第九話 神に祈る死神。
部活が終わった。
俺は体育館の外の水道に向かった。蛇口をひねり、喉の渇きを癒した。蛇口の下に頭を入れた。冷えた水が心地よかった。汗を洗い流してくれた。
このまま、俺の偽善の心も洗い流してくれ。
直樹に受けた屈辱を洗い流してくれ。
そんな事はあるわけない。くだらないな。俺は頭を抜いてタオルで顔を拭いた。
突然、ボールが足元に転がってきた。ボールを手に取り、振り向いた。
「そろそろ俺に勝ちたくないか?」
雄司か。まったく。なんて笑顔だよ。俺の為じゃなくて、バスケがしたいだけだろ?本当バスケ馬鹿だな。
「今日こそ勝ってやるよ。」
俺はそう言って体育館に戻った。もう誰もいない。さすがに二人だと広く感じる。
雄司は足元でドリブルを始めた。相変わらず隙はない。腰も低く、左手がボールを守っている。雄司の視線は俺の目に定められている。鋭く、強い視線だ。
「純。今日のお前は絶対に勝てねぇよ。」
その言葉と同時に鋭いドライブをしかけてきた。
速い。
一瞬にして俺を抜き去った。何時の間にこんな速くなった?止められる訳がない。そんな考えよりも速く、雄司は強烈なダンクを決めていた。雄司はリングから手を離し、地に足を着けた。そしてすぐ振り向いた。その目は何か意味ありげな目だった。
「純。言っておくが、速くなったのは俺じゃない。お前の反応が鈍かったんだよ。」
雄司は転がるボールを片手で拾いあげた。そのままボールを指の先で回転させた。
「お前さ、どうせまた何かで悩んでるんだろ?面に出すぎだよ。」
回転を止める。俺にパスした。俺は片手で受ける。
「その悩みを聞き出すなんて野暮はしない。純が俺に相談してこないってことは、純自身の問題なんだろ?」
雄司は腰に手を回した。そしてそのまま歩いて出口に向かった。俺の横を通り過ぎる前に、俺の肩に手を置いた。
「俺の知るお前は、強い男だ。そのお前が悩む事だ。かなりしんどいんだろ?けどな、俺の知るお前は、それすら乗り越える強い男だ。」
そう言って雄司は出口へ歩いて行った。俺はボールを手にしたまま動くことはなかった。
「純が腑抜けだと、張り合いがないんだよ!くだらねー悩みなんかさっさっと解決しろ!明日も同じ面見せたら殴るからな!」
雄司が出口付近で叫んだだろう。俺は振り向く事はなかった。顔を見せられないから。今の俺はかなり情けない顔してるだろうからな。その代わり、右手を上げ、親指を立てた。
きっと雄司は鼻で笑っている。そして振り返って帰っていくんだろう。
俺は誰もいなくなった体育館でボールを持ってたたずんだ。
雄司は何時もそうだ。悩みなんか明かさなくても察してくれる。言い出しにくいことは聞き出してくれる。何もできない時は、俺の背中を押してくれる。
そうだ。俺は強い男だ。この問題は解決できない。けど自分の中で昇華しろ。
俺が親愛する人が、事故や殺人に巻き込まれる時、俺は一体どうする?
救いたい。
救いたい。
偽善だ。
他人は救わず、自分の親愛する人を救う。それは偽りの優しさだ。
俺にできる事。
祈るしかない。
親愛なる人達が、不幸な死に巻き込まれない事を祈るしかない。
それが、人間の当たり前の事だ。ごく普通の人間達は、この問題は考えていないさ。いや、考えないようにしているだけか。
親愛なる人達が死なない事を祈る。俺にはそれぐらいしかできない。
神よ――。
もし、いるならば、俺の願いを叶えろ。
俺は鼻で笑ってしまった。滑稽だから。半死神が、神に祈るなんて滑稽すぎるだろ?
俺は荷物をまとめて、体育館を出た。
――そういえば、神に祈ったのなんか始めてだな。