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歌って、歌って、歌って

 予兆はなかった。


 ただの日曜日に、青空に、風に、ガレッジの騒音と油の匂い、そして美しい響き。そういう一日のはずだった。


 大きな出来事の前には前触れがあるはずだ。それがなかったという事は、この出来事は大したものではないという事なのだろうか。


 そんなはずはないだろう。なぜなら、これは彼女だけでなく、私の人生も大きく変える出来事だったのだから。



 夕餉時はお母さんが作ったシチューの香りがした。私はお母さんは好きだけれど、正直彼女が作る料理があまり好きじゃなかった。だけれど、お母さんはなぜかシチューだけはおいしいのを作る。


 お父さんも同じ意見らしくて、いつもシチューが食卓に出ると、私とお父さんは顔を見合わせて、吹き出した。お母さんは私達の様子を敏感に察知して、こんなことを言う。


「あら、何か言いたいことがあるようね。何かしら」


 お父さんが慌てて言う。


「いやいや、何もないよ」

「怪しいわね。別にいいのよ、私は。頼み込んでまで料理を食べてもらわなくても」

「そんなことは。いやはや……」


 お母さんとお父さんのやり取りを見て、私はくすくすと笑ってしまった。お父さんはお母さんにいつもこんな風にいじめられている。でもお父さんもお母さんも嬉しそうにしているのが分かった。そんなことを考えて、私まで嬉しくなってしまう。


 そうしていると、お母さんは私にも言った。


「どうやらハナも食事はいらないのかしら?」

「ごめんなさい、いります!いります!お母さんの料理おいしいもんね」

「わざとらしいわね、まったく」


 そう言ってお母さんは少し怖い顔を作っていたが、我慢しきれずに笑顔になってしまった。


 私はこんな時間が好きなのだ。この時間を味わえるのなら、少しぐらい料理がまずくたって構わない。


 私の家とは対象的に、メイの家はきっとこんなに明るくはない。彼女の両親は離婚していて、お父さんとメイの二人暮らし。そして、メイのお父さんは少しお酒が入ると、彼女に大声をあげる。それは大抵、メイの歌声を彼が聞いた日に起こる。まるで、自分になかった才能を彼女が持ち合わせていることに嫉妬しているかのよう。


 私に言わせれば、メイのお父さんは自分の努力の足りなさや弱さや根気のなさを才能のせいにしているだけだ。彼は自分の娘にたまたま才能があると勝手に思ってる。だけれど、メイと一緒に過ごしていた私は、彼女がどれだけ歌うことに対して真剣なのかを知っていた。


 隠れながら音楽を聴いて、私が貸した音楽理論の本を読んで、歌って、歌って、歌って、彼女のお父さんがいない時間だけじゃ足りなくて、どうにか工場で隠れて歌っていた。


 そんなメイを見ていて、私にはどうしても彼女が怒られる理由をどこにも見つけられなかった。


 たまたま才能があった。そんな陳腐な言葉で彼女を評価して、その才に嫉妬する権利など、あの父親にはありはしないのに。

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