ひきこもり、歳月を喰らう
幼いころの彼は、陽の光に泣いていた。
母の手を引かれて裏庭の草の上を歩かされるたび、目の奥が痛み、睫毛の隙間に春の青空がしみこんで、泣き声と一緒にあたりの空気を震わせた。
家の奥の六畳間、木の欄間に積もった埃の匂いと、障子越しの淡い光だけが、彼にとっての世界だった。
幼稚園は泣きながら行った。小学校も、泣きながら。やがて泣かなくなったとき、彼はもう通わなかった。
父は、彼に言葉をかけなかった。母だけが、膝をついて彼の頭をなでてくれた。
「お外はこわいねえ。でもお母さんがいるから大丈夫よ」
その言葉が彼の牢獄だったことに、母は死ぬまで気づかなかっただろう。
少年は成長し、青年となり、青年はやがて声変わりしたのち、誰とも話さなくなった。
父はしばしば部屋の襖を叩いたが、開けることはなかった。
「働け」「恥だ」「おまえのせいで」
言葉の先端に刺をつけて放たれる怒気も、やがて老いた父の口から漏れる空咳に変わった。
母は、彼の部屋の前に皿を置き、夜更けにそれを下げることだけが生きる意味になった。
湯気ののぼらぬ味噌汁と、冷えた飯粒が彼の胃の奥に溜まった。
そのうち、皿が出されなくなることはなかった。
母がふらついても、立てなくなっても、台所に立つことだけは続いた。
ある冬のこと。
ふと襖の向こうが静かすぎて、彼は久方ぶりに声をあげた。
返事はなかった。
立ち上がると、脚の骨が痛んだ。
軋む音を鳴らして廊下に出たとき、父の寝息も、母の小さな独り言も、どこにもなかった。
炬燵の横で、膝を抱えた母の背は冷えていた。
父はもう布団のなかで黒ずんでいた。
呼んでも叩いても、まぶたは閉じたままだった。
彼は台所で水を探したが、蛇口は錆びていた。
しばらく、仏壇の水を啜って喉を潤した。
家はもう誰も訪ねなかった。
郵便受けの広告だけが、毎朝、彼のもとに新しい日を告げた。
カーテンの裏側で、春も夏も秋も冬も、埃の粒子が漂い続けた。
気がつけば、鏡のなかの顔は父に似ていた。
寝返りを打つたび、背骨の奥で何かが鳴った。
父も母も小さな骨の箱に収まっていたが、彼の骨はどこに収まるのだろうと、思った。
雨漏りがするようになったころ、彼は布団のなかで目を閉じた。
母の作った冷えた味噌汁の匂いが鼻の奥に蘇り、
襖越しに呼ばれる幼いころの名を、遠くで聞いた気がした。
彼はそのまま、六畳間の埃の海に溶けていった。
光の差さぬ部屋の奥で、誰にも呼ばれないまま。
誰も触れないまま。
時間だけが彼の上に降り積もっていった。