ケルベロスのお仕置き
太田厚生労働大臣は、くつろげるはずの田園調布の自宅の書斎のソファに深々と腰かけ、壁から突き出るように飾られたクマ、鹿、トラ、ライオンの首を眺めまわしたが、いつもの満足感は得られなかった。目の前に立たった私設秘書を見てうんざりしたからである。
四〇歳を越えて仕事一筋のビン底眼鏡の地味女性なんて見るだけで気がめいるというものだ。
自分が主犯とまだバレてはいないが、最近、莫大な利益を生んできた工場と、帳簿が差し押さえられ、闇ビジネスのニーズがあるのに再開できずにいた。
大学のラグビー部時代からの目の上のたんこぶ、正義感強い小賢しい切れ者、渡辺賢蔵のせいだ。こともあろうに警察官になり、その能力を正義のために使うとは迷惑千万!
臓器売買ビジネスの黒幕が自分だとばれなかったのは、常の用心深さのためである。ビジネスを再開するための人材が欲しかった。最近妻がよかれと思って、超優秀なベテラン秘書なんですってよ、と言って、この中年ギスギス女を我が家につれてきてしまったのだ。法務大臣の妻に紹介されたというので、身元照会したところ、本当に法務大臣の超優秀の折り紙付きだった。無能扱いしてつき返すわけにもいかない。そりゃ確かに優秀なんでしょうけどさ。女性秘書ときいて、ちょっとは期待していたのにひどいよ。だが、最近、俺の浮気を見抜いた妻は彼女をひどく気に入っていた。選挙も近い。マスコミに暴露されたら困ることは多い。逆らうわけにもいかない。
太田を前に女性秘書は眼鏡の位置を正し、
「早速ですが、本日四時のTV記者会見で、そのお召し物はよろしくありません。ボタンダウンは労働者用でございます」
「いいじゃないか、厚生労働省なんだから。庶民の味方だとアピールできるだろ」
「いつも国会TV中継で金がかかっていても悪趣味な服着て弱者切り捨て発言なさっているじゃないですか。自宅資産も公開されてますし、労働者から搾取してるって、バレてます。貴族院議員で実業家としても著名なノーフォーク侯爵様は先だってのインタビューでこれをお召しでしたわ」
優秀だが本当のことをズケズケ言う秘書は絹百%のシャツをさっと広げ、
「大臣の立場にある方がグローバルスタンダードを無視なさるおつもりじゃございませんわよね」
「ああ、まあ」
「では早速」
彼女は大臣が拒否する間を与えず、さっと着ているシャツを脱がせてしまい、絹のシャツのボタンをきっちりかけ、絹百%のネクタイもさっとしめてしまった。結婚記念日にあつらえたエメラルドのタイピンまでついているのに五秒しかかかっていない。男の服を脱がせるの早すぎだろ。秘書は獲物を狙う鷹の目つきで部屋をさっと見回し、コーヒーサーバーにつかつかつかっと歩み寄ると
「コーヒーも労働者用の飲み物でよろしくありませんわ」
オフィス備えつけによくあるミニキッチンのシンクにさっとコーヒーを捨て、貴族の館で使うようなきらめく銀器のティーセットを取り出し、紅茶を入れ始めた。
「今日からは最高級ダージリンで行きましょう」
「いや、私は紅茶よりコーヒーの方が好きなんだが」
「イメージ戦略を軽んじない方がよろしいかと」
自分の好を無視され、カップを渡される。この秘書の言うことは正しいのかもしれない。優秀だ。だが、あくまでも自説を押し通し、言うことをきかないと鞭で打つおっかない女教師のような性格だ。折り紙つきのおバカでいいから、渋谷にたむろしているかわいい女子高生を秘書にほしかった。秘書が鬼のように立って見ているので、紅茶を一口飲んだ。急に眠くなり、机に突っ伏しよだれをたらし、爆睡した。
どのくらい眠っていたのだろう? 秘書に肩をポンと叩かれ、目を覚ました。
「大臣、お疲れのようですが、パソコンのスカイプにスイスの銀行から至急のお電話です」
「おう、君は席をはずしてくれ」
ヨダレを手でぬぐい、秘書が出て行くと、パソコンを開き、ヘッドホンをした。スーツ姿の金髪碧眼の若い男の顔が映った。
「あなた様の預金金額は大変多いので、全額引き下ろしには一週間前の事前通告がいるとお知らせしてありましたよね」
「全額引き下ろしなどしておらん。待て、残高がゼロになっているということか?」
「はい」
「この間、おまえのパソコンが故障して一時的に残高がゼロ表示になったが、すぐに元に戻ったよな。そういうことではないのか?」
「はい。戻らないので、本当にお引出しになったと思いまして」
「国家予算クラスの金だぞ! 俺が半生かけた臓器売買ビジネスでここまで築き上げたんだ! その金をどっかのハッカーに盗られたな、このバカ! 間抜け!」
「ハッカーではありません。名義人ご本人様による正規の手続きとなってます」
「名義人本人だと! ゲッ、まさか!」
「はい、そこまで! お前の口座は不法臓器売買の証拠として押収された。ついでに口座偽造容疑も証明された」
渡辺と捜査一課が立っており、あっけにとられている太田に手錠をはめた。
「渡辺! どこから入ってきた?」
「玄関からに決まってんだろ。ちゃんと令状を見せてお家の人に開けてもらって上品に靴カバーして入ってきた。捜査二課、証拠書類、データの押収ぬかるなよ」
渡辺の後に続く村瀬達が、ダンボールに、書斎の書類を根こそぎ入れ始めた。壁の絵の裏の隠し金庫も見ていたかのように迷わず開け、中の埃まで徹底して箱詰めした。
妻が突入してきた。いつ始めたのか乗馬用の鞭を振りあげ、頭から湯気を出している。そういえば最近部屋のあちこちで乗馬用の鞭を見かけるようになっていたが、特に気にかけてはいなかった。妻は太田に浮気現場の写真をたたきつけた。
鞭など扱いなれていない彼女は原始民族の生贄の踊りのように太田の周りでステップを踏んでいたが、秘書が入ってくると同時にスカイプに繋がっていたパソコンに急に浮気相手のふてぶてしい態度が映った。愛人はベットの中で艶っぽく太田にしなだれかかり、
「私のこと奥さんよりずっときれいだって言ってたわよね? この億ション、買ってくれるのよね?」
妻の瞳に稲妻が走った。
「あなた、選挙資金って言いながら、そのお金で浮気相手にマンション買ったのね!」
「誤解だ」
「誤解じゃないようですよ」
秘書が眼鏡を直すと次の画面に進んだ。太田と愛人がベットでダイヤの指輪を見ている。愛人はいかにも媚びた態度で
「奥さんのよりダイヤが大きいって本当?」
画像の中の愛人の質問に妻が答えた。
「本当よ。この女の方が私のより大きいってどういうこと?」
「やっぱ、ダイヤのサイズに夫の愛情の深さが出てるんじゃないですか?」
秘書は妻の一番言って欲しくない真実をズケッと言ったので、妻のためらいの踊りは、神がかりの鞭打ちになった。手錠をはめられたまま逃げ惑い転び、鞭打たれる太田を警官達はにやにや笑って見ているだけで、誰も助けに入らない。
「た、助けてくれ」
「民事不介入だから」
渡辺がしらっと言った。
「ついでにこの様子は地球上にお住まいの皆様にネット配信されているから」
太田ははっとして顔を上げた。無表情な秘書がパソコンをこちらに向けていた。手錠をかけられ床に転がる太田が映っている。隣にある金属の黒い箱が常になくウインウインいっていた。特別に作らせた不法サーバーが多数のアクセスをさばききれていないのだろう。
「私を社会的に破滅させる気だな? わかった金は返す」
「おまえはもう破滅しているよ。この映像は地球上のお茶の間の皆さまだけでなく、総理大臣にも配信されているから。今頃おまえの後任の閣議決定がなされているはずだ」
「なんで俺はおまえを敵に回さにゃならんのか」
「レッドカードは卒業しろ。鼻を折ってやった時、悟りゃよかったのに」
秘書の足元に転がった。
「助けてくれ」
「お金を返しても死んでいった子供達の命は買い戻せないわ。閣僚を辞めるだけじゃ甘すぎよ。大量殺人の罪で裁判を受けても刑が執行されるのに時間がかかりすぎ」
パソコン画像が眠っているかのように見える大量の子供達に切り替わった。妻はそれをみてひっと短い悲鳴を上げると、
「なんてことを!」
泣きながら鞭打ちを始めた。太田は悲鳴をあげながら絨毯の上を転げ回った。パソコンに自分の今の姿がアップで映っている。ネクタイピンの宝石がキラキラ輝きながら角度を変えて太田を自動でトレースしているのに気づき、悲鳴を上げ、手錠をした手で必死でネクタイを外そうとしたがはずれない。ころころ転げ回る太田の動きに合わせて、どこまでもトレースする。不法サーバーはますます快調に仕事の音を響かせた。
鑑識の連中はくすくす笑いながら見守った。007も青ざめる、鑑識特製、本物そっくりの一級品、タイピンはカメラで、ワイシャツのボタンは隠しマイク、それぞれにアンテナを備え、捜査一課が当初なかなか特定できなかった不法サーバーにせっせと送信していたのだ。証拠として十分だった。
「捜査二課押収終了。このパソコンとサーバーも証拠として押収します」
太田が映っていたパソコンとサーバーも撤去された。
「鑑識終了しました」
「よし、ひきあげだ」
渡辺の合図で太田大臣夫妻と中年女秘書だけが残った。
秘書は太田のタイピンとボタンを引きちぎり、足でがしっと踏み割った。映像も音声もこれで遮断された。ライターで壁から生えているヘラジカの頭に火をつけると夫人を導き部屋の中央に立った。
「わ、何をする! 私のコレクションなんだぞ」
「奥さんはこーゆーの大嫌いでしたよね。何度言っても撤去しなかった」
ヘラジカの火は次々と壁に飾られている野生動物の頭を焼きつくし、防炎加工カーテンをいとも簡単にメラメラ燃やした。この部屋だけが無臭の燃えやすい薬剤を撒かれていたかのように燃えている。炎のカーテンで作った牢獄のようだ。中央からドアに続く通路分だけ見事に燃えていない。透明の不燃スクリーンを立てて置いたのだ。
モーゼは海を割って民衆を逃がしたが、ケルベロスは火の壁を分断していた。
「それじゃ元大臣、私も奥方を連れて避難いたしますので」
「ちょっと待て! わし置いていくんじをゃない!」
「動くと死にますよ。あなたの頭上のスプリンクラーだけが作動するようですよ」
太田の頭上から消火剤がシャワーのように降り注いだ。
「ダンテの『神曲』によると罪人の魂は煉獄の火で清められるそうだから」
秘書はあっけにとられている妻の腕を取ると走り出した。
「あの部屋しか燃えません。この家の名義はあなたの物。家の保険の受取人もあなた。不思議なことに愛人用マンションもあなた名義で、ダイヤもなぜかここにあります。あなたは失ったものなどなにもありませんから、安心して新しい人生を始めて下さい」
安全な道路まで出ると、消防車や救急車、パトカーが待機していた。
家を振り返ると、どこも燃えておらず、消防車も水をかけていなかった。
薬剤を散布したところだけが燃え、薬剤が燃え尽きると火事も終わるのである。
秘書は画像で見た大きなダイヤの指輪を妻の手に握らせた。
「あの、あなたは一体? なんとお礼を申したらいいやら」
秘書はニッと不敵な笑みを浮かべたがそれには答えず、
「ただの秘書ですよ。あなたは一使用人にすぎない私の分まで私の名前を入れて防災用避難用リュックを用意してくれていましたよね。その優しさを子供達のために是非。先の工場で作られた子供達は押収した元大臣の臓器売買で稼いだ金で養育することになってはいるのですが、愛情たっつぷりに育ててくれる里親を広く募集しています。ですが、不況でまだそれほど引き取り手が決まったわけではないんです。それじゃ私は、元大臣をムショに回収するので。お元気で」
やはり太田は生きていた。後ろでに手錠をはめた芋虫のような姿で消火剤をかぶれる位置から動かなかったのだ。
「元大臣、あなたを連れに来ました」
「元大臣はやめろ」
「それじゃ、水をかぶったさえない焼き豚、煉獄で心を清めたんでしょうね?」
「この逮捕は不当だ。訴えてやる」
「どうぞ。あなたの滅私奉公は口先だけ。あなたは私利私欲に突っ走り、多数の子供を犠牲にして蓄財した悪党。その証拠はすべて押さえた。私がしたことはその財産の押収だ」
「そうかもしれんがここは一番気に入りの部屋だった。燃やす必要はないだろ。無慈悲な奴」
「奥方のリフォームのお手伝いだ。それに心外だな。私にも慈悲はある。家具は残してやったじゃないか」
「え、家具? どこ? どこに?」
壁の動物はもちろん、書斎にあったはずの机、椅子、本棚など徹底的に灰になっている。完璧な焼け野原の風情である。
「あれ」
秘書は書斎の入口ドアのあったところをびしっと指差した。太田がぐっと目を開き、秘書が指差す方向をよく見ると、ドアは燃えおちていたが、家を支える支柱は無傷で残っていた。
「蝶番」
「はあ?」
支柱の蝶番が黒こげになりながらも一枚残っていた。そよ風がふくと、それも力尽きてばたっと灰の中に落ちた。その気になれば地球も壊せる地獄の番犬ケルベロスの破壊活動は一部限定であっても徹底していた。
犯罪とは、どれほど巧みに仕組んでも、結局はバレるし、罪も償わねばならず、ケルベロスのような凄腕の仕置きを受けることもあり、割に合わないものなのだ。