたまその日は空いているよ。こちらこそ、よろしく頼むよ」

「そしたら、その日の午後二時に俺の家に来てくれるか」

「山本通り三丁目のあの瀟洒な家か」

「うん。そうだよ。昔のままだよ」

欧も竜太も、あまりにもスムースに話が進んだので、お互い笑ってしまった。二人は高校卒業後のお互いの色々な出来事を久しぶりに語りあった。

竜太は、久々に高校時代の親しかった友人と会えた喜びとお見合いの話に少し心をウキウキさせて家路を急いだ。家に帰ると玄関の扉を開ける勢いもいつもより弾んでいた。

「ただいま、今帰ったよ」

「今日は元気がいいね。何かいいことあったの」

「わかる?」

「竜のことは何でもお見通しよ」

「今日ね、大丸近くの本屋さんで、高校時代の欧にあったんだ」

「医学部に進んだ秀才の欧君?元気にしてた?」

「うん。去年結婚したんだって」

「そうかい。竜もそろそろ結婚考えんとあかんなと父さんと言ってたところだったんだよ。竜は誰か好きな子はいないの?」

「僕はなぜか好きな人には思われず、思わぬ人に思われるパターンばかりで相思相愛になったことがないから未だに一人なんだ」

「思わぬ人に思われるてえらい背負ってるね」

「それはそうと、欧からいきなりお見合いを進められてね。早速今度の日曜日に会うことにしたんだよ」

「親に報告もしないでよく決めるね」

「恋愛結婚は最初から親に報告しないだろう。だから良いと思ったんだ」

「屁理屈を言うようになったんだね。お見合い結婚というのは家と家の結婚との面があるからね。母さんはお見合い結婚のほうが良いと思ってるよ。ところでどんな人」

「それがね、欧の奥さんのいとこなんだって。何でも僕より5歳下で、元々中国籍だったんだけど日本人の家の養女になってる子なんだって」

「欧君の奥さんのいとこの方だったら安心だね。5歳下の中国人と聞いて、母さん、隣に住んでた”あれん”ちゃんを思い出したよ」

「そう言えばそうやな。 “あれん”ちゃんは僕の頭の中では、まだ5歳のままやけど、明日会う相手と同じ年なんやな」

竜太はそういうと、妹のように可愛がっていた“あれん”の思い出が次々に甦ってきた。

足の短い洋犬ローズを連れて“あれん”が散歩する姿は、ローズが“あれん”を引っぱっている様で滑稽だったことを思い出して笑ってしまった。


**お見合いでのサプライズ**

竜太は欧の家の応接間で緊張して座っていた。正面のガラスの窓越しに庭のつつじが満開で咲いているのが見える。ピンクと赤の色とりどりでつつじの塊の中に1本、大きな百日紅さるすべりの木がつつじの花を従えているように堂々と立っていた。竜太は庭にしばし見とれて自分がお見合いに来ていることを一瞬忘れたが、程なく我に戻った。

欧の家は元々お医者さんで、欧は親と同居していて親子で手広く医院を経営している。応接間の調度品もいかにも高価なものばかりで、竜太もさすが医者の家はちがうなと感心した。竜太は性格が素直なのか鈍感なのか、こんな場合でもうらやましいとか、悔しいとかの感情はうまれなかった。しばらくしてお見合い相手をつれて欧が入ってきた。竜太は一瞬緊張が走ったが直ぐに立ち上がった。初めてのお見合いでさすがに相手の顔をすぐに見ることができなかった。心ではすぐに見たいと思っているのに、実際の行動が逆なのには自分ながらおかしかった。 

「竜太。今日は両親は用事で居ないから、かしこばらずリラックスしていこう。紹介するよ。妻の従妹の朋子です」

「初めまして朋子と申します。よろしくお願いします」

竜太は、胸の高まりを抑えて、いつになく畏まった。

「竜太、いや阪本竜太と申します。こちらこそよろしく」

二人は、初めて落ち着いてお互いに顔を見合わせた。

竜太は、不思議に朋子になんとなく懐かしい印象を感じた。

一方、朋子は竜太の顔をえらくじっと見つめていた。竜太は長く見つめられとまどった。

「以前中山手に住まわれてなかったですか」

思わぬ質問に竜太は驚いた。

「住んでましたけど」

「私も住んでたんですよ」

「エーッ。そうなんですか。何丁目ですか」

「そこまでは覚えてないんですけど、近くに生田中学がありました」

「私の家もその近くですよ。その時のお名前は」

「その時の名前は蓮です」

ここまで休むことなく流れるように会話が続いた。

「蓮?」

二人に一瞬の間があいた。

「正式には蓮ですが、皆からは“あ蓮”と呼ばれてました」

竜太は目から火が出るほど驚いた。

「ひょっとして“あれん”ちゃん。貴女が“あれん”ちゃん」

朋子も気分は飛び上がりたいほど驚いた。

「竜太さんて、竜兄ちゃんだったのですか」

「そうだよ。ぼくだよ」

「お名前が竜太さんなんで、ひょっとしたらと思っていたんですが、やっぱり」

朋子は、奇遇に身をよじるように喜んで顔中笑顔になった。それを聞いていた欧が一番びっくりした。

目を白黒させるという表現があるが、欧の目が二人を交互に見ている様は、横から見ていると目が白黒に変わる様であった。

「オイオイ。二人は幼馴染だったの。本当かよ。事実は小説より奇なりと言うけれど、こんな奇跡て本当にあるんだ」

「僕も、まさか予想もしてなかったよ。只“あれん”ちゃんと同じ年だから、ひょっとしたら知りあいかなと思っていた位で」

場は一挙に緊張が解けて和やかな雰囲気になった。

朋子は、一気に話しだした。

「両親は福建省出身なんですが、この地方では小さい子供には名前の最初に愛称の〈あ〉をつけて呼ぶ習慣があるのです」

「僕も、今初めて知ったよ。“あれん”が正式な名前だと思っていたよ」

朋子は急に姿勢を正した。一瞬、竜太は朋子からどんな言葉のが出るのか緊張が走った。

「阪本さん。改めて、今の私を見て頂けますか。もし、このままズルズルと惰性で結婚して、後で幻滅されたら申し訳ないので」

竜太は、朋子から早速結婚してくださいとの言葉が出るものと思ったが、肩透かしを食らった。意外に冷静な対応を見せる朋子に、先に大人の対応を見せられたのには1本取られた。

「それなら僕も同じです。あの時は私も子供だったので、今貴女の眼鏡にかなう人間か冷静に見て下さい」

欧は二人のやり取りを聞いてイライラしていた。

「二人共、なんだよ。せっかくいい雰囲気になったと言うのに。相性なんていくら付き合ってもわからんよ。馬には乗ってみよ、人には添うて見よというだろう。恋愛結婚しても、離婚するカップルは山の様にいるんだから。俺は二人共良く知ってるから、心配ないよ。きっと、良い夫婦になるよ。俺が太鼓判押す」

欧は、こう言って二人に直ぐの婚約を勧めた。

「欧の言う通りかもしれないけど、あまりにもショッキングな出会いで、二人共きっと冷静さを失っているから、冷却期間を置くつもりで、3カ月間だけでもお付き合いしたほうがいいと思うんだ」

「私もそう思います。今は、嬉しすぎて興奮して冷静になれそうもありません」

竜太の提案に朋子も躊躇なく賛成した。これには欧も渋々ながら同意せざるを得なかった。欧にしたら、二人の状況は、いま直ぐ婚約できそうな状況だったので残念でたまらなかった。

その日は、3人で想い出話に花が咲いた。朋子は、竜兄ちゃんと呼んでいた頃はまだ小さくて阪本と言う名字まで知らなかったので、阪本竜太と紹介されても、直ぐにはわからなかったのだった。


**竜太と朋子のデート**

見合いの次の日曜日、竜太と朋子は、幼い時に住んで居た中山手の家の近くにある、神戸でも有名な観光スポットの関帝廟で待ち合わせをした。地元の人は南京寺と呼んでいたが、竜太は最近、関帝廟という正式名称を知ると、ひょっとしたらと入口の掲示板の廟の説明を見て、ここが三国志で有名な関羽将軍を祀っていることをあらためて知った。門を入ると紫禁城の屋根と同じ色の黄色の皇帝色の瓦が見えた。左手には八角の四阿あずまやが見えた。二人は四阿に入り、椅子に腰かけて周りの景色を眺めた。竜太はまるで中国にいるような錯覚をおこしそうだった。竜太はここで遊んだ小さい頃の思い出がよみがえってきた。

「小さいときは、誰をお祀りしているか関心なかったけど、僕の好きな三国志の関羽を祀る廟だったんだ。知らなかったなあ」

「私は、中華同文学校に通っていたから関羽将軍を祀っていることは知ってたわ。それよりもここの夏のお盆祭りの時、地獄の情景のリアルな立体的な展示が怖くて、見た後の夜は、怖くて眠れなかったこと思い出すわ」

「僕もそうだよ。嘘をついた人が、舌を抜かれる場面とか、悪いことしたら針山を歩かされたり、釜ゆでの場面とか、リアルな模型を見たら、そんな想像をして地獄に行かないように悪いことは、絶対にしませんと思ったよ」

二人は、境内を巡っていると、次から次にいろんな思い出が湧いてきた。

関帝廟を出ると二人は、すぐ近くの元住んで居た家の方に向かった。車も通れない細い道を進むと途中から緩やかな坂道を上がっていった。小さい頃の建物は、戦前に建てられたものが多く、町全体が暗いイメージだったが、最近建てられた家は、モルタル壁になって、明るい色調に変わっていたので昔の面影は道路しかなかった。

「建物は、新しい家に代わったけど、塀は昔のままね。こんなに低かったかしら」

「それは、10年前と今とでは目の高さが違うからだよ」

「そうだったわね。少しだけガリバーになった気分ね」

「面白い事いうね。しゃがんで見てごらん。昔の感じで見えるだろう」

「そうこの感じ。こうすると昔の塀の高さのままだわ」

朋子は、しゃがみながらしばらく歩いたが、すぐに疲れて又元の姿勢に戻した。

「思い出した。竜兄ちゃん、座敷の床の間の前で面白い遊びしてたでしょう。塀の隙間から、私達3人でこそーっと眺めて笑っていたの」

「エー。何を見ていたの」

「七夕のお飾りを袈裟みたいに肩にかけて、お坊さんになったつもりで、床の間に向かって、何か呪文みたいなお経あげていたでしょう。竜ちゃんて変わってる。大きくなったらお坊さんになるんとちがうと言って皆で笑ってたのよ」

「そんなの見られてたのか。恥ずかしいなあ。」

「前世、お坊さんだったりしてね」

「そう言われれば変わってるのかな。普通子供なら坊さん遊びなんかやらないよな。今の僕が見ても変わった奴だなと思うよ」

そういいながら竜太は、なんでまた坊さんのマネをしていたのか我ながら不思議に思った。。

しばらくすると前に住んで居た家の前に出た。建物は壊され跡形もなく畑に変わっていた。塀はそのまま残っていたが、門の址はブリキ板のようなもので塞がれていた。二人はブリキ板の隙間から中を覗いた。庭に有った松の木、橙の木、ビワの木、笹竹等何もかも抜き取られていた。当時の生活を偲ぶものは何もなかった。

竜太はふと、芭蕉になぞらえた俳句

『夏草やわらべらどもが夢の址』

を咄嗟に思い浮かべたが、朋子には話さなかった。俳句が得意でもないし何か笑われそうな感じがしたからだ。目をつむると近所のガキ友達や、“あれん”と幼い自分が庭を走り回って遊んでいる姿が浮かんでくるようで目頭が熱くなってきた。

朋子が急に

「あの大きな石灯籠までなくなってる」

内川の庭には、立派な大きな石灯篭があり、子供心にも庭の風格が上がって見えていた。

「竜兄ちゃんが庭の石灯篭に登ろうとしたとき、一番上の大きな石が崩れてきたの覚えてる?。あの時、石が落ちかけそうになったのを見て、“神様助けて”と思わず祈ったわ」

「覚えてるよ。灯篭の上にある傘のような石がグラグラと落ちてきたんだ。咄嗟にしゃがんだら運良く石が灯篭の石の柱に斜めに引っかかり、その隙間に入りこんだので助かったんだ。あのとき縁側に座っていた、“あれん”ちゃんのお母さんと内川さんのおばさんが、腰を抜かす様に、えらくびっくりした表情をしていたの今でも覚えてるよ」

「私、あのとき竜兄ちゃんが死んでしまうかと思ったのよ。そしたら隙間から、得意そうにニコニコして起き上がってきたのだから」

「ニコニコしていたのは照れ隠しだったんだ。あのとき、“あれん”ちゃんが何で泣いてるのか不思議に思ってたんだ」

「もう。知らない」

「今になって怒るなよ」

「一瞬その時の気持ちに戻ったわ。だけど竜兄ちゃんて、運が強いのね。あんな重い石の下敷きになってたら、死んでたかもしれないわ」

竜太は両手で”あれん”の両腕をつかんだ。

「朋子さん。運の強い僕と結婚するときっと幸せになるよ」

竜太は、朋子と話している内に、段々と三か月の交際がもどかしくなって、自ら結んだ約束を破ってプロポーズをしてしまった。何故か、このとき竜太は、“あれん”から朋子に呼び方を自然に変えていた。

「私も運の強さを信じて、清水の舞台から飛び降りるつもりで、お嫁さんになってしまおうかしら」

「しっかり受け止めるから飛び降りて。3か月と言ったけど。本当は、あの時点で朋子さんと結婚すると決めてたんだ」

「本当は、私もそうなの」

この言葉を聞くと竜太は”あれん”をギュット抱きしめた。”あれん”は、急に思い出したように、得意げに言った。

「竜太さん、私たちとっくに結婚していたのよ。覚えてる」

「前に結婚してたって、何のこと」

竜太は、いぶかしそうに朋子をみた。朋子は、ニコニコと笑いながら

「竜太さんとおままごとで遊んでいる時は、いつも私がお母さん役で、竜太さんはお父さん役になっていたじゃない」

「思い出した。ままごとの世界では、いつも夫婦だったね。“あれん”ちゃんが、まるで本当の奥さんの様に、甲斐甲斐しく僕の世話をしてくれるのが、おかしかったよ。その時に既に夫婦だったんだ。欧に、僕たち前に結婚してたんだと言ったら目を白黒させてビックリするだろうな」

「実を言うとね。あの頃お母さんに大きくなったら竜兄ちゃんのお嫁さんになるのと言ったら、お母さんがね、よほどお利口さんでないと、お嫁さんにしてもらえないよと言われたわ」

「ヘーッ。そうだったの。そんなの初めて聞いたな」

「だから、今こうして竜太さんとお見合いしてるなんて何だか夢を見てるみたい」

「あの頃、僕と“あれん”ちゃんは小学校4年と5歳だったから、結婚なんて夢にも考えてなかったよ。それより、こんな妹がほしいなと思っていたんだ」

それを聞いた朋子は少し悲しそうに

「今も、妹のように思ってるの」

「今は、もちろん違うに決まってるよ。こんな素敵な人と結婚できたらどんな幸せかと思ってるよ」

「竜兄ちゃん。うまいこと“あれん”と朋子の呼び方使い分けているね」

「そう?特別に意識してなかったけど。これから、二人の時は、昔のように“あれん”ちゃんと呼んでいいかな」

「ちゃん抜きで“あれん”と呼んでください」

「じゃあ、僕も竜太と呼んで」

「五つも年上の方を呼び捨てにはできないから、竜太さんと呼ばせて」

「“あれん”。分かったよ」

「竜太さん。こんなこと言ったらおこられるかもしれないけど、結婚を決めた一番の理由はね」

「幼馴染みだったからじゃないの」

「もちろんそれもあるけど。実は前から“竜”と言う名前にすごく惹かれていたの」

「どうして」

「私もわからないの。“竜”の字を見たり聞いたりすると “ときめく”と言うか、心がすごく喜んでいるように感じるの」

「竜の字が嫌いで結婚できないと言われるよりいいよ。」

「わけのわからないこと言ってごめんね」

「いいよ。気にしてないよ」

こうして二人は、意気投合して将来を誓い合った。


竜太はその日の夜に欧に電話をかけた。

「欧。すまん。約束破ってしまった」

「何の話や」

「今日、朋子さんにプロポーズしてしまった」

「3か月と言ってたのに、もう決めたの。言わんこっちゃない」

「申し訳ない」

「別に謝ることではないよ」

「それもそうだ」

二人はげらげら笑った。


**両親へ報告**

見合いの結果を聞いた竜太の母は、二人の不思議な出会いに

「まあー。相手の方“あれん”ちゃんだったの。奇跡ね、神様のお引き合わせみたい」

「僕もびっくりしたよ。嘘みたいな話だろう」

「“あれん”ちゃんの両親、交通事故で亡くなったの。かわいそうに」

「引っ越して1年後に亡くなったらしいよ。“あれん”はまだ小さかったから、なぜ引っ越したかの訳はしらないみたい。だけど、いい家庭に引き取られて良かったよ。お父さんが勤めていたレストランの経営者に引き取られたんだって」

「小さい時から二人は仲良しだったから、なんか強い縁があったのかもしれないね」

この話は、夕食の時に父にも報告した。

「父さんは、昼間は仕事に行ってたから、あまり、“あれん”ちゃんのことは覚えてないが、ウソみたいな話だな。あんまり話がうますぎて誰も信じないよ。まあ、家族みんなが知っている子だから安心だ。竜太、良かったな」

「ありがとう。じゃあ、この話進めていいんだね」

竜太は、家族みんなが賛成してくれたのでほっとした。


一方“あれん”の育ての両親は、二人のいきさつを聞いて

「朋ちゃん良かったね。亡くなられた両親も、きっと喜んでいるわ。両親も知っている方だから安心だし。朋ちゃんには、これ以上ない縁談だね」

「ありがとうお母さん。今まで大切に育てて頂いたおかげと感謝しています」

「朋ちゃんが小さい時に、お嫁に行きたかった彼と結ばれるなんて、お父さんとお母さんが二人を引き合わせたみたい」

そういうと朋子の母は、涙ぐんだ顔を隠すように、部屋から出て行った。母の涙を見た朋子は、自分を実の娘のように可愛がってくれる母の愛に触れたようで幸せを噛み締めた。朋子の両親は子供がいなかったので、小さい時から親に連れられて遊びにきていた”あれん”を自分の子供のように可愛がっていたので”あれん”の両親が亡くなったときは、朋子の母は、即座に”あれん”を養女にしたいと夫に訴えていたぐらいなので、朋子に対する愛情は実の母親と変わらないと思えるほどだった。 


次の休日、二人は三宮の喫茶店で会った。

椅子に座るとすぐに竜太は口を開いた。

「“あれん”。“あれん”の亡くなった両親の墓前に一緒に報告に行こう。僕もお参りしたいし」

朋子は喫茶店に入って思わぬ言葉に少し驚いた。

「竜太さん。ありがとう。両親もきっと喜んでくれるわ」

「聞くの忘れていたけど、弟のボクちゃんはどうしてるの」

「弟は、父方の祖母に引き取られたの」

「離れ離れになったんだね」

「時々電話はしてるのよ。竜太さんのこと話したけど、小さかったからあまり覚えていないみたい」

ともかく、こうして二人は皆に祝福されて結ばれることになった。


**突然の出張命令**

結婚の話は決まったばかりで、竜太は会社の上司にはまだ報告してなかった。そんな晩秋のある日の昼休み、いつもの様に日ごろの睡眠不足を補うために、食堂で食事をしてから自分の席に戻り、20分程度椅子にもたれて仮眠を取っていた。

「竜太!」

昼休みも終わる直前、いつもの様に椅子にもたれて寝ていた竜太は、突然上司の木下課長に大きな声で呼ばれた。彼は会社でもみんなから、名字でなく竜太と名前で呼ばれている。

寝ぼけなまこの竜太は、相撲取りが立ち会い直前に顔を両手で叩くように、顔をぴしゃぴしゃ叩き、眠気を覚ましながら、課長席に向かった。

「なんでしょうか」

「まあ座って。ところで最近体の調子はどうだ。どこも悪いところ無いか」

竜太は体のことを聞かれ、何を言われるのだろうかと緊張した。

「ハイ。至って元気です」

「そうか、それなら安心だな」

「はい。何とかお陰様で」

「海外出張はまだ行ったことないんだな。海外出張も、そろそろ経験しとかないとな。確か前にシカゴの見本市に出張の話があったと聞いてたけど、何で行かなかったんだ」

竜太は、又海外出張の話かと嫌な予感がした。彼は、英語の読解は何とかできたが、会話となると苦手であった。細かく言うと”ヒアリング”特に弱いので相手の話が分からない。当然こちらから話せない。おまけに彼は足が地に着かない飛行機に乗るのが恐いため、たとえ海外に出せない男として評価が下がっても海外出張だけは避けたかった。

前回は、腎臓結石の発作が毎年のように起きるので、海外出張は不安なのですと言って出張を逃れることができた。

その時の部長は、以前直属の部下が海外の出張先で腎臓結石の発作が起こり、対応が大変だったことに懲りて、結石持ちは海外に出さないと決めていた。

「その時は、慢性的な腎臓結石もちなので、海外で発作が起こると不安なのですと話したら、その話はキャンセルされたのです」

竜太は今回もその手を使おうと思ったが、その時の部長は本社部長に栄転され、新しい部長に代わっていたので、この手が使えるかはわからなかった。木下課長は竜太のほうに顔を向けると、

「そんなことは、下手に心配するから起こるんだよ。仕事に夢中になっていたら、病気の方が逃げていくよ。それに結石なんか病気の中に入らないよ。もし、万一なったらビールかコーラをたらふく飲んで、ジャンプしたらその衝撃で自然に石が降りてきて治るよ。ワーハハハ。それだけが理由なら、他に障害になるものは無いということだな」

何にでも、豪放な課長に軽く笑い飛ばされた。竜太は、他に必死で何か理由を考えようとしたが、咄嗟に思い浮かばなかった。

「竜太、来年正月明けにシカゴ支店に行ってくれ。期間は三か月だ。それまで一か月弱あるし、身一つで良いから、そのつもりで頼むよ。部長にも上げとくし。詳しい話は、シカゴの支店長と打ち合わせてから言うよ」

「課長、それはちょっと待って下さい。二~三日考えさせてください」

竜太もさすがに慌てた。

「何を言っとるか。これは業務命令!」

「そうは言ってもーーー」

課長は何も言わずプイと横を向いた。

竜太はムラムラと反抗心が湧いてきた。席に戻ると直ぐに机の引き出しから休暇カードを取り出し、考える時間も無いようなそぶりで記入し課長席に向かってツカツカと歩き、机の正面に休暇カードを置いた。

水木金と三日の休暇を申請したのだった。

課長は仕方なく休暇カードを取って見るとため息をついて、それをもって部長室に向かった。

「部長、あの件竜太に話したら、二~三日返事を保留させて下さいと言って三日も休暇を申請しました。反発するタイプではなかったのですがね。他の者に代えましょうか」

「まあ、そう性急に決めんと来週月曜日の返事次第できめたらいいよ。君はすぐにカットなるタイプだから、こういう時はワンクッション置くように変わらんといかんよ」

「そうですか。わかりました」

木下課長は不満そうな顔をして戻って行った。


竜太は仕事が終わり、いつものように帰り支度の前に自販機のある休憩室でコーヒーを飲みながら、同期の平松に課長からの話を聞いてもらっていた。

「最近は、海外出張も、国内出張並みに変わって来てるんだよ。現場なんか、来週行って来いと言われるらしいで。それから思ったら俺達はまだましだよ。3年ほど前までは、海外出張前には会社の病院で健康診断を受けさせて、健康に問題ないか確認してから許可が下りていたのだから、状況は変わったのさ」

「最近、急に輸出が増えたから、一段とその傾向が強くなったんかな。俺なんか、腎臓結石で逃れると思って安心していたのに」

「それよりお前よく三日も休暇取って返事保留したな。意外と根性あるやん。見直したわ。しかし断ったら設計におられへんぞ」

「島流しか」

「そうや」

「島でノンビリ暮らすわ。向こうに行って、英語しゃべれずに赤っ恥かくよりましやわ」

「しかし、彼女が出来て結婚するとか言ってなかったか。相手心配するぞ」

「そや。忘れとったわ」

竜太はハットした。

「長生きするわ」

「最悪転職も考えなあかんな」

「やめとけ。今時どこの会社に行っても、大学出やったら海外出張はつきものやで」

「その時は、海外主張のない仕事探すわ」

そのとき、二人のそばで聞いていた竜太の大学の先輩で他課の係長をしていた勝見先輩が

竜太に話しかけてきた。

「阪本君、何か困ってるみたいだな」

「アッ。聞かれてました」

「そんな大きな声で話してると嫌でも聞こえるよ」

「すみません」

「この前個人的に参加したビジネスセミナーで聞いた話なんだけど、印象に残ったので参考になるかわからんが聞くか?」

竜太は、うるさい先輩やなと思いながら断る訳にもいかなかった。この先輩は、仕事に関することやそれ以外のことも何でもよく知っていて、人に吹聴したがる癖があった。竜太は後輩でもあるし、時たまなるほどと思うことがあったので以前から素直に聞いていたほどだった。。

「ハイ。教えてください」

「それはな『試練は呼びかけ、どんなことにも意味がある』という話や。印象に残ったもう一つの理由は、その時の講師が若い女性だったことや。たしか、高橋佳子といってたな。全国で講演されてるかたで、彼女の指導を受けた企業は軒並み業績を飛躍的に改善してるそうや。阪本君の今回の試練に当てはめると、試練から逃げずに正面から受け止めよということや」

竜太は、”逃げずに”という言葉が何かズシーンと心の奥に響いた。

「先輩、貴重なお話ありがとうございます。参考にさせて頂きます」

竜太は、自然と先輩に最敬礼をした。


竜太は、”逃げずに正面から受け止める”という言葉を頭の中で繰り返しながら家に帰った。玄関を開けて閉めるとこの言葉は一瞬に飛んでしまった。部屋に入るとすぐに“あれん”に電話をかけた。

「“あれん”今日、会社で来年3か月のアメリカ出張の話があったんや。僕は、英会話からきし苦手やし、腎臓結石の発作が心配やから二~三日返事保留させて下さいと言って、三日間の休暇取ってきたんや」

「そんなこと言ったの。そんな簡単に断れるの。首にならない?」

「その時はその時や。他の会社探すわ」

「せっかく、いい会社に入ったのに」

”あれん”の言葉ははすこしがっかりしたようなトーンに聞こえた。

「“あれん”は、今より小さい会社に代わったら婚約解消するのか」

「そんなこと言ってないわ。会社と結婚するんじゃないのだから」

「ありがとう、“あれん”涙が出そうや」

「困った時にいつでも相談にのってくれる親友に聞いてみるわ」

「ああ、頼むよ」

竜太は、当てにする気持ちはなかったが、”あれん”の考えを聞くのも礼儀のつもりでそう答えた。


しばらくしてから、“あれん”から電話がかかってきた。

「竜太さん。今回、私の言うこと聞いてくれる」

「ウーン」

竜太はしばらく考えた。でも、さっき、小さい会社に代わっても婚約は解消しないと言ってくれた“あれん”の気持ちに応えるために覚悟を決めた。

「わかった。“あれん”に従うよ」

「竜太さん。今度の会社の命令は神様から頂いた試練だと思って『ありがとうございます。お受けさせて頂きます』そう言って返事して。そして口に出さなくていいから『神様ありがとう』と心で祈るの」

「ふーん」

竜太は”試練”という言葉を聞いて、勝見先輩の言葉をハット思い出した。

(ウーン。今日の先輩のアドバイスと同じではないか)

竜太は思わぬ答えに驚いた。しばらく熟考したあと、大きく頷いた。

「わかった。ところで親友て、どんな人」

「わかってくれてありがとう。親友はね、高橋佳子さんという方を尊敬されていて、その方から学んだこといつも教えてくれるの。そしていつでも適切なアドバイスをくれるのよ。彼女の言う通りにしたら、不思議に道がついて解決するの。今回のアドバイス聞いた時、直感で今回の件にピッタリの回答だと思ったわ」

竜太は高橋佳子という名前に驚いた。

(1日に、二度も高橋佳子の名前を聞くとわ。これが必然だとしたら試してみるか)

「わかった」

竜太は心の奥が納得したような不思議な感覚になった。


休み明けの月曜日の朝、朝礼後竜太は真っ先に課長席に向かった。

「課長、休暇ありがとうございました。出張の件ですが、ありがたくお受けさせて頂きます」

竜太は

(神様ありがとうございます)

と同時につぶやいていた。

「そうか。受けてくれるか。ありがとうありがとう。早速、部長に報告してくるわ」

課長はなぜか上機嫌で部長室に向かった。部長室に入るなり

「部長、竜太が出張の件、受けてくれました。しかも『ありがたく受けさせて頂きます』とまで言ったんですよ。何故かこっちも気分良くて、それまで、断ってきたらどうしたろかとイライラしてたのが、いっぺんに吹き飛んでしまいましたわ」

「私の言った通りだろう。今日の返事次第で考えたらと言ってたろ」

「イライラして損しましたわ。部長。これからはワンクッション置くこと肝に銘じます」

部長も課長もあまりに大声で笑ったので、周りは何があったんだろうと部長室の方を振り返った。

その笑い声は、竜太にも聞こえて来た。部長も課長もこんな反応するとは意外だった。

(高橋佳子て何者だろう)

竜太の頭に高橋佳子の名前がこびりついた。

竜太は、家に帰ると、直ぐに“あれん”に今日のことを電話で報告した。

「”あれん”。結婚は来年3月と言ってたけど4月以降に延ばしてくれるか」

「いきなりどうしたの」

「今日、課長から来年一月早々から3か月シカゴ支店に出張することが正式に決まったんだ」

「エー。そんなのないわ。三月にするつもりで計画していたのに。結婚式終わってからではダメなの」

「最近、同期の社員が新婚旅行キャンセルしてまで三か月間の教育出張に行ったことが話題になったばかりだから、タイミングが悪いんだ」

「じゃあ、私もついていく」

「無理言うなよ。そんなの通るわけないよ。三か月というのは短期出張の部類だから、妻同伴では行けないよ」

「そんなの、つまんないよ」

“あれん”は、急にめそめそ泣きだした。竜太はさすがに困ったが慰めようがなかった。竜太自身も泣きたい気持ちだった。

「そうだ、“あれん”。アメリカの連休の時に、こちらに遊びに来ないか。プリ新婚旅行しようよ」

「そういうことなら、我慢しなくちゃね」

“あれん”の不機嫌が急に収まった。

「でも、婚前旅行になってしまうから、両親が許してくれるかしら」

この当時、世間ではまだ婚前旅行なんて、一般の家庭では許されるような雰囲気ではなかった。

「そうだな」

「どうしたらいいのかしら」

「親に事情を話して、先に結婚式をあげ、入籍だけでもしておこう。家族だけでするんだよ。披露宴は出張から帰って改めてしたらいいよ。本当の新婚旅行は、その後にしよう」

「それいい考えだわ。新婚旅行2回ということね」

「2回と言っても1回目は、ミニ新婚旅行だよ」

“あれん”は、すっかり機嫌を直してくれた。

次の日、竜太は両親に事情を話したら、意外とあっさり認めてくれたので、竜太はかえって面食らった。てっきり反対されると思って、どう反論するかまで用意していたのに。

次の日の夜、竜太は、“あれん”の家を訪問し、両親に事情を話したら、こちらも快諾を得られた。すんなりと決まっていくのが、不思議なくらいだった。

(神戸の人間は古いことにこだわらないからかな)

「竜太さん、何でこんなにすんなりいくのか不思議ね」

「結婚まで時間が開き過ぎると、お互いの欠点が見えてくるから、心配してるのかな」

「どういう意味。わたしの欠点がわからない内にということ」

「それは、僕の方だよ。僕は“あれん”の部分を好きなのではなく、長所も欠点を含めた“あれん”が好きだから、何年経っても関係ないよ」

「それは、私も同じよ。別に竜太さんの顔が気に入ってとか、声がいいとか、経済力が高いから選んだんじゃないわ」

「何か約束されているみたいに感じるんだ」

「本当そうね。離れてもまた不思議に巡り会ってるものね」

「普通なら、一期一会でそれっきりが大半なのにね」

二人はそれぞれ、どんな縁が二人を結びつけているんだろうと想像した。


来年の出張まで、ひと月を切っていたので、二人は海岸通りのオリエンタルの一室を借りて、結納式と同時に指輪を交換するだけの親兄弟だけの結婚式をクリスマスの25日に挙げることにした。“あれん”の両親はクリスチャンだったので、同時に両家でクリスマスも祝おうと決めた。もちろん両親にも報告し、承諾をもらった。仲人は、友人の欧の両親に頼むことにした。


週明けの昼休み、部長室で部長と課長が海外出張の件で何やらヒソヒソと話し込んでいた。

「木下君、初めての海外主張、竜太一人で行かせて大丈夫か」

「大丈夫です。シカゴ支店長の話では、同じ日に岡山事業所から元ヨーロッパ支店長だった上村次長を伊丹から出発させるので、彼と一緒に来てほしいと言われてますので心配ありません」

「そうか。それなら竜太も安心するな。竜太に営業支援の業務だということを伝えているか」

「設計の人間は、国内でも技術営業を普通にこなしているので、あらためて言う程のこともないと思います。もし、売上責任まで背負込むとプレッシャーがかかり、かえって逆効果なので、シカゴに着いてから、現地の指示通りに動いてもらうだけで大丈夫だと思います。技術営業は日本でやっていることと同じですから。彼には、シカゴ支店の現地人技術者へのアドバイザーの仕事だと言っています。現地の南村リーダにも伝えています」

「それはいい考えだ。営業支援と言っても、実質は、そうした仕事になるからな。いきなり行って、外人と対等に英語で商談を進めよと言っても無理だからな。そしたら、三時の休憩時間に竜太と私のところに来てくれ」

「わかりました」


昼の始まりのラジオ体操の後、竜太は課長に呼ばれた。早速出張の詳細の説明があった。1月10日朝、伊丹空港午前10時に岡山事業所の上村次長と待ち合わせて一緒に行ってくれとの話だった。何でも、上村次長は、ヨーロッパ支店長を3年経験して1年前に、日本に帰ってきたそうで、海外出張のベテランだということだった。

竜太はそれを聞いてほっとした。案内もつかずに、いきなりシカゴ支店に行けと言われてもどうしたらよいのか不安だったが、経験豊富な方が同行してくれると聞いて安心した。

三時の休憩時間が始まると木下課長は竜太を連れて部長室に入った。部長はニコニコしながら二人を長椅子のソファに座らせた。部長も対面するソファにゆったりと座った。

「竜太。課長から話を聞いてると思うが、よろしく頼むよ。向こうも景気が良く、商談が増えているので、南村君だけでは、捌き切れないらしい。即戦力の人材を出してほしいと言われて、君を今回抜擢したんだ。期間は3か月だけだが、その後も交代で3カ月毎に人を送る計画だ。竜太は、最近土曜日も休日出勤して頑張ってくれていること知ってるよ。向こうで、体を休める位の気持ちで行ってくれたらいいよ」

部長と課長は二人共豪放磊落に笑った。竜太は自分が日ごろ毎日頑張っているのを部長が知ってくれているのが、何やら嬉しかった。向こうに行けば、今までの様に夜遅くまでの仕事はないだろうと思い、本当に体を休めようと思った。


**結婚式**

クリスマス当日、この日は竜太と“あれん”の結婚式だ。竜太は青みの入った明るめの紺色のスーツ。“あれん”の見立てであった。“あれん”は上品なピンク系のおしゃれなワンピースに身を包んだ。胸元には“あれん”手作りのコサージュが華を添えていた。

竜太は、“あれん”の、垢抜けたセンスの良さに感心していた。幼かった“あれん”が、一人前の美しい女性に成長した姿にあらためて見惚れていた。家族だけのパーテイだったので、和やかな雰囲気で歓談できた。話の中心は、やはり二人の奇跡的な出会いであった。


**アメリカ出発準備**

正月明けの10日の出発日が正式に決まった。現地情報によると、年末の気温は零下25度と聞いてびっくりした。日本では経験したことが無い寒さなので、とにかく南極探検隊が着るような顔を毛皮で覆うようなガウンを探しに“あれん”と一緒に買物に出かけた。手袋も分厚い革製の物を求めた。

“あれん”は、初めての海外出張で何があるかわからないので、会社支給の出張費の他に予備に、自分のへそくりから10万円を持たせてくれた。学生時代から、自宅で子供たちにピアノを教えていたお金を何かのためにと蓄えていたので、そんなことをする余裕が有った。

竜太は、英語の読み書きは何とかできる自信があったが、会話となると正直自信が無かったので、出張が決まってからは、早速「ビジネス英会話」のテープを購入して、繰り返し繰り返し聴いて勉強した。この位勉強したのは、大学受験以来であった。やるだけやったら後は、生来の楽天家の癖で何とかなるだろうと呑気に考えた。

“あれん”は、竜太のそういう切羽詰まった状況を知っていたので、デートも竜太の勉強の休憩時間に、家の近くの公園を散歩するくらいで辛抱していた。“あれん”はそれでも二人きりになれることで十分満足していた。二人は、結婚式は終えたが、新居を探すには時間がなさ過ぎたので、出張が終わるまで、独身時代のようにお互いの実家に寝泊まりしていた。そのため、二人は新婚夫婦と言うより、むしろ恋人同士だった。ただ、出発前日二人は空港近くのホテルを取り、初めて二人だけの夜を過ごした。

翌朝“あれん”は竜太より早く起きて、お化粧をしていた。竜太が目を覚ますと、“あれん”の顔が、上から覗いていた。

「旦那様。お早うございます」

竜太は、旦那様と声をかけられてびっくりした。

「旦那様と言ったの」

「そうよ。私はあなたの妻だから。二人でいる時は、旦那様と呼ばせて」

「僕も、とうとう結婚したんだな」

竜太は、初々しい妻の姿を見て本当の夫婦になったんだと夫婦の実感が湧いてきた

早速二人は、ホテルのレストランで、夫婦として初めての朝食をとった。

「旦那様、アメリカに行ったら、安全にくれぐれも注意してね。車も左ハンドルで慣れていないから気をつけてね」

「わかってるよ。毎週、週末に電話するからね」

「楽しみに待ってるわ。連休の予定が決まれば早く連絡してね」

「“あれん”はどんなところに行きたいの」

「一緒ならどこでもいいわ」

「そうか、僕はグランドキャニオンかモニュメントバレーを考えているんだけど、まだ決めてないんだ。決まり次第連絡するからね」

“あれん”は、空港で見送るのは辛いからと、朝ホテルを一緒に出てから別れた


**海外出張ベテランの上司に同行**

1月10日、当日午前10時に、伊丹空港で上村次長と待ち合わせた。竜太にとって、空港に来ること自体が初めてだった。それくらい飛行機とは縁のない生活だった。空港に着くや否や、緊張感が一層高まった。第一、会ったことも無い人と待ち会わせるのだ。分からなければどうしようとそれが先ず心配だった。お互い初対面なので、背広の胸元に社章バッジと、背格好や洋服の色などが目印だった。どういうわけか事前の写真の交換もなかった。

(輸出課の連中は気が利かないんだから)

竜太は心の中でブツブツ不満を言っていた。前方から何となくそれらしい人物がユッタリト歩いてきた。(ひょっとしたら)

竜太はその男の全体をなめるように見つめた。幸い、お互いに近づいた時点で何となく、堅いイメージの社風の独特の雰囲気から彼だと思った。

「あのう上村次長さんですか?」

「上村です。竜太君だね」

「そうです。わかられましたか」

「あんなにジロジロ見られたらわかるよ」

二人は軽く笑いあい、一気に打ち解けた。

それにしても竜太はいきなり名前を呼ばれたことにびっくりしたと同時にあらためて挨拶をした。。

「阪本竜太です。よろしくお願いします。海外出張は慣れているとお聞きして、安心しています。なにぶん私は海外出張は初めてなのでよろしくお願いします」

竜太は第一の関門を突破して、まずは安堵した

「いきなり、名前を呼んで失礼。木下課長と話していると、彼が、いつも貴方を名字ではなく名前で呼んでいたので、つい名前で呼んでしまった」

「その方が、私もなれているので、これからも竜太と呼んでください。正直私も、阪本と呼ばれるとピンとこないんです」

「それならよかった。それじゃチェックカウンターに行ってくるから待っていて」

上村次長は竜太からパスポートを預かると二人分まとめてをカウンターに向かった。竜太は、あとはついて行くだけだからと緊張感が一気に抜けホットしていた。しかし、上村次長がチェックカウンターに行ったきりなかなか戻って来ない。見ると上村の横のカウンターの客には、早いペースで、航空券が発行されているのに、上村は、カウンターの担当者と長い間話し込んでいる。そのうち、上村が深刻な顔をして竜太のところに戻ってきた。

「私のパスポートの余白ページが少ないので、このままでは通せないから担当者が上司と相談しているんだ」

竜太はドキッとした。急に不安感が大きく膨らんだ。

(そんな馬鹿な)

想定外の出来事だった。

(上村次長のパスポートがNGで出発できなかったら、俺はどうしたらいいんだ)

竜太は急に不安のどん底に突き落とされた。上村次長に同行するだけでよいとのことで、シカゴのオヘア空港に着いてから、アメリカ支店のオフイスにどうやって行くのかの段取りすら、海外営業担当から何も聞いてなかったし、竜太も確認していなかった。

(失敗が許されない海外出張の場合、万全の用意しておけばよかった)

竜太は、自分の何とかなるという楽観的な心の習癖が、また出てきたと悔いた。しかし海外出張のベテランでも、まさかこんな失敗があるとはーーー。そうこうしていると、上村次長がカウンターに呼ばれた。5分程するる間もなくしてカウンターから戻ってきた上村は笑顔に戻っていた。竜太はその笑顔を見て

助かったんだと察した。

「パスポートに余白ページを追加してもらい対応できたので安心して」

「そうですか。それは良かったですね」

竜太は冷静を装って、そんな風に答えたが、内心は

(上村さん、頼むで、本当に)

と呟いていた。

その後、二人とも何事も無かった様に出発ゲートを通って、やっと飛行機に乗り込んだ。竜太は、飛行機に足を踏み入れた瞬間、もう自分の命を他人に預けてしまうんだと言い知れぬ不安を覚えた。上村を見ると彼は緊張とは無縁でひょうひょうとしていた。

竜太は席に座るとすぐにベルトを締めた。しばらくすると、ゴトンと言う鈍い音がして、機体はゆっくりと動き出した。いよいよ離陸が始まったのだ。

竜太の緊張が最高に達した。飛行機が滑走路に入り機首が滑走路の中央を向いた。間を置くとエンジンの回転が一気に高まりグングンとスピードを上げ全速力で走り出した。途中で機体がフッと浮き車輪が地上から離れたのが実感できた。竜太はこのままグングン上がれと祈った。竜太は、あれんから貰ったポケットの御守を、上村次長ににわからないように何個も握りしめ、神様仏様そして“あれん”にも守ってくれる様にと必死に祈った。

(頼む。無事に上がってくれ。上がれ、上がれ)

飛行機の事故の大半は離陸時と着陸時に起こると聞いていたので、先ずは離陸時の安全を祈った。自動車なら、危機が迫っても自分の運転技量で何とかしようとできるのだが、飛行機の場合は、命をパイロットに預けているので不安だった。毛沢東も飛行機嫌いだったらしく、文化大革命時代、党・国家の首脳の移動は列車を使うべし、という内規を作ったほどだ。飛行機に乗らなかったのは、きっと自分の命の主導権を自分以外に託すのが嫌だったんだろうなと想像した。竜太は、自分と一緒の考えだと妙な親近感を毛沢東に抱いた。

やっと飛行機が安定飛行になり、スチュワーデスのサービスが始まると、その笑顔に癒されて不安な気持ちも徐々になくなった。スチュワーデスは、毎日の様に飛行機に乗り、笑顔でサービスをしている。だから何も心配はないんだと自分に言い聞かせた。しかし、同時に今はもう、自分一人だけの命だけではないという今までと違う感覚が芽生えていた。妻を娶り、初めての二人だけの夜を過ごしたことが、こんなにも自分の意識を変えていたことに改めて気づいた。

飛行機のシカゴまでの乗機時間は約12時間もあった。最初は英会話の本を必死に復習していたが、そのうち、緊張で疲れたのか、シカゴ到着直前まで寝込んでしまった。上村次長は途中の景色に無関心で最初からずっと寝ていた。

竜太は目が覚めてから、窓の外を見るとアメリカの大地がもう下に見えていた。今、あのあこがれのアメリカの上を飛んでいるんだと、何とも言えぬ感動を覚えた。竜太の父は、戦前シアトルで3年程働いていた関係でアメリカ文化が懐かしいのか、竜太が小さいときにアメリカ映画によく連れて行ってもらった。その影響で、竜太はアメリカ文化にあこがれを抱いていた。特に西部劇の映画を良く見ていたので、モニュメントバレーやグランドキャニオンは、あこがれの場所であった。急にヘンリーフォンダ、ゲリークーパ、ジョンウェイン等の西部劇スターの顔が頭に浮かんできた。


いよいよシカゴのオヘア空港への着陸態勢に入った。地上が段々と接近してきた。竜太は又必死で祈った。車輪がドドーンと滑走路に着くと同時にエンジン逆噴射のゴーッという音が耳をつんざいた。やがて機体が静止すると竜太はホットした。

(神様ありがとうございます。“あれん“ありがとう)

手には汗がにじんでいた。後で聞いた話だが、静かに着陸すると上手な着陸だと、中には拍手するお客がいるが、実際は逆でハイドロプレーニング現象を防ぐためにドーンと着地するのがパイロットの高度な技ということだった。竜太は心の中で感謝の祈りを捧げた。

竜太は、タラップを降りて足が地面に着いたことで、一気に緊張が緩んだ。無事税関も通過し、荷物を受け取り、いよいよ支店事務所に行く段になった。竜太は、次長と一緒なら、会社の車が迎えに来てくれるはずと思っていたが、上村次長はタクシーを探していた。2~3名の私服の白人と、交渉が成立したようで、ともかく上村次長について行った。有名なイエローキャブのタクシーを使わないのは、随分と現地になれているんだなと思った。しかし、案内の白人が、空港から少し遠く離れた場所に案内しようとしたことで、上村次長は何か不安を感じたのか、急にキャンセルして、Uターンして、もとの場所に戻った。

白人達は、外人独特の両手をあげる動作で怒りを表していた。竜太は最初、あの白人達は何か怪しそうな感じだったのに、上村次長は、何も感じなかったのだろうかと不思議に思っていた。案の定だった。

結局、普通のイエローキャブのタクシーでホテルに直行した。途中思いだしたのだが、迎えの車が来ないのは、明日から出勤だったということを、竜太は、すっかり忘れていた。

ホテルはそんなに大きくはなかったが、いかにもセンスの良い、こじんまりしたスマートなホテルであった。

ところが、またまた上村次長がらみの事件が起こった。ロビーでチェックインした直後、上村次長は、振り向くや否や青ざめた顔で竜太の方にやってきた。

「空港でバッグを取り違えた。空港に戻ってくる。部屋で先に休んどいて」

竜太は、唖然とした。

(又か!)

海外出張になれ過ぎて、油断していたのだろうとしか考えられなかった。竜太は、逆に、これは良い経験をしたと思った。慣れるほど恐ろしいものは無いという典型的な例を、これ程はっきりと見せてもらうことはなかった。海外出張は慎重な上にも慎重をと肝に命じた。しかも1日に、パスポート、タクシー、バッグと3件もミスをしてしまう人がヨーロッパ支店長をしていたんだと思うとかえって上村次長に親近感を覚えた。あとで聞いた話では、上村次長は出発直前まで、アメリカでの重要顧客に英語でプレゼンテーションをする資料の作成に大忙しで、落ち着いて出張準備をする時間が無かったとのことだった。それを聞いて

(さもありなん。余程お疲れだったのだろう)

と竜太も納得できた。竜太も客先出張の際、時間が無く出張資料を新幹線の中でたびたび作成したことを思い出した。日本のサラリーマンは忙しすぎるんだとつくづく思った。。


**アメリカでの仕事**

翌朝、ホテルに会社からの迎えの車が来た。迎えの社員は岡山事業所出身の方らしく、上村次長と親しく言葉を交わしていた。事務所は、岡山事業所出身者と京都事業所出身者と現地採用のアメリカ人とで成っていた。事務所に着くと、先ず支店長に挨拶に向かった。支店長は丸顔の方で、得意の英語を機関銃の様に話し、しかも英語の知識はアメリカ人以上で、アメリカ人が英語を教えてもらいに聞きに来るぐらいのすごい人と聞いていたので、どんな人かと会うのを楽しみにしていた。ともかく我々日本人にも日本語だが、早口でまくしたてる。竜太は聞き逃さない様に必死で聞いた。これだけ、英語も日本語も早くしゃべられるということは、頭の回転も相当早いんだろうと想像がついた。支店長からは販売拡大に期待しているようなことを言われ、竜太は京都で聞いていた話と何か違和感を覚えた。そのあと竜太は、京都出身の南村リーダーに迎えられた。早速南村から、京都関係製品の現地の担当者を紹介された。お互いに自己紹介したが、現地のアメリカ人は、英語に弱い日本人に慣れている為、竜太にもわかりやすい発音でゆっくり話してくれたので、竜太も彼らの話す内容が良くわかり、胸をなでおろした。

南村リーダーからは、拡販の類の様な話はなかったので、自分の思い過ごしかとホットした。竜太は、さあ、いよいよアメリカでの仕事が始まるんだと、何か武者震いをする様な感覚だった。三か月という短期間、南村の仕事を補助したり、セールス担当の現地スタッフに同行して、アドバイスするのが主な仕事だった。客先では、客先との交渉は現地スタッフがやり、竜太は、客先からの質問をスタッフを介して答える内容だった。他に京都の組立現場から出張して、すでに何年も前からアメリカに駐在しているサービス担当の藤岡社員と同行することもあった。彼は、竜太より若いのに現地のアメリカ人と対等に会話を交わしていた。竜太は、やっぱり現地で生活するのが語学の最良の学習方法だとあらためて認識した。なにしろ藤岡は、日本に居たときは、殆ど英語をしゃべれなかったはずなのに、今はアメリカ人の如くペラペラだった。竜太は正直ギャフンだった。もっと、普段から英会話に励んでいれば良かったと後悔した。竜太も、英会話を個人レッスンで何度か習ったことが有ったが、仕事の繁忙、長期出張のたびに中断して結局続かなかった。たとえ、少しづつでも継続しておくべきだったと後悔するも後の祭りだった。

最初1週間ほどはホテルから通勤していたが、3か月間もホテル住まいだと経費もかかるので、アパート住まいに変えることを勧められた。

現地生活が長い日本人スタッフに協力してもらって休日にアパートの契約を交わした。そこから竜太にと

ってアメリカでの最初のトラブルが起こった。アパートから会社までの教えられた経路は実に簡単だった。アパートを出た路を、直ぐ右に曲がり大通りまで進む。その大通りを更に右に曲がり、ドン突き(関西特有の表現で真直ぐに進んだ突き当り)のT字路を左に曲がる。そこを踏切に出会うまで、途中の交差点を通り越して真直ぐ進む。その踏切を渡って最初の交差点の左角が会社なのだということで、あまりにも簡単すぎて、竜太は何もメモを取らなかった。『大通りを右折』、『ドン突きを左折』、『踏切』、『最初の交差点』それだけ覚えるだけで良かったのだ。その日は休日だった。休日は、日本人出張社員が会社に集まって、いろいろな情報を交換したり、遊びに行ったり、一緒に食事に行ったりする。夕方になりその日の集まりが終わり、竜太は皆と別れアパートに向かった。途中、日本食レストランに立寄り夕食を取った後、休憩がてら日本の新聞や、週刊誌を読みふけった。時刻も6時半を回った頃、さあ帰ろうと外に出たら、日はすっかり落ちて真っ暗だった。車に乗って来た道を更に真直ぐに進み、右に曲がるT字路をさがしたが、T字路の連続だ。どのT字路を右に曲がるかは、周りの景色で覚えていたつもりだったが、夜中のため景色での判別ができなかった。踏切を超えてからは、1本道で左に入る道はなく、すべてT字路なのだ。あたりの景色が殆ど見えないため、アパートに帰る道を完全に見失った。竜太は焦った。しかたなく、絨毯爆撃をするように、順番に右折の道を当たってみた。中には途中から曲がりくねった道もあり、そこに入ってしまうと、自分の位置が全く分からなくなってしまった。それでも、そのうち見つかるだろうと何度も何度もさがしたが、なかなか見つからない。時計を見るともう午前2時を回っていた。竜太はしばらく頭を冷やそうと道路側の空き地に車を止めて休んだ。心の中で

(神様お助け下さい。“あれん”。助けてくれ)

と必死で祈った

竜太は、何であんな簡単な経路がわからなくなったのか思い起こすと、意外と簡単に原因が分かった。大きな通りにはすべて通り名がついている。それをメモにでも書いておけば良かったんだと気づいた。そういえば、竜太は余程有名な通り以外は通りの名前を気にしたことはない。神戸で覚えている通り名はトアロードと鯉川筋位しか浮かばなかった。殆どの通りの確認は特徴のある建物や周辺の景色で確認できたからだ。

竜太は、疲れたのかウトウトとト寝入ってしまった。半時間も過ぎた頃か

『竜太さん。起きて。早く起きて。起きて今の道を真直ぐ進んで』

竜太は、ハット目を覚ました。確かに“あれん”の声だ。“あれん”の言葉をはっきり覚えている。竜太はエンジンをかけ車を動かした。とにかく言われた通り真直ぐ行ってみようと。しばらくすると対抗車線に車のライトが見えた。久しぶりに見えたライトだ。接近するとパトカーだとわかった。これを逃したらもう帰れないと思い、ハザードランプを点滅させながら左にハンドルを切りパトカーの行き先を防ぐようにパトカーの前に車を止めた。

竜太は怪しいものではないことを証明するために、車から降りて両手をあげてパトカーに近づいた。知っている単語を駆使して必死で道に迷っていることを訴えた。

「アイム ジャパニーズ。プリーズ ガイド ミー ザ ウェイ ツー マイ アパートメント ネイムド テラス アパートメント ビコウズ アイ ロスト マイ ウェイ 」

咄嗟のジャパニーズ英語が通じた。こんな長い英語を使ったのは初めてであった。竜太はこんな下手くそな自分の英語が通じて内心”奇跡”だと思った。

警官は、事情を察してくれたのか、ついてきなさいとハザードランプを点灯させながら誘導してくれた。10分ほどして、アパートが目に入った時はもう、ほっとして涙がうっすらと出る程だった。パトカーの警察官に、頭を何回も何回も下げてお礼を言った。警官は、噂に聞く日本人の頭を下げるお礼を真近に見たせいか笑っているようだった。時計を見るともう午前3時だった。

確かにあれは“あれん”の声だった。あのままもっと寝ていて、あのパトカーに遭遇してなかったらと思うと、神様は本当に居られるのかと不思議な思いがした。祈りが通じたのかもしれないと思った。それでもまだ、単なる偶然にちがいないという想いも湧いてきて、二つの思いが頭の中で交錯した。

翌朝、会社の仲間に昨日のことを話すと大笑いされた。ただ、“あれん”の声が聞こえたことは、誰も信じないだろうと思い言わなかった。翌日、街路名を確かめ”デボン通り”と言う名前を頭に叩き込んだ。竜太はこのデボンという通り名は、もう一生忘れないだろうと思った。


一カ月もたつと、アメリカでの仕事にもようやく慣れてきた、現地スタッフと簡単な冗談を英語で交わすこともできるようになった。約束していた“あれん”をアメリカに呼ぶ日を探していると、丁度、2月の第3週の月曜日がプレジデント・デイで休日だった。さらにうまいことに、その前の週の木・金曜日にロスアンジェルスに出張が入っていた。アメリカ人の営業担当と顧客を回ることになっている。金曜日の夕方に終わるので、竜太はそこで分かれて、グレイハウンドの長距離バスでロスから、ラスベガスに飛び、そこで一泊して、ラスベガス空港でアレンと落ち合い、レンタカーで、グランドキャニオンにいくというぎりぎりの予定を組み、“あれん”に連絡した。

“あれん”は、待ちかねた連絡がやっと入り、早速飛行機の便を調べるとうまいことに伊丹発ラスベガス着10時の便が見つかり、とにかく、予約を確保し、竜太に連絡した。竜太も、金曜から一泊でラスベガスのホテルを予約した。竜太一人分なので、一番安いホテルを取った。こうして、二人は久しぶりの再会を楽しみにした。竜太は、ラスベガスから先のホテルの予約は、何とかなるだろうと、いつもの様に楽観的に考えて取らなかった。何と言っても自動車王国のアメリカなのだから、モーテルが充実し、いつでも泊まれるものと勝手に思い込んでいた。それより、憧れのグランドキャニオンに“あれん”と一緒に行けることで、頭がいっぱいになっていた。

それでも、一旦決まると、竜太は、浮かれてばかりではいけないと思い、出張準備や、顧客からどんな質問が来るかを想定し、その回答を英語で準備したり、顧客の今までの納入実績を調べたりと、出張資料作成に残業をしてまで頑張っていた。


**残業中の出来事**

或る日、事務所で一人残って残業をしていると、ロックされているはずの玄関が開き、4~5名のラテン系アメリカ人と思われる人達がドヤドヤと入ってきた。いでたちは、清掃人の恰好であったが、夜に入ってくるなんてだれからも聞いていなかった。竜太は不安になった。清掃業者を装った泥棒かもしれない。もし、銃でも持っていたら殺される。南村リーダに電話するにも、自宅の電話番号を聞いていなかった。竜太は、咄嗟に、南村に見せかけの電話をして、外部と連絡をしている様に大きな声で話をしているふりをした。竜太の電話の声が上ずっていたせいか、清掃業者が竜太の不安に気づいたようだ。

「今日は清掃日ですから。心配しなくて良いですよ。」

と親切に言ってくれた。幸いネイテイブな発音でなかったので、竜太にも彼らの発音で十分理解できた。それを聞いて竜太はホット安心したが、慌てふためいた自分が恥ずかしかった。しかし、こちらの不安がどうしてわかったのかと妙に感心をした。

(それにしても、リーダーも今日は清掃日で、業者が入ってくるぐらい、言ってくれればよかったのに)


翌日、朝一番に竜太は南村リーダに昨夜のことを報告した。

「南村さん。ひどいですよ。昨日は、業者が夜勝手に事務所に入ってきたんですよ。てっきり泥棒かもしれないとドキッとしました。前もって言っといてくださいよ」

「そうか、すまんすまん。まさか、竜太が最後まで事務所に残ってるなんて知らないよ。竜太は、まだ慣れていないんだから、最後まで残らない様にしてくれよ。そりゃ、本当にギャングが押し入ってくるかもわからないからな。ここは、日本と違うのだから」

竜太は、それを聞いて今後は最後の一人まで残らない様にした。


**グランド・キャニオンへの旅**

いよいよ明日は、久しぶりに“あれん”に会えると思うと心が躍った。仕事が終える金曜日の午後3時頃アメリカ人の同僚と別れた竜太は、ロスのバスターミナルに行き、ラスベガス行の切符を買った。バスに乗り込むと、驚いたことに乗客は黒人ばかりで、白人はおろか、アジア人すら乗っていなかった。竜太は、少しでも飛行機に乗りたくなかったのと、アメリカの大地をまじかで味わいたかったのでバスを選んだのだが、日本人が一人だけの経験もここでしか味わえないと覚悟したというより、二度と味わえない経験だと前向きにとらえた。

家一軒も見えない砂漠地帯を走っていると、竜太はカウボーイになって駅馬車に乗っている気分になっていた。

同じような景色を見ている内に、仕事の疲れかいつの間にか終点のラスベガスまで寝入ってしまった。ラスベガスでは、予約していたホテルに泊まった。一人では遊びに行くところもなく、部屋でグランドキャニオンの観光資料を一通り目を通した後、何もすることなく、ぐっすりと眠ってしまった。

翌日、ラスベガスのホテルを朝早くでた竜太は、タクシーに乗り、空港に向かった。まだ時間があったので、売店で軽食を取り、“あれん”の到着を待った。到着ゲートで今か今かと待っていたが、なかなか出てこない。

( “あれん”はこの便に乗っているはずなんだが)

竜太は段々不安になってきた。ほとんどの乗客がゲートから出て行ったあと、しばらくして、やっと姿が見えた。

「“あれん”。何してたんだよ。遅いなあ。心配するじゃないか」

あれんは、小走りに走り寄ってくると、急に竜太に飛びついて、首に手をまわしていきなりキスをした。竜太は、ビックリしたが、怒りの気持ちも一瞬忘れて、“あれん”を思い切り抱きしめた

「旦那様。ごめんなさい。心配した?。久しぶりに会うから化粧室でおめかししていたの」

そう言われると竜太も怒りようがなかった。

「そうか、とにかく無事で良かったよ。それにしても、いきなりキスされてびっくりしたよ」

「行く前から、会った時に先ず何を話したらよいか考えたけど、何も言わずにキスしようと思ったの。アメリカだし、やっちゃおうと」

「それにしてもびっくりしたよ」

「だって、あれが一番私の気持ちが込められているんだから。どんなに会いたかったかを

表現するのにピッタリでしょう」

「まあ、僕も嬉しかったけど。早速、レンタカー借りに行こう」

「まだ取っていなかったの」

「“あれん”の意見も聞こうと思ったんだ」

「私は、旦那様と一緒だったら何でもいいんだから」

「じゃあ、僕が選んでいいんだな。砂漠の中を走るから故障の少ない日本車にするよ。過酷な道を走るラリーに強い車が信頼できるから、三菱のギャランにしよう」

「そうね。旦那様の考えに賛成。砂漠で故障したら大変だもんね」

砂漠と言っても、サハラ砂漠の様な砂丘の砂漠ではなく、ごつごつした乾燥した地面に灌木がところどころに見える、西部劇でよく見るような大地だ。竜太も、南村から聞いた砂漠という表現に最初違和感を覚えたが、アメリカでは、こんなのも砂漠というんだと納得した。

こうして、二人で、初めてのドライブをアメリカ大陸で行うことになった。ここでも竜太は、もうカウボーイの気分になっていた。西部劇でよく見る景色の中を颯爽と馬でかけている気分だった。ギャランを選んだのも、元々コルトギャランと馬のネーミングが気に入っていたからだった。“あれん”は、最初、せっかくアメリカに来たのだから、大型のアメ車に乗りたいと思っていたが、竜太の車を選んだ理由を聞いて、竜太の堅実な考えに、従った。

竜太は、こんな広々とした砂漠を走るのだからある程度速度をあげて、80キロ前後で走っていたが次々と他の車を抜いて行くが意外だった。アメリカ人の多くは、安全速度で走っていることに気づいた。


グランドキャニオンに着いた二人は、日本では見られない壮大な景色に圧倒された。

「スゴーイ。日本とスケールが違うわね。二人でこんな素晴らしい景色を見られて、本当に幸せ」

「僕もだよ。こんな景色一人で見るのは、もったいないからね。“あれん”と一緒に見れて本当に良かったよ。このグランドキャニオンは7000年前に隆起した土地が4000年前からコロラド河の浸食作用でこういう形になったんだよ。峡谷の平均深さは1200メートルもあるんだ」

「旦那様すごい詳しいね」

「昨日調べたんだよ。それにしても自然の力て、本当にすごいわ」

「少しずつでも何千年もかけるとなんでもできるのね」

見学コースを一通り見た後、二人は土産物店にはいり、ショッピングを楽しんだ。

竜太はまだ正式な新婚旅行でもないし、出張途中の旅行でもあるので、自分用とごく親しい京都関係の社員だけの土産に絞った。“あれん”は友達が多いのか、こまごました物をたくさん購入していた。

「“あれん”。そろそろ行かないと。今夜のホテル探さないといけないんだ」

「そうだったわね。忘れていたわ」

竜太は、モーテルならいつでも取れるとタカをくくっていたが、このあと予想もつかないことが待っていた。途中ウイリアムズやキングマンの街でホテルやモーテルをあたったが、どこも満杯であった。途中、竜太と同じ日本人カップルとモーテルの受付で出くわした。

「あなた方も探しているの」

「世間は3連休でしかも今夜は雪の予想だから、ホテルもモーテルも、どこも一杯だよ。俺たち毛布積んできたから、土産物屋の駐車場で寝るよ」

竜太は、それを聞いて

(しまった。油断した)

ホテルの予約を取るのが、つい面倒で、自動車王国のアメリカなら、モーテルくらい何とかなるだろうと思ったことを後悔した。それに、南村リーダから

「雪の日は、砂漠を渡ったら絶対やめとけよ。エンコでもして車が動かなくなったら凍死するぞ」

といわれていたのだ。しかも、出張帰りのレンタカーだから、防寒具も毛布も積んでいない。どうしようかと思った。そういう竜太の緊張した様子を見て

「旦那様、どうしたの」

「“あれん”、すまない。連休と雪のためにホテルもモーテルもどこも一杯らしい。ラスベガスまで突っ走ったら、何とかなるのだが、万一パンクや故障が起きたら、気温が零下まで下がるから、防寒具がないと危険なんだ」

そう言われて“あれん”も不安になった。その時、3台の乗用車が連なってラスベガス方面に走って行くのが見えた。竜太が叫んだ

「“あれん”。あれについて行くぞ。あいつらもきっとホテルが見つからなくて、あきらめて出発したんだ。彼らについて行こう。万一の場合は助けてもらえる」

竜太は、咄嗟の判断で、急いで車を出し、思い切り加速して、先行車を追いかけた。何とか、彼らの視界範囲までに追いつき、車間距離を維持しながら走った。そのうち彼らは、途中のレストラン兼土産物屋に立ち寄った。

竜太らも、そこに立ち寄りそこで軽食を取り、万一に備えて食糧や飲み物、特にチョコレートを買い込んだ。毛布の様なものは見つからなかったが、代わりに新聞をたくさん買い込んだ。何かのとき、新聞紙を体に巻くと防寒に役立つと聞いたことがあったからだ。また、熱いコーヒを飲んで体をあっためた。

「旦那様。私たちの他は全部白人ね。映画の中のシーンにいるみたい。なにかドキドキするわ」

トラックの運ちゃんが多いのか、みんな筋肉ムキムキのポパイのような腕っぷしだ。

こんな連中に万一襲われたらどうしようもないなと怖い想像をしたが、結構仲間とワイワイガヤガヤと楽しそうにしゃべっているのでホットした。。

竜太は、そんな風に楽しむ気分ではなかったが

「本当だ。アメリカに居るって感じだな」

竜太は、“あれん”に不安を感じさせない様に、明るくふるまった。竜太は結婚したばかりの“あれん”をどうしても、危険から守らなければという必死の気持ちだった。

「旦那様、さっきの車の運転手が店を出たわ」

「僕たちも急ごう」

竜太も、“あれん”も飲みかけのコーヒをあわてて飲み干し、急いで車に向かった。アクセルを思い切り踏んで、やっと先行の車に追いついた。30分程走ると、雪がちらつき出し徐々にきつくなってきた。やがて、ワイパ―を急速に回しても先が見えにくくなり、スピードを落とすと先行の車も殆ど見えなくなった。さらに悪いことに道路が一面雪に覆われ、道路と砂漠の判別がつかなくなってきた。竜太は、車をさらに徐行させ、ハザードランプを点滅させて、道路を確かめながら走った。さすがに竜太は恐怖に近い不安を感じた。

“あれん”は、竜太の必死の表情をみて、自分たちの状況が最悪の事態になっていることを察した。“あれん”が突然小さな声で絞り出す様に祈りだした

「我、今、一切の神光と和合せん。一切の霊智を呼び出し、神の絆をあらわさん。大宇宙大神霊・仏よ、守護・指導霊よ、私達に導きを与えたまえ。助力を与えたまえ」

「それは何」

「親友が万一の時はこうして祈りなさいと教えてくれていたの。その人は高橋佳子さんを尊敬していて、私も講演会に何回も誘われているのだけど、たまたま都合がつかなくて行ってないけど。いつも、いろいろと教えてくれるの」

「高橋佳子、ああ前に相談した人だね。頼む!祈っておいて」

竜太は、藁にもすがりたい思いだった。目を凝らして道を確認しながら運転するのに必死だった。確認と言っても、カンに頼っている。このまま“あれん”と事故で死んでしまうかもしれない不安が竜太を襲っていた。

突然、後ろから

「ブ、ブー」

と警笛を鳴らされると同時にパッシングライトを浴びせられた。あっという間に後ろの車に追い越された。すると同時にその車がハザードランプを3回点滅させながら、こちらのくるまの速度に合わせてきた。

竜太の車が徐行しながらハザードランプを点滅させながら走っていたので、こちらの状況を察知してくれたようだ。幸いその車は大型トラックで、そのテールランプが道路を照らしてくれたので、その光でトラックの(わだち)をつけて行けば安心して走れるようになった。

「神様、ありがとうごさいます」

“あれん”は泣きじゃくりながら何回も叫んだ。“あれん”は、神様のお陰と信じた。

しかし竜太は竜太で自分の強運が、運を開いたのだと思った。しかし“あれん”には

「“あれん”。ありがとう。“あれん”の祈りが通じたみたいだ。」

「私、信じられない。神様は、本当におられたのだわ」

“あれん”は、手を合わせて神に感謝していた。1時間ほどたつと、やっと雪が無いところに出た。道路も自分の車のライトで判別できるようになった。するとさっきのトラックが、ホーンを一度鳴らし、本来のスピードを上げて、どんどん離れて行った。竜太もお礼のホーンを一度鳴らした。

「旦那様の強運のお陰かもしれないわ。でも、その強運も神様がきっと下さってるのよ。今度、日本に帰ったら、今日のことを友達に話してお礼を言うわ」

竜太の車は、ようやくラスベガスに到着し、最初に訪ねたモーテルに運よく空き部屋が残っていた。竜太は車を駐車場に入れようとして、入口に入ろうとすると急にエンジンが停止し、ダッシュボードにアラームが表示された。アラームは『バッテリーAMP異常』だった。竜太はモーテルのスタッフに応援を頼み、車を駐車場に押して移動させた。すぐにレンター会社に連絡して、明朝、代車をモーテルまで回すように依頼した。

「竜太さん。砂漠の真ん中で止まっていたら死んでたかも」

「信じられない。こんなタイミングで故障するなんて。誰かに守られている気がする」

「神様が、なんとかここまで車を引っ張ってくれたみたい」

“あれん”は涙を流しながら星空に向かって手を合わせて祈った。竜太は、只茫然と立っていた。二人はようやく安堵して、二人はつかれのせいかその夜はすぐにぐっすりと眠った。


翌朝、二人は、夫々の帰りの飛行機に間に合わせる様に、モーテルを出て、車を返した。その際、車が故障したためか料金の2割のキャッシュバックをもらった。竜太はさっそく“あれん”に報告した。

「命が助かった上に、お金まで戻ってきた。ラッキー」

「喜んじゃダメよ。どこかに寄付しましょう」

竜太も直ぐに納得した。

その後空港の軽食コーナーで朝食をとった。“あれん”の便のほうが先に出発するので竜太は、出発ゲートまで“あれん”を送った。

「“あれん”。怖い目に合わせてごめんよ。今後、『何とかなる』という考えは、僕の辞書から抹殺するよ」

「でもスリル満点で十分楽しかったわ。それに私的には、神様にお会いできたし。こんな縁を作って頂いた旦那様に感謝してるわ」

「あと一か月少しで日本に戻るから」

「首を長くして待っていまーす」

二人は、周りにはばかることなく抱き合い、そしてお互いに振り返りながら別れた。

シカゴに戻った竜太は、何とか残りの期間も無事に仕事をこなし、3月末に日本に戻った。戻る前、アメリカ人スタッフから、これから4月になったら花も咲いて綺麗な季節を迎えるのに、今帰るのはもったいないと言われた。竜太も1月から3月の期間は考えたら最悪だったと思ったが、心は、早く“あれん”に会いたい気持ちがしめていた。


**新婚旅行の行先**

帰国した竜太は休日を利用して新居を探した。竜太は、酒も飲めなくしかもタバコも吸わなかったので、自然と貯金が貯まるようになっていた。“あれん”は、音大でピアノを習っていた関係で、学生時代からピアノを教えていたので、竜太に負けない位貯金がたまっていた。二人は相談して、二人の貯金と低利の会社の住宅ローンを借りて、中古の良さそうな物件を見つけ購入した。ただ、帰国してから行う予定だった披露宴をする余裕が、家の購入と新婚旅行の費用で無くなってしまった。二人は、どうしようかと悩んだ。

「両親におんぶするのは、出来ないしね。兄二人は自分たちだけのお金でやってるから、末っ子とはいえ、甘えられないんだよ」

「私も、養女として、育てて頂いた恩があるから、これ以上甘えられないわ。それに、お金のかかる音大まで行かせて頂いたから」

「こんなのどうだ。家をきちんと整理してから、親しい友達を家に招待して、それを僕たちの披露パーテイにしよう。一度に全部呼べないから、僕の友人と“あれん”の友人とで分けてやるのはどう」

「それ、いい考えだわ。賛成。家を綺麗にしてから招待してね。その時に新婚旅行の写真なんかも見せたらいいね」

二人は、意外と簡単に問題をクリアして、頭がスッキリした。

こんな風に、すべて順調に行っていた二人だったが、新婚旅行の行先だけは、何故か意見が合わなかった。

「私の友達は、新婚旅行はヨーロッパや最低でもハワイよ。私もヨーロッパとは言わないからハワイには行きたいわ」

「せっかく結婚できたのに飛行機事故にでもあったら、短い時間しか二人で過ごせないよ。それに、二人でいたらどこでもいいよと言ってたんと違うか」

「飛行機は今はとても安全なのよ。それに、豪華なホテルに泊まりたいなんて一度も言ってないんだから」

「国内なら一流のホテルに泊まれるよ。そっちの方がずっといいよ」

「新婚旅行よ。一生に一回しか行けない様なところに行きたいわ。国内ならいつでも行けるじゃない」

「僕の飛行機嫌い知ってるだろう。楽しいはずの新婚旅行を恐怖に震えながら行けと言うの」

それを聞いた“あれん”はプッと吹き出してしまった。

「何がおかしいの」

「旦那様が、飛行機の中で震えてる姿をつい想像してしまったの」

「そんな震える恰好するわけないだろう。見た目は堂々としてるよ。只、心理的に怖いだけだよ」

「しばらく冷却期間おきましょう」

「そうだな。ところで“あれん”の名前“ガン子にしたら」

「じゃあ、竜太さんは“竜の落とし子”さんね」

その後も、二人はかんかんがくがく話しあったが、なかなか両者譲らずの状態が続いた。竜太も、“あれん”もお互いに相手の頑固さに、こんな筈じゃなかったのにと閉口した。


**運命の占い**

ある日曜日、家具を見るために二人は三宮の街に出た。北野の異人館街からトアロードを下がり、三宮に戻ってきた。途中、二人は偶然ビルの奥に水晶占いの看板を見つけると、同時に顔を見合わせ二人共これだと思った。

「旅行先、こうなったら占いで決めようか」

「そうね、行先で二人の人生が支配されるわけでもないし、そうしよう。私も結果に従うわ」

二人は、論争に疲れ果てていたこともあり、最後は占いにゆだねることにした。

看板にあったビルの二階に上がって行った。何か薄暗く、いかにも神秘的な雰囲気が漂っている。“あれん”は、両手で竜太の右手を掴み離さなかった。意外と怖がりなのだ。二人は、恐る恐るドアをノックすると中から、女の人の声で

「待っていたよ。お入り」

二人は、待っていたよという言葉に、思わず顔を見合わせた。

「こんにちは。『待っていた』って、僕たちが来るのわかっていたのですか」

「そんなのが分からないようなら、占い師やっていないよ」

竜太は、最初から“はったり”を食わせるなんて怪しいなと思った。二人は、部屋の暗さにやっと目がなじんできた。相手を良く見ると三十前後のベールを被った美しい女だった。

「そう言われるなら、僕たちの相談事も分かるのですか」

「私を試しているのか。見ると、恋人同士だね」

「ちょっと違いましたね。もう夫婦ですよ」

「気分はまだ恋人同士と思うけどね」

「そう言われれば、そうかな」

“あれん”は、内心恋人同士に見られて嬉しかった。

「ウーン。相性は今までで見たカップルの中では一番良さそうだね。こんな場合前世からの縁が相当強いんだ。と言っても、前世のことは覚えていないだろうね」

今度は“持ち上げ”かと竜太はますます怪しく思った。

「僕たち奇跡的な出会いをしたんです。こんな偶然あるのかなと思ったぐらいです」

竜太と“あれん”は、二人の奇跡的な出会いを占い師に説明した。すると

「今、偶然と言わなかった?」

「言いましたけど」

「世の中に偶然と言うものは無いんだよ。全て必然なの。このことをしっかり、肝に銘じておきなさい。そうすると、世界の見方がすっかり変わるよ。今まで見えていなかったものが見えたりしてね」

「竜太さん。前に話した私の友達も、同じ様なこと言ってたわ」

「友達て、高橋なんとかという方を尊敬している友達」

「そう、高橋佳子先生」

「その方の『祈りの道』の本、私も持ってるよ。占い仲間からもらったんだ。この高橋佳子という方は本物だね。本を読めば自ずとわかるよ。さて、本題に戻そう。相談したいのは方角に関してだね。家の方角、または新婚旅行先の方角だろう」

「すごい。ピッタリ。そうビックリするくらいピッタリです。私達まだ新婚旅行に行ってないんです」

二人は、あまりにもピッタリあたっているのでびっくりした。竜太は占い師に対する疑念が少しは解けて見直す気持ちになった。

「びっくりするほどのことではないよ」

「失礼しました。実は新婚旅行先を決めかねてるんです。僕は信州方面と言ってるんですが、彼女はハワイと言ってるんです。どちらが良いか相談したいのです」

「信州とハワイか。見て進ぜよう」

占い師は、水晶に被せていた紫のカバーを取ると、独特の手の動きで水晶を覆った。しばらく水晶を凝視したあと、しばらく瞑想を続けた。

「エーイ」

占い師は急に大きいな声を出した。

「信州でもハワイでも無いね。東南アジアのどこかの国のようだ。そこには何かきらびやかな宮殿やそれを巡る堀のようなものがある。それに、周りが山に囲まれているところだ。そこに、あなた方は、引き寄せられるように行く」

「タイのチェンマイ」

“あれん”は思わず叫んだ。

「どうして分かるの」

「わたし〈王様と私〉の映画を見てから、なんとなくタイにあこがれていたの。山に囲まれて、堀が見えるところと言えばチェンマイしか思いつかないわ」

「タイなら丁度いいかも。ハワイより近くて、おまけに安くいけるよ」

「丁度二人の希望の中間ね」

それを聞いた占い師は突然怒った様に

「何を言うか。占いと言うのは、二人の希望を折半するものではないんだ。二人がそこに行かなければならない強い何かが示されているんだ。行けば分かるよ。向こうに行けば、あなた方を待っている人がいる」

「僕たちを待っているとは、どうしてですか」

「私もわからない。只待ってる人が見えたからそう言っただけだよ」

二人はこの時は、この占い師が何を言ってるのか、よくわからなかった。

結果的には、二人にとって丁度良い妥協点だと、そちらの方に関心が向いた。竜太は、恐る恐る占い師に尋ねた。

「僕は飛行機が怖いのですが、事故は大丈夫でしょうか」

占い師は突然笑いだした。

「男のくせに気が小さいね。人間死ぬべき時が来たら死ぬんだよ。あんた方二人はどちらも長生きする運勢を持っているみたいだな。たとえ、飛行機が墜落しても助かる星の下に生まれている。寿命が短い人間は、例え街中を歩いていても、上から物が落ちてきて死んだり、石にけつまずいて、頭を打って死んだりするんだよ。あんたは、若いうちはどんなに死のうと思っても死ねないよ。だから安心して、どんどん飛行機に乗りなさい」

竜太は妙に納得できた。飛行機に対する恐怖がいっぺんに吹き飛んだ。

「おばさん。ありがとう。頭がスッキリしたよ」

「おばさんではない。私は“師”だ。それにまだ若いんだ」

それを聞いて3人が大笑いした。二人は、十分に納得して、占い師にお礼を言って占い館を出た。

「竜太さん。占い師に相談して良かったね」。

「タイもそういえば、最近新婚旅行で行く人多いよ。会社の中でも二人知っているよ」

「じゃあ、初めからそういう提案していてくれればよかったのに」

「その時は、飛行機に乗るのは、避けたかったからだよ。だけど、今日の占い師の話を聞いて、飛行機に対する恐怖心が、すっかりなくなってしまったよ。ああいう考えもあるんだなと思った。不思議に、今、飛行機にものすごく乗りたくなったよ」

「あの一言で、こんなに変わるの。あの占い師ハッタリとか言ってなかった」

「私の間違いでした」

「私もハワイに固執して悪かったわ。竜太さんと結婚できるだけで、ものすごい幸せなのに、わがまま言って本当にごめんなさい」

“あれん”は、心から竜太に謝った。

「僕こそ、“あれん”のことを一番に考えなければいけないのに、自分のわがままを言ってごめんよ」

二人はやっと、元の仲良しの夫婦に戻った。

新婚旅行は、五月の連休を最大限利用して行くことに決めた。それまで、二人は休みごとに、“あれん”手作りの弁当を持って嵐山、高雄、東山等京都の観光地を楽しんだ。

“あれん”は、ままごとの奥さんの時と同じように、甲斐甲斐しく竜太に尽くしていた。竜太は結婚してからは、昼ごはんは独身時代のように社員食堂を使わずに、“あれん”の手弁当を持って行ったので、皆からうらやましがられた。


**タイへ新婚旅行**

竜太と“あれん”は、4月29日、伊丹空港からタイへ新婚旅行に旅立った。二人にとって二度目の海外旅行だ。おやつ好きの“あれん”は、おやつを一杯買い込んでいた。

「行く前から、バッグおやつで一杯だな。現地でお土産買っても入らないんじゃないか」

「大丈夫。それまでに全部食べちゃうから」

「まるで、子供と遠足に行くみたい」

バンコクに近くなると日本語とタイ語でバンコクの状況などをスチュワーデスが説明していた。

「タイ語の説明の中にバンコクという表現どうしてしないのかしら。スチュワーデスさんは確かクルンテープの気温はとか言ってなかった」

「バンコクの本当の名前は、実際はびっくりするくらい長いんだよ。本当の名前はね、クルンテープ・マハナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーデイロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウエートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサテイット・サッカタッテイヤウイサヌカムプラシットが正式なんだ。普通は先頭のクルンテープだけが使われていて、それの意味は“天使の都”というんだ 」

「こんなの覚えたの」

「必死で覚えたんだよ。タイ人は歌で覚えるらしいよ」

「すごい。日本のジュゲムジュゲムみたいね」

「それでも街中ではバンコクの表現もあちこちで使われてるんだよ。たとえばバンコク銀行とか」

「バンコクの名前にも由来はあるの?」

「バーンは村とか家という意味があるんだ。外人がタイ人に『ここはどこですか』と尋ねたら『バーンコーク(コーク村)』と答えたところから来てるんだそうだ。この辺は橄欖樹(カンラン樹。タイ名コーク)というオリーブの木が多かったからそういう名前がついたみたい」

「一応バンコクにも由来はあるのね。すごい勉強になったわ。」

「“あれん”もタイ通になったね」


飛行機はタイの玄関、バンコクのドンムアン空港に着いた。

空港内の雰囲気がいかにも南国の風情で、建物の外に出ると空気が何かモアーンとした暑さだ。でも、日本の夏と比べると湿気が少なくカラッとしているのが良い。

“あれん”は珍しそうにキョロキョロ周りを見渡していた。入管手続きを終えて、到着ロビーに出ると、竜太は、オリエンタルホテルの出迎えの人を捜していた。オリエンタルの名前を書いた小さいプラカードを見つけると、ほっとした。明らかに新婚カップルと思われるペアが他にも5組もいた。知らない間に“あれん”は、早速一組のカップルの女性と親しそうに話している。

「もう友達になったの」

「それがね、偶然音大の先輩だったの」

「あんまり、邪魔したらあかんよ」

「ハイ、わかりました。旦那様」

「ここで旦那様はおかしいよ。いつも通り竜太でいいよ」

15人ぐらいが、ホテルの案内人について行き、マイクロバスに乗った。案内人によると、これからバスでチャオプラヤ河の船着き場に行き、そこから三大ホテル共有の豪華な専用船に乗り換え、直接川沿いにあるホテルまで直行するとのことだった。丁度夕焼け時で、二人はデッキに出て、川風を受けながら夕焼けに映える川沿いの景色を楽しんだ。

「“あれん”ごらん。あれが有名なワット アルンだよ。ワットは寺という意味でアルンは暁という意味だよ」

「暁の寺?聞いたことある名前だわ」

「三島由紀夫の小説の題名だよ」

「あれって。このタイのお寺のことだったの」

「お寺の名前が漢字で書かれてれるから、タイにまつわる小説だと知ってる人は意外と少ないんだ」

「竜太さんは読んだの」

「本屋さんで数ページ立ち読みしただけだよ」

二人は川風を受けながら川沿いの寺院や往来の船に見とれていた。たくさん人が乗っている船もたくさん見かけた。

「船が交通手段になってるみたい」

「バンコクの名物の一つが交通渋滞なんだよ。通勤時間帯なんか、一時間くらい全く動かない時があるんだって。タイの駐在員にきいたことがあるんだけど、交通整理の警官が、一方の車が途切れるまで、ズーッと流すから、反対側の車は、その間ズーット待っているんだって。その点船は信号が無いから便利なんだよ。運河は方々にあるから東洋のベニスとも言われてるんだ」

「よく知ってるわね。前に来たことあるの」

「飛行機嫌いの僕が来るわけないよ。“あれん”にいい恰好できるように前もって勉強しといたんだ。もう一つの名物は『マイペンライ』という言葉。意味は『気にしないで』なんだけど、人にぶつかっておいて、ぶつかった方がマイペンライて言うらしいよ。ぶつけた方が『気にしないで』というのは日本人からすると考えられないけどね。まあ、それだけ鷹揚な民族だということだな」

「まあ、おもしろい。私もこれから使うわ」

「マイペンライ」

「先に使われてしまった。こんな風にも使うのね」

二人はけらけらわらった。


ホテルに着き、チェックインを済まし、ロビーを通り部屋に向かった。ロビーには、色々な国の人々が屯し、国際的な雰囲気が漂っている。部屋に入ると、窓から川の景色が一望できた。

「旦那さん。タイにして良かったわ。河を望む夕暮れの景色が素敵だわ」

“あれん”が窓から景色を眺めていると、竜太は、“あれん”を後ろから抱きしめた。

「“あれん”と結ばれて幸せだよ」

「私も。旦那様」

“あれん”は振り向きざま竜太に抱きついた。


夕食は川の対岸にあるタイ料理レストラン、サラ・リム・ナームで取る。ホテル本館からレストランまでは船で渡って行く。

「船でレストランにいくなんてオシャレ。タイらしくて素敵だわ」

タイの伝統衣装を着飾ったウェイトレスが鮮やかな色彩の料理が並べると

「タイにしてよかったわ。想像以上に素敵ね。あの占い師さんに何かお土産買ってあげたいわ」

「本当だね。彼女に会っていなければ、タイに来る可能性なんかなかったもんね。最初怪しげな占い師と思ってたのに、感謝せんといかんわ」

「川風を頬に受けながら食べるのなんて最高ね。夜景も綺麗し。夢見てるみたい。私、パクチー(香草の一種)食べるの初めてだけどおいしいわ」

「うん。これはいける。だけど日本人の7割は食べられないんだって。僕たち二人共が好きだなんて珍しいんだよ」


翌日、二人は旅行社のマイクロバスに乗ってバンコク市内の有名寺院やタイシルクなどのお土産屋さんを廻った。

「タイシルク等ほしいものがいっぱいありすぎて、目移りするわ」

「タイはワニ革のバッグも有名だよ」

「そんなの、まだ贅沢だわ。明日は、竜太さんとおそろいのTシャツと帽子を買って、それを着て行こうね」

“あれん”はルンルン気分だった。竜太は、おそろいのTシャツは少し恥ずかしく感じたが、タイならだれにも見られないから、思い切って羽目を外そうと思った。

「占いの方が言っていた様な所、バンコクにはなかったから、やっぱり明日のチェンマイで誰かに出会うのかしら」

「そういえば、そんなこと言ってたな。“あれん”は良く覚えているね」

「旦那さん、忘れていたの。明日のチェンマイ楽しみだわ」

「そんなの気にしてないよ。女の子は占いが好きだから、気にするんだな」

「でも、あの占い師は何か違う気がするの」

「そんなことより、明日は早いから早く寝よう」


翌朝、二人は、飛行機でチェンマイに降り立った。

「旦那さん、チェンマイて何か京都に似ていない」

「本当だね、周りは山に囲まれて街の雰囲気も静かで落ち着いているし、これから行く山の上にあるドイステープ寺院はさしずめ比叡山延暦寺だな」


チェンマイはバンコクから北へ約720kmの位置にあるタイ北部最大の都市。『北方のバラ』とよばれる美しい古都で美人の産地としても知られている。山々に囲まれた高原の中央にある。濠をめぐらせた城郭が残る旧市街があり、市外に出れば、四方を山に囲まれた大自然が広がる。歴史と伝統を受け継ぐ町並みが、チェンマイ最大の魅力だ。チェンマイの発展の歴史は、13世紀後半にチェンマイに都を置いたランナータイ王国の建国から始まる。ランナータイ王国の首都は、もともとチェンライだったが、メーンライ王によってチエンマイに遷都された。その後、1939年にタイ国に編入された。チェンマイは“新しい都”という意味である。マイには新しいという意味がある。バンコクに比べ物価も安く、日本人も定年後の第二の人生のすみかとしてすんでいる人も多い。


チェンマイではドイステープ寺院等の遺蹟を中心に観光した。また、竜太が一番楽しみにしてたのは、象に乗って山道や川を行くトレッキング体験だった。観光ガイドが象はロールスロイスの様な乗り心地だよと言っていたが、乗ってみるとひどい冗談だとわかった。“あれん”は、最初乗るのを怖がっていたが、

「こんな経験は二度とできないよ。横に僕が座るから安心して」

「本当に横に座ってね」

竜太が横に座って肩を抱いてもらって安心したせいか、終わってから、もう一度乗りたいと言う位だ。実は竜太も、初めは少し怖かったのだが、“あれん”の手前、強がっていた。竜太も慣れてきた頃には、心に余裕ができて、小さいときに見たターザン映画の主人公になったような気分で楽しんでいた。

竜太とあれんが、その次に楽しみにしていたのが、ナイトバザールという夜市であった。食事も、夜市のレストランで、席の近くの観光客が食べている食事のメニューを指さして、同じものを注文した。ホテルのレストランの様な豪華な料理ではないが、味は抜群にうまかった。“あれん”も前もって調べてきたのか、

「タイ料理はね、アジアのフランス料理と言われる位おいしいんだって。このトムヤムクンスープも辛くてすっぱくて本当においしいわ。私、タイ大好き」

「あの、占い師のおかげだよね。時差も2時間しかないから楽だしね。ハワイなら19時間も時差があるから、眠たくて1日損したような気分になるよ」

暫らく歩いていると、写真館があった。店の前には、タイの王族の衣装を着ている写真が並んでいた。日本人らしいモデルもたくさんあった。


**待っていた占い師**

「“あれん”。記念に写真撮ろうか」

「タイの王妃様の衣装がいいわ」

二人は、部屋に入ると、一組の日本人らしいカップルが写真を撮っている最中だった。二人で椅子に座って待っていると写真を撮り終えた二人と顔を見合わせてお互いにびっくりした。

「やあー、同じ旅行社で来た方だよね。写真を撮っている時は、わからなかったけど、お化粧を落として初めてわかったわ」

「奇遇ですね。お先に」

“あれん”は、先にタイ風の化粧をしてもらった。その間、竜太は衣装を選んで先に着替えた。しばらくして、“あれん”が衣装を着て出てきた。それを見た竜太は

「“あれん”、本当にタイの王女様みたい。ピッタリだよ」

「竜太さんも、凛々しくてかっこいいわ」

二人をしげしげ見ていた写真館の主人が

「なんか、二人共どこかで見たような雰囲気だな。こんなに似合う日本人は初めてだよ」

写真屋の主人は、首をかしげながら、色んな角度から二人をしげしげと眺めていた。結局

思い出せなかったのか写真を撮り出した。

「現像写真は1時間後に取りに来て下さい。それとね、せっかくここまで来たんだからこの奥にある占い師を訪ねてごらん。有名な占い師さんだよ」

竜太と“あれん”は、思わず顔を見合わせた。

「何だろう。面白そうだから行ってみよう」

“あれん”は直ぐに反応した。

「ひょっとしたら、写真屋と占い師がグルになっていて、一人案内するとリベートをもらっているかもしれないよ」

「私には、そんな風に見えなかったけど」

二人は、写真屋に教えてもらった通路を通って、いかにもそのような雰囲気のある店の前にたどり着いた。店の前には、日本人ばかり6人が椅子に座って待っていた。3組のカップルだった。六十前後の落ち着いた夫婦に竜太は尋ねた。

「すみません。僕たち、そこの写真屋の主人に紹介されて来たのですが、ここは、有名な占い師なのですか」

「私たちも、先に見てもらった友達に紹介されて来たんです。インドにはアガステイヤの葉でその人の人生を見る有名な話があるでしょう。ここの人は、葉っぱではなく、本人の姿を見ただけで、名前も年齢も聞かずに、今までの人生や今後のことを教えてくれるんだそうですよ。ほんまかどうか信じられんけど、1回試しに来たんです。若い頃に日本に住んで居たらしく、日本語もペラペラらしいよ」

「そうなんですか。僕もアガステイヤの葉についての本を読んだことがあります。信じられなかったけどね。結局いっぺんに当てるのではなく、何回も何回も聞いては聞いて、該当の葉を見つけ出すそうですよ」

「竜太さん。アガステイヤの葉てどんなお話」

「大分前に読んだから詳しいこと覚えてないけど、その人の過去・現在・未来の事が葉っぱに書かれているんだって。それを書いた人は大昔のアガステイヤと言う人なんだ。ピッタリ当たるという人もいて、一時ブームみたいになったけど、そういえば最近その話聞かなくなったね」

「ふーん。ここの占い師さんは何も聞かなくてすべて分かるって。そう言えば友達が高橋佳子さんも初対面でその人の一生をわかるとか言ってたよ」

「そんなのは、あまり真剣に考えない方がいいよ。当たるも八卦、当たらぬも八卦というだろう。気楽に遊びのつもりで聞いてればいいんだよ」

「それもそうね。私、前世という言葉は使うけど、本当は信じてないの。竜太さんは」

「難しい質問だな。僕は、肯定も否定もしないよ。分かりやすくいうと。判断できる材料が少なすぎて分からないということ。だって、肯定も否定もそれ相応の理由がいるだろう。そのどちらの理由も見つからず、わからないから信じないという考えには、くみしないんだ。そういう考え方は人間の傲慢だと思うんだ」

「竜太さんの考え、論理的で解りやすいわ。私は否定する理由はね、見えないものは信じないということだけど、それでは、だめなの」

「科学技術が一番と思い込んでいる人には、そういう人が多いんだよな。だけど、それも人間の傲慢な考えだと思うよ。“あれん”はエネルギーの存在は認めてるだろう。それって見える」

「そう言われれば見えないわね。そうか、見えないのに認めてるのは矛盾してるんだ」

「エネルギーは仕事に変換されたら、その仕事を通して、その存在がわかるんだよ。地面に置いてある鉄の球は、そこに静止している限り仕事しないだろう。だけど、それを持ち上げるとその鉄の球に位置のエネルギーが生まれるんだ。その球をガラスの上に落としたらガラスを割るとか、杭を打つ仕事をする。」

「わー。竜太さんスゴイ。今の話良くわかる。それなら、自分の心はどうなのかしら。例の友達がね、心は内なるエネルギーと言ってたわ」

「そうか、僕にとってそれはすごい発見だ。そこまで頭が回らなかったよ。そう考えると、人間の心もすごいエネルギーを持ってると言えるね。人間が空を飛びたいと思ったから、心のエネルギーが飛行機を生むという創造の仕事をしたと言える。これは創造のエネルギーと言ってもいいくらいだ。このことをその先生が“内なるエネルギー”と言ってるの。初め、高橋佳子て怪しげな方と思っていたけど、その先生て、凄い方だということが段々わかってきたよ。僕も、一度その方のお話聞いてみたくなったよ」

「今度一緒に行きましょうか。友達もきっと喜ぶわ」

「先ずその先生の本買ってみよう」

「私にも見せてね」

「じゃあ、本代半分出してね」

「どうして。竜太さんが読むんでしょう。私はその後で読むんだから。減りもしないんだから、そんなこと言わないで」

「だって、来月からお小遣い月五千円になるんだろう」

「竜太さんは、お酒もタバコもゴルフもしないし、それに、好きなコーヒーは、私が家で作ってポットに持って行ってもらうのだから、それで十分でしょう。家のローンがあるのだから辛抱してね。私もがんばるし」

「ハイハイ。わかりましたよ。“あれん”は、しっかりしてるな。ある意味安心したよ。家計のことは、すべて大蔵大臣の“あれん”に任せます」


そうこうしている内に、竜太と“あれん”に順番が回ってきて、二人は部屋に入った。

会うなり、占い師は二人の顔をしばらくじっと見つめてから、姿全体をじっくり見まわした。

「神戸で私の妹に見てもらった方だね。そこに座って」

二人は静かに木製の二人掛けのベンチに座った。

「待ってる人って、お姉さんだったのですか。それにしても僕たちのこと、直ぐに分かるんですね」

「そうだよ」

「妹さんもタイの方なのですか」

「そうだよ。私たちの先祖は中国のタイ族だから、日本人と似ているのよ」

「妹さんは、私たちに新婚旅行は、タイに行きなさいと、えらく断定されたのですが」

「妹も私ほどではないけど、前世の姿を見ることが出来るのよ。あなた方は、強い魂を持っているから、妹にも、はっきり見えたんだろうね。ところで、お二人は、今までに何度も神様に助けてもらってるけど、気づいてないでしょう」

「神様に助けてもらってる?よくわからないのですけど」

「神様はね。私が“神”だと、名乗って出ないからね。逆に名乗って出てくる神には気を付けた方がいいよ。神様はいつも身の回りにおられるから、助けてもらっても気づかないのよ。ご主人。貴方の胸のあたりに大きな石灯籠や、アメリカのパトカーに先導されてる場面だったり、大雪の中をダンプカーについて走っている映像が見えるよ。何か心当たりないか」

竜太と“あれん”は、思わず顔を見合わせた。

竜太は急に冷や汗が出てきた。“あれん”は思わず

「竜太さん、あの時のことよ」

「神様って、本当に居られるんだ」

竜太はそれでもまだ信じがたいという顔をした。

「もう一つビジョンが見えたよ。奥さんがまだ中学生くらいの時、どこかの事務所で電話していて、その横でご主人が見守っている情景だよ」

竜太と“あれん”は驚いた。

「駅長室で会ったの、竜太さんだったの」

「“あれん“だったの」”

「何だ。二人とも気づかずに会ってたの。それほど深い縁に結ばれているということだよ」

占い師は呆れたように言った。

「なぜ私たちはタイを選んだのですか」

「あなた方の魂が引き寄せたんだよ」

「私たちの前世はタイ人だったのですか」

「人間の魂は、転生を繰り返しているから、色んな国で生まれてるのだよ。ただ、今世、生まれたときには、直近の前世の強い願いを持って生まれてきているから、私の妹でも、二人を見て、はっきりわかったのよ。あなた方の前世はここタイのチェンマイに縁があるんだよ」

竜太と“あれん”は、お互いに顔を見合わせた。

「私たちの強い願い?」

「それはね、もう少し人生を経験して、振り返った時に分かる場合もあるし、突然思い出す場合もあるのよ。私から見ると、既に色濃く見えてるよ」

あれんが急に呟いた。

「私たちの出会いだわ」

竜太は、怪訝そうに

「でも、それは単に偶然が重なっただけでは」

占い師は竜太に諭すように言った。

「今の人たちには理解しがたいだろうけれど、人生に偶然は無いんだよ。全て必然なんだよ」

「それじゃあ、私と主人が結ばれたのも、偶然ではなくて必然と言うことですか」

「二人は、会いたくて会いたくて今世生まれてきたんだよ」

“あれん”の目はランランとして顔まで生き生きしてきた。竜太はまだ納得しかねている様子だ。占い師は竜太に向かって言った。

「今までお客に見せたことは,一度も無いのだけど、あなた方は、私にとっても特別な魂の様だから見せたいものがある」

「私たちと特別な関係」

「奥さん、私を見ても何も思い出さない?」

あれんは、目を凝らして占い師をじっと見つめた

「すみません。思い出せません」

「ご主人も思い出さない?」

「僕も関係あるのですか」

「奥さんとの関係で、貴方のこともよく知っていますよ。私も、こうして、貴方達と会えて胸が張り裂けそうなくらい懐かしさに浸っているのよ」

占い師の目には涙がにじんでいた。竜太と“あれん”は、この占い師とも前世で何か繋がっていたんだろうかと不思議な気分になった。占い師は気を取り直して二人を奥にあるテーブルの近くに誘った。そして部屋の照明を可能な限り小さく絞り、二人をテーブルの前に座らせた。テーブルの真ん中には、14インチのテレビ画面位の大きさの水槽が置かれていた。

「二人共、見てごらん」

竜太と“あれん”は、何だろうと期待と不安が入り混じったような何とも言えない気持ちで覗きこんだ。そこには、今のタイの民族衣装とは明らかに違ったチェンマイのランナータイ王朝時代かその前後の時代のものかと思われる衣装を着た若い男女が仲良く語り合いながら歩いている光景が見えた。すると、「アッ」も言わせず二人はその画面の中に、

『グオーッ』

という轟音と共に渦に巻き込まれる様に吸い込まれてしまった。

「ウアーッ」

「アレーッ」


**前世の二人**

竜太と“あれん”は、気が付くと画面で見ていた光景の場所に立っていた。二人の目の前を、仲良さそうな二人の青年男女が歩いて来た。竜太と“あれん”は、咄嗟に隠れようとしたが、隠れる場所がなかった。どうしようかと思ったが、その青年男女は、二人には全く気づいて無い様だ。

「竜太さん。向こうから私達見えてない様よ」

「本当だ。こんな近くにいるのに」

“あれん”は、二人の顔を見つめていたが、ハットした。

「竜太さん。あの二人私達じゃない」

“あれん”と竜太は、その瞬間、前世の自分達を思い出した。

「 “あれん”はモラコットだったのか」

「竜太さんはウイワット様」

その瞬間二人の魂はそれぞれの自分の前世の二人の体に吸い込まれるように飛び込んだ。

「モラコット。今日は、約束の時間に随分と遅れて来たけど何かあったの」

「いつもは、母は気をつけて行くのよと送り出してもらえるのに、今日は、これからしばらく、外出を控える様にというのよ。納得できないので、今日に限ってどうしてと聞いたら、今は話せないけど、貴女に身の危険が迫るかもしれないから、屋敷から出てはだめよと言われたの。私は、貴方との約束だったから、どうしても会いたくて、誰にも見つからない様に私だけの秘密の裏口からそっと出てきたのよ」

「そうか。そちらもそうか。一週間前に王様が急に亡くなられてから、こちらも、父と重臣たちが会議を開き、地方に派遣されていた軍人達が続々屋敷に集まってきているんだ」

「これから今までの様に、簡単に行き来出来なくなるし、連絡も出来ないかもしれない。

ウイワット様、私怖い」

モラコットはウイワットにしがみつくように体を寄せた。ウイワットは安心させるようにモラコットを抱きしめた。

「心配するな。僕がついてる。これから、連絡が無くても、週の初めの日に、この場所、この時間に会うことにしよう」

「どうしても、その日に行けない場合はどうしたらいいの」

「そんな場合は、違う日にあの木の窪みに手紙を入れることにしよう」

「わかったわ。ウイワット様も気をつけて」

ウイワットはモラコットをもう一度思い切り抱きしめた。

「これから、お互いに何か情報があれば、連絡しよう。手紙が見つかると大変なことになるかもしれないから、読んだら破って捨てるように。それから、これを僕だと思って身に付けてほしい」

ウイワットは竜の絵柄が縫いこまれた小さな袋を渡した。

「中にあなたの命を守る竜を彫った金の板が入っている。だれにも見せない様に」

「わかりました。ウィワット様と思って大切にします」

その日、二人はお互いを振り返り振り返りしながら別れた。

モラコットは、これから何が起きるのかしらと不安で仕方がなかった。何よりも、二人で約束していた結婚ができるのか不安だった。モラコットは、ウイワットからもらった袋をきつく握りしめた。


王様が健在の時、ウイワットの父ピニットは武官の長であった。モラコットの父ソンブーンは文官の長だった。少なくとも形の上では、お互いに協力して王様を支えていた。王様も全幅の信頼を二人に置いていた。お互いの安泰の為にも、そうするのが一番良いという暗黙の了解だった。その為、両家の家族も何のいさかいもなく仲良く往来していたので、幼い時から遊んでいた同じ年頃同志のウイワットとモラコットも自然と仲良くなり、周囲の誰もが近い将来結婚するものと見なし、許嫁(いいなづけ)も同然だった。しかし、王様の突然の死によって、この両家の暗黙の了解の前提条件が、一夜にしてガラット崩れたのだ。三十代の若い王様のあまりにも突然の崩御により、後継問題がやにわにクローズアップされた。問題は世継ぎのサミット王子がまだ5歳と幼いことだった。モラコットの父は、モラコットの母の親戚である王の弟チャリンを王子が成人するまでの間の後継と考えていたが、ウイワットの父ピニットは、王妃から秘密裏に呼ばれ、王様の息子サミット王子が後継者になるように力を貸すように頼まれていた。これは王妃の希望であるという有利な背景があった。王様がいたときは、ピニットとソンブーンは、支えあう二人だったが、後継に関しては、王妃と王弟の権力争いもからんで、互いに譲れなかった。これは、武官の長に選ばれなかった王様の弟チャリンが、宮廷での形勢を逆転する為、モラコットの父ソンブーンに強く働きかけていたからである。チャリンは武芸に秀で、勇猛果敢であることで知られていたが、わがままな振る舞いが多く、部下からの信望も薄かった為、先の王は、武官の長に任じなかったいきさつがあった。ソンブーンは、後継者にだれがなろうとそんなにこだわっていなかった。従来通りピニットと二人で新しい王様を支えるつもりであったからだ。しかし妻からの強い要請もあり相当悩んだ。サミット王子の後見人にピニットを認めると、権力をすべて握られるのではないかと家臣団からの意見も考慮せざるをえなかった。とうとう今までのピニットとの友誼を捨て去る決意をした。ピニットとソンブーンのそういった対立の雰囲気は、王の後継者を決める重臣会議でも顕著になってきた。

後継者を決める王族と重臣たちの会議が開かれた。ピニットは、

「王様の直系の王子がおられる限り、後継者は、王の嫡男の王子様を選ぶのが、混乱を招かない唯一の方法である。王子の後見は、王妃様からのご依頼で私が受ける所存でございます」

と強調した。これにすぐさまソンブーンは異議を唱えた。

「そなたは、王妃様を利用し、後見と称して権力を握ろうとしているのは何よりも明らかだ。王の後継を王族であられる王弟チャリン様が継ぐのは、今まででも数多く例がある。サミット王子が成人するのを待って、王子に引き継ぐやり方が、王の血筋を継続する一番良いやりかただ。王子の後見人に王族以外の者がつくというのは、王妃様の考えと言えど不謹慎である」

重臣たちはソンブーンの意見に同調するような雰囲気になった。

「幼いといえど王子に継がせたいという考えは、何よりも王様のご意向を一番ご存知の王妃様のご意志である」

ピニットはあくまで王亡き後の最高権力者である王妃の考えを第一優先することを強調した。

重臣たちもこの意見にもどよめきが起きた。

実はピニット自身も、後見人に王族がつくことに反対ではなかった。但し、チャリンが後見人になると王様をないがしろにして、彼の野心から、頻繁に周囲に戦争を仕掛けかねないことを心配して、彼が権力を握ることはどうしても阻止したかったのだ。

会議では武力を背景にした亡き王の弟の発言が、やや会議をリードしてきた。人望が厚いピニット側より、人望は薄いが王の一族である弟とその武力を頼んで味方するものも合わせると、兵力の面ではやや優勢であった。ただ、ピニットは武官の長として戦いに精通していて、名将軍の誉れが高かった。兵力の数の上では、王弟チャリンに劣っていたが、どちらが優勢かとなると予断を許さないところがあり、後継者を決める会議では勢力は拮抗していた。このままでは、武力による解決を探る動きも出てきそうな雰囲気が益々大きくなりそうであった。

王妃はこの場では結論を出さず、三日後に再開するとして、一旦会議を散会した。

機を見るに敏なるピニットは、王の死を伝え聞いたその直後に既に動いていた。すぐさまピニット配下の軍隊を密かに宮廷周辺に招集した。チャリン側は、後継者問題は自分らに有利と判断し、油断して特に軍隊を集結させる様な動きはなかった。

ピニット側の軍略会議には、長男のニワットと弟のウイワットも呼ばれた。ウイワットは、父親譲りの体躯で武芸、特に弓に秀で、若い時から彼の堂々たる姿に接した兵は思わず、頭を垂れる位の威厳があった。長男のニワットは、病弱な身であったが知恵者で父をも超えていると言われ父の良き相談者であった。

ピニットは、部下に指示をした。

「第一軍団は、精兵を200人選び王弟チャリンの居城にひそかに向かえ。但し、鐘や太鼓、旗ざしを多く持って行き、大勢の軍勢が攻めているように見せるのだ。戦わず、大勢の軍勢が包囲しているように見せかけるだけでよい。王弟は、あわてふためいて、戻ってくるだろうが、適当にあしらって、出来るだけその地にとどめる様にするのだ。攻めてきたら殺すか、生け捕りにせよ。王弟の軍勢が全部到着したころを見計らって、旗ざし、たき火などを残したまま、悟られぬように静かにに引き揚げよ。橋を渡ったら、その橋を壊して、彼らが戻れぬようにして帰れ。今からすぐさま出陣だ」

「かしこまりました」

武将達は、ピニットの作戦に感動した。

「さすが将軍様。見事な作戦です」

ピニットは続けて言った

「王弟を切り離すことに成功したら、ソンブーン側についた諸将に手紙を送り、王弟は帰りの橋を失いこちらには戻れない。戦況は、戦わずしてこちらに有利となった。今、こちら側につけば、反逆の罪は問わないと連絡するのだ」

「将軍、戦わずして勝利を収める最高の作戦です。我々一同感服いたしました」

「まだまだ。念には念を入れる。王弟の軍隊は、橋が通れなければ、上流の川幅の狭い浅瀬の場所を通るはずだ。ウイワットは、兵500人を率いて、そこで待ち伏せするのだ。敵の軍勢が川を半分渡った頃を見計らって、攻撃を仕掛けよ。王弟は、この国唯一の武人だが、兵を率いる才に欠けている。先王は、そこを見抜かれて王弟を指導者から外したのだ」

「かしこまりました。直ちに出発します」

この作戦は兄ニワットが、父ピニットに進言したものだった。これを聞いたウイワットは勝利を確信した。しかし、同時に敵側となる恋人モラコットのことが心配になった。何とか、この戦いを止めなければならないと思案した。ウイワットは、自分の部屋に戻りもっとも彼に忠義な部下を呼び、モラコットへの手紙を託した。

「これから言うことは私とお前だけの秘密だ。決して口外してはならぬ。農民の服装に着替えて実行してくれ。この手紙を、一緒に渡す地図の場所にある祠の傍にある大きな木の下部にある窪みに置いてくれ。万一、これが見つかれば私は死を授かるかもしれない。頼むぞ」

「わかりました。命に代えても秘密を守ります」

ウイワットは、気持ちを切り替え覚悟を決め戦場に向かった。

モラコットは、約束の場所に、いつもの時間に来たが、ウイワットが現れなかった。

「ウイワット様どうされたのだろう」

モラコットは、暫らく木蔭に隠れながらウイワットを待っていた。

「そうだ、手紙があるかもしれない」

モラコットは祠の木の下の窪みに手を入れて中を探った。すると布らしきものを見つけ取り出した。布の中には彼からの手紙が有った。月明かりのある場所に移り手紙を見ると、手紙には次のようなことが書かれていた。

『詳しいことは言えないが、暫らく会いに行くことが出来なくなった。早くて2週間後には戻れると思う。その時に詳しい話をするから、それまで私を信じて待っていてくれ。この手紙は、直ぐに破り捨て、土の中に埋める様に』

モラコットは、ウイワットの消息が分かってホットした。モラコットは竜の袋を胸に抱きウイワットの無事を祈った。

丁度その頃、ソンブーン側の陣営に、王弟チャリンの居城に向けてピニットの軍隊が進攻したとの情報が入った。いよいよ始まったかと、ソンブーン側の陣営に緊張が走った。王弟チャリンは、そんな緊張感を裂くように大声で笑った。

「心配することは何も無い。奴らの終わりが始まったのだ。俺が直々に行って粉砕してきてやる。俺が戻るまで、安心して待っておれ。俺が戻るまで、防御を固めてこちらから手を出すな。

くれぐれも用心を怠るな。ピニットは武官の頭である事を忘れるな」

チャリンは豪語しながらも、本心はピニット側の素早い行動に衝撃を受けていた。チャリンは、すぐさま1500の兵を率いて、自分の居城に向かった。ソンブーンは、チャリンが抜けている間、兵力の優勢が崩れるため、抜けた穴埋めをどうするか考えていた。

「村民で15歳以上の男を至急砦に集めよ。そして、彼らに武器を与えて、短期間で訓練を始めよ」

ソンブーンは、兵の頭数だけでも揃えて、陣営の士気が衰えぬように気を配った。

周囲のあわただしい動き、軍隊の動きにモラコットは、不安で胸が裂けそうだった。

親戚のように仲が良かったピニット家とソンブーン家が、王の死によってこんなに急激に一挙に崩れていくのが信じられなかった。モラコットは母に尋ねた。

「お母様、王様の跡継ぎは、王子様が今はたとえ幼くても、ピニット様が後見していても

良かったのではないですか。今まで仲良かった方々が,争うなんて悲しいです」

「人間、権力を持つとどう変わるかわからないわ。チャリン叔父さんが継いで、その後に王子が成人してから、王子に引き継ぐのが、王族が権力を一瞬たりとも手放さない最も良い方法なのよ。ウイワットを思う気持ちはわかるけど。ウイワットだけでも、助けられないかお父さんに頼んでおくわ。当面は間違っても彼と会わない様に自重するのよ」

モラコットは、ウイワットだけでも助けてくれるとの言葉を聞いて、少しは安堵したが、それでも、そんなにうまくいくのかしらと不安だった。モラコットは、最近心配事を叔母のように慕っている付き人のマリカーに相談していた。マリカーは、ウイワットとも親しい間柄で、二人の良き理解者でもあり、今回の両家の離反に心を痛めていた。実はこのマリカーこそが、タイの占い師の前世の姿であった。

そんな時、衝撃の知らせがソンブーン側に届いた。

「大変です。王妃様と王子様が見当たりません。ピニット側にかくまわれたとのことです」

ソンブーンは愕然とした。

「しまった。抜かった。今の話は絶対口外するな。報告した者とこの事を知っている者を捕え、暫らく牢内に隔離しておけ」

王弟チャリンは、ピニットの作戦にまんまとかかり、居城に着くとすぐに、ピニットの軍隊がチャリンをおびき出す作戦と知り、あわてて戻ろうとしたが、既に橋が壊され、やむなく川の上流に回った。川の浅瀬を渡って半分ほど進んだところを、ウイワットに奇襲された。先頭は敵に攻められ、後方は進んでくる味方に押され、大混乱したところを打ち破られ部下の大半を失なった。チャリンは、それでも散々な態でわずか数名ほどの部下と逃げ帰ってきた。

ウイワットは、大きな戦果を挙げ誇らしげに父ピニットに戦果を報告したが、肝心のチャリンを逃したことを、えらく叱責された。

「ウイワット、今後のために今回のことを肝に銘じておくのだ。今回の作戦の要諦は、チャリンそのものを殺すか、捕えることなのだ。つまりソンブーンとチャリンを離すことだったのだ。お前ならわかっていると思って、念を押さなかったのがわしの失敗だった。雑魚の様な部下を何名殺そうと、戦況に大きく影響しない。チャリンが元に戻ってしまった。さて、今後、どうするかだ。お前ならどうする」

ウイワットは、直ぐに答えられなかった。

「ニワット、おまえは」

ピニットはウイワットの兄であるニワットに問うた。ピニットは自分の後継を兄のニワットと考えていたが、ニワットは、後継は、部下からも慕われているウイワットに譲り、自分はウイワットを支える側に回りたいと申し入れ、父ピニットもその意見を尊重していた。そのニワットはすぐさま答えた。

「チャリンが戻り、体制を建直す前に、総攻撃を仕掛けるべきです。今から、出発できる部隊からすぐさま出陣し、敵を一望できる陣地を、真っ先に確保すべきと考えます」

「さすがニワット。“兵は拙速を貴ぶ”だな」

ピニットは、直ぐに号令を出した。

「直ちに出陣せよ。装備は不完全のままで良い。先ず、敵に知られぬように、高台の陣地を確保せよ。後続部隊は、すぐさま装備を用意し、準備が整い次第、先発隊に送るのだ」

それを聞いたウイワットは、急激な作戦進行にあせった。

(モラコットが危ない。彼女を早く救わなくては)

ウイワットは、周りにわからぬように、身を隠し闇夜に紛れて、ソンブーンの陣地に向かった。途中砦を振り返り

(父上、父を裏切ることになり、申し訳ありません。必ず私を罰して下さい)

ウイワットは、闇に紛れて馬を飛ばしソンブーンの陣地の前に立った。

「私は将軍ピニットの息子のウイワットだ。至急の用事がある。ソンブーン閣下にお目通りを願う」

ソンブーンは、何事かと、すぐさまウイワットに面会したが、チャリンには、この面会を知らさなかった。

ウイワットは、冷静に礼を尽くしソンブーンに説得するように話した。

「父ピニットは、明朝には、ソンブーン殿の陣地を包囲し、一気に総攻撃を仕掛けます。軍隊の士気も上がっています。王弟チャリン様の軍団の立て直しができていない今、勝敗の結果は明白です。どうか、降伏して、父ピニットの王子様の後見を、お認めください。そして以前の様に、お二人で王家を御守りください。」

ソンブーンは、ピニットのあまりにも思いもよらぬ電光石火の早業に驚愕した。しかし、降伏したとしても、以前の様な交友関係に戻れるか疑念が残る。しかし、時間もない。たとえ降伏しても、王弟チャリンがどうでるか。第一これはあくまでウイワット独断の考えからで保証は何もない。ソンブーンは、いずれ王弟にも伝わる問題ならと、チャリンの部屋に行き、ウイワットの提案を投げかけた。

チャリンはソンブーンから説明を受けるとニヤリと笑った。

「ソンブーン。何を迷うことがある。飛んで火に入る夏の虫とはこのことだ。千載一隅のチャンスですぞ。このチャンスを逃してはいけません。青二才のウイワットのお陰で幸運の女神がこちらに振り向いた」

「ウイワットを人質にするのか」

「その通りだ。ウイワットはピニットが一番可愛がっている彼の後継者だ。すぐさま陣地の前に、柱を立て、彼を(ハリツケ)にしろ。その下にマキをくべて置くのだ。彼がいる限り、ピニットは簡単に攻撃を仕掛けられない。その間に、わが軍の守りを立て直すのだ」

「なるほど。さすがチャリン様。悪知恵が働きますな」

「何を。わーははは」

ウイワットは直ぐに捕えられ、陣地の前に仕掛けられた柱に磔にされた。この話は、あっという間に陣中に広まり、恋人モラコットにも伝わった。モラコットは、あまりの衝撃に気を失った。驚いた付き人マリカーは、モラコットを介抱し、正気に戻させた。

「お嬢様。倒れている場合ではありません。ウイワット様をお助けしないと」

モラコットは、ハット気づき、父ソンブーンの所に駆けて行った。

「父上、身を呈して仲介に来られたウイワット様をあの様なひどい目にあわすのですか。どうか、ウイワット様をピニット様の陣地にお返し下さい」

「モラコット。心配するな。ピニットは、可愛い息子を犠牲にしてまで、攻めてくるはずが無い。ウイワットには悪いが、彼を人質にして、話し合いを有利に進めるのだ。心配せずに黙って見ていなさい」

モラコットは、父にそのように言われ、何も言えなくなったが、不安が消えたわけではなかった。もし、人質のウイワットに気づかずピニットの軍勢が攻めて来たら、ウイワットはたちまち、火あぶりにされて殺されるかもしれない。モラコットは部屋に戻り、マリカーに父の話を伝え相談した。マリカーは、二人を何とか救う方法を真剣に考えていた。

下を向き真剣に考えていたマリカーは、ハット顔をあげた。

「モラコット様。一つだけ方法があります。但し、モラコット様も命を懸けることになります。正直言って確信が持てませんが、一か八か、かけられますか」

「それは、どういう方法なの」

「モラコット様も、ピニット側の陣営に駆け込むのです。こちらにウイワット様が来られ、今、人質になっていると伝えるのです。そして、モラコット様と人質を交換する条件で、ウイワット様をお救いするのです」

モラコットは、直感で、それしかウイワット様をお救いする方法がないと思った。

「マリカー。わかったわ。時間が無いの。私を極秘でピニット様の陣営に連れて行って」

マリカーは、普段から気心の知れた部下に馬一頭を用意させ、モラコットの衣装を平民の衣装に着替えさせ、髪型も変えさせ、誰が見てもモラコットお嬢様と分からないようにした。二人は、秘密の出口から外に出て、部下が馬を連れて待っている場所に向かった。マリカーはモラコットを前に乗せ、自分はその後ろに乗り馬をピニットの陣営に飛ばした。

モラコットは、ウィワットからもらった竜の袋を握りしめていた。

もう朝は白みかけている。総攻撃が始まる前に着くように必死に馬を飛ばした。陣営に着くやいなや

「私はソンブーンの娘、モラコットである。ピニット閣下に至急のお目通りを」

モラコットは身分を明かし、ピニットに至急の面会を求めた。二人はピニットの前に引出された。その時、同時に総攻めの大将である長男のニワットから伝令が来た。

「ウイワット様が敵陣の砦の前の柱に磔にされています。兵が攻めるのを躊躇しているので、至急ご指示をお願いします」

ピニットはそれを聞いて愕然とした。

「ウイワット!。何と浅はかなことを」

モラコットは、ピニットにウイワットが捕らわれた経緯を説明し、更に言った。

「ウイワット様を助けるために、どうか私を人質に取ってください」

ピニットは一連の発言を聞いて驚いた。実は、ピニットの陣営でウイワットが見つからないので、必死に探していたのだ。そのため、総攻撃の総大将をウイワットから急遽長男のニワットに変えた所だった。ピニットは後方で、戦略を練ろうとしていた。しかし、状況は思わぬ展開になった。総攻撃の兵は、ウイワットが敵陣の砦の前で磔にされているため、攻撃を躊躇せざるを得なかった。総大将ウイワットを殺すわけにはいかなかった。ピニットはモラコットを連れて、攻撃の前線に赴いて、号令した。

「モラコットを磔にしろ。そして敵陣から見えるところに立てよ」

モラコットは冷静に何も抵抗せずに従った。モラコットは胸に竜の御守を抱いた状態で縛られた。


一方ソンブーンの陣営では

「ソンブーン殿。敵陣の前に誰かが柱に磔にされています」

「誰か直ぐに探れ」

「くくられているのは女の様です」

それを聞いたソンブーンはハットした。

「モラコットは陣内に居るか。すぐに調べろ」

しばらくして、部下が急いで報告に上がった。

「モラコットお嬢様が見当たりません」

「ソンブーン殿。大変です。縛られているのはモラコット様です」

「何だと」

そのとき、敵から大音声が聞こえてきた。

「こちらは、モラコットを人質に取っている。モラコットの命が惜しければウイワットをこちらに返せ」

柱に縛られているウイワットもこの声を聴き愕然とした。

「なぜ、モラコットが敵陣に捕えられているんだ」

ソンブーンは、そうは言ったものの、すぐにモラコットの想いを察した。

「この大事な時に、ウイワットのために、ここまでするとは」

ソンブーンは迷いに迷った。ウイワットと交換にモラコットを助けるか、しかし、交換すると、一気に敵側の戦況が有利になり、攻め落とされる。和睦しても、敗戦に近い妥協をせざるを得なくなる。陣営の騒がしさに気づいたチャリンがやってきて事態を知った。

ソンブーンの逡巡を見た王弟チャリンは、

「ソンブーン。何を迷っている。答えは一つしかない」

チャリンは、突然、砦の前に躍り出るや否や弓を構えた。驚いたソンブーンは、チャリンを止めるべく走って追った。

「誰か、王弟を止めよ」

しかし、一歩遅かった。

チャリンの弓は放たれ、モラコットの胸を射抜いた。それを見たウイワットは

「モラコットー」

と泣き叫んだ。

娘の死に激怒したソンブーンは、剣を抜き、抵抗する間も与えずチャリンの首をはねた。

意外な展開に両軍とも驚いた。ピニット側は、それでもウイワットが柱に縛られている以上まだ動けなかった。ピニットは、じっと動かずソンブーンの次の行動を見守った。チャリンが死んだ以上、ソンブーン側に勝ち目は無くなった。ソンブーンが、それを理解したら、降伏するしかないだろうと考えたのだ。そこまでの冷静さをソンブーンは持っているはずだと。

ソンブーンは自陣の砦に戻った。

「ウイワットの縄を解け。そして敵陣に丁重に送るのだ」

ソンブーンは、部下に命じて、伝令を送り、ピニットに降伏して恭順する胸を伝えた。ピニットは

「承知した。兵の武器をすべて、砦の前に出す様に伝えよ」

ピニットは、部下に命じ、モラコットの亡きがらを丁重に扱い、最高の衣装をまとわせ、ピニット将軍専用の駕籠に乗せ、最高の礼をもってソンブーンに送り届けさせた。途中、ウイワットと駕籠のモラコットが出会うやいなや、ウイワットはモラコットの駕籠にかけ寄り、その亡骸に、顔を埋め泣き伏した。

「私が、そなたを助けようとしたことが、こんなことになるとは」

ウイワットは、モラコットの体を抱きしめながら、その場を離れなかったが、護衛の兵に促され、やむなくピニットの陣営に戻った。父の前に引き出されたウイワットは、父と対面しても無言のまま、ただ下をむくだけであった。

「ウイワットよ。モラコットは神の使い、菩薩だ。自分を犠牲にして、お前の命を救い、そのおかげで戦いは終わり、両軍の兵も傷つかずに済んだ。モラコットが自らこちらに来てなければ、わしは全軍の前でお前を射抜く覚悟をしていたのだ。そうしなければ、兵の自縛を解けなかったからだ。そんな私の息子殺しの悪行をも、モラコットは、自分の命に代えて救ってくれた。お前からも、モラコットに礼を言っておくれ。モラコットの霊に報うために、ソンブーン側の一連の行動は不問にする」

ウイワットは、意外な父の言葉にひれ伏し号泣した。父の目にも涙が光っていた。モラコットの身を犠牲にしてまで、自分を助けてくれた大きな愛に、ウイワットは心から感謝した。

その瞬間、ウイワットとモラコットの魂は、渦巻きに吸い上げられるように竜太と“あれん”の体に戻った。二人は、しばらく、茫然と立っていたが、あふれる涙を拭こうともせず、見つめあっていた。

「魂の旅はどうだった」

占い師の声に、二人は我に返った。

「お前たち二人は前世からの強い絆に結ばれていたことがわかっただろう。今世も、二人は結ばれるべくして結ばれたのだよ。偶然じゃないんだ。竜太は今世も、何回もあれんに助けてもらっただろう。これからは“あれん”を助ける番だよ」

「ハイ。その通りです」

「私が“竜”の字に“ときめき”感じていた理由がわかったわ。心の奥にある“魂”が無意識にウイワット様を探していたのね」

「僕の名前に竜がついているのも天の計らいだったんだ」

「世の中に偶然と言うものが無いことがわかっただろう」

「すべては必然なのですね」

「そういう目で周りを見てごらん。今までと見えるものが違って見えるよ。もし、大きな試練に出会ったら、今までなら“運が悪い”と捕えていたものが、試練を必然のものと捉えると、この試練は自分に何を呼びかけているのかと考えるだろう」

「本当にそうですね。世界と自分が結ばれている感覚になりますね」

「そこまで理解できたら、私も嬉しいよ」

竜太と“あれん”は、占い師に礼を述べ深々と頭を下げ、占い館を後にした。

占い師は、目を細めて二人を見送った。



終わり


英語のREVOLUTIONはコペルニクスの論文(天球回転論 いわゆる地動説)の回転からとられていて、革命の意味を持っています。地動説への転換は、天文学や科学の最先端分野では地球規模の革命的な変化だといえます。しかし、庶民にとっての日常生活においてほとんど影響はないといっても過言ではないです。しかし、偶然観から必然観への転換は日常生活において大きな変化をもたらせます。たとえば、今まで子供は親を選べないんだと子供から攻撃されても、これからは貴方が私たち両親を選んで生まれてきたのよと反論できます。また、障害を持って生まれてきた人や、貧しい環境に生まれてきた人を見ると、可哀そうにとか上から目線で見ていた姿勢が、これからは、彼らは自ら厳しい条件を選んで生まれてきた方だと尊敬のまなざしで見ることになるでしょう。

厳しい上司や、厳しい仕事を与えられても、この試練は天からの呼びかけと受け止め、前向きに取り組めることでしょう。このように、必然観に転換することにより、あなたの人生は大きくかわるでしょう。

日常生活においては、天動説から地動説への転換より、偶然観から必然観への転換の方が、より革命的と言えるでしょう。

以下に、この小説の参考にした著書を紹介します。


「祈りの道」          三宝出版  高橋佳子著

「あなたが生まれきた理由」   三宝出版  高橋佳子著

「あなたがそこで生きる理由」  三宝出版  高橋佳子著

 ブッダの生涯(原始仏典1)   講談社  編集委員 梶山雄一、桜部 建、早島鏡正、藤田宏達

 ブッダの前世(原始仏典2)   講談社  編集委員 梶山雄一、桜部 建、早島鏡正、藤田宏達



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