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おわりの白

 学校帰り、頬に冷たいものが当たり空を見上げた。初雪だ。下校途中の他の連中もそれに気付き騒ぎ始める。

 これから更に冷え込むだろう――、そう思ったら白い息が空気中に吐き出されていた。



 推薦で他の連中よりひと足早く受験を終え、俺は今まで通り毎日を気ままに過ごしていた。雪谷は医療用の精密機械を造る工場に内定が取れ、今は毎日家で本を読んでいる。なんでも、常識をつける為とか。

 SPIの勉強をしていた姿を見ているから、つまりそれは社会での一般常識というより、俺達の過ごしている世界での“常識”を知る為なのかもしれない。

 たしかに雪谷は常識知らずだ、言い回しに含んだニュアンスを上手く受け取れない。直球でなければ冗談の意味がわからない。それに苛つくことは多くある。

 けれど、だからこそ救われている部分もあった。


「ただいま」

「ん……お帰り」


 いつも真っ直ぐには帰宅しない。癖みたいになっている。コンビニに寄ってマンガ雑誌を立ち読みしてから家に帰ると雪谷がソファの上に脚を立てて文庫本を読んでいた。隣に座り、表紙を見る。

 『黒い兄弟』と書かれている。俺は読んだことがないので内容がわからない。


「飯は?」


 雪谷の仕事は仕事で家にお袋がいない時の夕飯作り。お袋は二人でやれ、と言うけれど、雪谷が「居させてもらってるんだから」と一人で作るので止めるのも面倒くさくて任せきっている。


「ここ読んだら作る」

「あそ。今日はなにつくんの」

 雪谷が一度、顔を上げる。

「長芋のバター醤油炒め」


 真顔がまた、本に目を落とす。

 雪谷の作る飯は、うちの母親が仕込んだこともあるからか舌に馴染む。元々一人暮らしだったからそれなりにはできたのだろう、普段はぼうっとしているのに料理中だけは手際が良くて感心する。料理ができる奴は好きだ。そんな部分だけ被らせれば、なんとなく、こいつを利用しているみたいで喉の奥がざらついた。

 雪谷の俺の手を求める頻度は以前より格段に少なくなっている。俺の家に来てからだ、雪谷がずっと人間らしくなったのは今まで知らなかった暖かな感情(ほとんどはうちの母親だ)に触れたからだろうか。善意、無償の優しさ。雪谷は、それが幸せすぎると怖がっていた。同情すら、雪谷には傷みに染みる薬になる。

 手を求めないことはいいことなのか。物足りなさと苛立ちを感じるのは、けして穏やかな情からではない。雪谷が、俺がしてやっていることを忘れているのではないか、という捻れた感情からだ。人並みに幸せにしてやりたいのに、底では恩を感じて欲しい。


「ユキ、今日空見た?」

「あ」


 本を奪い雪谷を覗くと怒ったのか眉を寄せる。見てない、と小さく呟いたので本を返した。前に一度本を奪ったとき、閉じて返したら見ていたページがわからなくなりしばらく無視されたことがあったので今はページの間に指を挟むようにしている。


「初雪。おれさっき見たんだけど」

「雪……」

「外、見に行こうぜ」


 手首を掴む。筋が浮き、骨張った、力を入れれば折れてしまいそうな男の細い手首。強引に引っ張って立ち上がらせる。雪谷は不思議そうな表情を浮かべ、黙って手を引くおれに付いて来た。

 カッターシャツに灰色のカーディガン一枚を羽織っただけの雪谷はとても寒そうで、地面に吸い込まれる小さな雪を睨みながら震えていた。


「ユキが雪見てる」


 ぶ、と一人で笑う。玄関前でぶるぶる震える雪谷。左手を握ると冷たい皮膚が微弱に揺れていた。

 白い肌、輪郭が暗闇に浮かび上がる。頬に薄く生えているうぶげが雪谷をいっそう幼く見せた。冬のくらい空に、凍えそうな雪谷が吐き出す白い息が溶けて、人間らしさを実感できる。


「阿佐」

「ん?」

「星、キレー」

「うん」

 見てわかる星座は、オリオンか北斗七星くらいしか知らないけれど。

「阿佐」

「なに」


 よく喋るようになった。最初に会ったころと比べれば随分と成長した。


「おれ、卒業したら家出る」

「は?」


 人の冷たさと、空気に触れる冷たさは違うものだった。いくら雪谷の指先が氷でも、離れた瞬間がわかるのはそこに質感があったからだ。

 雪谷の手は、カーディガンのポケットの中に仕舞われている。


「なんで」

「会社に寮、あるから」

「おれんちから通える距離だったろ」

「うん、だけど、一人で頑張りたい。だから」

「頑張るって」


 なんだよ。また一人暮らしに戻るのか?

 想像されるのは、以前のような暗い部屋にひとりで小さくうずくまる姿。狭くて、なにもない空間に。


「阿佐、おれもう入るね」


 玄関を開けて、おれから逃げるように身を翻した雪谷。まだきっと、積もりはしない細かな雪から目を背けて。咄嗟に手首を掴んだ。カーディガンの上からでもわかる、細い手首。ぎりぎりと、無意識に力を入れていた。


「あ、さ」


 不思議に思う。雪がまだ降り始めの季節にこれだけ凍えていて、どうして今まで冬を乗り切ったのか。


「雪谷、寒い?」

「痛……」

「答えろよ」


 眉根に皺。笑顔がうまく作れない、それに期待なんかしていない。だからこそ、秋に親父の墓の前で見せた表情はきれいな色をした罪悪で脳にずっと刻まれている。

 一緒になろう、なんてばかげた科白。あんなもので雪谷は笑ってくれていた。まばゆい金の逆光が走った一瞬に、目を細めて、頬を引き上げる。当たり前の感情が、とても綺麗な表情で。


「阿佐、家入ろう」

「勝手なことすんな」


 壊したのはおれだ。兄弟だという意味で、こいつを騙した。言葉通りだったらどんなによかったか。そうしたら、雪谷は今頃笑顔ができるようになっていたかもしれない。


 あと四ヶ月もすれば、おれたちは兄弟になる。踏み越えてきたものを思えば、それまで堪えていなきゃいけなかったはずなのに。

 離れていく。巣立ちとは違う、異変に堪えられなくなり、徐々に雪谷の方から遠ざかっていく。


 おれはまだ、守っていたかった。雪谷を守っている気分でいたかった。しあわせを教えてやりたかった。

 ぎこちなく過ごし、言葉少ないままに夜飯を食う。雪谷が気まずさやぎこちなさを知ったのはいつだったろう、昔はなにも知らない子供みたいだったのに。

 今、おれに都合の悪い感情は雪谷の人間らしさを深めたしるしだ。



 悶々としたまま夜は更け、いつの間にか十二時を回っていた。雪谷は風呂からあがると眠たそうな顔をし髪を乾かしている。ソファに座るにもおれから距離を取って腰掛ける。こっちに来いとも、今日に限って言えず、探ろうとした適切な言葉は喉の奥のどこかに埋もれて見つけられなかった。


「もう寝るね」


 立ち上がり、タオルを部屋の物干しにかける。おれを見ずに言った。気まずさの取り繕い方をこいつは知らない、それに苛立ちおれも腰を上げる。困らせてやろうと思って。


「おれも」


 居間の電気ストーブを消し、雪谷と廊下に出た。冷えたフローリングが足に凍みる。一気に温度が下がり、居間を締め切っていた分二階に上がると一層冷気が肌に痛い。雪谷はなにも言わない。こんなに寒いのに。


「おやすみ」


 おれの部屋の前で小さく呟く奴。

 ――寒い、とただ一言言わせたかった。前はいつもそうしていたように。それをきっかけにしておれは。


「雪谷」

「なに」


 半分扉を開けかけて、告げる。雪谷を引き留めようとどこか必死になっている自分が滑稽だった。


「お前の部屋、冷たいだろ」

「……うん」

「だから」


 促すと、黙って雪谷は近寄ってきた。おれのしたいようにさせよう、まるでそう考えているみたいだ。

 部屋に引き込んで、ベッドに座らせる。隣にかけた雪谷は、これから何かするのを身構えているようだった。おれ自身、なにをしたいのかわかっていなかったのに。

 少しだけ躊躇い、雪谷の、女みたいな指先を握る。触れたら次にすることを知れると思った。なんだか不安なかんじが、初恋を覚えたての中学生みたいで格好悪い。


「……家からでも通えるじゃん」


 外での会話を引きずって、雪谷を困らせる。うん、と頷いた雪谷は説明ができない。わかってる、そういうことじゃないんだって。


「ひとりで色々やってみたい」

「うちでもできるだろ」


 精一杯を潰して、押し止めて。


「自分、だけで」

「一人だったら、寒いんだぞ。寮じゃ誰もあっためねーんだからな」

「我慢する」

「ユキ」


 ユキ。と、心の中で呟いた。雪谷じゃなくて、おれがつけた名前で。

 顔が近すぎて、焦点がぶれる。顎のラインがぼやけている。掴んだ肩は薄くて震えていた。それで、やっと心が落ち着いた。


 あさ。

 うるさい。

 あさ。

 だまってろ。

 あさ、……まちがってる。


 何も言葉は発していないのに。

 触れるはずの唇は寸前で止まった。なだれるように雪谷をベッドに引きずり込んだら布団が冷たくて――雪谷はもっと寒がってるんじゃないかって、そんな見当違いなことを思っていた。

 泣けばいい。泣いて叫んで、阿佐やめて、って。


「雪谷」


 右腕で顔を隠して体を強張らせた雪谷を覗き込む。おれのお下がりの寝間着のトレーナーをたくし上げ、おれはこれからこいつとするんだって、自分にはっぱをかけた。こいつにはサイズの合わないスウェットをずり下げ馬乗りになる。雪谷が家に来て、おれがこれ、渡して「お前にはでけえよ」つって笑ったやつだ。あの時は雪谷もなんだか笑っていたようだった。


「兄弟は……」


 やっぱり雪谷は体も白かった。胸元までまくり上げて露になる痩身は今まで見たどんな女よりも。


「兄弟は、こんなこと、しない……」


 ぎりぎり絞り上げたような声に、胸が焼けつき肺の間が熱を持つ。腕で覆った下の顔は、どんな表情をしているのか。絶え絶えに息を零した半開きの口だけでは読み取れない。


 雪谷を透して、思考がぼんやり遠くなる。女とする時みたいに熱に浮かされていればこんなふうにはならなかった。


「……っ」


 前髪が落ちてきて邪魔だ。雪谷の体なんかに乗って。細いから、関節がこわれるかもしれない。

 きっとおれが優しい人間だったら鳴咽が漏れているかもしれないけど、そんなのしたら格好が悪いなんてどこかで思っているからおれは歪んでいる。


「ユキ」


 兄弟はこんなことしない? 当たり前だ。兄弟は逃げ道、雪谷に向き合えないおれの。こんなに白々しい、甘ったるい語調で耳元で名前を囁く。ただ、混乱させるため。雪谷を引き止めるため。後がどうなったって知らない。


「や、だ」


 どうしたって反応しない。雪谷のからだは細いけれどやっぱりかたくて、それは男のもの。まさぐったって興奮しないし、おれのものが変化することもなくて。それが妙に悲しくて、でも、安心していた。

 雪谷に欲情なんかしない、あるのは、手放せないって気持ちだけ。それは温かなものじゃなく、泥臭い依存心。雪谷には、おれがいなきゃダメだって気持ちを持ってもらいたかったんだ。


 ……もう、終わりだ。


 何も出来ず、雪谷に馬乗りになったままで暗がりに埋もれた瞳を見ていた。黒曜石みたいな、濡れて光る。


「……おれ、」


 絶え絶えに、口端から息を漏らした雪谷に予感はした。来るな、って、覚悟。

 なんで安心したんだろう、必死についた嘘を、もうつかなくていいから、楽になるからかな。


「ずっと、考えてた。阿佐が隠してたこと」


 濡れたような声が可哀相で、一度だけ見た笑顔――あれが見られることはもうないんだろう。そんなことを考えていた。

 しあわせにしてやりたかった。一度だけ見た笑顔、あんなのできるなんて思ってもなかった。


 ずっとずっと隠していたのに、くだらない衝動ひとつで手前で崩れていく。兄弟になる前に知られちゃいけなかったのに。


 雪谷は、おれから離れていく。



 静かなこえ。夜に降る雪みたいな厳しくてさみしい。

 目をつむって、決して応えられることのない想いを心の底に積もらせる。


 ユキ、ごめん。

 明日はきっと、もっと寒くなる。


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