いつかまた逢えるよね
私たちはいつものように、駅前の小さな公園のベンチで時間を潰していた。彼女はいつものように、膝の上でスケッチブックを広げて、いたずらっぽく笑いながら私の似顔絵を描いていた。
「ほら、今日もちょっと顔怖いよ。もっと笑ってよ」
彼女の声は、春の風のように軽やかだった。私がわざと眉を寄せてみせると、彼女はクスクスと笑い声を上げた。私は彼女のその笑い声が大好きだった。
おとなしい彼女が、私にだけ見せる眩しい笑顔。動くたびに揺れる艶やかな長い髪。女の子らしい、綺麗で丸い文字で書かれた「今日もお疲れ様♡」
そんな何気ないものが、どれほど大切だったのか、その時の私は気づけなかった。
「またね」
その日も、私たちはいつものようにそう言って別れた。彼女は右へ、私は左へ。いつもの帰路。
彼女の後ろ姿が、夕陽に溶けていくのをぼんやりと見送った。私には想像もできなかった。それが、本当の「さよなら」になるとは。
あれから、5年。
今でも、彼女のぬくもりがこの手のひらに残っている気がする。初めて出会った日のことを、昨日のことのように思い出す。
大学二年の秋、文学サークルの新歓コンパだった。彼女は隅の席で静かに本を読んでいた。黒髪が肩に落ち、眼鏡の奥の瞳が真剣だった。私はたまたま隣に座り、声を掛けた。
「何読んでるの?」
彼女は少し驚いた顔をして、本の表紙を見せてくれた。私は笑って、「私も好きなんだ」と答えた。それが始まりだった。
それから私たちは、すぐに親しくなった。彼女は言葉少なだったが、私の前では少しずつ心を開いていった。いたずらっぽく私の失敗談をからかったり、二人きりのときは恥ずかしそうに笑ったり。彼女の髪を指で梳く感触、彼女が私の肩に寄りかかってきたときの柔らかい重み。すべてが、宝石のように輝いていた。
彼女が入院したのは、卒業を目前にした冬だった。突然の頭痛と嘔吐だった。
大学終わりに病室に向かうと彼女は笑って言った。
「大丈夫だよ。ただの風邪だから」
ベッドの上で、いつも私にだけ見せる笑顔を浮かべる彼女。心配したのも束の間、彼女はすぐに退院して、元の生活に戻った。
そして、あの日、彼女は柔らかい声で言った。
「またね」
私はいつも通り答えた。
「うん、またね」
葬儀の日、私は彼女の棺の前に立っていた。写真の中の彼女は笑顔だった。あのいたずらっぽい笑顔。動くたびに揺れた髪。すべてが、遠い記憶のように感じられた。
もし叶うなら、「さよなら」を言わせてほしい。
もう一度だけ、あの笑い声を聞かせてほしい。
今、私はあの公園のベンチに座っている。桜の季節がまた巡ってきた。花びらが風に舞い、地面に薄いピンクの絨毯を敷いている。彼女が好きだった季節だ。
スケッチブックを開く。彼女が描いてくれた私の似顔絵が、まだ残っている。少し黄ばんだ紙の端に、彼女の丸い文字で「大好き♡」と書かれている。
私は空を見上げた。雲がゆっくりと流れていく。
「いつかまた逢えるよね」
声に出して、呟いた。風が、優しく私の頰を撫でた気がした。
喪って初めて、気づいた。当たり前の大切さ。毎日の「またね」が、どれほど奇跡的なものだったのか。彼女の存在が、どれほど私の世界を彩っていたのか。
彼女がいなくなってから、私は変わった。以前は気づかなかった小さな幸せを、大切にするようになった。友人と過ごす時間、家族との会話、朝の陽の光。すべてが、彼女が教えてくれたもののように感じる。
でも、胸の奥には、まだぽっかりと穴が空いている。
あのぬくもりは、もう戻らない。彼女の笑顔は、写真の中でしか見られない。それでも、私は信じている。
いつか、どこかでまた逢える。
あの公園で、彼女がスケッチブックを広げて、私をからかう日が来るかもしれない。いたずらっぽい笑い声が、風に乗って聞こえてくるかもしれない。
私は立ち上がった。ベンチを後にする。足取りは、少し軽くなった気がした。
「さよなら」じゃない。
「またね」
いつかまた、逢えるよね。




