■ 新しい鍵束
役場の窓際の机に座る新人職員・田島紗英は、
自分のデスクに置かれた小さな鍵束を、しばらく見つめていた。
先週、荒木遥斗課長の家を開けたときの冷たい金属の感触が、まだ指に残っている。
「田島、お前がこれを引き継げ」
上司にそう言われ、手渡されたのは町が保管する予備鍵の束だった。
荒木がかつて木戸から継いだ鍵のいくつかが、まだそこに混じっているという。
鍵束は思ったより軽かった。
けれど、その金属の光は不思議と鈍く、重い。
「私が…開けるんだ」
声に出すと、胸の奥で何かがひりついた。
生まれた時からこの町にいて、荒木の背中をずっと見てきた。
木戸の名は、伝説のように先輩たちから聞いてきた。
そして今、自分がその鍵を回す番だ。
四月の午後、役場に一本の電話が入った。
「隣の一人暮らしの人が、ここ数日見ないんです」
田島は深く息をついた。
上司に「私が行きます」と言うと、先輩たちが少し黙った。
荒木が若かった頃も、きっとこんなふうに周囲は黙ったのだろう。
通り雨に濡れた町を歩く。
高齢者の一軒家の前で呼び鈴を押す。
返事はない。
玄関脇の鉢植えに雑草が絡んでいる。
田島は鍵束を握りしめた。
荒木が木戸を見つけたように、私も――
「開けます」
かすかに震えた声が、春の雨音に混じった。
錆びた鍵が回り、扉がひらく。
部屋の奥に、ゆっくりと空気が動いた。
畳の匂い。
誰も返事をしない静けさ。
部屋の中央に、布団の上で静かに目を閉じた老女を見つけた。
小さく膝をつくと、息を整えて言った。
「……お疲れさまでした」
それは、木戸が荒木に教え、荒木が背中で教えてくれた言葉だった。
自分の声が震えているのがわかった。
だが、布団の上の人は何も言わずに眠っている。
もう怖くはなかった。
この鍵は、誰かが継ぐべきものだと知っているから。
役場に戻ると、同僚が鍵束を受け取ろうとした。
田島は笑って首を振った。
「もう少し、私が持ってます」
まだ手の中の金属が、春の陽射しで小さくきらめいた。
人の孤独と扉を繋ぐ小さな約束。
それを握りしめて、彼女はまた、誰かの家の呼び鈴を押すのだろう。
鍵を開ける人の物語は、まだ途切れずに、この町を巡っていく。