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新人刑事村瀬の事件簿 青春篇  作者: 柳花 錦
6/10

幸せは元気のおすそ分けから

 都内の警察病院である。気持ちのいい快晴だ。

渡辺夫人の火傷は軽度のものだった。さっと炎に包まれたが、それはあくまで衣類の表面を炎が走っただけで、長い髪の毛が焦げ落ちた他は、大したことはなく、むしろ窓ガラスに額をぶつけた時の額の切り傷の方に縫合が必要だった。夫人は何が何でも治療には人工のものを使うこと、子供達の皮膚をはがしたりしたら訴えるといきまいた。気絶ですんで本当に良かった。もちろんすぐ退院となった。


 少年達は一様に膝から下の脚だけを撃たれていた。膝関節のニーズが結構あるから、そこをはずしてすばしっこさを止めて捕獲しようという魂胆だったのだ。弾や破片の摘出手術を終え、両脚に包帯を巻き、ギブスをされ、天井から脚を釣られており、逃げようにも逃げられないなさけない姿で、事情聴取を受けた。


 個室どころか貴賓室が相応しい資産家令嬢の真由までICUでの治療後は少年達と一緒の集団部屋に入れられることになった。夫人に今後のことを聞かれ、今までの働き蜂の習慣で、記憶が戻ったので捜査に戻りますと口走ってしまったために、脱走できぬよう、少年達と共にここに軟禁されたのだ。少年たちはまだ裁判で証言する大仕事が残っているため、証人保護のためもあり、大部屋の入口と念のため窓下を警官に固められていたのだ。

 母親の愛情ゆえである。記憶を失っていた頃の真由には好きな職業についてかまわないと言っていたが、危険作業は除くという大前提があってのことだ。


 ICUから車椅子で戻ってきた真由の足にも包帯が巻かれているのを見て、少年達は、おおっとどよめいた。

「お姉さんも足、撃たれてたんだ!」

嬉しそうに弾んだ声! あんな凄いプロでも足を撃たれるんだ! 湧き出る親近感。

「これは靴ずれよ。買ったばかりの音楽会用の靴であなた達と乱闘したじゃないの。正直、撃たれた腕より痛むわ」

 少年達はどっと笑い、うっと胸を押さえた。笑い声がひびの入った胸骨に響くのである。

「私がいつもどおりの筋トレやってたら、あなた達、今頃胸骨が肺に突き刺さって、しゃべれないくらい大怪我してたんですからね。ここから先はもう、悪いことしちゃだめ。私を敵に回す人生送るんじゃないの」

「はーい。でも、お姉さん、どうしてそんなに強いの?」

真由は少しだけ自分のことを話した。

「アメリカの軍事施設で学んだの。私はそこで並いるライバルを蹴落としてエースを取って今の仕事に就いた。生真面目に働き納税する日本国民の皆様を守る仕事をしているの。言っておくけど私と同じ仕事をしている人間は何人もいる。別の仕事についている人もいるけど、皆、日本国民の皆様の税金で育てられ、教育されたから、納税者の皆様を助けなさいって、それはもう宗教みたいに厳しくしこまれてるから、生きて楽しい人生を送りたければ、ここから先はまじめにやるのよ」

少年たちは、はーいと明るく返事をした。


 渡辺夫人の華やかな声とヒールの音が病院の廊下に響いた。

「お兄さん達、大の男が四人がかりで運び込まなきゃいけないケーキって何なのよ? 第一、このドアをどうやって通るのよ」

「いや、君はサプライズが好きだったから」

「それは子供の頃の話よ。鳩とか入っているんじゃないでしょうね? 子供達が変な感染症にでもなったらどうするの?」

「いや、それは入れてない。君が切り分けるのが大変だろうと思って、君の好きなパリのパティスリーからケーキと一緒にギャルソンも空輸した。、それはともかく君、早くこのドアをはずしてくれたまえよ」

「いいんだ。やってくれ」

 渡辺の声で見張り兼護衛に立っていた警官たちがドアを外した。渡辺を含めて四人の男に支えられて巨大な箱が入ってきた。それに続くワゴンに食器や茶器を載せた制服姿のギャルソン二名。それに続く陽気な瞳の夫人。所々に包帯や絆創膏が見えるが、こげた髪を活動的な彼女に似合うショートに整えており、入院患者用のパジャマではなく、昼のお茶会に参加するような瀟洒なシフォンのひざ下丈のドレス姿だった。

「みんな元気? お見舞いのケーキが届いたわよ。どんどんおかわりしてね」

 少年達は手を叩いて夫人の無事を喜んだ。このお母さんを傷つける気はなかった。このことだけは真実だ。夫人の衣服が燃えているのをママ、ママ、死んじゃダメと叫んで必死になって消火したのはこの子たちだった。そしてお姉様のことは大いに尊敬している。


 真由もほっと溜息をつき、ふと髪をかきあげようとしてうっかり利き腕にして縫ったばかりの左腕を動かしてしまい、思わずうめいた。一応訓練で両手を使えるようにしていたが、こんな姿組織の仲間に見られたら、どれほどばかにされることか。仲間と言ってもこの少年達のような友達関係ではない。仕事を巡るライバルだったというのが正確だ。


 能力が傑出して高い真由だけが問題解決を担う花形。それ以外は大差なく、真由の解決した事件の残務処理とつじつま合わせの係りだ。しかも真由が一人で一週間で解決してゆく事件を残務処理班はあちこちのポジションから大勢で取組み、且つ一カ月以上かかって処理している。能力差は明らかである。


 真由だけが女性で、残りは全員男性というのもよろしくない。真由には友人といえる仲間がいなかった。子供の頃から共に訓練を受けた同窓の連中から、可愛くない奴、と吐き捨てるように言われ続けてきた。優秀さを競い、一点を巡る喧嘩も年中だった。今ではそんなバカげたことに時間を費やすことはありえないが、当時は必死だった。特にあの厭味の1000番が私のこの入院姿を見たら、なんと言うか考えただけで嫌になる。


 同じ施設にやはり飛び級してきた男の子だったのだが、自分だって子供で歯列矯正中で、ビン底眼鏡のくせに、何かにつけて「君、そんなことも知らないの?」が口癖の鼻もちならない気どりやで、何かにつけて彼女につっかかってきた。彼女はこれがきっかけで、ライバル心に火がつき、ただでさえ競争が激しい中、読書量も多方面にわたり猛烈に増え、いかなる分野でも負けないように心掛けるようになったのだ。今の彼女があるのはある意味では嫌味な彼のおかげであり、今もどこかで活躍しているはずだが、全然会いたくはない。きっとあいかわらず男同士の仲間でつるんで、私の作戦にケチをつけたり悪口を言っているに違いない。


 フン、そういやあいつはグルメだった。笑顔のギャルソンから配られた銀のトレーには、大倉陶園に焼かせた母の実家の下がり藤の家紋入りの白磁のティーカップにダージリンが湯気を立てており、同じ家紋入りの皿にはつややかに光るチョコレートケーキが盛り付けてある。そのチョコレートケーキにはキャラメルの層がはさんであり、華やかな色彩のオレンジソースが掛けられていた。銀のフォークでねっとりとしたチョコレートケーキを口に運ぶ。ショコラの豊潤な香りにまじり、キャラメルとオレンジの香りもする。はあ、至福だ。体がフワフワ飛んでいきそうだ。


「やあ、かわいい姪御ちゃん。はじめまして。おじさんです」

「はじめまして」

用心深く右手を差し出した。握手をした時、互いに目を見た。おじさんの知力の高さとガッツを感じた。母親の時も感じたが、目に愛情がある。残りの二人のおじ達とも握手した。血脈を感じた。分かり合えた気がする。この三人のおじはとてもよく似ている。

「先ほど妹からちらっと仕事に戻りたがっていると聞いたが、国家のためではなく、我々のための仕事をしてみないか? 君なら今までの給与の五百倍払うね」

「ちょっと、お兄さん達、私、子供ができたらいい物しか見せないって決めてたの。怪しげな仕事させないで頂戴。危険は絶対にダメ。真由はこれからは私と一緒に自然環境保護のボランティアのお仕事するのよ」

極上のチョコレートケーキがのどに詰まりそうになった。

「ゆっくり検討してくれたまえ。じゃあ、子供達が二百人前のケーキを食べつくした頃、また見舞いに来るからね」

三人の兄達は怪我した妹を気遣いながら、

「夏の離宮でゆっくり養生するといい。好きにしていいからね」

この兄達が、家族で夏休みをすごせるようスペインにある元貴族の離宮が売りに出た時、目の前のプライベートビーチごと買い取ったものだ。

「渡辺君は我々と来たまえ」

渡辺を連れて病室を出た。


 ここからが超優秀な兄達の本領発揮である。渡辺も男気の強い男である。独身時代、家の一軒や二軒建てられないようでは男の沽券に関わると思っていた。だが、妻になる女性の三人の兄達は、親からの相続財産ではなく、それぞれが自分の力でビジネス帝国を築きあげ、再開発されて最もトレンディーとされる六本木に、これぞ男の居城と言うに相応しい堂々たる超高層ビルを各自一棟自社ビルとして建て、且つ、所有していた。城の一つや二つ建てられない男は、ダメ男、能無し、と烙印を押す権利のある男達である。


 夫人が、私、子供時代からずっと住んでいるこの城じゃなきゃ住むのは嫌、というから夫人が親から相続することになった成城の城に住むことになった。この莫大な相続税を支払うためだけに、渡辺は自分の両親が残してくれた江東区の中小企業とはいえそれなりの規模があった工場と住宅を全部売却した。渡辺に帰れる実家はもうない。これじゃまるで婿養子である。結婚当初は少しだが心細かった。


 この兄達は世間で三本の矢と言われるほど仲が良く、結束している。それぞれが企業家として大成功しており、最愛の妹と、渡辺との結婚に屈強に大反対した。渡辺のもっとも苦手な心の耳栓が必要な相手である。

「渡辺君、我々の年の離れた妹は、とても可愛く、私達のプリンセスだった。美しく成長し、どこの国の王子様と結婚するのかと思っていたら、お巡りさんと結婚しやがった。我々が止めると泣いて騒ぐから、まあ、一人くらい身内に警察がいても妹の専属護衛官くらい務まるだろうと思って許可したが、なんだね、この度の不手際は!」


 夫人の実家、義兄達の家紋の下り藤は平安時代に事実上幕府を一族で支配し、優秀でも一族出身者でない菅原道真をいじめまくって左遷した藤原家由来の家紋である。

 世界のセレブと優雅に茶会を楽しみながら地球の環境問題や発展途上国への寄付金集めの仕事をする夫人のスタイルと、警視庁内の自販機の紙コップで出てくる沼地の泥とよく誤解されるコーヒーを一口飲んだところで、やけを起こした凶悪犯の証拠固めに呼び出される渡辺とは天上人と地下人の差があると言われている。

 世が世なら、摂関家のお姫様とお目もじすら出来ず結婚などありえなかった。渡辺が世界の一流の研究所から声がかかるのに、東京で一地方公務員として今の社会システムを維持、できれば改良してゆく側の仕事に異様に熱心なのは、夫人が絶対に転居はありえないと言い張る夫人の気に入りの住まいを守るためと言われている。渡辺の結婚生活は概ね幸せなのだ。


渡辺はセキュリティー上、身内以外の見舞いを許可していなかったが、真由を助けた二課の面々が忙しい中、昼休みにちょこっと見舞いに来ると言うので、特別に許可した。夫人の計らいで真由は資産家令嬢に相応しく、貴賓室に移され、真由の好きな薔薇の花が沢山飾られ、甘い香りが漂っていた。二課の面々が顔を出したとき、真由は痛み止めでベットでうつらうつらしていたが、二課の連中を見た瞬間に、はっとして、藤堂の顔になり、反射的に毛布で前を押さえ、

「下がりなさい。後で指示を出します」

と言った。皆、爆笑し、

「いやあ、よかった、よかった。元に戻った」

「中身は一七才の女の子だったんだ」

「それじゃ、俺達は仕事に戻りますんで、お大事に」

「あ、こいつは置いていきます」

「お前はもうバレてるって説明してから戻れ」

「うわあ、女性の部屋に一人で置いて行かないでっ!」

うろたえ、赤面した村瀬を病室に押し戻し、ドアをピシャッと閉め、仕事に戻って行った。

「バレてるって何が? 一七才少女って何? ひょっとして私の真実の姿をみんなでみたのね? ひどいわっ!」

一七才少女は、打ちひしがれ、悲劇のヒロインみたいにベットに泣き伏した。

「違います、何かひどい誤解が!」

やばい、渡辺室長や奥方様はどこへ行っちまったんだよ。状況を証言してくれる人がいない。

「だれも花婿しか見てはいけないようなお姿を見たわけではありません」

彼女は用心深く枕元のテーブルのティシュを一枚ひきぬくと、涙をぬぐい、洟をかみ、毛布で胸を押さえ、恨めしそうな顔で村瀬を睨んだ。

 落ち着け、落ち付いて説明するんだ。

「篠崎病院を調べている時、渡辺室長が、藤堂課長が自分の娘だって気づいて遺伝子鑑定やったり、裁判やったりして、課長の実年齢がわかったというだけです」

真実は常に簡潔なのだ。警視庁の行方不明少女の失踪当時のお姿データは、もう消去されている。僕はお宝として部屋にデータで持ち帰って、時々楽しんでいるけど。

もっとも最近は金田課長の強制労働で仮眠室で爆睡することの方が多く、部屋に帰れる日は少ない。


「きっとみんなは私のこと若輩者だってバカにして、もう言うことを聞いてくれないんだわ。私に足りないのは年齢だけよ。別に能力的に劣っているわけではないわ」

「その通りです。みんな尊敬する藤堂課長に戻ってもらいたがっています」

そうか、飛び級が激し過ぎて、年齢にコンプレックスがあったのか。そういや渡辺室長から見せられた彼女の潜入捜査官としての姿に、ど眼鏡の厳しい中年女教師みたいな姿が多かった。命令を出す側として能力と権威を誇示する必要性から、あまり美しくない年上に見えるような変装が多かったのだ。

「でも、普通は若いのにすごいって考えるものですよ」

少し安心したらしく、しゃくりあげ、洟をかむと、村瀬を見た。


 彼女は法務省の仕事も多く、裁判も結構出た。宣誓しても嘘をつく証人も沢山いることを知っていた。たとえ一瞬でも、目が泳いだりするからわかるのだ。警視庁の要請で村瀬の事情聴取をした時に、彼が、自分に不利になることでも包み隠さず話しているのが分かった。嘘のない人間もいるのね。安心して。私がやっつけるのは、悪党だけ。


 作戦を任された時、いつものど眼鏡の女教師姿にせず、素顔に近い薄化粧で、自分が大人になった時、こうありたいと思うエレガントな姿にしたのは、どうしてなんだろう? 彼が子供や子犬に優しかったのも嬉しかった。

 訓練施設時代からの習慣で、代々木公園など広い公園を走っていたが、土日などは小さい子供を連れた若夫婦が多い。幸せそうな彼らを守るのが彼女の仕事だが、いつか自分もちゃんとした戸籍を持った一日本人となり、誠実で心の優しい夫を持ち、愛情の絆で繋がれた家族を作るというのは彼女の秘かな夢だった。仕事をしていなければ無意味な存在でしかない私から、愛する夫や子供に必要とされる私に憧れていたのだ。そして記憶を失っていた時、もう一度彼に恋してしまった。


 彼を見た。心配そうにこっちを見てる。彼は渡辺真由としての短い記憶しか持っていなかった私を見舞いに来てくれて、真剣な瞳で、僕の一番大切な人、と言ってくれた。約束通り、白神山地ブランドの紅茶を持ってきてくれた。彼は、私の生い立ちをどこまで知っているんだろう? 


 私は普通に親の愛情に恵まれて育ったわけではない。私が産婦人科のゴミ箱で捨てられて、焼却処分されそうになったところを実験用に拾われて、親の愛など知らずに施設で育てられたことを知っているだろうか? 最後の仕上げに受けた教育の内容は軍の特殊部隊による殺害方法や拷問も含まれていたことを知ったら興ざめするだろう。彼の前でだけは親の愛を沢山受けて育った渡辺真由でいたかった。彼にデートを申し込まれたり、真剣な瞳で愛を告白され、一緒に家庭を作るに値する渡辺真由で。


 彼の高級絹地の紺色のネクタイに気付き、藤堂課長として二人で過ごした幸せなひと時を思い出し、思わず微笑んだ。思った通り、よく似合っていた。彼は私の意見をいれて、わざわざ自分で買いに行ったということだ。

「その紺色のネクタイは、私が臙脂色のとどっちにしようか迷ったものね」

「覚えていてくれたんですね!」

村瀬の顔がぱっと輝き、二人の間にほんのりと甘く幸せな雰囲気が漂った。

ああ、この笑顔! 私はこの人と人生を共にしたいのだ。救急車に乗せてくれたことは覚えているが、気絶しはぐっていてよく覚えていないのが残念だ。


 彼女は警視庁近くのプライベート用のマンションのベットに、村瀬とよく似た眼差しのテディベアのぬいぐるみを置いてあるのを思い出した。動けるようになったらまずあれを取りに行き、しっかりと抱きしめて彼の夢を見よう。緑あふれる公園で、彼とデートする夢がいい。


 父親の渡辺室長が入ってきた。手になぜか殺虫剤を持っていた。しかも構えて。村瀬はそれを害虫として自分に散布されると思ったらしく、飛び上がり、

「今、丁度、仕事に戻る所だったんです。それじゃあ、課長、お大事に」

他人行儀に役職名で挨拶して急いでドアを閉めて出ていってしまった。

 あの時みたいに真由って名前で呼んで欲しかったのに。彼の声が大好きなのに。また涙が出てきた。いかなる厳しい訓練でも泣いたことなど一度もなかったのに、私は平和すぎてぼけている。

「お父さんのバカ、出てって」

娘は毛布を頭からかぶりベットに伏して声を上げて泣いた。

若い男という地球上で最もけしからん生命体を追い払ってやったのに、うちの娘はなぜ怒る? 

 渡辺は心理分析のエキスパートだが、一七才の自分の娘を前にすると、ティーンエイジャーの娘の心配をするただの過保護な父親になってしまった。娘の恋路は親が邪魔すると返って危険なまでに燃え盛るという定石すらきれいすっぱり忘れていた。仕事を離れると犯罪者をうならせる優秀なプロファイリング力はどこかへ行ってしまうのだ。


 真由さんなんて名前で呼んだら、室長に処刑される。救出時に焦って、いつも心の中で話しかけているように、名前を叫んでしまったのか? とにかく僕は上級職になって彼女をデートに誘いだせる所まで生き延びるんだああ!

 廊下を猛ダッシュで走ると、『廊下は走るな』という壁のポスターが飛び散った。ほんの少しでも共通の思い出が持てた喜びで、皇居沿いの警視庁まで一気に走ると、混んでる地下鉄を乗り換えながら戻ってきた二課の連中と入口で鉢合わせした。

「課長が僕のこと覚えてくれていたんです!」

「あったりめえだろ、俺達のことだって覚えていたんだから」

「なんだよ、病院内のカフェにでも誘ってコーヒーの一杯も飲んでくりゃいいのに」


 二課に戻るとまだ昼休み中だというのに、金田帯刀課長様が常の耐火金庫のような不動の姿勢で、パソコンに向かって修羅のごとく激しく仕事してらした。仕事が生きがいで、且つ、同じ仕事スタイルを憲法の様に部下に強要するところが、この課長様の恐ろしいところである。寸暇を惜しむサプリだけのお食事でなんでそんなご立派な体格に?

「君達、昼休みに仕事しても罰は当たらんよ。忙しいんだから、もっと励みたまえ」

「昼休みくらい休んでも罰は当たらんの間違えでしょ」

小林が小声でぶつくさ言った。


 まあでも、社会悪は減ったし、うまくいけばもう一度彼女のお見舞いに行けるかもしれないじゃないか。村瀬一人がルンルンと楽しそうに仕事に励んでいる。その様子を見た課長のビン底眼鏡がキラリンと光った。

「村瀬君、人の噂を打ち消す七五日の修行がそろそろ開けるが、更に七五日間無休で働くと、真言密教の極致、火渡り修行したのと同じ効果があり、好きな女子をお茶に誘えるという」

「やりますっ!」

「バカっ! 」

小林の忠告に課長の目がギロリンと光った。小林は小声で囁いた。

「やめとけ、そんなことしたら、結婚もせぬうちにしぼむぞ」

「結婚!」

「そこしか聞いてねーし!」


 当たり前だが、女子にコーヒー飲みに行かない? と誘うのに金田課長の言うように七五日間無休で働く必要はない。村瀬は若く、生真面目で思い込み激しく、恋愛経験がない。何でもありの東京に住みながら、恋愛に関しては母親から教わったという一九世紀の堅苦しい考え方をしている。上級職にならねば藤堂課長である渡辺真由に口を利く資格すらないと思いこんでいる。

 仕事の鬼、金田課長は目ざとくその心理につけこみ、村瀬を土日、有給休暇返上型の働き蜂化する外道な戦略をとっていた。しかも村瀬は渡辺真由にぞっこん惚れているからまんまとひっかかっている。


 既婚者の多い二課のメンバーは、結婚に本当に大切なのは資格などではなく、愛情と尊敬に基づく互いの信頼関係を築いてゆけるかにある。ちょっとした機会に気の張らないカフェにでもお誘いして、それとなく互いの価値観を確かめあうというのが恋愛初歩の定石だが、さすがに課長の前でそれを言うわけにもいかない。今度こそヒマができたら教えてやろう。小林がパソコンに視線を戻し、恨みがましく画面右隅の時計を見ると、まだ昼休みはあと五分あった。


 廊下から警備ロボットの焦りまくった声が聞こえた。いつもの特ダネ目当てにこっそりしのびこもうとする新聞記者達を追い払うための機械音声によるお決まりの警告ではなく、珍しく丁寧な会話調である。あのロボットはこんな芸当も搭載してたのか。


「奥様、こちらは一般の方は入れないのでございます」

「それにそのようなケダモノのお持ち込みも禁止されているのでございます」

フギャー!という凶暴そうな抗議の声と、金属ケージがガタガタ言う物音が響いた。

「ケダモノじゃなくて、一応、猫よ」

「猫は猫でも、アドレナリン全開の危険猫でございます!」

広報が警察犬機能付き警備ロボットたと言っていたが、初めて分析を聞いた。

「危険でございます! 危険でございます!」

「仕方ないじゃないの。性悪で預かってくれる人がいないんだから。ちゃんとケージに入れてあるし、ここで放したりしないわよ」

キンキンとした元気のいい声が響いた。更に大きなフギャーという威嚇とケージをガリガリひっかく音がした。

「私は父兄、関係者ですよ。何もお仕事の邪魔しようってんじゃないの。お昼休みに一人息子の顔と職場をちらっとみるだけよ。あと5分あるでしょ」

声に驚き、パソコンの手が止まってしまった村瀬が、

「まさか!」

廊下に飛び出し、後ろ手に扉を閉めたが、すかさず物見高い二課の連中が扉から顔を出した。まだ昼休み終了まで一分ある。こんな面白いショーを見損じてたまるか。


「誰の父兄か一目でわかるな」

 顔が違っても、離れていた家族に久々に会えた喜びの大きな笑顔がそっくりなのだ。村瀬の立派な体格もこのママの愛情たっぷりの手料理によるものだろう。村瀬の母は、金髪碧眼、大柄太めの美人で、太陽のような笑顔から、善意のオーラを燦々と発していた。今朝もクッキーを二〇〇枚程焼いたわー、と言った感じ。おしゃれしてワンピースに帽子姿でおばさん御用達の大ぶりの黒い革のハンドバックを下げ、そのお上品なレースの白手袋をはめた手の先にホールサイズのケーキの箱、反対の手に体重三〇キロの肥満猫入りケージ、そして真似も及ばぬことだが、電気を食わないよう軽量化されているとはいえ、一体三〇キロある警備ロボットを、二人のいたずら小僧を家に連れ帰る母親みたいに両脇に抱えて立っていた。太めのハイヒールが悲鳴を上げているのが分かる。恐るべし村瀬のママ。


「母さん! なんで田舎から出てきたの? 都会は疲れるから嫌いって言ってたじゃない」

「今日は二十年ぶりに大学の同窓会が銀座であるの。心配しなくても終わったらすぐに帰りますよ。それとも、何か、ママに言えないことでもあるの?」

「いえ、何も」

ミセス村瀬は立ち止まり、ロボット達を下し、息子の頭の先から爪先までしっかりチェックした。その隙に二体の警備ロボットはあとを村瀬に任せ、逃げ去るようにスピーディに持ち場へ戻った。中に人間が入っているんじゃないかと思えるほど人間らしい。

「少しやつれたようね」

「激務ですから。でも元気でやってます」

「いいネクタイをしてるわね」

「えへっ、そうですか?」

「今日はデートの日?」

「いえ、まさか、そんなこと」

藤堂課長のお見舞いがあったからしてきたのだ。彼女を思い出しただけで顔が赤くなってしまった。デートだなんて、そんなこと。まだまだ遠い夢の段階だというのに、意識しすぎて顔から湯気がでた。

「幸せなのね。今度紹介してね」

「家族に紹介するなんて、まだ全然そんな段階では!」

ミセス村瀬は微笑み、目を細めて真っ赤になった息子を見た。そしてケーキの箱を息子に渡した。

「レモンパイよ。あなたの好きなアップルパイを作りたかったんだけど、まだ時期的に早いの。疲れているかもしれないと思ってレモンパイにしたわ。職場の皆さんと食べてね」

「ありがとう。母さん。入口まで送るよ」

剛田が代表して出てきて

「お目にかかれて光栄です」

と挨拶し、パイの箱を受け取り、村瀬に

「正確に切り分けるから安心しろ、俺の目には三人の男の子にケーキを切り分けて戦争にならない分度器が埋め込まれている」

と言って二人を見送った。村瀬は母親のきんきん声と一緒に遠ざかった。

「のどが渇いたんで、そこの自販機でコーヒーを買ってみたのよ。そうしたらなんと、沼地の泥が出てきたのよ!」

「母さん、こっちでは水が悪いからそれが普通なんだよ。コーラを押すと変な発酵臭のする黒ビールみたいなのが出るんだ」

「そっちが飲みたかったわー」

村瀬が席に戻ると、机にレーザーで切ったと思われるほど正確かつ美しい切り口の八分の一に切られたレモンパイが、湯気立つ紅茶と一緒に載っていた。めったに人を褒めない金田帯刀課長様が、

「おおっ! 絶品だ! 高級地鶏の生み立て卵を使ったカスタードに本物のレモンを使っておられる。パリまで行かずにこれを食えるとは! お母様によろしくお礼申し上げてね」

と言った。母に伝えよう。母に作り方を聞いて、真由さんのお見舞いに持っていくのもいいかもしれない。母の秘伝レシピで元気の素だと言って。

 恋愛初心者だからといって、マニュアル通りお茶に誘うところからである必要はない。相手を思いやる心がこもった手作りパイもほっこりしていていいのではなかろうか。


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