第九十八話 災い転じて福となる・・・か?(5)
※この度、東北地方太平洋沖地震で、被害にあわれた皆様のご冥福と、早期のご回復を心から願っております。
子供への放射能影響が、これ以上広がらないようにと・・・願うばかりです。
死を覚悟し、命と引き換えに危険なお願いをしようと思っていた星影。
そんな彼女達を救ったのは、美しい毛皮と堂々とした巨体を持つ四足の猛獣だった。
「紅嘉!お前紅嘉かっ!!?」
星影の言葉に反応するように、素早く振り返る紅嘉。
そして尻尾を振りながら、一目散に駆け寄ってきた。
「がぁ。」
甘えるようにじゃれつくと、かまってくれと言わんばかりに頭を顔に押し付けてきた。
「ぐるぅ~ぐるる~」
「おい、紅嘉。」
「ぐるっ、ぐるぅ~」
「アハハ!こらぁ、くすぐったいよ~紅嘉~」
あまりの無邪気な子虎に、星影の毒気は抜けてしまう。
それとは対照的に、一般的な感覚を持つ他の人間は凍り付いていた。
「お、お、おおおお叔父上!と、虎に猛獣に安林山が!」
「大丈夫だよ、拠・・・。あれは、安林山殿に懐いてる虎だから。」
「はっ!?もしや・・・・伯母上の持ち物だった生き物を、仲直り(!?)のしるしに安林山に下賜したというのはまさか!?」
「ああ・・・それがあの子虎の紅嘉だよ。」
「えっええ!?」
叔父の言葉に面食らう皇太子。それは賊の面々も同じだった。
「ど、どうなってるんだ!?」
「あの宦官、虎を子猫のように扱って・・・!」
「一体なんなんですか、お頭!あの安林山というガキは!?」
「なっ、なっ、な・・・・!?」
配下達の言葉に、青筋を浮かべながら唸る男。
「なっ、なぜだ!?これは一体どういうことだ!!安林山!?」
困惑気味に紡ぎだされた言葉。それに対して問われた本人は、のんきに笑いながら答えた。
「あ~!やっと名前を呼んだな!?」
紅嘉を引き寄せながら笑えば、その姿が癪に障ったのだろう。
少し高めの声で怒ったように再度問いかけてきた。
「うるさい!貴様なぜ―――・・・・!?その虎をどうした!?」
「そんなの私が聞きたいよ。紅嘉ぁ~どうしてここにいるんだ?」
「ぐるぅ~」
「ん~?『ぐるぅ』じゃ、わからないだろう?お前一人で来たのか?」
笑顔で子虎を引き寄せながらそう言った時だった。
ふと、その体から覚えのある匂いがした。
(このかおり―――!?)
まさかと思った瞬間、
「安様っ!!」
この場に似つかわしくない高めの声が上がる。
自分の今の名前を呼びながら、何かが茂みから飛び出してきたのだ。
一瞬警戒した星影だったが、その声に聞き覚えがあった。
「玲春殿!?」
姿を確認して抱きしめたのと、相手が胸に飛び込んできたのは同時だった。
「安様ぁ・・・ご無事でよかった・・・!!」
息の上がった声で再度名前を呼ばれる。
腕の中にいたのは、昼間林山が助けた女官・徐玲春。
そして、衛青の妻・平陽公主が一番可愛がっている少女でもあった。
想像していなかった相手の登場に、さすがの星影も呆気にとられた。
「玲春殿!?どうしてここに――――」
「・・・・た・!」
「え?」
星影の問いに、聞き取れるかとれないかの声で少女はなにかを呟く。
「安様が・・・・生きていて、よかった・・・・!」
絞り出すような、切ないような音色。
思い詰めていたような表情に安堵色が浮かぶ。
それが消えた時、一気に顔がゆがみ、感極まった声で彼女は言ったのだ。
「どれだけ・・・・どれだけ・・・!安林山様のご無事を願ったことか・・・!」
自分の身を案ずる言葉を。
「良かった・・・安様が生きていらして・・・!もう、間に合わないかと・・・!」
そう言いながら抱き着く玲春の力が強くなる。思わず、背に両手を回して抱き寄せれば、その体はガクガクと壊れかけの棚のように震えていた。
「私・・・安様が矢で・・・囲まれているのが見えて・・・急いで紅嘉殿に頼んで・・・間に合わぬかと・・・!」
その言葉で星影は理解する。紅嘉を連れてきたのは玲春であると。
なぜ、彼女が小虎を連れてこられたのかはわからないが、
(魏忠殿に何かあったか・・・!)
彼が紅嘉の側にいない以上、そう考えるのが妥当だろう。
根拠はなかったが、自分の感がそう告げていた。
何が起きたかまではわからなかったが、その何かを聞きださなければいけない。
いけないのだが・・・今はそれよりのやらねばいけないことがあった。
「・・・大丈夫だよ。」
労わるように、慰めながら玲春の背中を撫でる星影。
「・・・私は大丈夫だよ、玲春殿。」
「安様。」
「私は生きている。だから、君をこうして抱きしめられるんだよ?」
「安様、私・・・!」
「こうして抱きしめていれば、君の体温を感じる。君も、私の体温を感じるだろう?いや・・・私の場合、体温だけじゃない。君の温かい心のぬくもりも感じるよ。」
「安様・・・」
「優しい心が、ぬくもりとして伝わってくる。」
今、星影がするべきことは、皇太子を庇うことや賊との戦闘を再開することではない。
自分を助けてくれた恩人を落ち着かせること。
いたいけな少女を慰めるのが先決だった。
そう思って、震える玲春に語りかけた。
「『急いで紅嘉に頼んで』」
「え?」
「君が言った言葉だよ。それって、私達を助けに来てくれたんだろう?」
彼女がどうしてここにいるのか、まだ理由はわからない。
しかし彼女は、自分の身を案じる言葉を言ってくれていた。
つまり、私を心配して、危険を承知で賊の前に姿を現したということだろう。
それならば、
「紅嘉殿と一緒に、助けに来てくれたんだね。」
そう考えるのが当たり前。
「ありがとう、玲春殿。」
そう言うのが当たり前である。
ゆっくりと頭を撫でてやった。その動きに合わせて、興奮した様子だった玲春の息遣いも整っていった。それを確認しながら星影は言葉を紡ぐ。
「可愛そうにこんなに震えて。いや、無理もない・・・。ここに来るまで、よほど怖い思いをしたはずだ。危険を冒してまで、決まりを破ってまで、紅嘉と共に来てくれた。そのおかげで、私だけでなく皇太子殿下も救われた。」
「安様・・・!なんてもったいないお言葉を・・・!」
「それは私の言葉だよ。もったいないどころか、畏れ多い。君の行為は、夫のために自ら敵の捕虜になった呂皇后の愛にも勝る。」
「そんな!私は呂后様のような貴人ではないし、優しくなんか・・・」
「身分なんか関係ないね。」
「え?」
「人を思う心に身分なんて関係ない。あなたは間違いなく優しい人間だ。今まで宮中で知り合った女性の中で、一番優しくて、綺麗な心を持っている。」
「わ・・・・私!私ぃ・・・!」
「わかってるよ、なにも言わないで。護符にも勝る、私の可愛い香蛾殿。私は、ちゃんと生きている。・・・それって最高だと思わないかい?」
耳元でささやけば、何度も首を縦に振る少女。
星影の感謝と思いやりの気持ちは、確実に相手に伝わっていた。
ただ、残念なことに・・・
「叔父上あれは・・・」
「・・・うむ。」
「慰めるというよりは、口説いているのでは・・・?」
「・・・。」
この宦官の行為が、はたかれ見れば、下世話な風にしか映らなかったということであろう。
さらなる不幸は、そのことに当の本人同士が全く気付いていないと言うことだったが。
「よかった・・・安様がご無事で・・・本当に良かった・・・・!」
そんな外野の様子に気づくことなく、安心しきった表情で静かに泣きはじめる玲春。
目からあふれる涙を星影は無言で何度も拭き取った。
(ああ・・・・本当にこの方は、なんとお優しいのだろう・・・)
―――――――あの時は本当に、生きた心地がしなかった・・・・――――――――――
自分の目元で動く指を見ながら、ぼんやりと先ほどのことを思い浮かべていた。
・
・
・
・
・
こんなに長い時間、暗闇の中を動き回るのは初めてだった。
最初は、その暗さに戸惑っていた体も、次第に慣れ始めていた。体だけでなく目も、闇夜の中で利くようになってきていた。
立派な毛並みと巨体を持つ、四足の案内役の後を玲春は追っていた。
小虎の進む先は、自分も行ったことのない場所。
周りの様子や景色を見る限り、宦官専用の宮殿ではないかと玲春は考えていた。
元々、自分がいる宮殿以外は出ることはないし、あったとしても平陽公主様のお供でついて行くぐらいで、大まかな場所しか知らない。
それでも、この場所が自分のいる宮殿と異質であることは肌で感じていた。
すごく静かで物音一つしない。本当に人がいるのかさえ疑わしい。
なによりも・・・
(変なニオイがしますし・・・)
どこかで嗅いだことのある香り。
なぜか、自分が仕える女主人の夫の顔が思い浮かんだ。
(衛青将軍のにおい・・・?)
いいえ、あの方がつけていらっしゃる香は、こんな独特の香りはしない。
申し訳なさ程度につけているぐらいで、鼻をつくにおいではない。
お香と言うよりは、古い刀についている錆と似たにおいがする。
いつのまにか、自分と並んで走っていた小虎の方を見る。
紅嘉の鼻はしきりに動いていたが、相変わらず視線だけは前を向いていた。
その鼻が、各部屋から漂ってくる錆のにおいに反応しているのかはわからない。
ただ、自分が捜している高級宦官を見つけるために動いているのだということは確信できた。
そう思えるだけの証拠はなかったが、自分の心がそう断言していたから。
(部屋を抜け出しただけでも罪なのに。魏忠殿の制止を振り切って、紅嘉殿と一緒に行動していたとバレたら、きっと平陽公主様は許して下さらないかもしれない・・・)
ただでさえ、烈火のごとく怒らせてしまっていた。
いくら、自分が殺されない立場だとしても、今度こそ売り飛ばされてしまうかもしれない。
(殺さなくても、それに相当するだけの苦痛を与える方法をあの方は心得ていらっしゃる。)
覚悟はできていた。
市場で売られて自分を買って、育てて下さったのが平陽公主様。一緒に売られていた子達の大半は、私の年まで生きていない。
買った主人次第で、その命の短さが違う。
それを、ここまで育てて頂いたばかりか、女性としての教養も授けて下さった。
だから、あの方に死ねと言われれば、迷わず命を絶つ覚悟はしていた。
死ぬのは怖いけど、決心はつていた。
もし、それ以外の感情があるとすれば、平陽公主様に迷惑をかけるということに対してのみ。
主人に対する罪悪感だけだけど・・・。
(・・・きっと平陽公主様だけでなく、衛青様もお怒りになるでしょうし・・・。)
女主人の年下の夫は、誰に対しても優しかった。
単に優しいと言うだけでなく、悪いことは悪い、良いことは良いというけじめを示してくれる人物だった。同僚や部下だけに限らず、使用人にも慈悲深かった。
彼のおかげで、粗相を許され、挽回の機会を与えられたものは多い。
同時に、命を救われたものもたくさんいるのだ。
「玲春、二度とあのようなことをしてはいけない。次は助けない・・・!」
(そんな旦那さまでさえ、茶器の一件では私にきつく注意なさった・・・)
それだけ、いけないことをしたのだとわかるけど・・・・
(自分の気持ちに嘘はつけない。安林山様にお会いしたいという気持ちに・・・・!)
改めて、今の自分の思いを再認識した時だった。
「貴様ら何者だ!?」
「え?」
聞き覚えのある声に足が止まる。
思わず横を見れば、同じように動きを止めている紅嘉。
「今の声・・・・!」
(衛青様!?)
「旦那様の声!?」
そう理解した時、ふいに服の袖を引っ張られた。
「紅嘉殿!?」
こっちだと言うように玲春をある方向へと引っ張った。
されるがまま近づけば、その方角から声がしていた。
「おのれっ!」
「―――上っ!」
耳をすませば、主の夫以外の声もした。
(衛青様だけじゃない?それにこの声・・・怒ってる?)
心臓が鷲掴みされたように圧迫される。
喉から下の辺りに、一直線で異物が通る感覚がした。
怖い。
「ぎゃっ!?」
「ぐっ!?」
「うわぁ!!」
今度は複数の悲鳴が聞こえた。
それで玲春は、この先でよからぬことが起きているのだと分かった。
「どうしよう・・・どうすれば・・・!?」
困惑し、足が止まる彼女を子虎が必要に引っ張った。
「紅嘉殿!?」
早く早くと急がせてきた。
「やめて!どうして!?・・・まさか――――――」
(この先に、安様がいると言うの・・・・!?)
目だけで問いかければ、無言で紅嘉は見返してきた。
今までと違うところがあるとすれば、尻尾を振っていること。
左右にゆらゆらと、どこか嬉しそうに動かしていた。
「・・・・安様が・・・この先にいるの・・・ね?」
どれぐらい見つめ合ったかわからない。耳に届く、言い争うような複数の声。
それを聞きながら尋ねれば、人の言葉が離せない生き物は、銜えていた少女の袖を離した。
「がぁ。」
返事でもするように軽く唸ると、さっさと玲春から離れて行った。
なぜか走るのをやめて、トコトコと歩きながら、声のする方へと向かい始めた。
「紅嘉、殿・・・・」
呼んだつもりはなかった。自然と口から漏れた言葉だった。
それに子虎は耳をピクピクさせて反応し、首だけでこちらを見返してきた。
虎の表情の変化などわからなかったが、自分を見るその顔。
ボク ヒトリデ イクカラ イイヨ
拗ねたような諦めたような、そんな顔つきだった。
「ま、待って!」
置いてきぼりを食らうかのような疎外感。気付けば叫んでいた。
引き留めようとしての行為だったかもしれないが、叫んだのは彼女だけではなった。
「やめてくれぇぇぇぇ!!」
初めて聞く、旦那様の懇願する声。
「拠様ぁぁぁ―――――!!」
続けざまに聞いたのは、絶望に満ちたその方の叫びとそして――――――
「――――――そっこだぁぁぁぁぁぁ!!」
楽しむような、怒ったような、してやったりというような声。
聞き覚えのある、よく知っている、今一番聞きたかった声。
「安様っ!?」
(安林山様のお声!!)
自分が今、一番探している、会いたい人の声。
その声が背中を押し、止まっていた玲春の歩みを進めた。
「安様っ!」
恐怖も不安も戸惑いも振り払い、一目散に声のする方へと向かった。
途中で、何度かこけそうになったが気にせず進んだ。
この先に安様がいる。私を助けてくれた安様がいる。
(安様に会いたいっ!!)
「ぐるぅ。」
顔をほころばせて走る少女の後を、小虎がトットコとついていく。
その背を見つめる瞳は、“やっと、行く気になった。”と言わんばかりのものだった。
声の中心に近づくにつれ、はっきりと会話が聞こえ始めた。
「おのれ宦官~!?」
「宦官にも愛国心はあるんだよっ!!衛青将軍、微力ながら加勢いたします!」
「安林山殿なんと!?」
知らない声と知っている声。
夜の世界で、そんな人達の人影を認識できる距離まで来た時だった。
(こ、これは一体どういうことですか!?)
玲春が目にした光景は一言でいえば非常事態。
怪しい連中と戦っている高級宦官と大将軍の姿。
二人の側には自分と同じぐらいの少年がおり、服装からして皇族であるのは間違いなかった。
何人いるかわからない数の賊らしい者達にも驚いたが、それ以上に彼女をびっくりさせたのは―――
(あの人達!!魏忠殿を襲った人達と同じ格好をしている!まさか・・・仲間!?)
ということ。それで玲春は事の重大さを思い知らされた。そして考えた。
(どうしよう!このまま安様達のお側まで行くよりも、誰か助けを呼んだ方がいいかしら!?)
迷いで動くことができず、その場に立ち尽くす玲春。
それとは対照的に、低く唸り始める紅嘉。
「紅嘉殿・・・!どうしたら、私・・・!」
小虎と修羅場とを交互に見ながら少女は考えた。
こうして見る限り、安様や旦那様達が不利な状況であるのは間違いない。
でも、どうして宮中に賊が侵入できたの!?
あんな剣や弓なんか持ち込んで・・・どうやってここに持ち込めたの!?
それにもし、あの賊が魏忠殿を襲った犯人と同じならば――
(安様も旦那様も、無事では済まない・・・!!)
助けを呼びに行くのは時間がかかってしまう。
いっそ、私と紅嘉殿で何とかするべきなの?
ううん!そんなの無理!
私は武芸の心得はないし、紅嘉殿だって・・・!
“紅嘉殿とは、とても可愛い子猫です。この子は人を食べたことはありません。”
人を食べたことはない、襲うことさえしない・・・。
そうあの方は、みんなの前で断言された。
もしも、紅嘉殿が宮中で人を襲ったと公に知られれば、人食い虎でないと奥様に言った安様のお立場がなくなってしまう。
紅嘉殿を庇われた、安様の努力が無駄になってしまう。
最悪の場合、追放ではなく殺されるかもしれない・・・!
それだけはさけたい。
「安林山殿!」
再び、大将軍の声がした。切羽詰まった声は、緊急事態を告げていた。
たくさんの弓矢が彼と少年を狙っていた。
――――――――――あれでは、ぜったいに、にげられない―――――――――
あんなにたくさんの矢を射ぬかれたら、
「安様っ!!」
彼が死んでしまうっ!!
(―――――――やめて!)
やめてやめてやめてやめてやめてやめて!お願いお願いお願いお願い!!
祈るように、指示を出しているらしい一人の敵を見る。その姿を見て思った。
この人は安様を殺す気だ。
頼んでも助けてくれない。見逃してくれない。その行為をやめてなんかくれない。
いや!安様を殺さないで!
逃げて!逃げてください安様!!
すぐに視線を彼に戻したが、その目は死んでいなかった。
ギラギラと輝き、生きることをあきらめてなかった。
(――――――――いいえ、違う!)
あの眼は、生きることをあきらめていない目だけどそうじゃない。
「自分の命ではなく、他の誰かを、生かすことをあきらめていない目だわ・・・・!」
それは誰?答えは簡単。あなたのお側にいるあの皇族の方ですね。
その方のために、自分の命を捨てようとなさる?
私を助けた時のように?
いいえ、あの時よりもご冗談が過ぎます。
自分を犠牲にして、その方を守ろうと――――――?
(そんなことさせないっ!!)
玲春の中の、ここまでの一連の思考は、本当に瞬きするほどの一瞬の出来事。
建前、面子、立場、体裁・・・・そんなこと、どうでもいい。
安様の命がかかっているなら、どうでもいい。
そう思った時、なりふり構わず彼女は叫んでいだ。
「紅嘉殿っ!!」
紅嘉殿が宮中で人を襲ったと公に知られれば、人食い虎でないと奥様に言った安様のお立場がなくなってしまう。
でも、避けたいのはそんなことじゃない。
「―――――――安様を助けてぇぇぇ―――――――――――!!」
(一番避けなければいけないのは、安林山様の命が失われてしまうことっ!!)
玲春の叫びは、複数の音と重なり、かき消された。
唸り声と、床を蹴る爪の音と、己の横を駆け抜ける風の感触。
「助かった暁には、私のお願い聞いてくださいね――――!!」
「がぁああ!!」
優しいあの人の言葉と声の後で、猛獣が何かをかみ切る音。
「紅嘉っ!!!」
弓で射抜かれた悲鳴ではなく、元気なあの方の声が耳に届く。
「間に合った・・・!」
一気に体の力が抜け、その場に座り込む玲春。
間に合ったのだと、嬉しそうに猛獣の名を呼ぶ宦官の声を聞きながら安堵した。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます・・・!!
小説の中で星影が玲春に語った『呂皇后』とは、漢の高祖である劉邦の正妻・呂雉のことです。
詳しく覚えていないのであいまいなのですが、劉邦と項羽が覇権を争っている際にある戦で、呂雉は項羽軍に追われていました。彼女は、子供や家族を逃がすために、乗ってた馬車から飛び降りて、自ら捕虜となって家族を逃がしたとされています。
彼女の場合、自分の父親が劉邦の将来性に掛けて、格下のやくざの大親分であった劉邦と結婚した身でありました。愛情があったかはわかりませんが、夫を信じ、子供や夫のことを考えて猛スピードで走る馬車から取り降りたのは、愛ゆえのことだと思われます。
おかげで子供たちは無事に逃げきれ、彼女も何とか後日、劉邦の元へ戻れたそうです。
ただし・・・これには、残念な後日談があります。
体を這って逃がした子供を、夫である劉邦は「逃亡の邪魔だから!」と、馬車から捨てました。「何考えてんですか!?」と、これを怒って拾い上げたのが、三国志の曹操のいとこであり、四天王と称された夏侯惇・夏侯淵のご先祖様に当たる夏侯嬰です。
子供を捨てたことを怒る夏侯嬰に劉邦は、『陳勝・呉広という人達が自分の家族を逃がすために、部下に殺されて自分の命を落としたこと、主君である自分の子供を守るために、有能な家臣が死んでしまうこと』を述べた上で、「子供は逃亡の邪魔!代わりはいつでも作れる!!」という理由で捨てようとしたと述べています。元々、やくざの親分だった人なので、駆け引きやはったりは得意でしたし、どこまで本気だったかというと難しいところです。ただ、三国志の劉備も、自分の大事な武将であった趙雲が息子を助けるために数万の敵の中を一揆で駆け戻って、奥さんと赤子であった後継ぎを連れ帰った時でさえ、息子を地面にたたきつけて、涙ながらに趙雲を怒り、彼を失うことへの恐怖を語ったとされています。
それを思えば、「子供はいつでも作れるから捨てていく。でも、優秀な家臣は作ることなんてできない!」というのは、天下人としては最高ですが・・・女性の立場から見れば、最低の夫でしょう。結局は、夏侯嬰の説得に従って、子供も連れて行きますが、その様子を見ていた家臣や兵士は「そこまで我々のために・・・!」と感動したらしいです。
ただし、再会してからこのことを知った奥さんの心中はどれほどのものだったか、察することはできます。呂皇后のこの行為を、「打算のためだった」という人もいるかもしれませんが、今となってはわかりません。
ただ、この物語の主人公である星影の場合は、「愛があったからこそできた命がけの行為だ!」と思っているので、最高の褒め言葉として、玲春に言ったということを、この場を借りて追記させていただきます。
※誤字・脱字・漢字の間違いがありましたら、こっそり教えていただけると、ありがたいです・・・!!
ヘタレですみません!!