表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/11

■ 木戸一郎、鍵を待つ日

木戸一郎が役場を辞めたのは七十の声を聞く頃だった。

若い上司に花束を渡され、形式ばかりの労いの言葉を受け取り、控えめな拍手に頭を下げた。

「あなたがいなくなったら困りますよ」

若い後輩が笑って言ったが、その困るという言葉の奥に、ほっとした安堵が滲んでいるのを木戸は見逃さなかった。

長く同じ町にいて、同じ鍵を開けてきた。

生きているうちに何度も、死んだあとの鍵をひらいてきた。

その手つきは、どこか忌まわしいものだったかもしれない。


家に帰っても、誰もいない。

妻は若い頃に離れ、子はなく、両親の墓は遠くの町の山際にある。

退職した日も、翌日も、その翌週も、木戸は玄関の鍵を回し、無人の家の空気を肺に落とした。

新聞だけが律儀に届き、ポットの湯がぬるくなる。

一日の時間が、かつて鍵を開けた家々の亡霊を思い出させる。

布団に横になると、老いた骨が痛んだ。

まぶたの裏に、襖を開けたときの静寂が何度も蘇った。

最後に自分の鍵を開ける者は、誰だろう――

それを思うたび、奇妙な安堵と、鈍い不安が腹の底に絡まった。


ある朝、木戸はベッドの上で目を覚ました。

背中に力が入らず、立ち上がろうとすると、視界が白く波打った。

水を飲もうとしたが、台所までの数歩が遠かった。

息を整えて横になると、すべての骨が重く沈んでいくようだった。

頭の奥で、遠い鐘の音のようなものが鳴った。

誰かが鍵を開ける足音が、玄関先に立っている気がした。


襖の奥にいる亡き母の背中を、ふいに思い出した。

「あんたは立派だったよ」

そんな言葉を、母は一度も言わなかったが、

もし言われたとしても、木戸には何の慰めにもならないと、わかっていた。

ただ、すべてを見つめてきた老いた目が、閉じられようとしていた。


春の陽が障子の隙間から差し込んでいた。

埃が光の筋の中を、誰にも気づかれぬまま舞っていた。

外では、遠くで新聞配達のバイクが去っていく音がした。

次にこの鍵を開けるのは、あのときの若い後輩かもしれない。

今度は、自分が迎える番だ――

そう思ったとき、ふと、胸の奥がすとんと軽くなった。


「……お疲れさまでした」

微かに唇が動いた。

誰に向けてでもなく、誰に聞かせるでもなく。

木戸一郎は、鍵を開け続けた手を、ゆっくり布団の上でほどいた。

襖の向こうの静けさに、自分の名を呼ぶ声を、確かに聞いた気がした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ