■ 木戸一郎、鍵を待つ日
木戸一郎が役場を辞めたのは七十の声を聞く頃だった。
若い上司に花束を渡され、形式ばかりの労いの言葉を受け取り、控えめな拍手に頭を下げた。
「あなたがいなくなったら困りますよ」
若い後輩が笑って言ったが、その困るという言葉の奥に、ほっとした安堵が滲んでいるのを木戸は見逃さなかった。
長く同じ町にいて、同じ鍵を開けてきた。
生きているうちに何度も、死んだあとの鍵をひらいてきた。
その手つきは、どこか忌まわしいものだったかもしれない。
家に帰っても、誰もいない。
妻は若い頃に離れ、子はなく、両親の墓は遠くの町の山際にある。
退職した日も、翌日も、その翌週も、木戸は玄関の鍵を回し、無人の家の空気を肺に落とした。
新聞だけが律儀に届き、ポットの湯がぬるくなる。
一日の時間が、かつて鍵を開けた家々の亡霊を思い出させる。
布団に横になると、老いた骨が痛んだ。
まぶたの裏に、襖を開けたときの静寂が何度も蘇った。
最後に自分の鍵を開ける者は、誰だろう――
それを思うたび、奇妙な安堵と、鈍い不安が腹の底に絡まった。
ある朝、木戸はベッドの上で目を覚ました。
背中に力が入らず、立ち上がろうとすると、視界が白く波打った。
水を飲もうとしたが、台所までの数歩が遠かった。
息を整えて横になると、すべての骨が重く沈んでいくようだった。
頭の奥で、遠い鐘の音のようなものが鳴った。
誰かが鍵を開ける足音が、玄関先に立っている気がした。
襖の奥にいる亡き母の背中を、ふいに思い出した。
「あんたは立派だったよ」
そんな言葉を、母は一度も言わなかったが、
もし言われたとしても、木戸には何の慰めにもならないと、わかっていた。
ただ、すべてを見つめてきた老いた目が、閉じられようとしていた。
春の陽が障子の隙間から差し込んでいた。
埃が光の筋の中を、誰にも気づかれぬまま舞っていた。
外では、遠くで新聞配達のバイクが去っていく音がした。
次にこの鍵を開けるのは、あのときの若い後輩かもしれない。
今度は、自分が迎える番だ――
そう思ったとき、ふと、胸の奥がすとんと軽くなった。
「……お疲れさまでした」
微かに唇が動いた。
誰に向けてでもなく、誰に聞かせるでもなく。
木戸一郎は、鍵を開け続けた手を、ゆっくり布団の上でほどいた。
襖の向こうの静けさに、自分の名を呼ぶ声を、確かに聞いた気がした。