■ 木戸一郎、夜の独白
木戸一郎の小さなアパートの窓は、街灯の淡いオレンジを受けて、すりガラスの向こうをにじませていた。
部屋には、湯気の立たないインスタント味噌汁の匂いと、ぬるい酒の残り香があった。
役場からの書類鞄を机に投げると、彼は背広のまま畳に腰を下ろした。
誰かの戸籍を一つ、消した――
いや、正確には、報告書を一枚増やしただけだ。
だが、襖を開けたとき、足の裏にまとわりついた重みは、今も足首を縛りつけて離れない。
「誰かが死んでた。それだけだ」
声に出してみると、妙に生々しくて笑ってしまった。
「じゃあ、俺は何をしにあそこへ行ったんだろうな」
思えば、自分だって大差ないのかもしれない。
両親は遠くの町で小さな畑をいじっている。
年に一度、正月だけ顔を出すが、話すことなどない。
子どものころから、部屋の奥で一人で本を読むのが好きだった。
それがいつの間にか、誰とも語らず、誰も深く踏み込んでこない場所を好む人間になっていた。
鍵を開けたのは自分だ。
鍵をかけて籠ったのもあの人だ。
何が違ったのだろう――
何が違えば、あの布団の中に自分が眠っていなかったと断言できるだろう。
机の上の手帳を手に取った。
明日の予定をめくる。
午前中、戸籍の確認。
午後、土地の境界線の立ち合い。
誰かが生まれ、誰かが死に、誰かが居場所を失い、誰かが家を失う。
自分はその境界に線を引く人間だ。
淡々と。
機械のように。
缶ビールを開けて、一口だけ飲んだ。
泡が喉を撫でて消える。
思いがけず涙が一粒だけ落ちた。
味噌汁の冷たい匂いと重なって、何かが胸の奥で滲んだ。
「……あんた、ずっと一人だったんだな」
誰に言うともなく、声が出た。
家の奥の、もう何もない布団に向かって。
あるいは、鏡に映る自分に向かって。
カーテンの隙間から夜風が吹き込む。
孤独は誰の中にもあるのだと、わかっているつもりだった。
だが、あの家の孤独は、俺の中の孤独に似ていた。
そう思ってしまったことが、ひどく苦しかった。
空の缶を机に置き、明かりを消した。
闇の中でまぶたを閉じても、六畳間の奥に眠っていた人の背中が瞼の裏に浮かぶ。
鍵を開けるのが怖くなった。
明日からも、鍵を開けなければならない自分が、嫌いになりそうだった。
それでも、朝は来るのだろう。
木戸は布団をかぶり、小さく息を吐いた。
夢の中では、どうか誰かの鍵を開けずに済みますように――
誰にも届かない祈りが、畳の匂いに溶けていった。