■ 鍵を開ける日
春の終わりの風は、生ぬるくて、埃と若葉の匂いを運んでくる。
木戸一郎は役場の庁舎を出ると、胸ポケットの中で小さく震える鍵束を握りしめた。
つい昨日、また一件、近所からの通報があった。
「隣の家の婆さんが三日も顔を出さんのですわ」
電話の向こうで年老いた声が何度も「まさか」と呟いていた。
職員として、行かなくてはならない。
木戸は知っていた。
自分があの日、あの六畳間で開けた襖の匂いを、
これからまた呼び覚ますことを。
住宅街の外れ、小さな平屋の玄関先には、植木鉢が並んでいた。
水を絶たれた草花の葉先は白く枯れ、鉢皿には雨水が濁って溜まっている。
呼び鈴を押すと、奥のほうから風が鳴るだけだった。
木戸は深く息を吸った。
小さな錠前に鍵を差し込む。
「開けます」
同行の警察官に目で合図を送る。
鍵が回る。
錆びた蝶番が、時間の奥から軋む声をあげる。
その音だけが、やけに鮮やかに木戸の胸を叩いた。
玄関を踏み込むと、そこには人の痕跡があるのに、人の気配がない空気があった。
茶の間には電気ポットと、空の茶碗。
座布団の形に畳が凹み、壁の時計だけが律儀に秒を刻んでいる。
木戸は膝をつき、低い声で名を呼んだ。
返事はない。
一歩ずつ進む。
やがて、襖の奥に、倒れ伏した細い背中を見つけた。
木戸は一瞬だけ目を閉じた。
あの六畳間と同じ匂いが鼻腔を刺す。
誰にも届かなかった時間が、ここにも横たわっていた。
警察官が無線で何かを告げる声を背中で聞きながら、
木戸は小さく口の中で唱えた。
「お疲れさまでした」
それは、この家の持ち主にかける言葉か、
それとも、開けることを選んだ自分自身にかける言葉だったのか。
後始末の手続きを淡々と終えると、もう昼を過ぎていた。
木戸は玄関先で、ひとつだけ残った植木鉢に手を伸ばした。
指先で乾いた土を崩すと、弱々しい根がまだ息をしている。
誰も水をやらなくなっても、僅かに生きようとするものがある。
誰も触れなくても、鍵を開ける誰かがいる。
自分は、その役を辞めないだろう。
どこかの六畳間の奥で、誰かの最後を見届けるのが、自分の仕事だ。
そして、きっと、そういう自分を、どこかで許している。
木戸はスーツの袖で額の汗を拭くと、ゆっくりと鍵をポケットにしまった。
新緑の風が、切れかけた植木鉢の葉をわずかに揺らした。
午後の陽が、どこまでも淡く優しかった。