突然の来客
彼が時空間転位の余波に呑まれたであろう時、本体の装置は激しく誤作動を起こしていた。
カイトは時空間転位装置の理論については何も知らなかったが、異常な状態のまま機械が稼働したことで、転送先の地点に大きな誤差が生じたとしても不思議はない。
つまりは、こちらの全く知らない事象が発生しているとされるこの世界は、自分のいた時代とは大きく隔たりの開いた、別の歴史を持つ文明である可能性が高かった。
だとしたら、ここは遥かなる未来と過去の、どちらの時代に当たるのか。
そして、この時代に流れてきている数々の兵器が、あの最終決戦の場となった軍事基地の物であるとすれば、あのD・ウォルトもまたこの場所に来ているというのだろうか。
自らの置かれたあまりにも超現実的な状況に、カイトの脳幹ユニットは軽度の錯乱に陥り始める。心因的な影響から頭痛と吐き気を覚える彼に、メリッサは相手の不調を少しも察しないまま、待ち兼ねたような弾んだ声を被せた。
「そんなことはどうでも良いから、早く契約を結ぶわよ! この本によると、魔術師と悪魔は互いの名を伝えて魂の誓約を交わした後、悪魔の肉体を現世へと定着させるために、魔術師との間で血を交わらせるとなってるけど、それって一体どうするの? 私の血を取ってから、あんたに飲ませるとかすれば良いのかしら?」
膝上に乗せた古びた本を捲りながら、彼女はそこに書かれている内容の真意を、力なく項垂れているカイトへと尋ねる。独りで勝手に浮かれている相手に、緩慢な動きで顔を上げた彼は、脱力気味に小さく頭を振ってみせた。
「……あの、非常に申し訳ないが、君に伝えておかなくてはいけないことがある。君がさっきから言っている契約というものは、恐らく、俺とすることは無理だと思う」
「え? あっ……はああああっ!? ちょっ、契約ができないって、どういう冗談!? やっぱりあんた、私の所からこのまま逃げ出すつもりなのね!!」
「いや、そうじゃない。ただ、君はたぶん何か、大きな勘違いをしている。俺も全ての事情を把握してはいないから確かなことは言えないが、君が考えている悪魔と俺は、まず間違いなく違うもので―」
「勘違い……? あっ、なるほど! つまり、私達の契約はとっくに全部終わってるってことね! まったく、それならそうと、勿体ぶらないでちゃんと言いなさいよ! だったら、私の体にも契約の証の魔痕が出ているはずだけど、えっと、どこにあるのかしら?」
カイトはどうにかメリッサの誤解を解こうと試みるも、当の本人は彼の話にほとんど耳を貸さず、またしても別の思い違いをしてしまっていたようだった。
その場へと立ち上がった彼女は、腕や足の剥き出しとなっている肌の部分を、何かを探して念入りに調べ始める。
やがて、目的の物が見付からなかったらしい彼女は、今度はおもむろに上着の留め具を外すと、躊躇う素振りも見せずに薄手の下着姿となった。
突然目の前で脱衣を始める彼女に、不意を突かれたカイトは唖然として言葉を失う。
一方、思わず固まってしまっている彼の視線を気にする様子もなく、彼女は露わになった脇腹や肩などを見回しながら、不可解そうに小首を傾げていた。
「おかしいわね、魔痕がどこにも見当たらないんだけど……。ひょっとして胸とか背中とか、心臓の上の所に出てきてるのかしら?」
「えっ……あっ、ちょっ、うわっ、待った待った!!」
奇妙な呟きを漏らしていたメリッサは、次は胸部を覆っているキャミソールを取り外そうと、窮屈そうに身を捩らせる。遂には諸肌を脱ごうとする彼女に、硬直状態からようやく立ち直ったカイトは、慌てて止めに入ろうと立て膝を突く。
瞬間、彼の全身をけたたましい破砕音と強烈な激震が、何の前触れもなく包み込んだ。
突如として斜めに傾く視界に、カイトは一瞬、自らの外的情報処理システムが、連動して誤作動を起こしたのかと肝を冷やす。だが、床へと置かれていた諸々の家財道具は揃って右の壁へと滑っていき、視覚の傾斜が現実のものであると彼に伝えていた。
自らの居住空間を襲う異変に、メリッサは驚きから大きく見開いた双眸で、不穏な軋みを上げる屋根の梁を見上げる。
「なっ、何、どうしたの!? もしかして、地震!?」
動揺に満ちた声で宛てのない問いを発する彼女に、しかしカイトはこの強く単発的な震動が、自然現象によるものではないと直感的に悟っていた。
直後、先の揺れの余韻が収まらない内に、再び強烈な激震が二人を部屋ごと突き上げる。
勾配を急激に増していく床や、耳障りな悲鳴と共に亀裂を刻んでいく内壁に、カイトは水車小屋が正に倒壊しつつあるのを把握した。
震動の原因は不明なものの、すぐにこの建物から避難しなければならない。
咄嗟にそう判断を下したカイトは、自らの脱いだ上着を抱き締め、白い肌を更に蒼白としているメリッサへと駆け寄る。
そして、緊張と恐怖から固まっている彼女の細い腰を、怪我をしない程度の力で素早く引き寄せた彼は、閉まったままの窓から外へと向けて飛び出した。
砕け散ったガラスの無数の輝きに包まれ、カイトは上擦った悲鳴を迸らせるメリッサと共に、緩やかな放物線を描いて地面へと落下していく。
眼前へと迫ってくる緑の地面に、彼は小脇に抱えている彼女に過度の負荷が加わらないよう、可能な限り勢いを殺して着地した。
「ふう、危機一髪だったな。大丈夫か、メリッサ? 怪我とかはしていないな?」
下へと降ろされたメリッサは、最初は茫然自失の状態となっており、呼びかけにも腰を抜かしたまま反応を見せなかった。
それでも、すぐに肩をブルリと震わせて我に返った彼女は、生気の戻った顔を鬼の形相へと一変させ、手前に跪いているカイトの頬をいきなり拳で殴り付けた。
「何が、大丈夫かメリッサ、よ!! いきなりあんな高い所から飛び降ろさせられて、平気な訳ないでしょうが!! やるならやるって、ちゃんと初めに言いなさいよ、この唐変木があっ!!」
怒りを滾らせる両目を涙ぐませ、メリッサは甲高い怒号を上げながら、カイトを目掛けて両腕をめちゃくちゃに振り回す。
彼女の拙い無数の殴打を凌ぎつつ、彼は今しがた飛び出してきた方向へと視線を巡らせる。
そこにあった廃屋染みた外観をした水車小屋は、彼らのいる正面の庭に面した一階のほぼ半分が、まるで重機によって破壊されたように無惨に抉り取られていた。
老朽化による倒壊とも異なるその異様な傷口に、カイトは訳が分からず困惑する。
怒り狂っていたメリッサもまた、目の前に現れた予想外の光景に、思わず両腕による連打を止める。しかし、愕然として凍り付く彼女の視線は、カイトのそれとは真逆の方向へと向けられていた。
「くっ、しまった……! とうとう、ここも見付かっちゃったか……!」
言葉へと強く狼狽の色を浮かべるメリッサに、カイトは素早く彼女の目線の先を見遣る。
すると、彼は丈の低い雑草が繁茂している庭の中程に、こちらを向いて悠然と立っている、長身痩躯の若い男性の姿を認めた。
黒味を帯びた革生地らしき衣服を身に着けたその男は、小屋の二階から直接外へと飛び降りてきた二人を、戸惑いの混じった苦笑を浮かべて見つめていた。