花柄ピンクの部屋に入れ、花柄ピンクの服を着せれば女子の人格は変わるのか?
清らかな朝である。
警視庁に着いた村瀬はいつも階段を使って二課のある九階まで駆けあがっていくのだが、今日はなぜか階段の辺りが交通パトロール課のお姉様方で混んでいた。
交通違反で止めた車はどう言い訳しようと絶対逃さない。鍛えているから腕っぷしも相当なものだが、停止させた車の運転手の免許証よりも先に結婚指輪を見、プライベートでもバスの運転手の結婚指輪までチェックするというアマゾネス集団としても知られている。恐ろしくて近寄ったことはない。上階に何の用があるのだろう? 彼女達は出動しやすいよう、同じく出動の多い生活安全課と共に一階にいるのだ。
傷口がパックリ開いて、またあのドクター神に縫合されるといけないので、一階奥のエレベーターホールに向かった。こちらも交通パトロール隊のお姉様方で混んでいた。一体、今日は何があるのだろう? 不審に思いつつも、エレベーターのボタンを押した。行ったばかりでなかなかきそうにない。クスッという押し殺した笑いと、嬉しそうなひそひそ声が聞こえ、獲物を狙う目がギラっと光った。
「彼よ、バージンですって!」
「キャー!」
村瀬は、一瞬赤くなり、すぐ青ざめ、エレベーターを待つのをやめ、階段に突撃し、九階まで一気に駆け上がり、自席について、ネットを立ち上げた。村瀬がバージンだと言う噂は、なぜか警視庁内全域に伝わっていた。
交通課のアマゾネスだけではない。街中で喧嘩の仲裁に入ることも多いことから武闘派の男たちが多い生活安全課の前を通った時、村瀬のことを、その見てくれで、女性の下着を引き裂いても感謝される、絶対許せぬ男の敵と誤解していた男達の嘲笑の視線も痛かった。
痛み止めは眠くなるから飲まないことにしていたので、麻酔の切れた三百針の痛みと突き刺さる視線の痛みに涙をにじませながら仕事した。小林は村瀬の恨みの視線に気づくと
「俺は一人にしか言ってねえ」
歩くスピーカーであることをしらっと否認した。
藤堂課長の篠原病院の臓器売買帳簿のコピーで、仕事が増えたが、決定的な証拠なので、世間も病院に運ばれるようなことになっても、自分や入院させてた家族の臓器の数を確かめなくてすみ、安心したことだろう。
耐火金庫の様な金田帯刀課長様の厳重なる監督のもと、捜査二課の面々は朝日を浴びながら粛々と自分のデスクで激務をこなした。いつものキーボード入力音しかしない静けさだが、皆、口には出さずとも体のどこかがひりついていた。
「君達がこんな有様になってしまったから、税務署チームに業務を再配分して借りを作ってしまったじゃないか。貴重な時間を無駄にして。そういう荒仕事は捜査一課に振ればいいことでしょ。」
「だって渡辺室長が極秘だって言うし」
小林が口をとがらせると、税務署出身の捜査二課長はごつい眼鏡でぎろりんと二課の面々を睨みつけた。
「言い訳、口応えはノルマをこなしてから云いたまえ」
老人扱いされた剛田と、ひょろ長い由井が一階を守っていて無傷だったほかは、皆、掠り傷とごく軽い火傷、そしてほんの少々男前になる程度、髪やまつげが焦げていた。そして捜査一課の連中に腹を抱えて笑われたことだが、痴漢撃退用の微弱電撃銃を撃つ時、散々渡辺に気をつけろと言われていたのに、焦って相手を抑えつけたまま撃ったので、自分の体まで感電し、あちこちにしびれが少々残っていた。無論彼らはマッチョぶってなんともないふりを通して日頃言いたいと思っていた決め台詞を言った。
「いや、俺たちゃ基本的にタフでマッチョだからどうってことない」
「業務にさわるわけねえ」
必死に強がっていたが、電流を流された解剖実験中のカエルの筋肉のように、体のいろんな部分、耳や鼻までもが時々ピクピクと跳ね上がっていた。
剛田が昼休みに警察病院の渡辺を訪ねると、彼は軽度の火傷と打撲傷の治療とみられる包帯こそ巻いていたが、ベットに座り、携帯電話で精英の弁護士を呼びつけ、訴訟準備に備えていた。
剛田は栄養ドリンクを差し入れながら、
「自分や妻の遺伝子配列を覚えていて、子供の配列を予測していたなんて、お前以外の誰が出来る? 血液型と左利きがお前と同じで、外見が奥さんと似ていたからって、自分達の遺伝子が使われたなんて普通わからんよ。お嬢さんが外傷無しでよかったな」
渡辺は怒り収まらず、五日分の栄養ドリンクを次々と吸い上げながら
「不妊治療で妻は痛いの、屈辱的だのと散々泣かされてきたんだ。そんな必死の思いの私達夫婦の受精卵を勝手に拉致して勝手に育ててかつ、危険任務にあたらせた。許すものか。」
論文は全て英語の時代だ。英語に明るい渡辺は、ふと、妻の名前、由美はYOU ME、に見えると気づいた。としたら子供はもしも女の子なら、私のあなた、MY YOU、真由にしようと決めていた。二人の愛の結晶なのだから。妻はどちらでもいいと言いながら、女の子を望んでいた。夜、一人部屋にこもり、何をしているのかこっそりのぞくと、楽しげにほっと溜息をつき、かわいい花柄の幼児服を縫っていた。小さな襟にレースのひだ飾りまで付けていた。
村瀬は渡辺室長を見舞った剛田から不吉なアドバイスを聞いた。
「気をつけろ、渡辺室長は今や一人娘の父親、常の冷静さを失ってヒグマみたいに怒り狂っている。自分の娘を拉致した連中への当然の怒りだが、うちの娘に悪い虫がついたら、そいつもぶっ殺すと言っていた。おまえ、感づかれたらぶっ殺されるよ。俺も妻の両親には訴えられる寸前までいった仲だが、息子二人がもうじき成人する年になっても、今だに口もきいてもらえない。絶対俺が銃撃戦で死ねばいいと思ってる。娘の親というものを甘く見るな。ぬかるんじゃねえ」
早く出世しなくては。背中の痛みは忘れろ。ノルマをこなせ、休んでいる場合じゃない。
本当は優秀な人だったのね、そう言ってもらえるように、頑張るんだああっ!
剛田は渡辺室長の娘だとわかった藤堂課長も見舞っており、無事も確認してくれた。
「まだ鎮静剤で眠っていたが、傷もないらしい。要人警護の連中が入口を守っているから安全だ。一番肝心なことだがね、彼女の本当の名前は渡辺真由さんだ。一七才だって」
笑うと可憐な感じだった。それになんて彼女に相応しい素敵な甘い響きの名前なんだろう。まるでMY、YOU、私のあなたと言っているように聞こえる。
病院では大変なことが起きていた。
「ここはどこ? 私は誰?」
目覚めた少女は不安げに辺りを見回した。自分がものすごく優秀な捜査官だったことを忘れ、ただの一七才の女の子になってしまっていた。
ミッションで失敗経験のない彼女は、自白剤を打たれるような目に合ったことなどなく、自分にかける自己暗示の強さを間違えていた。身の危険を感じつつも任務を遂行できるよう、軽めのものにしたはずだった。だが、身の危険を感じた途端、強くかけてしまったのだ。自分が今までどこで何をしてきたかまるで思い出せない。
これでは裁判の証言ができない。藁にもすがりたい渡辺室長は二課の連中を彼女の病室に呼んだ。ずらりとならんだ男達のスーツは、デスクワークで情けなくも、よれている。
「この中の誰かに見覚えないか? たとえ一週間でも一緒に仕事してたんだ」
ベットに横たわり、患者用ウエア姿の彼女は不安で怯えた表情で顔を振った。
「特にこの男は? 一番ドジで君に面倒をかけていたはずだ」
村瀬を前に突き出すが、首を振るだけだ。
「だめかあ」
渡辺はため息をつき、みんなと廊下に出た。いつも落ち着いている由井が言った。
「室長、記憶喪失って性格も変わるものですか? 藤堂課長なら、俺達がベットルームにずらっと並んだら、たとえ記憶がなくても、気位高く、「下がりなさい」とか「後で応対します」とか言って、びしっとしたスーツ姿に着替えてから応対すると思います」
「別人だろ。どうみても記憶を失っておびえている普通の一七才の女の子だろ。」
小林は断定した。
「お前はどう思う?」
渡辺は改めて村瀬に聞いた。彼が行方不明少女が藤堂課長だと騒がなかったら、この事件は闇に葬られ、娘と会えることはなかっただろう。
「藤堂課長です。火災現場で倒れていてもひたすら任務を遂行しようとするあの態度。それに今見た通りの可憐なお姿も彼女です。それにあの目。僕、山育ちで目がいいんです」
負けずに断定した。由井が血も凍るような恐ろしい可能性をさりげに言った。
「室長、遺伝子盗られた病院で、何回検査受けました? 俺も子供出来るまでに十回受けました。そのたびごとに精子や卵子を提供させられましたよね。一体成功してたら、同じ方法なんだから、十体位作ってたんじゃありませんか? 我々の知っている藤堂課長は別ミッションで活躍中で、ここに入院しているのは別の日に採取された課長の姉妹にあたる女性では? あるいはもっとマッチングしやすい室長以外の優秀な男の遺伝子と掛け合わせた、異父姉妹とか。国家機関が二三〇億円かけて、一体だけで満足すると思います?」
「うがあああ! 妻の卵子が俺以外の男の遺伝子と!」
普段冷静な渡辺室長は獰猛な唸り声を上げた。
「男が本能的に抱く恐怖の最たるもんだよな」
小林がしみじみと言った。
渡辺の携帯に緊急電話が入った。検死局長からだった。
「捜査一課が担当していた内蔵ぬかれて公園やゴミステーションに捨てられて検死に回されてきたご遺体があったよな? 捜査二課がこの度押収した臓器と切り口が全然違う。内臓を抜いている別グループがいるんじゃないか? それに捜査一課の事情聴取によると、篠崎病院では、ご遺体は葬式を希望するご遺族に引き渡すから、手術痕もわからぬように縫合するそうで、穴開けたまま外に捨てるのはありえないそうだ。別グループがいるよ」
「何だと!」
「もっと荒っぽい連中がまだ野放しってことじゃないか!」
「パトロールの連中に巡回強化を頼もう」
「捜査一課は何をやっている!」
渡辺は怒りをこらえつつ、自分の娘に自分以外の男の遺伝子がほんの少しでも入っていないことを執念の遺伝子配列比較で十回確認した。AIが壊れている可能性も考え、自分の目でも確認した。
怒れる父親は、行方不明少女を探す依頼を出した役員を問い詰め、ついに遺伝子泥棒の秘密プロジェクトを暴露したが、肝心の娘が記憶喪失になって、証言できず、国家所属の秘密の研究所との裁判は泥試合となった。
「二三〇億円プロジェクトの逸材がだめになってしまったのは誰のせい?」
「なんて盗人猛々しい! そもそもあれは私の娘だ。遺伝子が証明している」
「いーや、あれは我々の娘だ。不妊治療の遺伝子は万一の事故を考慮し、法律で一週間で廃棄することになっている。ゴミ箱にすてられていたものを拾って育てて何が悪い? 廃棄処分になった時点で君達に所有権はない。法律がそう言っている。彼女は我々の娘だ」
「一日過ぎて受精卵が出来たって教えてくれたっていいはずだ。妻は子供の服を縫って人形に着せ、子守唄を歌って楽しそうに待ってた。俺だって物置から家紋入りの乳母車や木馬のオモチャを引っ張り出して子供部屋に運び込んでスタンバイしてたんだ。」
「君と奥さんの遺伝子を使ったんだぞ。そこいらへんのアル中や犯罪者と掛け合わせたわけでも、キメラのように、違う種と掛け合わせたわけでもない。ちゃんとした教育を受けさせ、国家のために役立つ人間を創ったんだ。なんで訴えられなきゃならんのか」
「あったりめえだ、牛、豚みてえな違う種と掛け合わせなんぞしてたらおまえを……」
渡辺はすんでの所で冷静さを取り戻し、脅迫罪と法廷侮辱罪を免れた。
「それに我々は最高の教育を施した。君達が出来ること以上のことをやってきたつもりだ」
「いいや、最高じゃなかったね、この能力開発リストを見ろ。彼女はその才能はあるのに音痴とでてるじゃないか。胎教から妻の歌声やピアノの音を聴いて育てばそうはならなかったはずだ。あの優美な指を見てピアノやバイオリンを習わさなかったのは犯罪だ。それに料理の項目だ。野生動物を仕留めて焼いて食うサバイバル料理の他は缶詰とサプリじゃねーか、こんなのは料理じゃねーし、食事でもない。妻の絶品手料理で育てたかった」
「そこまで細かくチェックしてやがったか」
「それに最高の教育は親元での愛情教育だ」
「里子の成功例はいくらでもある」
「お前達のは施設から施設への単なる預け替えで、愛情を持って育てていたわけではない。第一、真に愛情があれば、未成年者を危険任務にあたらせたりしないはずだ。外見を妻の遺伝子で創ったといったな。これを見ろ。同じ年頃の私の妻だ。」
渡辺はデジタル写真を引き伸ばしたものを見せた。おお、という賞賛の声が上がった。緑あふれる公園で、若くしなやかな身体を翻し、明るい瞳で微笑む瞬間。風に飛ばされぬよう白い帽子に手をやり、白いピクニックバスケットを持って楽しそうにこちらを振り返っている。早くと言っているようだ。帽子からはみだした薄茶色の髪がきらきらと風にたなびいている。のびやかな四肢と飾らぬ笑顔がいかにも裕福な家で愛情たっぷりに育てられたお嬢さんという感じがした。若い男が惚れて当然である。
これは当時の渡辺が開発したどんなに速く動く被写体もぶれずにとれる特殊カメラを使って撮影したものだ。今は改良を重ねて交通課と鑑識の標準装備にしている。誰にも秘密にしているが、結婚が近かったこの頃、渡辺はこの日一日で一〇〇〇枚撮っていた。その中の一枚だ。
「そしてこれが娘の写真だ。背の高い妻より身長が十センチ低いし痩せている。胃袋なんか半分のサイズしかないのは食事の時間も惜しんでサプリですませて仕事しているからだ。子供の頃からのきつすぎる訓練とひっきりなしの仕事で休む暇がないからだ」
入院用患者のガウン姿で顔色悪く、病室ベットに拘束器具で手足を固定され、生気無くぼーっと天井を見ている。
「拘束器具で固定されているのは点滴の針見て悲鳴を上げて暴れるからだ。これがその証拠映像だ」
看護師が入ってくる。
「点滴しましょうね」
注射針を見るなり、泣き叫び、逃げようとした。
「自白剤を六回も打たれた時のトラウマだ」
解像度が更に革命的に良くなっているので、腕の静脈に打たれた注射針の穴もくっきり写り、自白剤を何回打たれたかまで分かる。
「確かに髪の色、顔かたちは似ているが、別人みたいに違うだろうが! 同じ遺伝子ならなおのこと、これは育った環境による相違だ! お前達に私の娘にこんな人生送らせる権利は無い!」
精神科医は彼女の記憶喪失がちょっとやそっとじゃ治らないレベルのものであるのは、軍の特殊訓練で、自白剤を打たれたり、拷問を受けた時、強い自己暗示をかけて機密を漏らさぬようにするタイプのもので、そうは簡単に解けないという証言し、外科医は彼女をかばった村瀬の背中につきささった建物の破片が彼女の肺や心臓を直撃していたら命はなかったと証言し、彼女の事件解決による押収金額は開発費の二三〇億円を超えていると税務署は証言した。
結局、未成年者の彼女の所有権は遺伝子鑑定で渡辺室長のものとなり、渡辺夫婦の子供として戸籍と納税者番号が与えられた。この件の治療は最高水準のもので、費用はすべて国家持ち、以後、いかなるミッションも彼女に命令できないこととなった。ただし、一八才、成人したら、通常の日本国籍を有する者と同様、職業選択等は本人の能力と自由意思によるものとする、となった。
成人した時、富裕層の渡辺家のお嬢様としてのほほんと生きたければそうできる。でももし本人が記憶を取り戻し、その卓越した能力を国のために捧げたいとなれば、国家の捜査官に戻る。国家も父親も完全勝利ではないが完敗でもない。微妙である。最終決断は一八才になった時点で彼女が自分で決める。
俺の辞書に負けはねえ。危険任務なんて二度とさせねえ。別の人格に誘導しよう。
一七才少女は記憶喪失のまま渡辺真由として室長の家で暮らすことになった。渡辺自身が中小企業の社長の一人息子でそれなりの資産があったのに加え、妻の実家は財閥だ。妻の三人の兄達は実業家として大成功しており、本宅は彼女が相続した。しかもその本宅たるや高級住宅街として名高い成城の広大な敷地にそびえ立つ城である。
「ここは安全だ。思い出はここでこれから一緒につくればいい」
そう娘に言いつつも、渡辺は妻には娘に仕事の話や生い立ちの話は絶対言うなと厳命し、一人で出かけると、娘が借りていたマンションに遺伝子等が残らぬよう、徹底的に掃除して指紋を拭いて引き払った。そこにあった私物も全て焼却処分した。家でもTVとパソコンは彼の書斎でしか見れないようにし、出かける時は施錠し、彼女が自分の過去をトレース出来ないようにした。記憶喪失はつらいだろうが、娘を危険なミッションで失いたくない。鳥籠のように城の中に閉じ込めた。
警視庁では忙しい最中でも職場の健康診断は有無を言わさず始まった。会議室が簡易検査所となっており、捜査二課の順番が来た。
「俺の体重が三ケタだあ? この体重計は壊れている。正確じゃねえ」
ムーミン岡田は体重計でBMIから筋肉量まで自動計測できる機械に憮然として言い放つと、体重計がÅⅠ音声で
「私は壊れてない、お前は肥満という名の病気だ」
と言い放った。
「はああっ!」
岡田は、機械を威嚇するように、相撲取りのように腹を叩いた。
「筋力もない」
「くっ! 機械にばかにされた!」
村瀬の順番が来た。
「睡眠と運動が不足してます。このままだとたるみます。結婚もせぬうちに」
「一言余計だよ」
村瀬はここのところオーバーワークだった。髪を切る暇もなく、ひげをいつそったかも忘れて無我の境地で仕事しているから、武者修行中の野武士を思わせる風貌になっている。昨日も一昨日も自宅に帰らず、仮眠室でシャワーと睡眠を取り、仕事に戻っていた。日付の感覚が薄らいできている。煩悩を吹き飛ばし、人の噂を打ち消すために金田帯刀課長様が新人ペーペーに課した七五日間の不休の仕事業を実践中である。高野山で同じ日数修行するのと同じ効果が得られ、精神が安定するという。
剛田は早々に検査着に着替えた。岡田程ではないが、俺もダイエットや筋トレをした方がいいかもしれない。妻は期せずして生まれた三歳児の世話に追われ、疲れていつも子供と先に寝てしまう。本当にそれだけが理由か? 私、精悍な男がタイプなのよね、おっさんに興味ないわ、とか。
「中年の危機です」
「人の気にしていることを!」
「奥さんの欲求不満は俺に任せろ」
剛田のパンチを小林はひょいとかわし、測定機器に飛び乗った。
「若ハゲします」
「この鉄クズ野郎、総務部が借りてきたリース期限切れ激安品のくせに。根拠を言え」
「業界類似商品の中で正確無比を誇る私を疑うか!」
機械は怒ったようにプシューと湯気を上げると、ばらけて黙った。保証期限が切れるまで真実をあることないこと吐き続けるという、怒りを呼ぶ史上最悪のメカは死んだ。
「俺のせいじゃねえ」
小林は靴を履くと転がってきたメモリーチップをガシッと踏み割った。
「じゃ、計測できなかったってことで、後日、警察病院へ健康診断を受けに行こうぜ。彼女が心療内科の定期診断を受診する日に合わせて」
渡辺真由は閑静な高級住宅街の広い敷地に建つ瀟洒な城の「自分の部屋」といわれる部屋にいた。交通事故で記憶を失う前、ここは彼女の部屋だったという。渡辺氏が仕事に使う鍵のかかった書斎以外、どこの部屋に入ってもいいと言われているが、彼女にとって一番重要なのは自分の記憶探しだった。どうも落ち付けない。
この城の内装は落ち着いた色彩で重厚感のあるネオ・クラッシック様式。でも、私の部屋は全然違う。子供部屋だからだろうか?
シュガーピンクにキャンディーピンクのストライプの壁紙。ボーダーの飾りは花とリボン。白いレースのカーテンが揺れている。家具はロココ調の繊細なもので、全体的に可憐な印象だ。グランドピアノ、窓辺に飾られた色とりどりの花。私はよほど花柄が好きだったのだろう。自分の着ている花柄のワンピース。洋服箪笥の服も全てレースやひだ飾りのついた花柄。アルバムを見ると子供時代、この舘の庭で遊ぶ彼女の服も、家紋入りの乳母車で眠っている赤ん坊の自分も母親の手縫いの花柄の服を着ている。
このアルバムは実は鑑識室長である渡辺がその技術を生かして顔認証システムで幼児期の顔を予測して作り、紙まで年月を出すよう退色処理をして作った傑作偽造アルバムだが、そんなことは彼女にはわからない。
本棚にはキースやバイロンの詩集。美しい風景の外国の写真集。全て私の気に入りの品々だったらしいけど、どれをとっても何も思い出せない、馴染みがない物に感じる。
「私の真由」と言って優しく抱きしめてくれる夫人と自分は確かに似ている。鏡の中の自分を見る。彼女は自分の二〇年後の姿といっていいだろう。遺伝子の繋がりに間違いない。だが、愛用の品にはおかしなことがある。ピアノの上に置いてある譜面を手に取る。ショパンのノクターン集だ。本当にこれが私の気に入りの曲か? 記憶を失ったからって好が変わることがある? 感傷的な曲ばかりだ。弾けば何かを思い出すのだろうか? 彼女はぽつぽつ弾き始めた。あまり得意ではなかったようだ。気がつくと日が暮れていた。だめだ、今日も何も思い出せなかった。
夫人が夕食に呼びに来た。テーブルは美しくセッティングされ、夫人の手作りの料理が並ぶ。おいしいと言って夫人を喜ばせたいが前菜のサラダで満腹となり、それ以上は胃が受け付けない。小食だったのだろう。これでも食事量は少しづつ増え、朝食と昼食がサラダとフルーツだけでも食べられるようになったのだから進歩はしている。
渡部は残業をしないで大急ぎで帰宅し、夕食を共にするようになっており、娘に優しく尋ねた。
「今日は何をしていたの?」
「ピアノ」
と答えると、
「とても上達してきたの」
と夫人が嬉しそうに言った。
厳重な鍵のかかった門扉の外に出さえしなければ、広い庭園に出るのも自由だった。
緑の多い美しい庭園だ。薔薇が多くとてもいい香りだ。蔓薔薇のアーチをくぐると小さな噴水があり、その周りにも薔薇が植えてあり、大きな木にはベンチ型のブランコが吊る下がっている。可愛い花柄のクッションがあり、乗り心地もいい。ブランコを囲むようにラベンダーが植えてあり、紫色の可憐な花を咲かせており、そよ風が甘いラベンダーの香りを運んでくる。なにか思い出しそうで思い出せない。
夫人が紅茶を入れてくれる。良い香りだ。色も素敵。スコーンも手作り。
ああ、バラと紅茶を見るとひどく心が乱れる。何かとても大事なことを思い出しそうなのに思い出せない。これだけは忘れたくないって思っていたことではないか? どうしても思い出せない。
もうじき昼休みの警察病院である。
「奥さんお久しぶりです。お嬢さんの具合はどうですか?」
剛田は病室の通路で、渡辺の妻に声を掛けた。彼女は丁度真由を診察室に入れてきたところだった。心療内科はプライバシー保護のため、たとえ未成年でも本人だけが受け、結果を保護者に知らせる仕組みになっていた。
「あら、剛田さん、娘は大分元気になりました。剛田さんこそ、なぜ病院に? どこか具合でも?」
「単なる健康診断です。測定器具がこわれましてね、さっき診察室ですれ違った時、お嬢さんに、百%有機無農薬オレンジジュースが欲しいからお母さんに言ってっていわれましたが」
「あらあら、すみません、あの子ったらそんな我儘をあなたに? すぐに買ってきますわ」
「確か、西棟の一階の隅の自販機でしか売ってませんよ」
「ありがとうございます」
夫人は小走りで行ってしまった。病院のアナウンスが
「ドクター中山、七〇三の患者さんが緊急ボタンを押されてます。至急向かってください」
真由の入った診察室からドクター中山が飛び出していった。二機あるエレベーターはどちらも彼の鼻先で閉まり、太めの彼はゼーハー云いながら、階段を上がって言った。
診察室に村瀬がすっと入った。身なりをきちんと整えたスーツ姿で、ネクタイは例の臙脂色のをしていた。
「こんにちは、お元気でしたか?」
診察用の椅子に大人しく座っている少女に優しく声をかけてみる。
振返った少女は、花柄のワンピースがよく似合っていて、まっすぐに垂らした髪は瞳の色より少し濃い茶色だった。村瀬のことを誰でしたっけの表情を浮かべて見た。頼りなげで儚く、自信がなさそうだった。
「あなたが一緒にお店で選んでくれたネクタイなんです。あなたは、こんな風に手を置いて直してくれた」
そっと彼女を立たせ、手を置いてみるとあの時のように彼を見上げた。きらきらした薄茶色の瞳、うっすらと開いた唇。これを間違えるわけがない。あの時同様、彼女の手をとり、キスしたい衝動に駆られ、そして耐えた。
「間違えるわけがない。やっぱりあなたは僕の一番大切な人だ」
彼女は視線をそらせた。頬がほんのりと赤くなっていた。
「帰りの車で、僕達、チャイコフスキーのディベルティメントを聞きながら、僕の故郷の話をしたんです。夏至祭りとバラと紅茶のことなんかを」
彼女はえっ? という顔をした。動悸が早まり胸を押さえ、可憐な声は震えた。何か重要なことを思い出せそうな気がする。
「あの、一体それはどんな?」
いきなりドアが開いて、小林が、
「戻って来たぞ」
「それではまた」
村瀬は彼女の手に紅茶の缶を渡すと出て行った。ダージリンで、生産地が白神山地とあった。中山医師が戻ってきた。
「お待たせしました。ボタンの誤作動でしたよ」
真由が診察室を出ると、夫人がにっこり微笑み百%有機無農薬オレンジジュースを渡してくれた。ああ、何か思い出せそうなのに思い出せない!
村瀬が診察室を出ると小林が待ち構えていた。
「どうだった?」
「見事に忘れられてた。でも、いいんだ、僕、彼女の前でドジばっかり踏んでたから。今度会う時にはいっぱしの財務捜査官になってるって決めたから」
「いい子だ。ちょっと早いがメシでも食いに行こうぜ」
やはり持つべきものはよき同僚だ。残業続きで最近蛍光灯の光しか浴びていない二人は初夏の眩しい日差しの中へ出た。気持ちがいい。人って健康でありさえすればなんでもできるのではなかろうか。