きみは、あの頃と変わらない
※長岡更紗さま主催「ドアマット大好き企画」参加作品です。
性的虐待や身内の死などが出てきます。苦手な方はバックしてください。
表紙絵/楠結衣さま
幼い頃に、父が亡くなった。
銀色の髪をした美しい父は元より病弱な人で、流行り病にかかり25という若さで呆気なく逝ってしまった。同時期に父の両親も父と同じ病で倒れ、母は幼いわたくしを抱え、女手一つで子爵家を切り盛りしていかなくてはいけなくなった。
母は懸命に働いていたのだが、素直で物事を真っ直ぐに受け止める性格のせいか人に騙されることも多かった。そんな我が家の財政は日に日に傾き、すっかり落ちぶれていった。
お金がないので使用人に給金など払えない。だから屋敷にいたのは、母とわたくしと、祖父母の代から仕えてくれている老齢の執事エヴァンと、その妻ハンナのみ。圧倒的に足りない人手を補うべく、わたくしも家の中のことを細々と手伝っていた。
「ごめんね、ジゼル。可愛いドレスも着せてあげられなくて」
平民の子が着るような、簡素な服を着て屋敷の掃除をするわたくしを見て、目の下に疲労を色濃くした母が申し訳なさそうにする。けれどわたくしは母が思うほど、自分を不幸だとは思っていなかった。
綺麗なドレスには憧れる。家の手伝いをするよりも、もっと遊びたいとも思う。でも大好きな母がいて。孫のようにわたくしを可愛がってくれる執事夫妻がいて。わたくしの毎日は十分満たされていたのだ。
手伝いの合間に、子どもらしく遊ぶ時間もあった。
「今日はジゼルが鬼の番だよ!」
「ふふっ。覚悟するのよ? すぐに捕まえてやるんだから!」
「はは! 僕だって、簡単には捕まってあげないよ?」
柔らかな茶の髪を風になびかせて、楽しそうに笑いながら青い瞳の少年が小さな丘を駆け回る。隣の領地に住むアドルフはわたくしと同じ年の子爵家の令息で、よくこうして一緒に遊んでいた。
息を切らせて必死に追いかけ、アドルフの仕立ての良さそうな服の裾に手を伸ばす。彼の領地は裕福で、同じ子爵家でもわたくしの家とは天地ほどにも違うのだ。
あと少しで触れそうになった時、バランスを崩してこけてしまった。
「大丈夫っ!?」
アドルフがぎょっとした顔をして、慌ててわたくしに駆け寄ってきた。膝小僧からは血が滲み、痛みに涙が出そうになる。けれど心配そうに顔を覗き込んできた彼を見て、わたくしの心がすっと慰められていく。
笑みを零しながらアドルフの手をキュッと掴んだ。
「ジ、ジゼル?」
「ふふっ。捕まえたわ! わたくしの勝ちね」
「はあ……全くもう。君は強いね。僕の負けだよ」
わたくしが嬉しそうに笑うと、アドルフは困ったように眉をへにゃりと下げながら、わたくしの手を小さく握り返してきた。追いかけっこは終わりの合図。その場に腰を下ろし、丘の上から小さく見える街の景色を眺めながら2人でお喋りをして、穏やかに過ごす。
アドルフとのささやかな時間は、わたくしにとってキラキラとした大切な宝物のような時だった。
「そろそろ帰らなきゃ」
「え、もう? まだ夕食まで時間はあるよね」
「日が沈む前に、お洗濯ものを取り込まなきゃいけないの。ハンナは年だから、一人で全部やるのは大変なのよ」
「そうか。ジゼルは偉いんだな」
お日様のように温かく微笑んで、アドルフがわたくしの頭を柔らかく撫でてくれる。その感触が嬉しくて、わたくしもにっこりとアドルフに笑いかける。
「また明日、ここに来るわ!」
「うん。待ってるよ」
本当に、わたくしは毎日幸せだった。
こんな温かな日々が続くのなら、可愛いドレスが着れなくとも心底幸せだったのだ。
◆ ◇
キラキラとした毎日に暗い影が落ちたのは、わたくしが10歳になった時だった。
母が再婚したのだ。
相手は金持ちの商人で、爵位目当てで母に求婚したらしい。打算的な義父に正直嫌悪を感じたが、母もお金欲しさに同意したのだから、どちらもどちらなのだろう。
「これからは私が君の父だよ、ジゼル」
わざとらしい笑みを貼り付けるこの男が、わたくしはいつまで経っても好きになれなかった。母の手前にっこりと笑ってみせるものの、なるべく関わらないように過ごしていた。
向こうはわたくしのご機嫌を取りたいのか、会えばにやにやと嫌な笑顔を浮かべて近寄ってくる。最初は不気味に感じていた義父の視線が、次第にねっとりとしたものに変わり、恐怖を覚えるようになった頃、それは突然やってきた。
わたくしが12歳の時だ。
それは嵐の夜だった。視察で屋敷を離れていた母が帰路に着こうとした頃、酷い雨が振り始めたのだ。馬車を走らせるには危険な天候となり、狭い領地の視察はたいてい日帰りなのだけど、その夜に限って母は帰ってこなかった。
エヴァンとハンナの2人は、義父が普段よりも早めに下がらせた。突然の雨への対応に、老いた身には堪えただろう、などと、もっともらしいことを言っていたのを覚えている。
強い雨風の音を聞きながら母の身を案じていると、ノックもなしに義父が部屋の中に入り込んできた。
「まったく、母親に似ず美しい娘だ。爵位にこんな極上のおまけが付いてくるとは思わなかった。さあ来い、たっぷりと可愛がってやる」
ギラギラとした目でベッドの上に乗りあげてきた義父に、わたくしはカタカタと震えることしか出来なかった。助けを求めなければ。そう思うものの、恐怖で喉が張り付いたかのように、声がちっとも出てこない。
「叫んでも無駄だぞ。お前の味方をするものなど、誰もおらんからな」
その言葉は真実で、わたくしの瞳に絶望が広がる。
義父の財力により、我が子爵家も普通の貴族のように使用人を雇うようになっていた。しかし当然のごとく義父の息のかかったものばかりで、誰もわたくしの味方などしない。助けを求めたところで、無視されるどころか母にこのことを告げる者すらいないだろう。
唯一の味方であるエヴァンとハンナは、敷地内にある小さな小屋で暮らすようになっていた。これもあの男の差し金だ。当初は義父が珍しくも親切心で施しをしたのだと思っていたのだが、やはり裏があったのだ。2人が小屋に行った今、大声で叫んでも、エヴァンとハンナの元までわたくしの声は届かない。
わたくしの叫びは誰にも気付かれない。
大人の男に力づくで襲われて、たった12の娘になにが出来ただろう。
わたくしはふるふると震えて怯えながら、一刻も早く義父の気が済むのを祈ることしか出来なかった。
それからもあの男はたびたびわたくしに歪な関係を迫り、わたくしはそれを諦めの境地で受け入れていた。相手は大人で、しかも屋敷で一番力を持つ者だ。この状況から逃げ出せるとも思えず、心を凍らせて遣り過ごしていた。
義父には口止めをされたけど、元より母に言うつもりはなかった。もちろんあの男の為などではない。なによりも、母を悲しませたくなかったから。
「再婚して本当に良かったわ。こうしていい暮らしが出来るのも、新しいお父様のおかげね」
そう言って幸せそうに微笑む母に、本当のことなど言えるはずもない。
「そうね。良かったわね、お母さま」
どろどろとした黒い感情にぴっちりと蓋をして、幸せそうに微笑んで見せることが、わたくしに出来る精一杯の親孝行だと思っていた。
母の再婚で一つだけ良かったことがある。
それは、貴族の子弟が通う学園に入学できたことだ。それなりに金のかかる学園に入れたのは、唯一あの男に感謝できる部分であったといえる。だってそこには、アドルフがいたから。
10歳になると学園生活が始まる。貧しい子爵令嬢であるわたくしと違い、裕福な子爵家の嫡子であるアドルフは学園に通うようになる。彼とはあまり会えなくなると残念に思っていただけに、わたくしも同じ学園に通えると知った時はたいそう興奮したものだ。
それからあの男に汚されるまでの2年間は、アドルフの側で幸せな学園生活を送れていた。彼は相変わらず優しくて、時折わたくしに甘い言葉もかけてくれるようになっていた。
「ジゼルの髪は綺麗だね。日に当たってキラキラしているよ」
父譲りの銀髪をアドルフが眩しそうに見つめている。蕩けるような彼の眼差しは、照れくさいけれど嬉しかったのに。あの日を境にどんどん苦いものへと塗り替えられていく。彼に褒められれば褒められるほど、彼が思い描く綺麗なわたくしとはかけ離れている自分に、胸がぎゅっと締め付けられていく。
「どうしたんだいジゼル、最近元気がないけど……。僕で良ければ相談に乗るよ?」
「アドルフ。わたくし、実は今とっても悩んでいることがあるの」
「なに? なんでも言って?」
「ふふっ、駄目よ。悩んでいるのは貴方への誕生日プレゼントだから、相談に乗ってもらうわけにはいかないわ。驚かせたいから、中身は内緒にしておきたいの」
わたくしはいつだって笑いながら、なんでもない振りをした。アドルフには絶対に知られたくない。彼にだけは、わたくしが昔と変わらない、綺麗なままの少女であると思っていて欲しかった。
それからほどなくして、義父は事故であっけなくこの世を去った。
わたくしの地獄は2年で終わりを告げたのだ。けれどもう、なにもかもが遅い。もう元通りには戻れない。
わたくしという花は、ぐちゃぐちゃに踏み荒らされた後だった。
でも、そのことを知らない母は、わたくしが幸せな結婚が出来ると信じきっている。
驚愕に目を見開くわたくしに、それが喜びゆえの驚きだと疑いもせず、心から嬉しそうにわたくしを見つめて微笑んでいる。
それはわたくしが15の時のことだった。
「え、なんですって?」
「だからね、ジゼル。あなたと、ランドル子爵令息との婚約が決まったのよ」
「ランドル子爵令息って……まさか、アドルフと!?」
「ええ。あなた達昔から仲がよかったものね。おめでとう」
母の言うとおり、わたくしとアドルフはとても仲が良い。その上、わたくしはアドルフにほのかな恋心を抱いていた。でも、だからこそ彼と結婚するわけにはいかない。
わたくしの身体は穢れている。
アドルフは初夜の床でがっかりするだろう。いくら優しい彼でも、騙されたと憤るかもしれない。身持ちの悪い女だと、軽蔑の眼差しを向けられるかもしれない。
いや違う。かもしれないではなく、そうなって当たり前なのだ。貴族の結婚において、女性は処女性が重視されているのだから。
そんなことになるくらいなら、初めから身を引いた方がマシだ。
誰とも結婚せず、爵位を母から継いだ後は、どこからか跡継ぎとなる養子を引き取ってこよう。
彼との未来など、思い描けるわけもないのだから。
翌日。学園で会ったアドルフは、いつにも増してご機嫌な様子だった。
「婚約を受け入れてくれて嬉しいよ。ちょっと気が早いと思ったんだけど、君はどんどん綺麗になっていくから、他のやつに取られないうちに申し込んでおいたんだ。式は卒業したらすぐに執り行おう」
甘やかに見つめられて、胸にツキンと痛みが走る。この笑顔をこれからわたくしが壊すのだ。
「そのことだけどアドルフ。……その婚約、なかったことにして欲しいの。母が先走ってしまっただけで、私の本意ではないのよ」
「なかったことにって……僕は正式に君の家へ婚約を申し入れ、当主である君の母上から快諾の返事を頂いたんだ。今になってそんなことを言われても、受け付ける気はないよ」
アドルフにしては珍しく、強い口調でわたくしの主張を突っぱねた。それはそうだ。一度受け入れた婚約をこちらから取り消そうとするなんて、アドルフ側に問題があるのかと世間に思われてしまう。
婚約を解消するなら、こちらに非があることにして、彼の側からしてもらわないと。
「だからアドルフ、貴方から婚約を破棄して欲しいの」
「それはできない」
きっぱりと告げるアドルフの顔は、はっきりと強張っていた。彼のこんなに不安そうな表情は初めてで、ズキリと胸が痛む。けれどここで折れるわけにはいかないのだ。
この人のためにも。
「僕のことが嫌い?」
「そういう訳じゃ……」
「じゃあ、どうして婚約を破棄したいなんて言うの?」
「ごめんなさい。どうしても、あなたと結婚したくないの」
「そんな泣きそうな顔で言われても、全然説得力がないよ!」
アドルフに両肩を掴まれて、びくりと身体が揺れた。大きくて、力強い手の感触。久しぶりに触れられた彼の手は、いつの間にか少年から男の人のものになっていた。
――――どうして。
これはアドルフで、あの男じゃないと分かっているのに。それなのにカタカタとわたくしの肩に震えが走る。
明らかに怯えた様子のわたくしを見て、アドルフがはっと息を呑んだ。
「……どうしたんだいジゼル。こんなにも震えて」
アドフルに心配そうに問われたけれど、何が起きてるのか自分でも分からない。
肩に置かれた大きな手に視線を遣る。アドルフの手は細くて長い綺麗な指をしていて、がさがさだったあの男の手とは全然違う。
これはアドルフだ。わたくしを傷つけるような手ではない。
それなのに。震えは一向に収まらない。
「まさか、僕のことが怖いの……?」
「い、いいえ! 違う。違うわ……」
アドルフが慌ててわたくしから手を離した。肩にかかる重みが消え、ほっと息をついているうちに、徐々に冷静になってきた。
そう。そうよ。
『怖い』ということにしてしまえばいい。
それなら非はこちらにあるし、母だって次の縁談を持ち込んでこなくなる。
「アドルフが悪いんじゃないわ。わたくし、男の人が怖いの。だからどうしても結婚できないのよ」
「男が怖い?」
「ええ」
「そんなの今、初めて聞いた」
アドルフが怪訝な顔をした。
「男が怖いなんて、昔の君はそんなことはなかった。幼い頃、一緒に木登りをして降りられなくなったことがあったよね? あの時、うちの従僕に助けてもらったけれど、彼にしがみついても君は震えてなんかいなかった」
ぐっと言葉に詰まる。
彼の言うとおり、あの頃のわたくしは男の人が怖いだなんてこれっぽっちも思わなかった。誰かに触れられて、恐怖に身を震わせることもなかった。
アドルフの手は、温かくて安心できるものだった。
「そういえば、ずっとおかしかったんだ」
「……何の話かしら」
いったい、何を言い出すのか。
内心ヒヤリとするものの、こてりと首を傾げてみせる。
「学園に入ってからも暫くは、僕の前で屈託なく笑ってくれていたよね。でもいつからか、君は辛そうな表情をすることが増えたと思っていた」
「アドルフの気のせいよ……」
「いいや違う。今思えば、明らかに君の様子はおかしかったんだ」
アドルフが眉を寄せたまま、何かを探るようにじっとわたくしを見つめている。
まさか。アドルフは気付いている……?
「その間に、何かあったんだね?」
アドルフの声は柔らかいのに、問い詰める言葉は鋭くて。
必死に平静を装っているけれど、わたくしの心臓はバクバクと大きな音を立てていた。
お願い。
それ以上は何も、言わないで。
「僕と結婚できないと思うような、何かが」
答えに、辿り着かないで。
「まさか、君は誰かに……」
「っもう! 黙って頂戴っ!!」
パシ――――ン!!
「…………ぁ」
思わず手が伸びていて。
気が付けばわたくしは、アドルフの頬を思い切り引っ叩いていた。
彼が呆然としてわたくしを見ている。
右手がジンジンと痛む。でもそれ以上にアドルフの視線が痛かった。彼は気付いてしまっただろうか。わたくしの身体が、とっくに穢れていることを。
分からないままでいて欲しかった。それが無理なら、せめて黙っていて欲しかった。彼の口から、決定的な言葉を突き付けられたくなかった。
口にしなければ。認めなければ。綺麗でいられる気がしたから。
それが幻想だったとしても。
「ごめんなさい、もう忘れて。わたくしのことは忘れて……」
貴方の瞳に映るわたくしは。
あの頃と変わらない、綺麗なままのジゼルでいたかったの。
翌日からアドルフの姿を見かけなくなった。
ああ、と納得する。同じ学園に通っているとはいえ、専攻の違う彼とは学舎が別なのだ。今まで毎日のように側にいられたのはアドルフがわたくしに会いに来てくれていたからで、彼の優しさと深い愛情を今頃になって思い知る。
アドルフはわたくしに愛想を尽かしたのだろう。
そんなの当然だ。カッとなって、頬まで叩いてしまったのだ。さすがのアドルフも、なんて令嬢だと呆れ返ったに違いない。傷ものな上に暴力的な女など、結婚が回避できて今頃ホッとしているだろう。
アドルフには余計な回り道をさせてしまった。でも大丈夫。豊かな領地を持つ、裕福な子爵家の嫡男だもの。彼ならわたくしよりも素敵な令嬢と、すぐに縁が出来るはず……。
「ジゼル、婚約者殿があなたに会いに来たわよ」
だから彼がわたくしの屋敷に現れた時、これで正式に、婚約破棄の話をされるのだと思った。
……思ったのだが。
「約束もしていないのに突然ごめん。会ってくれてありがとう」
「えっと、それは別に構わないのだけど」
それよりも、その手に抱えている大量の赤い薔薇は、なんなのかしら?
「君に大事なことを伝えに来たんだ」
そう言って、アドルフは白い頬を赤く染めながら、眉をひそめたわたくしを熱を帯びた瞳でじっと見つめている。婚約破棄の話にしては様子がおかしい。
妙に熱っぽいアドルフの視線に、居たたまれなくなったわたくしは助けを求めるようにキョロキョロと視線を彷徨わせてみたけれど、いつの間にか周囲には人がいなくなっていた。母が妙な気を利かせたのか、広い居間にアドルフと2人きりにされている。
ちょっと待って。婚約破棄のお話なら、お母さまも必須よね。
「……今日は、婚約の話をしにきたのよね?」
「うん」
「なら、お母さまも呼んだ方が」
「あ、いや! このままで聞いてくれる方が、助かる」
アドルフが両手をバッと横に広げ、居間から出ようとしたわたくしを慌てて制止した。
「好きだ、ジゼル!」
――――――え?
告げられた言葉に、ひゅっと息が漏れる。
目を見張るわたくしに、アドルフが抱えていた薔薇の花束をすっと差し出した。
「君が好きだ。幼い頃から、ずっと君だけを見つめていた。これから先の人生も共に歩いて欲しいと思っている。――――どうか、僕と結婚してください」
どうして、そんなことを言い出すの。
「……貴方はわたくしに愛想を尽かしたのだと思っていたわ」
あの時は最後まで言わせなかったけれど、わたくしに何があったのか、アドルフはなんとなく察しているはず。
それに加えてあの平手打ち。当然、婚約なんて破棄されると思ってた。
それなのに……まさか求婚されてしまうなんて。
「君に振られて、しばらく落ち込んでいた」
アドルフが困ったように笑った。
「けれどよく考えると、振られるもなにも僕はまだ自分の気持ちを君に伝えていなかったんだ。はは、こんなの君に振られて当然だよね。愛の言葉一つ囁かないで、あんな婚約の書面一つでジゼルを手に入れようとしていた僕が愚かだったんだ」
ふるふると首を横に振る。
違う。アドルフはなにも間違っていない。
長い付き合いだもの。アドルフがわたくしに好意を抱いていることくらい、言われなくても分かっていた。そしてその逆も、アドルフもわたくしの気持ちに気付いていたはずだ。
「君を愛している。ジゼル、僕のプロポーズを受けて欲しい」
間違っていたのはわたくし。アドルフを受け入れる気がないのに、離れがたくて側に居続けてしまったわたくしの方。
その結果、こんなことまで彼に言わせてしまった。
「これは受け取れないわ」
「ジゼル! 僕は君に何があっても構わない。だから……」
もう一度ふるふると首を横に振る。
……もう無理ね。
これ以上、誤魔化すなんて出来ないわ。
アドルフは自分が傷つくことも厭わずに、全力でわたくしに愛を告げ、心からの求婚をしてくれた。ならばわたくしもいい加減、覚悟を決めるべきだ。
どうしても言いたくなかったけれど……仕方ない。
彼はわたくしに真剣に向き合ってくれている。ならばわたくしも、真摯に向き合わないと。
「受け取れないのよ、アドルフ。だってわたくし、子が孕めないもの」
「えっ!?」
驚いて目を見開いたアドルフに、フフッと笑った。
「そうよ。2年もの間あの男に好きなようにされていたのに、わたくしは一度も孕まなかったの。たぶん、子が望めない身体なのよ」
「――――っジゼル!! その、話は……」
「全部本当のことだわ」
ばさりと音を立てて、真っ赤な薔薇の花束が床に落ちる。
アドルフの顔色がみるみる青くなっていった。
彼にとって、わたくしの言葉は想定していた以上に酷い話だったのだろう。ぐっと握りしめた彼の手が、震えている。
「……誰だ。君を傷つけたやつは、……誰なんだ」
「誰って……」
「答えてくれ! 僕がそいつに罰を与えてやる」
「いいの。もう終わったことよ」
「なぜ言ってくれないんだ。そいつは君に酷いことをしながら、のうのうと生きているんだろう? そんなの僕は許せない。そいつを、地獄に落としてやらなきゃ気が済まないよ!」
アドルフの剣幕にびっくりして、目を丸くした。
彼がこんなに怒っているところ、初めて見たわ……。
あの男がこの場に居たら、彼に殴り殺されていたかもしれない。そう思うと、あの男がいないことに心の底からホッとした。
あんな男のせいで、アドルフの手が汚れなくて良かった。
「もういいの。もう、この世にいないもの」
「っ!」
「わたくしの為に怒ってくれてありがとう。それだけで十分だわ」
ふわりと笑うと、アドルフが奥歯をギリと噛み締めながら、悔しそうに頭を垂れた。
「……すまない、ジゼル」
……どうして、貴方が謝るの?
「僕は君を助けてやれなかった。君がずっと辛い思いをしていたのに、気付いてもやれなかった……」
「気付かなくて当然よ。だってわたくし、ずっと気付かれないように隠してきたんだもの。貴方が謝ることではないわ」
「それでも! 僕がもっとしっかりしていれば、そうすれば君だって、僕に頼ろうとしただろう?」
「違うわ! ……貴方のことが好きだから、貴方にだけは知られたくなかったのよ」
アドルフが、がばりと顔を上げた。
「結婚してくれ、ジゼル!」
「無理よ。貴方は子爵家の跡継ぎでしょう? 子を成せない女を妻にしてはいけないわ」
「大丈夫だ。その時は養子を貰えばいい」
「あなたはそれでいいの? 自分の子が欲しいとは思わないの?」
「僕が欲しいのは子供じゃない。ジゼルだ」
アドルフが泣きそうな顔をしている。
なによ。泣きたいのはわたくしの方なのに。まだ諦めてくれないの?
後悔するのは貴方の方なのに。
「駄目よ。分かっているでしょう? あの頃とは違うのよ。わたくしはもう穢れているの。わたくしは、貴方にふさわしくないの……」
「穢れてなどいるものか!」
アドルフが堪え切れないといった様子で腕を伸ばし、わたくしをふわりと抱きしめた。
お日さまのような匂いがして。
それが彼の匂いだと理解して。どくん、と心臓が跳ねる。
「ジゼル、君は綺麗だ。あの頃からちっとも変わっていない。綺麗なままだよ」
――――本当に?
アドルフ。貴方の瞳に映るわたくしは、今でも綺麗ままでいられてる?
「今だって君は誰よりも美しくて、僕の目にはキラキラした宝石のように見えている。君ほど素敵な女の子を、僕はほかに知らない」
全て知られてしまったのに。
貴方はまだわたくしに、甘い言葉をかけてくれるのね。
彼の優しさに心が震える。
心地よいぬくもりと懐かしい彼の匂いに包まれて、わたくしの肩からすっと力が抜けた。
…………あれ?
アドルフに抱きしめられているのに。
わたくしはあの時と違い、カタカタと震えず彼の腕の中にいる。むしろ昔のように安心しきっているような?
ああ、そういうことなのか。
すとんと腑に落ちた。あの時分からなかったこと。わたくしが何に恐れて震えていたのか、今やっと気が付いた。
男の人が怖くなったんじゃない。
わたくしはアドルフに拒絶されることを、恐れていたのだ。
「今度こそ君を守らせてほしい。僕と結婚してくれ、ジゼル」
アドルフはこんなわたくしを受け入れてくれている。
それがたまらなく嬉しくて。熱いものが胸からこみ上げ、ぽろぽろと零れ落ちる。
アドルフの身体にそっと両腕を回した。彼がぐっと息を呑む音がして、わたくしを抱きしめる腕にぎゅっと力がこもる。
「結婚、してくれるね?」
想いを返すように。わたくしも、彼を強く抱きしめた。
「毎日美味しいものを食べさせてくれなくちゃ、嫌よ」
「もちろん。最高のシェフを新居に連れていくと約束するよ」
「庭園には、わたくしの好きな花を沢山植えるのよ」
「分かってる。夏はピンクローズ、秋はスイートアリッサムをたくさん咲かせよう」
「……っ、毎日、愛してるのキスをわたくしにするのよ……」
「そんなの……っ、言われなくてもするに決まってる……」
「約束するよ、ジゼル。子が望めないというのなら、それ以外の喜びをすべて君に贈るよ」
◆ ◇
あれから3年の時が経ち、学園を卒業と同時にわたくし達は結婚した。
子が望めないと思っていたのに、意外にも結婚してからたったの2年で可愛い子どもに恵まれた。銀色の髪にエメラルドグリーンの瞳をした、わたくしに似た可愛い男の子。
不妊について、アドルフはあの男の方に原因があったのではないかと推測している。言われてみれば確かに母は一度も妊娠していない。けれどその後、わたくしたちの間にも次の子が産まれなかったので、本当のところは分からない。
今となっては、もうどうでもいいことだ。
母はわたくしが子を産んだあと、一月も経たないうちに亡くなった。
長年の無理が祟ったのかもしれない。まだ40という若さで父の元へと旅立った。
もっとわたくしに出来ることがあったのではないか。色々と悔やまれるのだが、最後に孫の顔を見せてあげることが出来て、それだけは良かったと思っている。
わたくしの記憶に残る最後の母は、笑っていたから。
「ただいま! ジゼル」
「おかえりなさい、アドルフ!」
一日の仕事を終え、屋敷に戻ってきたアドルフに駆け寄り、勢いよく飛びついた。
わたくしを抱きとめた彼は嬉しそうに目を細め、頬にチュッとただいまのキスをしてくれる。わたくしからもおかえりなさいと大好きのキスをし返すと、今度は愛してるのキスがわたくしの唇に落ちてきた。
しばらく抱き合ったまま幸せに浸っていると、スカートの裾をツンツンと引く可愛らしい手があった。
「あら、わたくしばかりごめんなさい」
くすりと笑って、アドルフから身を離して場所を譲る。さっきまでむうと頬を膨らませていた息子は、アドルフに高く持ち上げてもらいキャッキャと喜んでいる。
可愛い息子と、素敵な旦那様に囲まれて。
これ以上求めるものなんてないくらい、幸せな毎日をわたくしは送っていた。
「かあさま、このえほんがほしいんだ」
「あら? 構わないけれど、この絵本で本当にいいの? こちらの方がいいのではなくて?」
表紙には王冠を被る男の子と、綺麗なドレスを着た女の子の可愛い絵が描いてある。パラリとページをめくって再び首を傾げた。
王子さまに助けられたお姫さまのお話なんて、女の子が好みそうなものだけど。隣に置いてあった冒険ものの絵本を勧めてみたけれど、息子はぶんぶんと首を横に振っている。
「これでいいんだ。こっちのほうが、リリィがきにいってくれそうだから!」
嬉しそうに笑った息子の顔を見て、温かな気持ちに包まれる。そう。あなたはリリィちゃんが好きなのね? 叶うといいわね。幼い息子のかわいらしい恋に触れ、わたくしもふふっと笑みが漏れた。
時折、ふっと、後悔する。
あの頃のわたくしは何も分かっていなかった。わたくしが我慢していれば、母は幸せでいられると思っていた。そんなことあるわけがないのに。
目の前の可愛い息子を見て思う。この子が辛い思いをしているのなら一刻も早く教えて欲しいし、原因を取り除いてやりたいと思う。
それでわたくしの幸せが壊れたとしても、構うものか。
この子が心から笑ってくれる方が、わたくしには大事なことだから。
わたくしは馬鹿だった。もっと早く母に話していれば良かった。そうすれば2年も苦しまずに済んだのだ。真実を知った母は、全力でわたくしを守ってくれただろう。
わたくしが、この子にそうしてやりたいように。
「ごめんなさい、お母さま」
わたくしの呟きは、天国の母に届かない。
息子が寝静まったあと、夫婦の寝室でぼんやりと月を眺めていたら、いつの間にか側にいたアドルフがわたくしの肩をそっと抱き寄せた。
何も言わずに、ぽんぽんと慰めるように肩を叩いてくれている。
彼の優しさに胸がいっぱいになってくる。わたくしはアドルフにも黙っていた。彼はわたくしに頼って欲しかったと言っていたし、わたくしの苦しみに気付いてやれなかったと自分を責めていた。
「ありがとう、アドルフ」
あの時はどうしてアドルフが謝るのだろうと疑問に思っていたけれど、今のわたくしなら分かる。彼が同じような事態に陥っていたら、頼ろうとしてもらえなかった自分を不甲斐なく思うだろうし、苦しんでいることに気付いてやれなかった自分を責めたくなるだろう。
アドルフはわたくしを愛してくれている。
だから謝ってくれたのだ。
顔を上げて、わたくしを見つめる彼の頬をするりと撫でる。
アドルフはあの男に対して、自分のことのようにたくさん怒ってくれた。子が産まれた時にはわたくし以上にたくさん喜んでくれたし、母を亡くした時には共にたくさん悲しんでくれた。
怪我をした時には心から心配してくれるし、美味しいものを食べている時は一緒に微笑んでくれる。
いつもいつも彼はわたくしに寄り添って、思いを共有してくれる。
ねぇ、アドルフ?
宝石のようにキラキラしているのは、貴方の方だと思うわ。
「愛しているわ、アドルフ」
「僕も愛しているよ、ジゼル」
こんな人に出会えて。愛してもらえて。わたくしはなんて幸せなのだろうか。
ふふっと笑う。
お母さま。
わたくしは今、心から笑えているのです。
ずっと一人で苦しんでいたこと、これで許してもらえるかしら?
「あなたがいればわたくしは幸せだわ。ねえ、ずっと幸せにしてくれる?」
「もちろんだよ。僕も君がいれば幸せなんだ。いつまでも一緒にいて、幸せでいようね」
アドルフがお日様のように温かく微笑んだ。
それは、あの頃と変わらない笑顔だった。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。