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■ 鍵を閉める人

木戸一郎の家の鍵を開けてから、荒木遥斗の背筋には、いつも一つの冷たい感触が張り付いていた。

報告書を書き、手続きを済ませ、役場の廊下を歩くとき。

新しい戸籍を届けに、誰も住まなくなった家の門をくぐるとき。

背広の内ポケットには、必ず誰かの家の予備鍵が揺れていた。

木戸がそうしていたように。


やがて歳月は荒木の髪に白を混ぜた。

部下ができた。

「荒木課長、また出ました。近所から通報です」

若い職員が怯えがちに言うのを、荒木は苦笑いで受け取った。

「俺が行くよ」

この街で最も多くの鍵を開けるのは、気づけば木戸ではなく荒木になっていた。

それが当たり前になっていた。

誰もがほっとしていた。

自分だけが、「いつか必ず自分の番が来る」と知っていた。


ある年の冬、夜更けに家の窓を叩く小雪を眺めながら、荒木は思った。

――木戸さん、あなたはあの日、どんな気持ちで最後を待っていたんだろう。

誰もいない布団の中で、開かれる鍵の音を、どれだけ遠く感じただろう。

あの時はわからなかった答えが、老いた胸にじんわりと沁みていった。

孤独は誰にでも平等だ。

鍵を開ける者も、鍵を閉める者も、必ず一人きりで呼吸を止める。


荒木は退職の日、机の上に鍵束を置いた。

もう使われなくなった何軒もの鍵が、少しくすんだ金属の音を立てた。

若い職員が言った。

「課長、鍵、全部…返していいんですか」

荒木は笑った。

「全部じゃないさ。最後の一つは、誰かに預けるもんだ」


冬が終わり、春が来た。

荒木は病を得て、家の布団の上で眠る時間が増えた。

最後の入院を拒み、役場の者に「家でいい」と言い切った。

それを聞いた若い後輩は泣きそうな顔をしていた。

ああ、若い頃の自分と同じだ、と荒木は懐かしく思った。


ある日の昼下がり、荒木のまぶたはゆっくりと閉じた。

襖の奥で母の声がした気がした。

――お疲れさまでした。

誰の声だったのか、わからなかった。

木戸の声だったのか、自分自身だったのか。


しばらくして、役場の若い職員が家を訪れた。

錆びた鍵束の中から、荒木の家の鍵を探し出し、回した。

「開けます」

若い声が、静かな玄関に溶けていった。

畳の上には、きちんと布団をかぶり、息を止めた荒木の穏やかな顔があった。

その顔を見た若い職員は、涙をこぼしながら小さく呟いた。

「お疲れさまでした」


荒木が開け続けた無数の扉。

閉じられ、開かれ、また閉じられる。

この小さな町で、人と鍵と孤独は、ずっと生まれ変わりながら続いていく。

鍵束の金属が、春の陽射しをひときわ優しく跳ね返した。



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