■ 鍵を継ぐ者
役場の新任職員・荒木遥斗は、木戸一郎の名をよく知っていた。
新人研修のとき、何度も聞かされたのだ。
「あの人がこの町の戸籍を守ってきたんだ。誰も会わなくなった家にも、一番に足を運んだ人だ」
先輩の語る木戸の背中は、いつも遠く、重く、どこか神話めいていた。
だが、伝説も人だ。
机の端に、老いた彼の戸籍調査の走り書きがいくつも残っていた。
退職のとき、整理されぬまま置いていったノートを、遥斗は密かにめくった。
人の名。
家の間取り。
家族構成。
最後に鍵を開けた日付の隣に、小さな字で「お疲れさまでした」とだけ書かれているものもあった。
若い遥斗には、その一行がわからなかった。
ただ、何かを背負った人だけが書ける祈りのように思えた。
そんな木戸の家に、連絡がつかないと知らせが来たのは、春の終わりのことだった。
「荒木、君が行ってくれないか」
係長に声をかけられたとき、遥斗の心臓は強く脈を打った。
「あの人を見つけるのは、君の役目かもしれないな」
先輩の冗談が、やけに重く響いた。
木戸の家は小さな坂を登った先にあった。
曇り空の下で瓦屋根が黙っていた。
呼び鈴を押しても応答はない。
荒木は背広の内ポケットから鍵束を取り出した。
町が管理する予備鍵のひとつだ。
これまで木戸が何百回も回した鍵。
いま、自分がそれを回す。
「開けます」
小さく呟き、鍵を差し込む。
金属の冷たさが指先を刺した。
回る音は、ひどく穏やかだった。
玄関を開けると、室内の空気は思ったより静かだった。
台所の食器が小さく重なり、新聞が玄関の内側に数日分積もっている。
障子越しの光の奥、布団の形がわずかに盛り上がっていた。
荒木は靴を脱がぬまま、ゆっくりと近づいた。
声をかけたが、返事はなかった。
手の甲に触れると、温もりはもう、どこにもなかった。
荒木は深く息を吐いた。
初めての孤独死。
それがかつての木戸一郎だったことが、ただ静かに胸を貫いた。
誰よりも鍵を開けた人が、最後に誰かに鍵を開けられる。
人の役目というものは、かくも残酷で、かくも正しいのか。
荒木は布団の端に座り、小さく目を閉じた。
心の中で言葉が漏れた。
「お疲れさまでした、木戸さん」
木戸が何度も誰かにかけたであろう、その一言を、
いま、木戸に返す。
玄関の外で、雲間から光がひとすじ差し込んでいた。
荒木は手帳を取り出し、報告の欄に小さく「確認済」と書いた。
ペン先が震えた。
彼はまだ若かった。
だが、もうわかっていた。
これから先、幾つの鍵を自分が開けるのかを。
そして、最後に自分の鍵を誰かが開ける日のことを。
若い職員の手の中で、鍵がひとつ小さく鳴った。
木戸から荒木へ――
小さな町の鍵は、今日もまた次の者へと渡されたのだった。