零れる四季(前篇)
惣菜、蕎麦、カップヌードル、紙パックのお茶。スーパーで買った、それらの入った袋を助手席から取り、車から降りた。外気にさらされて、温度の変化に体がぶるりと震える。白い息があがり、凍えてしまわないうちにと、さっさと寮の中へと足を進めた。
「外、寒かった?」
「めっさサミイ」
インターホンを押すと時間を取らずに扉が開かれる。寮と言ってもほぼアパートの体系と変わらないため、人が訪れるのに制約なんかはない。ここを訪ねるのは、少なくはないが、けして多くもない。
雪谷が、今日はおれ一人だというのを認識して少し強張るのが見て取れた。それでも隠そうとしながら会話を続けようとするのだから昔と比べると随分進歩している。昔の雪谷はただ俯いて、申し訳程度になにか呟くだけだった。
「おじゃましあーす」
靴を脱いで上がると、短い廊下の冷えたフローリングが足に凍みた。部屋に入ると暖房で一気に体が暖まる。頬が熱で乾燥していくのがわかった。
「あ。これ、はい」
スーパーの袋をテーブルの上に置く。おれからの仕送りがわり、なんて。
「あ。ありがと、蕎麦だ。お茶も」
「うん、ちゃんとお前飯くってんのかなって。お袋も心配してた」
雪谷んちに行くときはいつも食べ物を持っていく。高校のときにずっと、弁当を与えていたからだろうか。小さく啄ばむ雪谷に、鳥を飼うように餌を与え続けるのが習慣化していたのかもしれない。だいじょうぶ、と言った雪谷は少し見ないうちに大人になった気がする。やっぱり、大学生と社会人じゃ生活環境がまったく違うのだろうか。
「仕事、大変か」
当たり障りのない、つまらない質問。雪谷が薄い膜でおれとの距離を置いているから、俺までそうなる。雪谷がおれの家を出てからはずっとそうだった。気まずいのか、それとも別のなにかがあるのか。
なれた、と言う雪谷からそれ以上言葉は続かなかった。ましになったとはいえ、相変わらずこいつは人とのやりとりがへたくそだ。
前はこんな沈黙も平気だったのに。ただ手を繋いで、おれが時々喋りかけて雪谷がもそもそ答える。そんなのが常で、日常に横たわっていた。
「ユキ」
今日、初めて名前を呼んだ。ぱっと瞬間的に顔を上げた雪谷の表情はなにも変わらないけれど、反応してしまったことに後ろめたさがあるように「うん」と口ごもらせる。ユキ、ともう一度名前を呼んで反応を見る。
――雪谷と出会ってからもう、三年目。おれたちは大人と子供の間、十九という年齢になっていた。
去年の冬、雪谷にあの感情を気づかせてから一年が過ぎていた。
雪谷はおれのうちの養子となり、家からそう遠くない距離の工場で働いている。寮住まいのため、今までのように毎日顔を合わせることはなくなっていた。
あれを知らないまま兄弟になっていれば良かったのに。その感情も家族に対するものだと錯覚させることができだろうと思っていたのに。
執着に、壊したのはおれだった。
『ずっと、考えてた。阿佐が隠してたこと』
『阿佐、おれは―――』
霞む記憶の中の雪谷もまた、雪景色の向こうにいるようにぼやける。おれの下で震えていたあの声も、遠い。
雪谷がいなくなってからも、おれの生活は今までと何も変わらない。遊んで、飲んで、大学のコンパに出て、バイトして、彼女が出来て、別れたりして。少し行動範囲が広くなっただけ。時々雪谷を思い出せば、その日は煙草の数が増える。
昔は当たり前だったのにいつの間にか不安定になっている、部屋の中で一対一という状況。ここには灰皿がないから、紫煙で時間と空間を埋めることはできない。この部屋にいると、雪谷といつの日か、保健室で過ごした穏やかで危ういあのときが幻のようだった。
雪谷の部屋は、相変わらずなにも無い。社員寮だから、備え付けの冷蔵庫やベッドなどの家具はきちんとしたものが設置されているので、雪谷が昔住んでいたあのアパートよりは大分ましだけれど。一人暮らしという響きが苦々しく感じるのは、雪谷が昔一人でうずくまっていたのを思い出すから。
「阿佐、あのさ・・・、正月は帰るね」
ユキ、と呼びかけて何も続けないおれに、驚いたことに雪谷の方から言葉が吐き出される。
「ああ。つーか、土日もお前帰ってこいよ。お袋心配するし」
「ん・・・」
ふ、と頷いた雪谷の口元が数ミリ上がったように見えて驚いた。そんな顔、いつの間にできるようになったんだ?
そうして瞬きを数回すると、雪谷はまたいつもの無表情に戻っている。
昔は。といっても一年前だ、そのころおれはどうやってこいつと関わっていたんだっけ。ただ側にいて、手を繋いで、おれがぼんやりと呟いていた。そんな空気が呼吸するように当たり前だったのに、今はどうしていいのかわからない。
あの出来事は俺たちに決定打を与えたけれど、大学で最初に知り合った連中が徐々にグループを変えるような、そんな疎遠には決してならないのは、おれたちが今は兄弟だからだ。フェードアウトすることができないのは、この先一生。雪谷にそれは辛いだろうか。
それでもおれはやっぱりこいつを手離したくないし、縛っておくには家族の形が最適だから「おれにとっては」最適だったけど、今、雪谷はどうなんだろうな。本当は雪谷を幸せにしたかったのに、噛み合わない気持ちで行き先がぶれている。
(ああもう、めんどくせえ)
こいつと居ると、普段あまり物を深く考えない反動なのか、色々と考えすぎて結局どん詰まりになる。他の連中といる時のように適当な自分で振る舞えばいい。考えるのが面倒くさくなり、雪谷の反応を窺うのを止めた。
「なあユキ、お前おれのスウェット持ってた?」
話しかけるとぴくん、と肩が揺れる。わかりにくそうで案外わかりやすい反応はずっと変わらない。
「あ、うん。だめ、だった?」
「いや別に。家になかったから持ってたのかなって。つうか、お下がりであげたやつだしお前のだろ」
「おれので、いいの」
「いいだろ」
今更何言ってんだ。
「・・・あれ着ると、阿佐の居るかんじする」
どういう意味で言ってる?とは、雪谷に聞いてもわからないだろう。そこに恋愛感情が篭っているのかと意味を含めるせりふは誰が聞いても理解するけれど、雪谷にそんな言い回しは通用しない。だからこそ、こいつの言葉は本当にそのままの意味だ。
おれが返事をしないと雪谷はなにも言わない。一問一答以外の会話の仕方を雪谷はあまり知らないけれど、それで困ったことはない。おれか雪谷どちらかが口を開くまで流れるぬるま湯のような雰囲気。
昔はよくあったその、空気の滞るぼんやりとした空間が唐突に引き裂かれる。ピンポーン、とインターホンの鳴る軽い音が部屋に響いた。
まさかこいつの部屋に誰か尋ねてくるなんて想像してなかったから、宅配かなにかだろうと考えて、腰を上げる雪谷を黙って見ていた。
「あ・・・、高橋さん」
「おう純、飯食ってるか?」
ワンルームなのでリビングの扉を開けっ放しにされると玄関の声が筒抜けになる。雪谷を本当の下の名前で呼ぶ親しげな声色の客人に、聞き耳を立てていた。
「はい、もう、食べました」
「そうかー、お前食細いからな。明日休みだからって食ってないんじゃないかって心配で顔出したんだ」
「すみません」
「なんで謝ってんだよ」
大声で笑う、タカハシ、という男に声だけで苛立ちを覚えたのはおれとは性格が合わなさそうなのを感じていたからなのか。いや、そうじゃない。
挨拶という名目で様子を見に立ち上がり、玄関に顔を出した。
「どうも」
「あれ、純、友達か?どうもこんばんは」
嬉しそうにするタカハシに、意地の悪い感情が鎌首をもたげる。相手に直接示すのではなく、自分の中で相手を低く評価する類のものだ。
「兄です。いつも弟がお世話になってます」
家族、という響きに繋がることばが友達よりもずっと強いものだと示しているようだ。どこかむきになっているおれは、ペットが誰に懐いているのか子供が競っているそれと何も変わらない。
「ああ、そうなんだ。いや、こちらこそよく純ちに顔出させてもらってて。・・・つうか心配なんで見にきてるんだけどさ」
この短時間で沸々と湧き上がるこいつへの距離の違和感。雪谷のことを純と呼び、心配するタカハシのことを好きになれそうになかった。
「そうなんですか、どうも」
「いやいや、じゃあ家族来てるみたいだし、おれはこれでお邪魔します」
どうも、と社交辞令を返し扉が閉まるのを確認すると肩の力が抜けた。無意識に緊張していたのだ。またあいつはおれがいない時に訪ねるだろう。いつでも来れるという余裕のある態度がそう取れる。
おれが社交辞令を交わしている間、雪谷は何も言わなかった。それで、雪谷の方を横目にするとこいつは何を言おうかと思考を廻らせているようだった。
――何故?
「ユキ」
こいつは、男が好きなんだっけ。おれのことをそう思っていたということは、他のやつをそう思ったっておかしくはないはずだ。そして、もしかしたらあのタカハシからのなれなれしさはそういう種類のものなのかもしれない。
だったら、雪谷は今気まずかった・・・とか。
「今の奴、誰」
「会社の先輩」
「そういうことじゃねえよ」
苛立ちが隠せないのは、腹が立っているのを認識する前に声にするからだ。おれが怒ると雪谷はあまり喋れなくなるのが常で、今もそうだった。ただ違うのが、雪谷の引き上がることのない頬に脈絡なく涙が伝っていたこと。
雪谷は決して、怒りや悲しさに泣いたことはなかった。それが他人からぶつけられたものでも、雪谷にとってそれは日常的だったから、溢す前の弱さにもならなかったはず。こいつが見せる涙はもっとおれを苦しくさせるもの。
「ユキ、なんで泣いてんだよ」
泣くのは卑怯だ。追求を逃れるには一番で、相手にただ遣る瀬無さを与える。雪谷は涙を拭おうとしない。だからおれが袖で拭いてやる。いつかの光景と重なった気がし、胸がざわついた。打算はあってももっと純粋な頃だった気がする。
「ユキって、呼ばれたかった」
「あ?」
「純じゃやっぱり、嫌だ。阿佐がつけた名前が、いい」
雪谷のことばにざわつきが酷くなる。親父の墓にこいつと行ったときの、足元で枯葉が砕ける音が鳴るのと似ている五月蝿さ。
わけのわからないこいつの言葉をちゃんと拾えるのはおれだけだ。噛み砕いて続きを促せるのも、おれだけ。タカハシの表面をなぞるやり取りでは、こいつの皮一枚をなぞるくらいだろう。そんな軽薄なものだと、雪谷の発したせりふと対比させていた。
どういう意味を篭めているか、それに対してただ流してしまえばいいのか。この答えを誤ったら、行き着く先はまったく見当がつかないのを知っている。一時の衝動で動いたらまずいのだと。
雪谷があのとき言った言葉がまた、脳裏をよぎる。雪谷が家を出てから、ふとした瞬間にそれが頭の中に駆け巡るようになっていた。
『ずっと、考えてた。阿佐が隠してたこと』
『阿佐、おれは―――』
――阿佐が、好き
あんなに苦しい告白を、おれは聞いたことがない。
そうしておれは、ただ一言『無理だ』と告げたのだ。雪谷におれがどう思っているかなんて、そんなのを話したことはない。その答えに雪谷がどう思ったのかなんて知らない。こいつが気まずくする理由はタカハシなんかじゃない、これしかないのに、おれはまだ雪谷に好かれていたかった。
返すことはできない。ただ、受け止めることはできる。そんな都合のいいせりふが、吐けるわけがなかった。
あの時は、相手の好きに値する返事は、同じ「好き」ということばだけだと信じていた。雪谷の好意に返せないと思っていたのは、同じ重さとそして質を与えることができなかったからだ。
そうじゃない。選択肢はもっと、見えないかたちであったんだ。
雪谷に伝えていなかったことに答えはあって、それを選んだらおれたちは死ぬまでこのままだ。
兄弟になる前に雪谷がおれへの感情を自覚したからこそ出来た道。
一年を経て、優しさにしか流さない雪谷の涙に気づいた打開案は、今までのおれだったなら決して選ばなかっただろう重さだった。
ユキは、涙を溢すだろうか、溢さないだろうか。




