■ ひきこもりの家、ひきこもりのあと
ある年の春先、町の役場から細い道を辿って、ひとりの職員が小さな家を訪れた。
税の滞納の報せと、住人の所在確認が目的だったが、門の前で彼は鼻をつまんだ。
軒先の郵便受けから溢れ出した茶色い封筒と、くすんだチラシの束。
地面には、誰かが割った湯呑が乾いた泥の中で転がっていた。
職員は声をかけたが返事はない。
何度も呼んだが、静寂の奥に、人の気配は返らなかった。
仕方なく鍵屋を呼び、軋む玄関を開けると、冷たい空気の底に、長い年月を封じた臭気が息を吐いた。
台所には鍋が朽ちていた。
父と母の遺影が薄暗い仏壇に立ち、誰の手も届かぬまま、埃の紗をまとっていた。
そして六畳間の中央、薄い布団の中で、人だったものが眠っていた。
髪の名残だけが、布の上にこぼれていた。
「親が死んだ後も、そのままだったんですか」
鍵屋の青年が呟くと、職員は声を出さずに頷いた。
まるで、まだこの家のどこかに、その人が息をひそめている気がして、誰も大声は出せなかった。
家は役所の手で取り壊されることになった。
片付けの男たちは仏壇を運び、古い布団を袋に詰めた。
柱の裏に貼られた子供のころの身長を刻んだ紙切れも、塵とともに焼却された。
トラックに積まれて運ばれる廃材の隙間から、かつての六畳間の畳が剥き出しで空を向いた。
誰かがその上に座り、誰かが泣き、誰かが静かに朽ちていった痕跡は、春風に攫われていった。
やがて更地となった土地には、雑草がいちばん早く根を張った。
春の雑草は思いのほか強く、誰の足跡もないのに小さな白い花を咲かせた。
夏の夕立に打たれても、秋の虫に啄まれても、冬の霜に閉じられても、草は伸び、枯れ、また芽吹いた。
人の世の中で一度も立ち上がらなかったひとりの生が、土に還り、
忘れられ、ただ名だけが古い戸籍に残った。
誰も読まぬ名前の文字を、誰も知らない声で風が呼んだ。
小さな空き地の上を、通り過ぎる雲の影が撫でていった。