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■ 役場の男、鍵をひらく

役場の木戸一郎は、古い家を訪ねる仕事を嫌っていた。

家族の消息を訊くたびに、どこかで誰かの不幸を覗き見る気がして、手帳に書き込む鉛筆の芯が重くなるのだ。


だが、この小さな町に異動してきた若造に、そんな遠慮を聞いてくれる先輩はいなかった。

「お前、あの家知ってるか? 二十年は出入りなしだ。ちょっと行って来い」

言われるがままに地図をもらい、小雨に濡れながら坂道を登った。

家の前に立つと、黒ずんだ雨樋が微かに泣いていた。

胸の奥に嫌な予感がした。


声をかけても、何度も襖を叩いても、返事はなかった。

あたりには、ただ古い土壁の匂いと、誰のものでもない静けさだけがあった。

鍵屋を呼び、開いた玄関の向こうに一歩足を踏み入れたとき、彼は肺の奥に重い針を飲み込んだ気がした。


六畳間の奥、布団のふくらみの下に人の輪郭を見つけたとき、

木戸は靴を履いたまま動けなかった。

床板がかすかに軋んだだけで、何かを踏みにじった気がした。

ここに眠っていた誰かの、数十年の孤独が、埃とともに彼の皮膚にまとわりついた。


遺体を運び出す作業が終わったあとも、木戸は一人で仏壇の前に座った。

膝の上で手帳を開き、名前を確認する。

そこに書かれた文字は、ただの戸籍の一行でしかない。

生きてきた人間のぬくもりも、声も、何一つ伝わってこない。

自分の手で鍵を開け、名前を埋葬したのだと思うと、喉が詰まった。


誰に弔われることもなく、光も見ず、声も交わさず、

最後まで母の手を待っていたのだろうか。

あるいは、待っていたわけでもなく、ただ自分の形のまま朽ちただけなのだろうか。


木戸にはわからなかった。

ただ、町役場の窓口に立ち、年寄りの年金の手続きを手伝い、出生届を預かり、

婚姻届を祝福の笑顔で受け取り、そしてこうして死の痕跡を始末する。

自分の仕事がいつも人の始まりと終わりに寄り添うのだと、改めて思い知らされた。


役場に戻る坂道で、木戸はふと振り返った。

取り壊される古い家の瓦が夕日に赤く滲んでいた。

あの家がどこかで息をしていたような気がした。

もし人の孤独を呑み込むことが家の宿命なら、

木戸は今日、ほんの少しだけその咽喉を開いてしまったのかもしれない。


もう二度と会えない名前が、一行の報告書におさまる。

木戸は深く息を吐いた。

夕暮れが背中に降りてきた。



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