第二話 風前の灯火
どれほどの時間が経っただろう。
ハルを抱えて走った男はいつの間にかいなくなっていた。
無責任に助けるくらいならいっそあの場で両親とともに死なせてほしかった。
足元は重く、視界はぼんやりとしていた。思考が働かない。ただ、目の前に広がる廃れた街並みを眺めながら歩くことしかできなかった。
「生き残った」
それは正確ではなかった。ただ、あの瞬間から逃げ出したに過ぎないのだ。
目の前の街は、かつての活気を失い、崩れ落ちた建物が無造作に並んでいる。瓦礫の上を歩く人々の足音だけが響き、彼らの顔には不安と疲労が滲んでいた。
ラジオの音がかすかに耳に入る。どこかの家の中で流されているのだろう。断片的な情報が聞こえてくる。
「巨大な生物……タイタンズ……世界各地で出没……」
「ルーメン採取場への襲撃が特に活発……」
「状況は依然不明……」
何を言っているのか、ハルには理解できなかった。ただ、あの光景と両親の最期が何度も頭の中で反響する。
両親は死んだのに、自分は生きている。
なぜ自分だけが助かったのか?なぜ自分は何もできなかったのか?
ハルにとって、両親はすべてだった。
両親がいたからこそ、愛されていたからこそ、彼は「普通の子供」でいられた。
だが、それが失われた今、 「生きる理由」 がない。
生きる意味を見出せなければ、人間は「感情」そのものを持つことすら無意味に思えてしまう。
「何をしても無駄」
「何を感じてもどうしようもない」
こうして彼は世界に対して心を閉ざすようになった。
数日後、街の様子はさらに変わり果てていた。
ルーメンの供給が途絶え、人々の生活は破綻した。店は次々と閉鎖され、道路には物乞いをする子供たちが溢れる。
食べ物を求めてゴミを漁る者、力尽きてその場に倒れる者。街は確実にスラムと化しつつあった。
その中で、ハルは運良くある小さなコミュニティに拾われた。だが、それは決して温かな居場所ではなかった。リーダー格の男は、最初からハルを利用するつもりだったのだろう。
「子供なら人は同情する。お前の仕事は、それを利用して食い物を得ることだ。」
男の声は冷たく、無機質だった。だが、ハルの心には何も響かなかった。
「感情なんて、必要ない。」
小さな体で物乞いをする少年に、人々は施しを与えた。パンの切れ端、腐りかけの果物、少量の水。それがコミュニティを支える糧となった。
「ありがとう。」と笑顔を見せることで、さらに人々は心を許す。それが目的だった。ハルはそれを理解していたが、内心では何もかもがどうでもよかった。
数日が過ぎたある夜、ハルは瓦礫の隙間でじっと目を閉じていた。
両親の顔が浮かぶ。微笑んでいた母、優しく頭を撫でてくれた父。だが、その温かい記憶が次第に消えていく。代わりに現れるのは、あの冷たい瓦礫に覆われた彼らの最期だ。
「……守れる人間になりなさい。」
母の言葉が頭に響く。守る? 何を? 誰を? そんなことができるわけがない。
それでも、ハルは生きていた。
正しいのか、間違っているのか、そんなことはわからない。ただ、それ以外の選択肢が見つからなかった。その夜遅く、街に異変が訪れた。
遠くから聞こえる低い振動音。空気が重く変わり、地面が微かに震える。それは確実に、何か巨大な存在が近づいていることを示していた。
「おい、何だあれは……」
瓦礫の上に立つ一人が指をさした。その方向を見ると、巨大な影が薄暗い夜空の下で立ち上がっている。
それはまるで地平線から現れた黒い巨塔のようだった。動かない。ただそこにあるだけで、人々に圧倒的な恐怖を与える。
「……タイタンズだ。」
誰かが呟いた。その言葉が街全体を駆け巡り、人々は次第にパニックに陥った。
「逃げろ!」「あれがルーメンを奪うんだ!」人々が叫びながら街を駆け抜ける。
だが、ハルは動かなかった。
手の中には、父の形見のライターが握られている。
何も感じない。ただ、心の中で静かに呟いた。
――どうでもいい。
何も感じずに終われるなら、それでいい。
このまま、飲み込まれたって――
「たすけて……!」
その声が、ハルの耳を貫いた。
「……なんでこんなことしてるんだ?」
そう思った。
だが、手を止めることはなかった。
その時、かつての母の言葉が頭の中で響く。
「守れる人間になりなさい」
ハルは力なく少女を瓦礫の隙間から引っ張り出した。彼女の体は泥と傷だらけだったが、目は生きていた。恐怖と安堵が入り混じった表情を浮かべながら、彼女はハルに向かって何度も頭を下げた。
「ありがとう、本当にありがとう……」
彼女の声は震えていたが、どこか優しい響きがあった。
ハルはその言葉を聞いても、ただ無表情のまま頷くだけだった。
「どういたしまして。」
それ以上の感情は、彼の中にはなかった。
誰かを助ければ「どういたしまして」と笑顔で返すことが普通だった。
でも今の自分にはその笑顔が浮かばない。浮かべる気力もない。ただ、母の遺言に従い「守るべきだから守る」だけの存在になっている。
少女は小さな声で名乗った。
「私は石神リナ。ありがとう……本当に、ありがとう。」
ハルは「霧島ハル…」とだけ返し、ただ「早く帰ろう」言い、歩き出した。
翌朝、彼らはスラムの一角にあるコミュニティの基地に戻った。そこは、瓦礫を積み上げて作った簡易的な避難所だったが、ひどく静まり返っていた。
「……誰もいない。」
ハルが周囲を見渡すと、数人の子供たちだけが散らばるように座り込んでいた。皆、疲れ切った表情をしている。昨日の夜、タイタンズが街を襲撃した混乱の中で、大半の大人は何も言わずに逃げ去ったのだ。
「……ねえ、ハル。どうして誰もいないの?」
リナは不安げな顔でハルを見た。
「何かあったの?」
ハルは答えなかった。ただ、目の前の光景を静かに見つめる。
崩れかけた避難所。散乱した荷物。何も言わずに消えた人々の痕跡。
「……逃げたんだ。」
そう呟いたのは、リナの方だった。
ハルはその言葉を聞いても、何も感じなかった。
ただ、一つの事実を理解する。
「人は、自分のためなら、いとも簡単に見捨てる。」「他人は信用できない。」
生きるために逃げることは当然だ。ハルも同じように自分を守るために行動しているだけだ。だが、それでもなぜかリナを助けたのは、自分でもわからない。きっと、それは母の遺言に従っただけなのだろう。
彼女がどれだけ感謝しても、ハルの中で何かが動くことはなかった。
コミュニティは崩壊したかのように思えたが、ハルはそこに残る数人の子供たちを見捨てることはしなかった。
「またみんなでやり直そう。」
ハルがそう言ったわけではない。ただ、自分の中で母の遺言が無意識に行動を支配していた。
リナはそんなハルを見て呟いた、
「やっぱりすごいな……ハルって。」
「?」
「私なら、あんなに迷わず動けないと思う。もし誰かを助けるとしても、きっと怖くて震えちゃう。」
そう言って、リナはかすかに笑った。
だが、ハルは何も言わなかった。ただ目の前の現実に向き合い、やるべきことをやる。それだけだ。
残ったのはリナを含めて6人。最年長のリナが指示を出しながら、物乞いやゴミ漁りで食料をかき集めた。簡易的なルールを作り、食料や水を平等に分け合うことで、なんとか「コミュニティ」を再結成した。
母の最期の言葉は、ハルにとって「呪い」にもなっていた。
「守るべき人を守れ」—— その言葉が、まるで身体の奥に埋め込まれた杭のように、いつも彼を突き動かしていた。
だが、同時にハルは知っている。
人は信用できない。頼ることはできない。誰も最期まで自分のそばにいてくれない。
それでも、誰かを助けずにはいられないのは、母の声が頭の中に焼きついて離れないからだ。
それは優しさではなく、ただの 「強制された行動」 にすぎなかった。
ハルはいつも父の形見であるZIPPOを手の中でカチカチと鳴らしていた。
火を灯すわけでもなく、ただ、音だけを鳴らす。
カチッ……カチッ……カチッ……
静寂の中に響く、規則正しい音。
それはまるで「生きている」ことを確かめるような音だった。
その音はリナを始めとする他の子供たちにも聞こえるが、誰も気にする素振りは見せなかった。ハルがその癖を続ける理由を知る者は誰もいない。ただ、その音がハル自身の心を落ち着かせるものだと気づいているのはリナだけだった。
「それ、大切なものなんだね。」
リナがそう話しかけても、ハルは「別に」とだけ答えた。けれど、ZIPPOを鳴らす手の動きが、一瞬だけ止まった。
それに気づいたリナは、何も言わず、ただ微笑んだ。




