今は無き景色
当惑の面持ちとなった少女の答えに、カイトもまた困惑の眼差しを返した。
双方向多言語解読(IMD)システムが問題なく機能しているということは、この世界は元の時代や地域とは、さほど乖離した時間軸にはないはずである。しかし、その淀みのない言葉で表された年代と地域は、彼にとってはまるで聞き覚えのないものばかりだった。
世界史に関する記録の混濁を、改めて真剣に考慮するカイトに、今度は金髪の少女が弾んだ口調で問いを投げた。
「それはそうと、あんたってどの階級の悪魔なの? まあ、見た感じからして上級ってことはなさそうだけど、まさか下級って訳じゃないでしょうね!? この天才魔術師である私が召喚した悪魔がそんなザコだなんて、絶ぇっ対に有り得ないし、絶ェッッ対にお断りだから!!」
カイトへと一歩を踏み出して詰め寄った彼女は、相手の額へと人差し指を突き付けながら、恫喝めいた文句を投げつける。
すぐ間近へと迫る彼女の厳めしい顔に、彼は向こうが何を怒っているのか、そして何を自分へと尋ねているのか分からず、出口の見えない混乱へと陥ってしまう。
悪魔や地獄であれば、まだ解釈の仕様は幾らでもある。
しかし、『悪魔の階級』や『召喚』、果ては『天才魔術師』までくると、もはやそれはカイトの日常の範囲にある種類の語彙からは、完全に外れてしまっていた。
沈黙を守ったまま自分の方を凝視するカイトに、虚を突かれた少女は顔を曇らせ、たじろぐように体を後ろへ引く。思わず表へと出た動揺を紛らわすように、彼女は急ぎ腰へと握り拳をついて胸を張ると、やれやれとばかりに深い溜息を吐き出した。
「まあ、この際何でも良いわ。この私が呼び出した悪魔なんだから、ものすっごく強い力を持っているのは間違いないだろうし。ね、そうなんでしょ?」
「え……ああ、まあ、そこそこに戦える位の能力なら―」
「何よ、悪魔の癖に謙遜なんかしちゃって、気色悪いわね。とりあえず、まずはこの小汚い所からさっさと出るわよ。何だか今はあんたも頭ボーッとしてるみたいだし、続きは私の家に戻ってからってことで。その頃には、いい加減あんたも落ち着いてるでしょうしね」
戸惑うカイトへと一方的に捲し立てた少女は、答えを待たずに穴の側面を駆け上がっていく。
未だ何一つとして疑問の解けてはいないカイトだったが、このまま座っていても状況は打開できないと思い直し、当面は彼女の指示に従うのが無難だと判断した。
恢復したばかりの姿勢制御システムを酷使し、彼は辛うじてバランスを保ちながら立ち上がる。雲を踏むような頼りない足取りで、ようやく穴の底から這い出したカイトは、そこで苛々と貧乏揺すりをしている少女の足を目に留めた。
「まったく、ノロノロしてんじゃないわよ、まどろっこしいわね! そんなあくびの出そうな速さで歩いていたら、帰る頃にはとっくに日が暮れてるわよ! 生まれたての小鹿じゃあるまいし、置いて行かれたくなかったら、さっさと付いてきなさい!」
穴の縁に左腕を掛ける彼を一瞥した彼女は、手を貸そうとする素振りも見せず、クルリと踵を返して離れていく。その高飛車で自己中心的な物言いに、カイトはいい加減に苛立ちを覚え始めながら、腹立ち紛れに勢い良く穴の中から身を引き上げた。
外へと立った彼は、そこが茶褐色の岩に囲まれた、小さな洞窟であると知った。
天井には自然の物とは思えない、おそらくは時空間転位の際に出来たのであろう、完全な真円の穴が穿たれている。
カイトは真上より降り注ぐ白い陽光を浴びながら、関節部の形状が戻りつつある左足を庇いながら、遠くに揺れている彼女の髪を目印に歩を進めた。
足場の悪い傾斜を抜け、彼女の待つ洞穴の外へと出た彼は、思わず自分の目を疑い立ち竦んだ。遠くまで見通せる高台へと出たカイトの前には、青々とした木々の色彩が見渡す限りに広がっている、鬱蒼とした森林の光景が現れていた。
ここは特別富裕層の人工緑地かと思いかけた彼は、しかしその余りにも広大な敷地面積と、汚染防御フィルターに覆われていない高く澄んだ空に、その可能性を即座に打ち消す。
眼前の景色に愕然とするカイトに、雑草の生い茂る坂を下っていた少女は、振り返り様に大きな声で叫び掛けた。
「ちょっと、ボケっとしてないで早く行くわよ! 人間界に来れたのを喜ぶのは勝手だけど、浮かれ過ぎて迷子になんてならないでよ!」
彼女の叱咤で我に返ったカイトは、足早に進んで行くその細い背中を追い、下り坂の先にあった木立の中へと分け入っていった。
背の高い木々が間隔を置いて並ぶ森の中は、梢の合間から漏れる木漏れ日が、光を照り返す水面のように躍っている。
靴底に伝達される柔らかい土の感触や、人造毛髪を撫でる温度にむらのある微風に、彼は自分の存在しているこの場所は、決して仮想空間(VR)のような虚像ではないと直感した。
驚愕の余り、半ば無意識に歩を進めていたカイトは、ふと頭上を飛び交う数羽の小鳥や、樹木の枝を走り抜けるリスの影を捕捉する。
視覚モニターを遠赤外線カメラへと切り替えた彼は、それらの小動物が立体写真や自律型模型ではなく、血肉を得た本物の生物であると確認した。
このような生態系を有した豊かな自然は、自分がいた時代から遡ると、最も近くて二世紀前の環境にしか残ってはいない。
だとすると、自分がやって来たのは十数年前ではなく、もっと昔の過去なのだろうか。
記録映像でしか見たことのない風景の中に立ちながら、カイトは全身を押し包む心地よい命の温もりに、陶然として深い吐息を漏らす。その時、周囲へと巡らせていた彼の視線の先に、突如として脅威度を持った金属反応が表示された。
急に視界へと飛び込んできた異質な存在に、カイトは戸惑いつつもその正体を確かめるべく、道を逸れて指定された場所へと向かう。
警戒しながら慎重に草むらを掻き分けていった彼は、そこに六発式の回転弾倉を銃身下部へと備える、自動式擲弾発射器が打ち捨てられているのを発見した。