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作者: Monday

 01

 

 

「相変わらずこの通りは混んでるね。」

 彼が運転しながら呟く。私はそうだねと返す。

 私は今の返答はちょっとそっけなさ過ぎたなと思った。

「でも新宿に出てくるなんて久しぶりだね、人ごみは嫌いじゃなかったの?」

 私はたまには人混みの中を歩くのも良いかと思っただけと答えながら窓の外の街路樹に目を向けた。

 ビルの陰になってろくに太陽も浴びられそうにないところに植えられていた、可哀そうだなと思った。

 車内には彼が集めたジャズが流れている。

 彼と私の音楽の好みはかなりズレがあった。

 彼は私の耳には雑音としてしか認識されないほど激しいそういった類の音楽を好んだ。私はバラードのようなゆったりした曲を好む。そしてお互いが好む音楽を受け入れることはできないまま、結局のところジャズという妥協案を車内のバックミュージックとして流すことになった。

 彼の運転する車は師走の東京の渋滞の中にあった。

 

 彼と一緒に居るとき、私はいつも後悔していた。

 どうして私は彼と一緒にいるんだろうと。妥協の産物のジャズが流れる車内で私はいつも通り考えていた。そして別れる理由を探していた。それでもいつも通りこれといった別れる理由は見つからなかった。

「なんか調子悪そうだけど大丈夫?」

 そう言いながら彼は私の機嫌を伺っていた。

 どうやら私は機嫌の悪そうな表情をしていたんだろう。

 ちょっと寝不足なだけと笑顔で取り繕っておいた。

「この渋滞だから少し眠ってても良いよ。着いたら起こすから。」

 とジャズの音量を下げた。

 私は目を閉じた。

 この調子だと新宿まではまだまだ時間がかかりそうだ。

 それでも電車という手段を選ばなかったのは日ごろ電車で行くような場所に一緒に行くことがなかったからだろう。

 それに私が新宿へ出かけることを提案したとき、行くならどこの駐車場に止めようかという心配しかしなかったことから見ても、彼には最初から電車という手段は頭になかったのだろうと思う。

 付き合い始めの頃、そう私と彼がまだ大学生だった頃は駅前で待ち合わせしたりしていた。

 その頃、私の家は神奈川で彼の家は千葉だった。

 そして彼と私の通う大学は東京にあった。東京で会うことが自然だった。

 彼は就職して東京で一人暮らしを始めた。

 私が何故実家からでも通える距離なのに一人暮らしを始めたのと聞くと、これを渡したかったからと言って彼の部屋の合鍵を渡された。

 その頃から会う場所が東京の彼の家や神奈川の私の家の間辺りになり始めた。

 そして彼が車を購入すると途端に彼が私の家の近くまで来ることが多くなり、東京で会うということはほとんどなくなっていた。

 そして私が自宅の近くの企業に勤め始める頃には彼はより広い部屋が欲しいという理由で都心寄りの神奈川の部屋に引越した。

 そして東京はますます私から遠くなった。

 

 車が普通の道路とは違うノイズを出しながら走る。きっと工事してるところの上でも通ったのだろう。

 いつもこの町はどこかしらで工事している。完成するということが無いのかもしれない。

 落ち着かない町だなと思った。そしてどうしてまた新宿などに行きたいなどと言ったのかと思った。

 私と彼の関係も完成していないのだろうか。そんなことを思う。

 そして相変わらずの自分の悲観的な性格にがっかりした。

 

 彼との初めての出会いは大学のサークルでのことだった。

 彼は私に一目惚れしたらしいとサークルの先輩に後で聞いた。

 私はどちらかといえばその先輩の方が好みであった。でもその先輩と私とは釣り合うタイプではないことは分かっていたし、後にその先輩にも恋人ができたりしたらしいことを周りから聞いた。

 彼は私がサークルに入った年の夏ごろに大学の帰りに新宿に一緒に行こうと提案した。

 私は断らなかった。

 そして、新宿の駅から少し歩いたところにある、あまり美味しくないイタリアンレストランで一緒に食事をした。そのとき彼は震えた声で真剣に私を見据えて言った。私が好きだと。

 彼の申し出を断る理由が思い当たらなかった。

 ほかにこれといって好きな人は居なかった。私にはそれほど真剣に人に恋することができるとは思えなかった。ただそれでも彼の愛を受け止めて、そして恋人として振舞うだけなら今の私にもできるのではないかと思えた。そして私は彼の恋人となった。私はいつか別れる日がくるであろうと期待していたが、その別れる日はいまのところまだ来ていなかった。もしかしたら来ないのかもしれないと思うとどこかで怖くもあった。

 

 彼の恋人として私はとても幸せであるという風に振舞った。

 そうしているうちに本当に幸せになれるのじゃないかと思っていた。でも違ったようだ。

 今の現実を見ればそれは明白だった。

 付き合い始めの頃、私は周囲にも幸せに見えるよう振舞った。あまり自慢するでもなくただただ二人でいられることが幸せで快適なのだという風にしていた。きっと私は周りから見れば幸せに見えていたと思う。

 あなたは幸せで良いね。と友人に言われたときに私は幸せと認めてもらえた気がした。でも実際は違っていた。ただそう見せていただけなのだから。

 そうこうしているうちに友人たちは私の傍から離れていった。幸せの代償というものはこういうものだと納得しようとした。でもどうしようもなく孤独であった。それでも幸せな振る舞いを続けた。そうすることで幸せになれると信じていた。

 

 私は彼の前でもいい恋人を演じ続けた。できるだけ嫌われるような行動は避け、好かれそうなことをし続けた。そして彼からの想いが途切れることを恐れた。私は彼にとっては良い恋人であり続けたのではないかと思う。ただ現実に彼が私のことをどう思っているのかはわからない。でも少なくとも私のこの醜い感情は悟られていないであろうと確信している。

 私にとって彼はどういう存在なのかと聞かれると本心では困ってしまう。ただ寂しさや孤独を紛らわせるために一緒にいるだけかもしれないし。周りに対する見栄から来るものかもしれない。

 ただ、すくなくとも彼に恋愛感情を抱いたことは無かったということだけは確信を持って言える。

 そしてそんなことに確信を持ってしまう自分のことを嫌悪した。でもこればかりはどうしようもなかった。そしてあきらめた。そうして周りに幸せに見えるよう振舞うことで誤魔化し続けたのだろう。

 

 私は度々彼に対して少々強引な注文をしてしまうことがある。

 髪型が気に入らないと言って、もっと短いのが良いと言ったことがあった。

 彼自身は少し長めにした髪の方が落ち着くらしく、そんなことを言っても聞きはしないだろうと思っていた。だが次に彼と会ったときに彼は短髪になっていた。そして似合うかなと私に照れながら聞いてきた。

 あっさりと私の言うことを実行する彼を複雑な感情で見た、そして自分の言ったことを悔やんだ。

 そんなときも私は、平気な顔をしてやっぱりこういう方が良いよ。似合うよ。と言い彼の頭を撫でた。

 昔、親戚の家に居た従順な柴犬のような触り心地だった。

 私は目を開けて彼の方を向いた。そのときと変わらない短髪の彼がいた。

 彼は私の視線に気付かなかったようで前の車をテールランプを見ている。

 私はまた眠った振りを続けることに決めた。

 

 彼と出会う前にも私は何人かの恋人と出会い、同じときを過ごし、半年もしない内に別れた。

 私は決して彼らとの恋人を演じることはあっても恋愛感情を抱いたことはなかった。

 そんな付き合いを重ねていく内に、私の心は疲弊していったのだろう。

 恋人としての振る舞いは上手になるのに、心はだんだん様々な感情を抱かなくなっていった。

 そうなるにつれて私は安心した。どんなにつらい結末があっても傷つくことはないと。

 人を好きになることはとても辛くて。そして私の宿命を呪いたくなる。

 初恋のあの人とのこと。並んで歩いた道。今のこの瞬間が続いて欲しいと願ったあのとき。

 

 私は目を開けて周囲を見回した。

 少しさきに見知ったコンビニの看板を見つけ、そこで止めてと彼に言った。

「どうしたの?」

 私は彼に喉が渇いたからと言い、何が飲みたいかと聞いた。

「適当なので良いよ」

 そして車は通りの脇に止まった。

 私は車から降りて外の寒さに身震いした。

 この寒さなら別の厚手のコートを持ってくるべきだったかなと後悔しながらコンビニに入り、彼が好みそうなホットコーヒーと私の好きな冷たい紅茶のペットボトルをレジに持っていく。レジには列が出来ていて、私は少し苛立った。そして彼が東京で一人暮らしをし始めた頃のことを思い出した。

 確かそう、彼の部屋で夕飯を食べることにしようと決めて、デリバリーのピザやらなにやら電話をしたが、かなり混んでいるらしく、ずいぶん待たされることになりそうと聞いた私は近所のコンビニでお弁当とかケーキとか買って済まそうと言い、コンビニに行くことになった。

 そんなとき彼は私に向かい、そのセッカチな性格はどうにかならないのかいと笑いながら言った。

 私はデートに遅れるほどルーズな性格もどうかと思うと切り返し、彼は苦笑した。

 確かその前のデートで彼が遅刻して私を待たせたとかしたんだったか。

 私は待たされるのは嫌いだった。

 そして、確かそのデートは彼がいろいろ奢ってくれるということで丸く収まったんだったっか。

 私はレジを済ませて急いで彼の車に戻った。彼は私が手に持つコーヒーを見つめ

「よくわかってるじゃん。」

 と機嫌よさそうに笑った。

 私は自分の紅茶のペットボトルを開けて少し口に含んだ。

 彼の車の中は暖かく、それでもどこか居心地が悪かった。

 私はジャズの音量をもとのところに戻した。

 車はまた通りの流れの中に混じった。先ほどより渋滞は幾分ましになっているようで、それなりの速度で車はまた進み始めた。工事中の建物が目についた。やはり東京はいつだまでたっても未完成な町だった。

 

 

 02

 

 中学の入学式の日に初めて私は彼の顔を見た。どことなく私と似ていると感じていた。

 中学生にとって同じクラスかそうでないかというのはかなり重要なことであった。

 私と彼は別々のクラスになった。そのときは彼に対し私は特別な感情を抱いては居なかった。

 私は私で同じ小学校だった友人や新しくできた友人に囲まれ、彼は彼できっと友人に囲まれ過ごしていたであろう。私も彼も特に目立つ生徒ではなかった。そのように記憶している。

 そして次の学年にあがったときのクラス替えで私と彼は同じクラスになった。

 その頃になり私の中に芽生えた感情に気付いた。そしてその感情は彼に向かっていた。

 

「この間の同窓会はどうだったの?楽しんで来れた?」

 車の運転をしながら彼が私に尋ねてきた。

 懐かしい人に会えて楽しかったけど、結局未だに仲良くしている友達とばかり喋って終わったかな。などと言ってみた。そのとき私は初恋の彼と中学卒業以来初めて会った。彼は変わってなかった。

「それなら良かった。たまにはそういう機会もないとね。」

 そうだね、と私は返し紅茶を口にした。少し温くなっていて苦かった。

「もしかして初恋の人とかは来たりしたのかな?」

 と少し茶化すように聞いてきた。

 私は、残念ながら来なかったよ、もし来てたら今頃君と一緒に居なかったかもね。などと笑ってみせた。それに合わせて彼も苦笑いをした。

 

 地元のダイニングバーで行われた同窓会に現れた彼は昔の印象をそのままに残してた。事前に私に送られてきていた参加者名簿に彼の名前が載っていなかったのだが。どうやら間近になって参加できることになったらしかった。

 不意に現れた彼に私の心は懐かしい感情を取り戻していた。そしてその感情がまだ私の中に存在していたことに驚いた。そして私は動揺した。

 彼が私に向けた眼差しは優しかった。それが苦しかった。

 

 窓の外を見ると見覚えのあるビルが見えてきた。もう新宿は近い。

「駐車場はちょっと駅から遠いけど構わない?」

 私は別に構わないと答えた。

 彼は西新宿の高層ビル群の中に車を進めていった。

 休日のこの辺りの人通りは疎らだった。人混み嫌いな私への配慮でもあったのかもしれない。

 彼の優しさを感じた。

 彼との付き合いは長かった。だが私と彼は恋人という関係から先に進むことは無かった。それは私だけでなく彼もそれ以上の関係に進展することを拒んでいるところがあった。

 お互い分かっているのだ。これ以上に進展すれば、私たちの関係はたちまち崩れ去ってしまうということを。お互い踏み入れてはならない領域があるということを。

 

 ダイニングバーに現れた彼は昔の面影をそのままに残していた。

 私は話しかけることをためらったが。意外にも彼の方から私を見つけ話しかけてきた。

「久しぶりだね。元気にしてた?」

 同窓会で久しぶりの再開をした者同士の会話の切り出しとしてはありきたりだった。

 私もありきたりな返答をした。

 そしてお互いの近況を報告しあった。

 私は自分の中に巻き起こる嵐のような感情を抑えることで精一杯だった。

 

 彼はビルのひとつの地下駐車場に車を入れた。

 彼曰く彼の勤務先の提携会社らしく割安に車をとめられるらしい。

 そしてそのビルの上の方にあるレストランで食事をすると数時間無料になるサービスがあるからそこで昼食を食べようということになった。確かこのビルには彼が私に告白をしたときに使った不味いイタリアンレストランがあったビルだったなと思い出した。たぶんまたその店に行くことになるのだろうと思った。

 

 ダイニングバーで私と彼はお互いの近況を報告するうちに、彼は高校を卒業した後に専門学校を卒業し、東京の会社に勤めながら一人暮らしを始めるようになったことを知った。そしてどうやら現時点では恋人に恵まれていないことも分かった。私は私で東京の大学を出たこと、そして地元の企業に勤め始めたことを言った。自分には恋人が居ることは言わなかった。私自身恋人の存在は周りの友人にも隠しているから、別にそれで良いと思った。そしてお互い良い人が見つかると良いねと言った。

 そして私たちはお互いの家族の話になった。そのとき彼は自分の父が高校生のときに亡くなったことをまるで他人事であるかのようにひょうひょうと話をしていた。中学時代の彼となにも変わってないなと思い、私は安心した。

 

 新宿の高層ビル群をガラス越しに見ることができるエレベーターに乗ったとき私と彼は二人きりになった。そして彼は私を抱き寄せキスをした。私は抵抗せずに彼を受け入れた。コーヒーの味がした。

 確か彼との初めてのキスもエレベーターの中だった。大学の構内のエレベーターで二人きりになったときだった。そのときのキスは唇をただ軽く重ねるだけのもので、私も一瞬何が起こったのかわからないくらいのことだった。そして、彼は少し照れ笑いしながらごめんと謝った。

 私は謝ることじゃないよと言い、そして彼と同じようにもう一度軽く唇を重ねた。

 そのときはどんな味がしたかと思い出そうとしたが思い出せなかった。

 横目に外を見ると、目的の階が近づいてきていることに気付き。私は彼を振りほどき。そろそろ着くからここで終わり。と悪戯っぽく笑った。そして彼も笑った。

 彼はエレベーターを降りると、やはり私の予想通りのイタリアンレストランに向かった。

 多少味が好みではないが、店を変えて欲しいという程でもないので私は彼に着いて一緒に入った。

 その日は運よく新宿が一望できる窓際の席が空いていたのでそこに座ることになった。確か彼が私に告白したときは入り口寄りの席でろくに景色も見れない場所だったと思い出した。

「今日はついてるね。ここからなら景色もよく見えそうだ。」

 彼は機嫌がよさそうだった。

 私は席に座って、新宿の街を見回した。

「カクテルでも飲む?俺は車運転するから」

 私は、そうだなぁと少し考える素振りをしていつも頼むカクテルの名前を言った。

「好きだね、それ。」

 私は笑顔でそのカクテルは色が綺麗だからと言いそのままメニューに視線を落とした。おおよそ彼が頼むメニューも自分が頼むであろうメニューも分かっていた。

「注文は決まった?俺は決まったけど。」

 私はなぜか普段は頼まないであろう料理名を言った。

 彼は一瞬意外そうな顔をしていたがすぐいつもの表情に戻ってウェイターを呼んで料理とカクテルを頼んだ。私はその行動に興味なさそうにまた窓の外の景色に目を移した。

 数年前にこのビルに訪れたときと同じと思えるような景色が広がっている。

 でもきっと、朽ち果てて取り壊され新しいビルに変わったりしているだろうし

 着々とこの街は変化をし続けているんだろう。終わることなく。

「ほんと、今日はついてるね」

 彼は私が景色にみとれていると思っているようだ。

 私はほんとそうだね、綺麗。と言ってまた窓の外に目を向けた。

 高台から見ると確かに綺麗だ。だが現実の東京という街は薄汚れていて埃っぽい。だから私は東京があまり好きになれなかった。傍目にどう見えていても中身は違っていたりする。そう、まるで私と彼の関係のように。

 彼と私の食事にはあまり会話はなかった。長年付き合ううちにそれが自然になっていた。それはそれでいいと思っていた。

「そのパスタは美味しいかい?」

 珍しく彼が食事中に口を挟んできた。

 どうやらいつもと違うメニューを頼んだことがそれほど意外だったのかもしれないなと思った。

 私はたまには冒険してみるのもいいかと思ってと笑って答えた。

 でも失敗だったかなとまた苦笑いをしてみせた。

 それに合わせて彼も笑った。私はフォークとスプーンを使って彼の器によくわからない貝を移しながら。おすそわけと笑いながら言った。

 彼は笑顔でそれを受け取ると、また自分の料理に戻った

 私はバッグの振動を聞き取り自分の携帯がなっているのに気付いた。

 さりげない素振りで私はバッグから携帯を取り出して着信かメールかを確認した。

 同窓会に一緒に行った友人からのメールだった。次に会うのはいつごろにしようかとかいったそんな類のことが書かれていた。私はそのうち返事すれば良いかと思い、またバッグにしまった。

「友達から?」

 と彼に聞かれ、私は素直に同窓会に一緒に行った中学時代からの付き合いのある子。また親しい子同士でお茶でもしようって話になってね。と言った。彼は納得したようで先ほど私が彼に差し出した貝から実を引っ張り出すのに奮闘していた。

 その携帯にはダイニングバーで交換したあの彼の連絡先も入ってるのだ。

 そして、私は昨日彼に電話をした。

 私の中の客観的で冷静な自分はそんなことはすべきではないと制していたが、どうやらその客観的で冷静な自分はそれほど権限を持っていなかったらしく、私は気がつけば彼の電話番号を探し出し発話ボタンを押していた。そしてしばらくして懐かしい彼の声が聞こえた。

「どうしたの?突然。」

 私は他愛も無い会話をした。そしてそのうちそっちの方に遊びに行こうかと思うけど付き合ってくれたりしないかななどという風に誘ってみた。

 彼はひょうひょうと、かまわないよと言いどこら辺が見たいと聞いてきた。

 私は別にどこも見たいわけでもなかった。ただ彼に会いたかっただけなのだ。だから私は彼にお勧めはどこかと聞いた。そしてじゃあそこに行こうという提案をした。そして具体的な日程はまた電話するよと言い電話を切った。その電話の間中ずっと私は興奮していた。そして電話したことを後悔していた。その電話のあと私は結局彼に電話をかけなおさずにいた。客観的で冷静な自分が権威を取り戻しただけだった。

「この貝食べづらいよ」

 と彼が悪態をついた。

 私は、だから君にあげたの。と意地悪く笑った。

 私は彼が貝にへばりついた実にフォークとスプーンで格闘しているのを見ながら

 カクテルを飲んだ。あまり美味しくはなかった。

 

 

 レストランのあったビルを出ると風は冷たかった。私たちは近くに寄りそい並んで歩いた。

「今日は結構冷えるね。」

 私はそうだねと頷き返す。

 高層ビルの間に吹く風は強かった。

 信号のない横断歩道があるが左手に車が見えていたのでやり過ごしてからにしようと思った。

 彼も横に並んで立ち止まった。

 どの道私は、この彼と一緒に歩んでいくことになるのだろう。

 それは安心と同時に絶望をももたらす。

 ひとことで言えば妥協という言葉が正しいかもしれない。

 そのとき左手から来た車が通り過ぎた。

 車で聞いたジャズの音楽をふと思い出した。

 知らず知らずの内にメロディーを覚えていた。

 妥協の産物のジャズが体に染み付いていたのだ。

 右手の方から大型トラックがかなりのスピードで近づいてくるのが見えた。

 そのとき私はとてつもない恐怖に襲われた。

 妥協を選んだまま私は人生を終えるのか。そのことにとてつもない恐怖を感じた。

 ただ妥協の産物でしかないジャズのメロディーが人生の全てのように思えたのだ

 私は彼のもとを離れ車道に飛び出すように出て行った。

 なぜ急にそんなことを思い立ったのか分からなかった。

 何に対して急いでいたのかは分からないがトラックはかなりスピードが出ていたはずだ。

 そのトラックが私に覆いかぶさるようになったと同時に私は衝撃を感じ意識を失った。

 

 

 03

 

 学生服に身をまとった彼が私の横を歩いている。

 他愛の無いゲームの話や同級生の噂話をしていた。

 中学校から彼の家のところへ向かう並木道を二人並んで歩いていた。

 私は私の中の感情を抑え彼と接していた。

 彼は友人として私を受け入れてくれていた。それで充分だった。

 私はそれ以上のことを彼に望めなかった。

 彼と一緒にいられる今が続くことを望んだ。

 それ以上のことが叶わないということを信じたくなかった。

 それでもこの毎日はいつか終わりがくることは分かっていた

 私は彼の家の前に着き彼と別れて一人で歩くときにいつも自分の宿命を呪った。

 私は彼と一緒に居たかった。それでも別れが来ることの方が怖かった。

 そして私は彼から距離をおくようになっていた。

 そうすることで私は自分を守ろうと思った。

 それで私は自分を守れたと思っていた。

 

 

 気がつくと私は横断歩道の真ん中の辺りに倒れていた。

 恐る恐る立ち上がってみる。

 自分の体にはそれほど傷がないことに気付いた。

 トラックにぶつかったはずなのにどうしてと思った。

 そのトラックは横断歩道に跨るかたちで止まっていた。

 交差点の中央あたりに血まみれの男が倒れていた。

 私はおぼつかない足取りでその男のところまで近づいた。

 そして私は気付いた。

 その血まみれの男は彼だった。

 彼は私の顔を見ると弱弱しい声で呟いた。

「相変わらず君はセッカチだね」

 私はトラックに跳ね飛ばされる前に彼が私を突き飛ばし身代わりにトラックに轢かれたのだということを理解した。

 

 彼と私は同じ救急車に乗せられ病院へ向かった。

 彼は先ほどの一言を喋って以来何も喋れなかった。

 救急隊員の様子から見る限りかなりの重症らしかった。

 病院までの途中、一人の救急隊員が私の傷を見た。

 簡単な擦り傷くらいしかなかった。

 私はただ呆然と救急隊員の慌しいやり取りを眺めていた。

 もしかしたら彼は助からないのではないかと思った。

 病院に着くと、彼は即座に手術室のようなところに運ばれていった。

 私は救急車から降りると看護師に一応検査をしましょうかと言われたが断り

 少し電話をかけるからと病院の正面入り口辺りに来た。かなり大きい病院らしかった。

 私は車止めのある病院のロビーの外の屋根の下のベンチに座りバッグから携帯を取り出し自宅に居る母に今夜は帰れそうに無いということを告げた。母は興味なさそうにわかったとだけ言って電話を切った。私と母とは折り合いが悪かった。たぶん私が母の望むような人間になれてないからであろう。恋人についてもそうだ。彼女はきっと私が普通の恋愛をすることを望んでいるのだろう。

 私は病院の中に戻り彼が手術を受けているであろう手術室の前に戻った。

 そして手術室から小走りに出てきた看護師を引き止め彼の状態を伺ってみた。

 彼女が言うにはどうやら命の危険もあるとのことだった。

 そして私は自分の財布に入れていた彼が以前くれた彼の家の電話番号を探し、また病院の中央ロビー外のベンチのところに戻り彼の家に電話をかけることにした。

 長い呼び出し音のあと初めて聞く女性の声がした、たぶん彼の母親だろう。

 私は感情をこめずに彼が事故にあったということ、命の危険がありそうだということ、そしてこの病院名を告げた。まだ病院や警察から連絡は来ていなかったそうだった。そして急いでこちらに来るというようなことを言っていた。彼の親は彼を愛しているということを知った。

 彼の母親には私のことは大学の友人ということにしておいた。そして私は自分の名前を偽った。

 それから私はだだっぴろい病院の中を歩き始めた。

 

 中学からの帰り道、同じ制服に身を包む二人は傍目にはどう見えていたのだろうか。

 仲の良い友達といったところだったところだろうな。そういう風にしか見られていなかったし彼もそう思っていただろう。

 彼とのちょっとした小競り合いや笑い話をしながら私はずっとその中に恋愛感情を隠し続けた

 やがて私はその隠し続けるという行為に息切れしたのであろう。

 彼に自分の想いを告げることを何度も何度も考えた。

 そしてその場面に出くわした彼がするであろう表情や苦悩を想像し思いとどまった。

 またそうすることで中学の人たちに自分がそうであることがバレるということは中学という狭い世界では破滅をも意味する。私は自分を守るため、そして彼の苦悩を引き起こさないために自分の恋愛感情を封印した。そしてそのまま気がつけば私と彼の距離はだんだん離れていった。

 あのダイニングバーに現れた彼の表情を見るときまで封印された感情が蘇るということなど想像もしていなかった。

 

 気がつけば私は病院の中庭に居た。

 日も暮れかけていた。

 病棟に囲まれたそこは箱庭のようだった。

 水銀灯の明かりと弱弱しくなった太陽の光が木の葉の散った寒々しい木々を照らしていた。

 私はやるせない気持ちで彼が居るであろう手術室の方へ戻った

 

 彼の母親に会うのは初めてだった。

 写真は以前に見せてもらったことがあったがこんなに小さかったのかと思った。

 彼の母親は手術室の前でただただ彼が出てくることを待っていた。

 しばらくして彼女は私に気付いたらしく声をかけてきた。

 私は彼に助けられたということと彼とは卒業後もときどき会っていたんですと伝えた。

 彼の親は私と彼の本当の関係を知らなかった。

 彼女はもう少ししたら彼女の夫が来るということを言った。

 私はこの場にいるのがとても居心地が悪かった。

 

 しばらくすると彼の父親のほかにも親族らしき人たちが現れてきた。

 それほど彼の手術は長引いた。

 私はその大勢の人混みから逃げるように自販機で彼が好んだコーヒーを買い病院の中庭に行った。もしかしたら中庭へ出るドアには鍵がかけられてるかと思ったがそういうことはしないところらしい。

 私はベンチに座りコーヒーを飲んだ。それはとても苦かかった、そしてそれは彼とのキスの味でもあった。

 彼と私は合鍵と携帯電話だけでつながっている関係。それがどれだけ脆いものかというのは分かっていた。あとはその後処理をしなければいけないのだということ。私は自分のバッグに入れてあった彼の部屋と彼の車の合鍵を探した。

 

 私はまだ夜も明けきらない電車に揺られながら少し居眠りをしていたようだ。

 病院を出てタクシーを捉まえ、新宿のビル地下駐車場に置きっぱなしだった彼の車を彼の住むところへ戻し、彼の部屋から私が恋人であった痕跡を全て消し去るのは大変な作業だった。

 彼は自分の家族や親類、会社に対して私の存在を隠したがっていた。その意思くらいはせめても汲んであげるべきだろうと思った。そしてそれを行動に移しただけだった。

 彼の部屋に置いておいた私の衣類や歯ブラシなどもまとめて袋に入れて、彼の部屋から駅までの途中にあるコンビニに捨ててきた。それから彼の部屋にあったパソコンとデジカメに入っている私の写真は全て消してきた。彼の携帯に私の画像は入っていないことは分かっていたので安心していた、それに彼の携帯のアドレス帳の中で私は大学の友人のカテゴリに入っているのも知っていた。彼の親には偽名を使ったからまず私個人を特定することは無いだろうと思う。ただ昨日の朝に彼が私に電話した履歴が彼の携帯にもし残っていたらということを考え私はとりあえずのところ彼の携帯からの着信を拒否する設定にしておいた。そうすれば私と彼は赤の他人になるはずだ。

 彼の部屋を出て鍵を閉める瞬間、私は自分の一部分が亡くなるような感覚になった。

 私の中に彼の存在がそれだけ大きかったということなのだろうか。

 それでも、もう後戻りはできなかった。

 私は引き返すことなくそのまま家路につくしかなかった。

 彼は今頃どうなったのだろうか。もしかしたら峠を越えて良くなっているかもしれない。

 それとももう亡くなってしまっているかもしれない。私には知るすべは無かった。そしてそれに立ち会う権利もなかった。

 彼の親族や周囲の人間は命を救った恩人を見捨てて消えた人間をどういうふうに捕らえるだろう。

 もう別にどうでもいいと思った。

 病院に電話することも考えたが、私は彼がどうなったかを知りたいとは思ったが、それに私が知るべきことではないように思えた。知らないままでいようと決めた。

 私が歩道から車道へ飛び出した瞬間に、私と彼の関係は終わったのだ。

 

 家へ帰るまでの途中、私は駅から歩きながらもう一度彼へと電話をかけた。

 彼は電話に出ることは無かったが私は留守番電話へ簡単なメッセージを入れた。

 君のところへ遊びにいくのはやっぱりやめておく。と。

 その電話をしたとき、私が昔抱いていた感情は消え去っていた。

 

 家へ帰り着くと私はすぐに自分の部屋に入った。

 冷え切った部屋の暖房をつけ、音楽プレーヤーをかけた。

 私は家へとたどり着くまで、彼との日々を思い出し、今まで彼に対してどのような感情を抱いていたのかを考えた。

 音楽プレーヤーからは男性歌手が最愛の人の死を嘆く歌詞の曲が流れていた。

 恋人の死すら知れない私は不幸なのか。いや、私の最愛の人は彼じゃなかったんだ。そう自分に言い聞かせた。

 彼と過ごした日々は自分にとっては結局、妥協の産物だったと言い聞かせたかった。

 しかし私は自然と彼の部屋の合鍵を握りながら泣いていた。

 自分でも最初はわけが分からなかった。

 しばらく胸が痛くてしょうがなかった。

 そして私は彼のことを愛していると知った。

 いまさらそんなことに気付いた自分を嘆き涙が溢れ出てきた。

 なにもかもが遅すぎたのだ。そうなにもかも。

 合鍵は鈍く輝いていた。


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