美しい午後には危険が一杯
壮麗な成城の城に初夏の日差しが降り注いでいた。
有能で手早い渡辺夫人が午前中に一通りの家事を終え、お茶で一服しようと娘をさそうため部屋に様子を見に行くと、娘はソファで北欧の写真集を見ていた。夏至祭りで、女の子達が野草の花冠をかぶり、メイポールの周りを楽しげに踊っているページが開かれていた。脇のティーテーブルに、自分で淹れたらしい紅茶と、自分で庭から切ってきたらしい薔薇の花を一輪ざしに入れて乗せていた。ステレオからチャイコフスキーのディベルティメントが流れていた。夫人は微笑んだ。
ほーら、やっぱり中身も主人ではなく、私に似たのよ。裁判で研究者が、外見を私の遺伝子、中身を夫の遺伝子にしたと証言したので、少しさみしく思っていた。夫はコーヒー党で、花も薔薇よりは楚々とした百合が好きなのだ。ショパンは夫の好みである。娘に弾いてほしかったというショパンのノクターンの譜面をピアノに置きたいと言った。一応同意したけど、私はノクターンは美しいけど、感傷的すぎてあまり好きではない。華麗で優美なチャイコフスキーの方がずっと好き。紅茶党で、薔薇が好き。娘もそれを受け継いだのだ。娘は外見以外にも、私に似たところが沢山あったのだ。クスクス、部屋の趣味も本当は違うはず。こんなピンクピンクした部屋でくつろげるものですか。夫が娘のためにはこれがいいと言うから同意したけど、中年オヤジの女の子に対する思い込みが炸裂した部屋としか言えない。娘に本当に好きな色を選ばせて部屋の模様替えをするのもいいかもしれない。きっと私と同じようにブルーや水色の方が好きに違いないわ。
彼女は嬉しくて、夫との約束を破り、自分用のシルバーのベンツで、そう、無意識に選んだのに、娘もシルバーのベンツだったと聞いている。娘を乗せて街中へ連れて行った。真由のことが心配で、色んな誘いをすべて断り、どこにも出かけていなかった。でも私はもともと出歩くのが好きなのだ。年頃になった美しい娘とショッピングや食事を楽しんで何か悪いことが起きるとでも言うの? 彼は大袈裟なのよ。心配しすぎ。お医者様も記憶が戻っていないほかは何の異常もないって言ってたし。
行きつけの高級デパートで娘の好みを確かめつつ、店員の、なんて美しいお嬢様でしょう! お母様とそっくり、というおべんちゃら、いやいや、真実を楽しみ、一緒に音楽会やオペラに連れていけるような娘の服や靴を買い、その中で一番似合うシックなワンピースとハイヒールに着替えさせた。有機無農薬サラダビュッフェが評判の高級ホテルに連れて行き、一緒に食事を楽しんだ。
やっぱりね、肉よりもサラダや魚貝が好きなんだ。主人は何かにつけて肉を好むけど。食後の紅茶と、パリで十年修行してコンクールで優勝したパティシエのご推奨、季節のフルーツタルトのデザートも迷わず選んだ。夫に似たなら、ここは生クリームどっぷりのケーキとコーヒーを選ぶはず。
帰りの車も楽しかった。後部座席は娘のためのものでぱんぱんだ。娘はスタイルがいいからなんだって似合うのだ。運転しながら、助手席の娘に話しかけた。
「それにしても驚いたわ。服の好が私の若い頃と同じなんですもの」
娘は不思議そうな顔をした。
「私の母は、今の私みたいに、自慢の娘に華やかな色彩の服を着せたがったの。見せびらかして自慢し歩きたいのね。でも私は地味な色、保守的なスタイルの方が好きだった。あなたが選んだ紺地に白いレースの襟がついているだけのシンプルなワンピース、私も持っていたの。でも、そういう地味な服を着ていても、求婚者達がわんさか押し寄せてくるのよ。一番しつこいのがあなたのパパだった。しかも、今、冷静に思うと、顔も一番猿っぽかったわ」
娘はクスクス笑った。広い公園の脇を通ると、沢山の幼稚園児が先生と遊んでいた。娘も子供好きらしく微笑み、もっとよく見ようと窓に顔を近づけた。
「ちょっと寄ってみる? まだ日も高いし」
「うん。ママ、色々ありがとう」
娘は幸せで輝いていた。夫人もである。不妊治療の苦痛の果実が今ここにあるのだ。
「この先に専用駐車場があったはず。そこに停めるわね」
心地よい初夏の昼下がり。そよ吹く風も心地よい。野原を駆け回る子供達の笑い声が響く。二人は木陰のベンチに並んで腰かけた。夫人は娘の風にたなびく長い髪を見、子供達を楽しげに眺める娘の横顔を見つめ、しみじみと思った。
ああ、私の娘なんだ。あの子供達のようなやんちゃ盛りの頃は見損なったけど、今こうして美しい娘となって私の隣に座っている、この幸せ。娘の肩に手を回し、抱きよせた。娘も寄り添った。この幸せな一瞬を私は一生忘れないわ。
「ねえ、ママ、私、今までどこで何やって暮らしてたの?」
甘い夢から現実に引き戻される。夫との約束をまた破ってしまうが、娘にはできるだけ本当のことを言おう。そうでなければ記憶が戻った時に親子の信頼関係が台無しだ。
「私も詳しくは聞かされてないけど、国家の重要任務を任されていたって聞いているわ。
結構な危険任務だったらしくて、その事故であなたは記憶を失ったの。娘を危険任務にあたらせたんで、あなたのパパはカンカンに怒って、国と裁判やって勝ったの。それであなたは今ここにいるんだけど、ここの暮らしが嫌? 退屈?」
「ううん、幸せ。ただちょっと気になっただけ」
娘はまだ何か気にしているようだ。でも、思い切って聞いてきた。
「ねえ、ママ、私に恋人とかっていたのかしら?」
「さあ、聞いてないけど」
「兄弟は?」
「いないはずよ」
「そう」
それなら、私のことを真剣な瞳で一番大切な人って言ったあの人は誰だったんだろう? ハンサムで、太陽みたいな瞳だった。彼の逞しい胸に手をあてた時、ドキッとしたのに恋人じゃなかったんだ。それなのに私ったら、彼とキスしたらどんな感じなの? なんて想像して赤くなってしまったんだ。きっと変に思われたわ。一緒にネクタイを選んだって言ってたのに、どうして私はそういう肝心なことを何も覚えていないの?
娘ががっかりしているようなので、続けた。娘を取られるのではないかと心配で本当は秘密にしておきたかった。
「でもね、あなたに夢中な男の子が一人いることは知ってるわ。その人があなたを火の中から助けたって聞いている」
「そうなの?」
あの人ってば、そんなこと一言も・・・・・・。
「ただ、恋人だとは思えないわ。職場の一年生で知り合って一週間だったそうだから」
「そうなの」
残念そうな娘を見るのはやはりつらい。
「ねえ、今度、その男の子をお茶に呼んでみましょうよ。そうすれば、どんな子かもっとよく分かるんじゃなくて?」
娘の顔がぱっと輝いた。
「ママ、ありがとう。ああ、ねえ、ママ、私、どの服を着たらいいと思う?」
飛びつく真由をしっかり抱きしめた。ああ、もう、あなたが彼をどう思っているのかわかってしまったわ。でも、ティーンエイジャーなんだから、当然よね。きっとそのうち彼がどうした、なんて言ったとか、彼の話ばかりするようになるだろう。当然だ。自分だってそうだった。母と娘でいられるこの時間を大切にしよう。
彼女は自分の髪をアップにしていた装飾的なヘアピンを抜き、娘の長い髪を耳の横の髪を少しだけ残し、残りをアップにして結い上げてピンでとめた。美しく大人びて見える。
確かこんな風に髪を結いあげてパーティに参加した日だった。月の美しいバルコニーで当時としてもIQの高い科学者として知られていた夫がどもりながら必死でプロポーズしたのは。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、日が傾き、公園から人がいなくなった。そのことに気がつき、帰ろうとした時、目の前にふいに白いハンカチが現れ、クロロフォルムが漂った。真由は反射的にそれを払いのけ、隣の母親に伸びた手をひねり、相手の指を折った。上腕が折れるはずなのにトレーニングが足りないと本能が叫んだ。後を振り返った。見知らぬ少年達がいた。どうみても一二、一三才前後。小学生か中学生だ。敵として斃すには幼すぎる。平日の夕方で、まだ時間的に早く、明るい。学校で部活を楽しむか塾に向かう時間だ。こんな子供がこんな所でクロロフォルムを所持して何をやっているのか?
「何のつもり? クロロフォルムなんて、子供だからって容赦しないわよ」
いきなり乱闘が始まった。自分がなんでここまで戦えるのかわからなかったが、本能が叫んでいた。私を攻撃してくる者は敵! 一撃で倒すのよ、一撃で! 蹴りで相手の鎖骨を砕いた。おかしい、もっと深く、胸骨が砕けるはずだったのに、一撃で倒せるはずだったのに!
「この女がどうなってもいいのか?」
母親がナイフを突き付けられていた。動きを止めると、背後から頭を殴られ、気を失った。最後に聞こえたのは名前を呼ぶ母親の絶叫だった。
夕闇迫る頃、鑑識の内線電話が鳴った。
「室長、交通パトロール隊から電話です。閉園時刻を過ぎた公園の駐車場に高級車両が停めっ放しで、照会したところ、室長の奥様のもののようです。人は乗ってません。場所は世田谷区砧公園の専用駐車場」
「何だって!」
ざわざわとした胸騒ぎを感じ、電話をひったくり内線電話に出る。もう一方の手で携帯電話を操作し、妻を呼び出すが、電話の電源が切れているとの案内だった。裁判で負けても懲りない連中から怪しい指令が来ても困るので、娘にはわざと携帯を持たせていなかった。家に電話しても誰も出ない。本来なら夕食準備で必ずいる時間だ。事件だ。
妻はとんでもない資産家のくせに用心が悪い。自分だけは犯罪にあわないとたかをくくっており、渡辺が言っても、外出時にボディーガードをつけないし、車も自分で運転した。
私は何でも自分で気に入るようにやるのが好きなのよ。使用人やら運転手、ボディーガードなんてのは、いよいよもって手足の自由もきかないほどのおばあちゃんになってからで十分。
事実彼女は有能で、掃除ロボットが複数あるとはいえ、これだけの広さのある城に埃一つないし、いつどちら様がおみえになっても宮中晩さん会が開けるように整っていた。季節の変わり目に庭師を入れるほかは、使用人なしで、家事と華やかな社交と、ボランティアを優雅にこなしていた。
「現場付近のパトロールをすぐに向かわせる。君達はすまないが出口を封鎖して警官以外、誰も入れるな、出すな。念のため救急車二台頼む」
内線を切ると、叫んだ。
「ここからの遠隔操作で砧公園に設置されている全ての防犯ビデオを分担してすぐにチェックしてくれ。妻と娘が誘拐されたかもしれない」
警視総監にすぐに電話し、この件に関する全ての指揮権とSAT、医療班の出動許可も取った。
鑑識フロアは蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「公園の駐車場防犯ビデオでお二人の姿確認。公園に入りました」
駐車場の防犯ビデオ映像には、車を降り、楽しげに腕を組み、公園に歩いてゆく二人の姿が映っていた。妻がおしゃれなのはいつも通りだが、今日は真由までいつもの花柄ではない、音楽会に着ていくようなシックなワンピースに踵の細い洒落たハイヒール姿だった。解像度がよく、娘がいつもしてなかった口紅を塗っており、ひらき始めた花のように美しいのがわかる。長い髪がそよ風で揺れ、きらめいている。若い頃の妻と似てきた。やばいかもしれない。
「二人を拉致したのは複数の少年達です。別の出口使ってます。小賢しい連中だ。夫人の携帯を投げ捨てました。GPS追跡不能。ああ、真由さんは気絶している模様。夫人は泣き叫んでいます! バンに投げ込まれました」
渡辺の顔から血の気が失せ、膝から力が抜けて崩れ落ちそうだった。俺の判断ミスだ。真由にいつものトレーニングをさせていればこんなガキども三秒で倒していただろう。俺は娘かわいさで、閉じ込めておくことばかり考えて。ああ、神よ、二人をお助け下さい。
「ええ、くそっ、彼らのバンは廃棄処分登録されたものです。希少金属回収後で盗難防止用のGPSも外されているやつです。賢い連中です。東名高速を使わず、世田谷通りから監視カメラの少ない一般道路で、東へ向かっています」
「大変です。少年達の誰も顔認証システムにヒットしません。都内、首都圏、全国の小中学、高校及び大学にヒット無し」
「駅、ATM、コンビニ、病院、ヒット無し」
「なんだと、今の日本でどこにも登録されてないから身元がわからないだと? 連中はどこから湧いてきたんだ?」
「逆探知OK状況ですが、ご自宅の電話に身代金要求電話はまだきません」
渡辺は顎に手を当て、ヒグマのようにうろうろしていたが、
「身代金目当ての誘拐ではなく、未逮捕の臓器売買グループによる臓器売買目当ての拉致かもしれない。その連中の本拠地を割り出し、そこにSATを向かわせる。SAT出撃準備。医療班もだ。内臓手術の得意な外科医を二人、連れて行ってくれ。行き先は」
都内の地図をぐっと睨む。東か、少年達の腕前は、外科医のそれとは違う。
臓器は取るだけ。穴をふさぐような偽装はしない。残った死体は細かく刻んで下水へでも流せばそう簡単に見つかりはしないのに、わざわざ危険を冒して公園やらゴミステーションへ捨てに来る。何かのメッセージなのだろう。いずれにしろ商品になるくらい綺麗に切り取るにはある程度の手術設備は必要だ。しかも人目につかないところがいい。町中は人目はもちろん、監視カメラも多い。
「車、246に出ました」
「山手通りを品川方向に右折」
「お台場埋め立てエリアだ。五〇年前の大地震で液状化がひどくて廃墟になったエリアがあるだろう。SAT、先回りしろ。そこに使われなくなった病院があったはずだ。人工衛星を使え。小さな個人病院も何軒かあるし、使われなくなったマンションに入る可能性もある。公園は鑑識に任せて、捜査一課はお台場へ。捕まえた奴の尋問を頼みたい。帰宅ラッシュにかかってる。サイレン鳴らしてブッちぎれ! だが、お台場近くになったらサイレンを切れ。こっそりと近寄るんだ」
「了解。SAT、医療班、捜査一課、お台場に出動」
「ビル特定には人工衛星画像を使え。鑑識第一グループ、公園が終わり次第、すぐにお台場の現場に急行せよ。それから設備班と夜間照明車も急行させて、設備の連中にあのエリアで携帯が使えるようにしてもらってくれ。あの辺りは遺棄されたんでアンテナが使えないはずだ。俺の車にも衛星画像を送ってくれ。俺も指示を出しながらそっちへ向かう」
「了解、お気をつけて」
渡辺は一瞬迷ったが、村瀬を連れていくことにした。娘がひょっとしたら虫の息で会いたがっているかもしれない。あのおしゃれはほかならぬ村瀬のために違いない。どうして俺は年頃の娘を家の中に閉じ込めておけるなんて考えちまったんだ! 娘を一人にしないために外出好きの妻を閉じ込める形になっていたのも失敗だった。妻がポンと外出に誘ったのかもしれなかった。渡辺は鑑識の神、プロファイリングの専門家、冷静な分析をする男として知られているのだが、自分の家族のことをわかっていなかった。愛する家族を失うかもしれない恐怖で足の先まで血の気が引いた。
大丈夫か渡辺?