第十話 黒い影
闇の中、辺りを気にしながら宮廷内を動き回る人影―――
「もう!どうして後宮って所はこんなに広いわけ!?」
言わずと知れた劉星影だった。ただし今は男の安林山。汗をかきながら、ひたすらに後宮内を走り回る。彼女が動き回る理由はただ一つ、妹の劉星蓮を探しているに他ならない。昼間、同僚(!?)の王琥珀と張空飛から聞き出した話を頼りに、皇帝の妻達がいる館、宝仙宮の前まで行ったのだが・・・・案の定、強固な警備だったため正面から入ることはできなかった。なんとか他の場所から入れないものかと館の周りをうろついているのだったが・・・
「駄目だ・・・・塀は高すぎるし、登るための足掛けになりそうなものもないし・・・!!」
星影は正直焦っていた。後宮に来ればすぐに妹が見つかると思っていた。しかし、実際は見つかるどころか、返ってわからなくなっただけだった。ただでさえ、林山に化け、性別を偽って後宮に入り込んでいるのだ。このまま後宮での滞在が長引けば、いつなんの拍子に正体がばれるかわからない。そうなれば、自分ばかりか、本物の林山の首も、さらには妹の星蓮の首まで飛びかねない。宦官の証明書を偽造してくれた厳師匠も言っていた。
“せいぜい、ばれずにもっても一月ぐらいだ・・・。それまでになんとかするのだぞ。”
はっきり言って時間がない。
限られた時間の中で探さなければならないのだ。それもたった一人で。
「冗談じゃないわ・・・・!!」
自然と星影の眉間にしわがよる。
こんなことになるなら、後宮についてもっと勉強しておくべきだった。こうして苦労するのも、自分の知識のなさ、無知が原因なのだから。だからといって、後宮について教えてくれる先生もいなければ場所もない。あったとしても、それは妻女として入るための教育のみ。誰が後宮内のまで教えてくれようか。もっとも、そんな情報を外部に漏らすようなことはしないだろうが。だから知らなかったのだ。後宮について・・・本当になにも知らなかった自分。そしてそこにいる者達・・・後宮で働く宦官についても。自分はいずれいなくなるからいいにしても、本物の宦官達が気の毒だった。林山から聞いていた宦官の話と、現実での宦官とは、まったく違っていたから。なぜなら、自らが実際に体験してわかったことだから。
“家が貧しいから・・・。”
“異系ゆえに・・・”
琥珀と空飛の言葉が胸に刺さった。二人の境遇は違っていたにしても、結局は暮らしが成り立たないからと言って宦官の道を選んだ。
ふと星影に昼間の出来事が頭をよぎった。あの後、書物の整理を終えて、他の仕事に取り掛かったことだった。その仕事中に、いきなり空飛が小さく叫んだかと思うとそのまま失禁してしまったのだ。驚く星影に琥珀は教えてくれた。男性器を切ったせいで、うまく排泄の調整ができないのだ、と。渋い顔をしながら話してくれた。すぐさま着替えに行かせようとする星影に対して、それを見ていた上司が言った言葉。
「いつものことでしょ!仕事をさぼるな!!」
いやらしい笑みを浮かべる上司達。荷物を持たせるとそのまま外に放り出す。それを星影が助け起こすと、丁度そこを通りすぎる官僚達の姿。彼らはこちらに聞こえるようなわざとらしい声で言い放った。
「おやおや、こんなところに歩く汚物が。」
「なにをしているのかね、早く片付けてくれ。」
そういい残すと笑いながら去っていく。連中の言葉に星影の怒りが浸透する。
(この野郎・・・・・!!)
殴りかかろうとした寸前で琥珀に止められた。
彼が黙ったまま首を振る。琥珀が止める理由はわかっていた。だからこそ拳を握り締めるしかなかった。
宦官は欲の塊だと林山は言ったが、果たして本当にそうだろうか。確かに権力をほしいままにして国を混乱させた宦官がいるのは知っているが、そんなものはほんのごく一部ではないのか。多くの宦官が辛酸を舐めつらい生活を送っている。宦官の上下間におけるいじめは日常茶飯事。奴隷としてこき使われ、官僚達からは鞭打ちや罵声を受ける。宦官として富を得るのはほんの一握り。その少数の者達のせいで、宦官全般が悪者になっているのではないのか。そもそも、何故そのことを皇帝は、歴代の皇帝達は見逃していたのだろうか。いや、もしかしたら、この悲惨な現状を知らないのではないか。この時になって星影は思った。今まで信じて疑わなかったこと―――――
皇帝とはなんなのか。
ここに来て星影は皇帝というものに疑問を感じていた。本当に万人にとって神であり、どんな人々でも大切にしてくれるのだろうか。少なくとも、漢民族に対してはそうかもしれない。でも、本当に漢民族すべてを思ってくれているのか。宦官という特殊な人種の輪の中で、何日か過ごした星影にはそれを信じることができなかった。ここまでして、何故宦官になる必要が、陛下に尽くす必要があるのだろうか?やはり、家族のためにわずかな収入を得るためになのか。それがたとえ、人以下の存在として扱われることになろうとも。しかし、本当にそれでいいのだろうか?
考えてみれば、自分はなに不自由なく育ってきた。武芸にしても、自分達の身を守るためとはいえどこか贅沢だったようにも思える。いつも世の中に不満を感じていた。女だから女らしく、しとやかに、上品に・・・と。きまりに縛り付けられ、身動きが取れないように感じた日々。自分こそが一番不公平だと思っていた。女に生まれたことこそ最大の不幸だったと思っていたこと。でも・・・・実は違っていた。ただ単に自分が世間知らずだっただけなのだ。自分の不満ばかりを並び立てるだけで、一度も他人の境遇について省みることがなかった。自分が彼らと違ったのは、自分の方が人生の選択肢が多かったということ。二人から見れば私は裕福で恵まれている。他の女性達と比べてもかなり自由だった。どうして自分のことしか考えなかったのだろう。いつからそうなってしまったのだろう。一つのことが星影の頭をよぎる。
三年前の出来事。
あの時から、自分の価値観が変わってしまったのかもしれない。男のような格好をし、男のような立ち振る舞いをし、男のような言葉遣いをするようになったのも、すべてあの出来事がきっかけだ。女らしくしても仕方ないと思うようになったのも。男は身勝手なものだと考えるようになったのも。だからなのか。男に成りすまして、宦官として後宮に来ていることに対してまったく罪悪感がわかないのは。それどころか、星蓮を取り戻すことにしても当然だと考えている。大罪を犯していることに、一族を危険にさらしていることに、私達は、いや、私は実感していないのかもしれない。だからこんなことをしてしまったのだろうか。私のやっていることは身勝手でわがままなことかもしれない。でも――――!!
「・・・どんなことをしてでも・・・星蓮は必ずとりもどす・・・絶対に。」
自分のしている事は常識から外れているのは分かっている。でも、私が全部悪いのだから。あの時星蓮と離れなければよかったと、何度考えただろうか。そのせいで、父が、母が、林山が、なによりも星蓮が傷つき、人生が狂ってしまった。でも・・・・・・・・・・・・
「――――――人の心に常識なんてない。」
そうだよ、常識なんて関係ない。私は私にできることをすればいいんだ。人の心の常識は他人が決めるものじゃない。私がしていることがわがままと言われても構わない。だから私は罪を犯してでも自分の信念を貫く。
「絶対に・・・・取り戻してやる!」
自分の目的を再確認して呟いた時だった。ふいに人の気配を感じる。とっさに近くの柱の後ろに隠れる。息を潜めていると、段々と足音と、人の声が近づいてくる。聞き覚えのある声。
「ここには来るなと言ったであろう?」
この声はまさか・・・!?
柱の影から聞こえる足音と、声の主を確認するまでは信じられなかった。
(琥珀!?)
それは紛れもなく、同じ下級宦官でここでの友である、王琥珀だった。しかも一人ではない、全身黒ずくめの男と一緒だった。後宮では見たことのない怪しい男。二人は、星影が隠れている柱の前まで来るとその場に立ち止まった。どうやら星影がいることに、気づいていないようだった。
「申し訳ありません。どうしても、伯燕様にお伝えしたいことが・・・」
(はくえん?)
星影は思わず眉を吊り上げる。
彼は自分のことを『王琥珀』と、名乗っている。周りもそう呼んでいる。
では『伯燕』とは?あだ名?それとも幼名かしら。
疑問はそれだけではない。
真夜中にこんな人気のいないところで、それも見るからに、後宮に勤める人間ではなさそうな男と一緒にいる。
なにかあると思った星影は、二人の話に耳を傾ける。
「実は伯燕様!例の件ですが、手はずが整いまして・・・。」
「まことか!よくやった。」
(手はず・・・!?なにか約束でもしていたのか?)
だとしたら、一体どんな約束を??こんな夜中に人気のいない廊下で密談するほどだし。・・・まさか、物騒な話じゃないでしょうね。
「・・・計画に、抜かりないだろうな?」
「はい。・・・奴を殺すには十分です。」
予感的中!
聞こえてくる会話はかなり物騒だった。
(殺す!?一体誰を!?)
詳しく話を聞こうと、身を少し乗り出した時だった。星影の影が廊下に映る。それは一瞬の出来事だったが、黒服の男はその影を見逃さなかった。そのことに気づく星影。
(しまった、見られた!)
星影が息をのんだ瞬間。
「誰だ!?」
罵声に近い声で、黒服の男が星影のいる柱めがけて短刀を数本投げつける。
「どうした!?何事だ!?」
「はい!今、柱の影に人が!」
「なんだと!?」
二人が柱の陰に駆けつけるとそこには、短刀の刺さったほうきが一本転がっていた。
「なんだ、ほうきではないか。驚かせるな。」
「・・・おかしいですな。確かに人影だったのですが・・・?」
不思議そうにしている黒服の男。箒を手に取ると、マジマジと見ながら首を傾げる。
そんな彼に琥珀、いや、伯燕は声を掛ける。
「あまり殺気立つでない。私はそろそろ戻る・・・。人目に付くと厄介だからな。」
伯燕の言葉で、二人はその場から離れ始める。しばらくすると、二人の男の姿は暗い廊下の中へと消えていった。辺りに再び静寂が戻る。
「助かった・・・」
誰もいない廊下に響く声。地上にはその姿を窺えないが、まぎれもない星影の声だった。柱の天井にへばりつく彼女の姿があった。
「武芸を習っていて良かった。」
安堵すると、勢いよく地上に着地する。誰もいないのを確認すると、長居は無用とばかりに一気に駆け出す。風を肩に受けながら星影は考えた。
王琥珀・・・と、偽る伯燕と黒服の男のことを。おそらく王琥珀とは彼の偽名だろう。つまり王琥珀は、偽名で伯燕と言う名が本名なのだ。琥珀は、伯燕は一体何者だろうか?彼は自分のことを匈奴だと言っていたが・・・・本当だろうか。それに琥珀の口調、二人のやり取りを聞いた限り、それほど身分が低いような感じではなかった。むしろ、どこかの貴人のような話し方だった。そう、主人と家来のような雰囲気が二人にはあった。
なによりも引っかかることがあった。彼になにかを感じた。それは以前どこかで感じたことがある『なにか』を。そこまで考えて星影は気付いた。その『なにか』に。最初に彼と会った時に感じた違和感――――――・・・・!?
「あれと同じだ・・・・!」
武道の修行場で、いつも漂っていた空気。武人特有の感覚。いつも星影が、身近に感じていたもの。
「琥珀の動きは・・・『武人の気』だ・・・。」
星影が琥珀に感じた『なにか』。それは、彼の雰囲気の中に『武』を感じたからだった。その見え隠れしている武人の気配に気づいたからだ。どんなに隠してもごまかすことのできない、「武」の気配。あれは自分が道場にいた時の周りの人間と同じ匂いがしたからだ。
では彼はいったい何者なのか?はっきりとわかることは唯一つ。
「彼は・・・宦官じゃない・・・。」
それだけではない。気がかりな事は、誰かを殺す相談をしていたこと。彼らは誰を殺そうと言うのか?宦官に成りすまして、後宮に来てまで殺す必要がある人物。
“皇帝陛下様にとって、異民族を皆殺しにすることは簡単だったんだよ。”
・・・・・・まさか――――!?
そんな事を考えていた時だった。
突然あたりに叫び音が響く。それと共に遠くの方から大声で叫ぶ声が聞こえた。
「なに?庭の方から?」
不審に思い声のするほうへと進む。近づくにつれて嫌な匂いが漂う。その時だった。
「痛っ!!」
声と共に、星影は勢いよく倒れる。なにかに足を引っ掛けてつまずいたようだった。
「なんなんだよ!?いっ――――――」
一体!?そういいかけて、星影は我が目を疑った。そこには血まみれの男が倒れていた。すでに事切れているらしく、死後硬直が始まっていた。思わず後ずさりすると手になにかが当たる。恐る恐る振り返るとそこには、屍の山、山、山、山。
「―――――どうなっているの・・・!?」
服装からして見覚えがあった。数日前に星影の乱闘を止めに来たのでよく覚えていた。間違いない、彼らは皆、後宮の宮廷兵だ。後宮の宮廷兵と言えば選りすぐりの精鋭ばかり。それがこうも簡単に切り捨てられている。星影は直感した。これはただ事ではない。冷静に周囲の状況を見る星影はあることに気がつく。
「この死体・・・!切られてまだ間もない・・・?」
屍は奥へ行くほど新しいことに気づく。
これをたどっていけば、なにか分かるかもしれない!
そう思うと急いで彼女は駆け出した。奥へ行くほど血の匂いがする。そのにおいを頼りに、庭の奥深くへと星影は進むのだった。