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新人刑事村瀬の事件簿 青春篇  作者: 柳花 錦
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藤堂課長の危機

二一世紀後半、警視庁において例外的静けさの中で膨大な財務データと戦う捜査二課の男達のパソコンに臨時ニュースが飛び込んだ。

「一七才少女が、行方不明。お心当たりの方は至急連絡を。失踪当時の服装です」

映像の少女は美少女だが、長い髪を金色に染めており、流行なのかもしれないが母親達が目をむくような露出系の服。歩きずらそうなきゃしゃなサンダル。手脚はすんなりと長くウエストはくびれ、胸はぷっくりと丸い感じだ。

不動の姿勢で常人でない仕事の早さでパソコンに向かっていた金田課長は、ニュースにケッ、と一言感想を言ったきり、仕事への集中に戻った。さすが税務署のベテラン、公務員の鏡である。それに対し二課の面子は自席で仕事しながら、

「これで犯罪に合わないわけがない」

「いるよね、一見大人びてみえるけど世間知らずのわがまま娘」

「一七のナマイキなガキか。親の注意も聞かずに遊び歩いて」

「自分の娘にこんなかっこ絶対させない」

「売り飛ばされたかな」

「きれいな子だが、不法臓器売買かもしれんよ。ⅰPS細胞の培養を待ってられない金持ち連中がすんげえ高値で買い漁っているって話じゃないか」

「いやな世の中だよな。超豪華な食事をする金があっても消化する胃袋がないじいさんが、若い子の不法売買臓器を買いあさるなんて」

「捜査一課じゃなくて本当に良かった。若い子の死体なんて見たくもない」

「全くだ。金持ち顧客を満足させるために犯罪組織は、スーパーマーケットの品揃えみたいに内臓以外にも、角膜、内耳、じん帯、皮膚、血管、骨髄まで洗い浚いもってくらしいぜ。そんだけ取った後の死体なんて恐ろしくて写真見るのも嫌だ」

「若い女の子の場合、排卵促進剤を打たれて卵子まで採られるんだろ?」

 子持ちの多い二課の面子は、うめき声をあげ、少女の穴開き死体の想像を振り払い、数字だけが映るいつもの単調な画面で目を清めてから村瀬をそっと見た。村瀬は話には加わらず、パソコン画面に向かい、少女の目をアップにして、次に手をアップにしてしげしげと見ている。

「これ、藤堂課長だ!」

一同はがたっと崩れた。

「あのな、課長は美人だったがどうみても二十代後半。この子はどっからみても十代だ!」

「言いたかないが、女ってもんは二五すぎたらこの体型はたもてん」

「第一、課長がこんな服、着るわけがない。これは学校さぼってクラブで遊ぶ親泣かせのおばか娘のかっこだよ」

「大体、お前、課長のこういうお姿見たことあるのかよ?」

「無いけど、目と手が一緒です!」

「部分が似てるからって全部が一緒なわけねーだろ。正気を保て」

女のことで兄貴分を自認する小林が身を乗り出し、力説した。

「男には失恋の後、似た部分があると全部彼女に見えるって、しょーもなく傷口を広げちまう時期があるんだよ。俺は俺を振った女を十回は通りで見かけたが、みんな他人だった」

「わかった! 指紋照合すればいいんだ!」

「人の話を聞けよ」

「あのな、鑑識だって忙しいんだ。そんなアホなことにつきあえるか」

「第一、藤堂課長の指紋なんておまえ持っているのか?」

「布地についたものだからはっきりしてないかもしれないけど、一部でもヒットすれば」

一番年長の剛田が結論を出した。

「ああ、わかった。鑑識に俺の同期がいる。その昔恩を売ってやったから、ヒマな時に確かめてくれって言ってやる」

「ありがとう、剛田さん、昼休みに取りにいってきます」

ああまったく、仔犬みたいなキラキラした瞳しやがって。

「さあ、それまで仕事に戻るんだ」


鑑識の装置類は年々拡充し、今や一三階のワンフロアを占拠しており遺伝子工学研究所といっていいほど謎の機械で満ちていた。昔と違い、環識職員には様々な専門の学位が必要で、皆、白衣にビニールキャップ、マスクに手術用手袋姿で作業をする。犯罪者にこれをみせてやれば、犯罪が割に合わないと知るだろう。


剛田はガラスで仕切られた通路からその様子を見、隣を歩く渡辺を尊敬のまなざしでそっと見た。早くからその才能を買われ、既に鑑識の長、鑑識室長の座についており、胡麻塩頭のどこかの研究所所長という風貌だ。こんなすごい機械の使い方を知ってるなんて。しかもそのうちのいくつかは彼が開発したと聞く。

「やっぱりお前は天才だったんだな」

笑顔で答える渡辺の好奇心に輝く瞳が昔のままだった。

「今ここにいられるのは君のおかげだよ」


二人ともまだ若く、泊まり込みの警察の新人研修を受けてる時だった。

待ちかねた休日、渡辺は自分の研究に没頭しすぎ、深夜になってしまった。同じ敷地とはいえ、研究棟から自分の宿泊所までたどり着かねばならない。駐車場を突っ切ろう。少しは近道だ。守衛にさよならを言って、外へ出た。守衛はその時刻と名前を記録し、彼が駐車場へ向かうのを見た。

同時刻、まさにその駐車場、彼の通過したあたりで、女子研修生が暴行を受けていた。

彼は自分の研究のことで頭がいっぱいで、全くそれに気づかず、通過してしまった。


彼は調査委員会に呼ばれた。犯罪者に立ち向かうのが怖くて見捨てたとされ、警官には不向きの烙印を押されそうになった、まさにその時、剛田が飛び込んできた。


「なんでその女を調べない? 門限は九時なんだぜ? 彼が通過した深夜すぎまで何してた?

宿泊所まで五分だぜ。駐車場でBFといちゃいちゃしてて、建物に入れなくなって困って事件をでっちあげたんじゃないのか? レイプされたっていうなら、病院検査のDNAとBFのDNAを比べて同じだったら逮捕しろよ。彼女の車も調べろ。きっと車の中でいちゃついていた真新しい細胞組織が取れるはずだ。駐車場はきっちり九時にゲートが閉まる。

BFは歩いて出たんだ。彼女のBFの顔とゲートの防犯映像の顔を照合しろ。九時より前、彼女が街で何してたか街の防犯ビデオで調べろよ。誓って言うが、楽しく一緒にメシを食ってた男と顔やDNAが一致するはずだ。」


 女子研修生達は剛田をレイプを受けた女の子に対し、鬼畜の行為だと言いたてたし、同僚には彼女は有力者の娘だから追い詰めるのは危険だとする者もいた。当事者の渡辺も今はかつかつで赤字転落していないが円安ばどで原材料費が値上がりしたらすぐに赤字転落、長引けば倒産というレベルの中小企業の社長の息子で権力者ではない。剛田ときたら金とも権力とも無縁の馬の骨だった。


 当時の日本は今以上のど不況のさ中で、バイトもままならず、剛田には待っては貰えぬ奨学金の返済が迫っていたし、彼は学生結婚してたから、手のかかるさかりの赤ん坊がいて、妻も働ける状態ではなかった。だが、彼は頑として自説を曲げず、調査委員会をお前らの考えは偏ってるし、片手落ちだ。このまま彼を首にしたらお前らまるごと訴えると息を巻き、再調査を急がせた。その女子研修生はついにゲロった。彼を陥れるつもりはなかったと言って。

 

 思い出にふけるのは年をとった証拠だ。剛田は単刀直入に切り出した。ワイシャツとネクタイの入った透明な証拠品袋を渡し、

「今朝の臨時ニュースでやっていた例の行方不明少女の件なんだが、まあ違うと思うんだが、指紋検査してやってくれないか? 知り合いの姪っ子くらいかもしれないんだ」

「いいよ。あの少女の件はまだ何にも有力情報が入ってない。移動に電車や地下鉄みたいな公共機関を使ってないらしくて時間がかかってる。指紋検査は昔と違い、すぐに結果が出る。君も見ていくかい?」

「いいのか?」

「ここから先は君もこれ被って、これをはめてくれたまえ。白衣とマスクもだ」

ビニールキャップに白手袋、白衣にマスク。剛田はぎょっとしたが、従った。

「俺に手術しろって言うんじゃないだろうな」

「ここの手術室は地下の検死室だよ」


 二人はガラス扉の中に入った。あまたの金属装置にケーブル類、ここだけ二四世紀になってやがる。いちいち何の機械か聞かないことにした。説明を聞いてもわかるわけもない。剛田はうちの三人の男の子達にこれを見せてやれればと思った。まさに未来社会だ。

渡辺はワイシャツの袋を注意深く開け、剛田がレントゲンとスキャナーの進化形かと思うような装置にそっと広げて置いた。

「これからやろう。この中では一番指紋が取りやすい」

 スイッチをいれると紫色のレーザーが出てスキャンし、すぐに、様々な指紋がコンピューターのモニターに映った。


 二人が驚いたことに、胸の中央あたりに指紋検査でもするかのように両掌の指紋が映っていた。シャツのボタンをはさんで左右の掌に指、全てが揃っている。渡辺はそれを拡大し、録音マイクのスイッチをオンにした。

「おやおや、これは恋人かな? こんな風に向き合ってそっと胸に手を置いた」

渡辺は、架空の相手に向き合って両手を曲げ、胸のあたりに置くポーズをとった。剛田が頷くとシャツを見ながら、プロファイリングを始めた。


「嫌な相手に迫られて相手を突き飛ばした跡ではない。跡が均一だからね。シャツの持ち主はこのデザインとサイズから、身長一八〇センチくらいで胸囲がわりとあるタイプ。胸囲一〇五㎝、ウエスト七五㎝位。モデルサイズだ。まだ所得が低くて量産品を買う若い男。紺地ストライプのネクタイはその素材からおそらく同じ量販店で買ったもの。臙脂色のはおそらく絹百%の高級品。彼が普段買う物とは違う。お母さんから卒業記念にもらったとか、そういう類のもの。清潔好きで、大学生協で売ってる植物性粉末石鹸を使っているから、学生か、卒業して日が浅い。彼女に会うんで、ちょっと洗剤を多めに入れて洗濯したから匂ってる。おそらく几帳面で整頓好き。ボタンが一つも取れてもゆるんでもいないからね。自分で洗濯してアイロンかけたシャツを着て身長一六〇センチくらいの繊細な指の女の子とデートした時、このぐらいの指紋が付くほどしっとりと長めによりそってキスをねだられたっていう感じがする。指先の方に力が入ってるのは彼女が少しつま先立っていたからだ。時間にしてゆっくりめの一瞬。彼の胸板の厚さや体温を楽しめる長さだ」


 剛田は、あんぐりと口をあけたまま聞き惚れた。見ていたように言ってくれるじゃないか。渡辺はプロファイリングの専門家でもあった。

捜査一課の手柄の大半は、実は渡辺によるものではないのか? プロファイリングの段階で、殆ど犯人を特定しているから、捜査一課のすることは逮捕の力技だけとか。


「いや、驚いた。恋人同士ってわけじゃないし、甘い雰囲気を楽しんだともとても思えんが、うちの新入りの特徴はぴったりだ。女性の方は一週間で栄転異動した捜査二課の藤堂課長だ。二〇代後半くらいだと思う。髪は女性はいろいろ染めたりするかもしれんが濃いめの茶色で肩まであった。いつも高そうなスーツ。女性幹部連中が良く着るようなひざ丈のやつ。エレガントな外見だが、優秀で肝が座っていて指揮命令に慣れてて迷わず敵の弱点を突く百戦錬磨の指揮官だ。あの竜神商事を一週間で内側から崩したんだぞ。書類のコピーをとってと言われただけで舞い上がっちまう、うちのペーペーを相手にするとは思えんがね」

「ほかに何か気付いたことは?」

「そういや結婚指輪をしてなかったが、アクセサリーも一切つけてなかった。その類のもので結構その人となりが出たり、いざってとき店をつきとめられるじゃないか? それをしてない。まるで、今にして思うと、身元を隠している潜入捜査官のような気もする。一週間で異動なんて、普通無いし。二人は知り合ってせいぜい一週間。高級住宅街に聞き込みに行った時、あまりにもネクタイが相応しくないって言われて、買わされたって聞いている。その時着ていたシャツと、それまでしていたネクタイと買ったネクタイをあいつは後生大事に新入生研修で記念にもらった証拠品保管袋に入れて、自宅に大切に保管してたんだ。僕にとっては初デートの大切な記念品だから剛田さんは触っちゃダメですとさ」


 ピーというコンピューター音がし、行方不明少女と五本の指から手のひら、生命線に至るまで九九%一致の表示が出た。

「藤堂課長本人じゃないよな? 妹とか従妹か?」

「すぐにシャツの彼をよんできてくれ。彼の遺伝子を排除して、本格的に調べよう。汗やなにかから、遺伝子分析もできるから。それからこのネクタイ店の防犯映像を始め、藤堂課長の全身像も顔のアップもほしい。彼女が映っている映像、ありったけもってきてくれ。彼女の基本データを作って町中の顔認証システムと照合しよう」


 剛田が事の重大さを察知して部屋を飛び出していった。

顔の骨格、歯型は無論だが、映像分析で少女の身長体型とどの程度一致するかも確かめよう。年齢差から双子の可能性を排除する。いや、排除しない。捜査官だとすると二〇代後半の姿は変装かもしれない。本人か双子の姉妹の可能性が強い。特徴の近い親子、姉妹でも九九%まで一致するケースは普通ない。どうなっているんだ?


 パソコンに人事ファイルを呼び出す。鑑識室長である彼のパスワードでも、藤堂課長のプロフィールファイルは開けられなかった。トップシークレット扱いとある。緊急事態を告げ、上と相談しなければ。


 息を切らせて飛び込んできた村瀬を見て、渡辺は思わず微笑んだ。いかにも大学を出てきたばかりといった感じのハンサムで、先ほどのプロファイリング通りの身長、体格、年齢だった。恋人のことが心配で、エレベーターを待てず、階段を駆け上がってきたとみた。単に上司が心配でも、こうは冷静さを失はない。


 機械から測定終了のチャイムが聞こえた。数値を見ると、シャツの汗をベースに体液の分析結果は、手を置いた時、若い男女は性的に興奮状態。この数値だと、喩えて言うならきゃーきゃー叫んでいるレベル。二人の年齢は二〇才前後とある。この女性捜査官は実はもっと若いのではないか?


 村瀬の口の中の細胞を取ると、遺伝子解析装置に入れ、3D画像に映した少女を見せて言った。

「今、色々調べているが、君はこの少女のどこを見て藤堂課長だって思った?」

「僕の見たのは警視庁のホームページの二次元映像だったんですけど。目と手が似てるって。僕の知ってるすべてでしたから」

「具体的に、目のどこら辺? 手のどこら辺?」

「この薄茶色っぽい眼の色、目の形、手や爪の形、指の長さ、それに、今こうして3Dで上から見ると……」

「3Dで上から見ると?」

「いえ、あの信じて下さい。触ったりなんてことしてませんよ。たまたまよく見えた時があったんです」

村瀬は耳まで真っ赤になり、小さな声で言った。

「唇の形も似ていると思います」

責められたりしないので、彼は続けた。3Dをちらっともう一度見て

「あの、実を言えば膝や脚の形も似ていると思ったんです。みんなの前では恥ずかしくて言えなかったんですけど」

そうだろう。剛田は常の彼女は膝丈のスーツだと言っていた。向かい合って座った時、あるいは車の座席に並んで座った時に、すんなりした脚と膝が見えたことだろう。若い男がよく見ていないはずがない。

「率直に言ってくれ。査問じゃないんだ。初動捜査が全てを決めると言っていい。思い出せる限りのことを言ってくれ」

「あの、違和感のある所も言っていいですか」

「ああ、是非、言ってくれ」

「課長が非番の日でもこんなカーテンリングみたいなイヤリングをつけて露出系の服で出歩くとはとても思えません。いつもと違い、目に表情が無く、服に知性が無い。きっと栄転先での大きな組織への潜入捜査用のお姿だと思います。でも、こんなかっこさせるなんてひどい! これで犯罪に巻き込まれないはずがないじゃありませんか!」

「その辺のことは言っておくよ。藤堂課長についてだがね、何か個人を特定するような傷やあざなんかを思い出せないか?」

「いっしょにいたのはほんのわずかの時間で。彼女が潜入捜査のプロで僕がど素人だってことがわかったほかは何も。あ、もしかして、こんなことができるかどうかわからないんですけど」

「言ってくれ」

「レストランから出る時に、入れ違いに入ってきたお客さんが、胴の長い子犬を連れていたんです。オープンテラス席は犬ごと入れるらしくて」

「よくあるな」

「その子犬が飼い主の腕からするっと脱走して思いっきり僕の脚にじゃれついてきたんです」

「ありそうな話だな」

この男は動物に好かれそうなタイプだ。あなどられそうなタイプともいえるが。

「その時に彼女が笑ってかがんでその子犬の長い胴をなでたんです。そしたらその子犬が彼女に遊んでもらえると思ったらしくて大喜びで彼女の膝に飛びついたんです。前足でひっかいたりして。僕がその子犬を叱って飼い主さんに渡しました。別にひっかかれたからって出血もなかったし、傷にもなっていなかったと思いましたが、もしかしたらその子犬の前足の爪にまだ皮膚が残っているかも」

「それだ! その店の名は? すぐにDNA採取班を向かわせる。他に何か思い出したら私に必ず言ってくれ。私の番号だ。じゃあ、仕事に戻って。何か確認したいことがあったら必ず呼ぶから、遠くへ行くんじゃない。いいね」

「よろしくお願いします」


 心配そうな村瀬を見送ると、渡辺はDNA採取班に命令を下し、レストランの防犯映像と顧客名簿からミニチュアダックスフンドを飼っている顧客の住所、電話番号を聞き出し、採取が済むまで犬をシャンプーなどしないよう伝えてもらった。


渡辺は鑑識フロアの一番奥の室長室に移動し、鍵をかけた。普段はあまり使用することがない机とパソコンだけのシンプルな部屋だ。部屋の内装で権威を見せつけるようなやり方は好きではない。受話器をあげるとすぐに仕事にかかった。彼の電話に前置きもおべんちゃらもない。単刀直入だ。


「鑑識の渡辺です。藤堂捜査二課長のファイルを開きたいんです。行方不明少女との関係を確かめたくて。血縁等の家族構成。課長の方は栄転先で無事でご活躍中であることも確認したい。課長の指紋、歯型、健康検査の結果等の個人情報も見て、色々検討せねばならなくて。現状だとデータが少な過ぎて、課長と不明少女を分離解析できません」

「渡辺君、椅子に座ってるかね? 本日の血圧は大丈夫かね?」

「はい、どちらも」

「これからいうことは全て極秘だ。周りに誰もいないな?」

「ええ」

「誰にも言うな、書くな、打ちこむな。藤堂課長と行方不明少女は同一人物だ。竜神商事の財産を押収し、解散させるために藤堂課長という架空人物に化けさせていた政府直轄の秘密組織の潜入捜査官だ。彼女は捜査先の立場に適した年齢に変装する」

「なんですって! まさか本当の年齢は?」

「一七才だ。不明少女がほぼ彼女の本当の姿だ」

「まだ子供じゃないですか! 親の保護が必要な保護年齢対象者に暴力団相手の危険任務をさせてたんですか! 一体、どういう経緯で彼女はそんな仕事をするようになったんですか? 法律的に許されないでしょ!」

「それについては私の口からは言えない」


 渡辺は震えた。これは相当な国家の上層部が絡んでいる。こんな法律違反をまかり通せるのは上層中の上層だ。いくら飛び級流行りとはいえ、一七才はまだ学生。通常は親に守られ、高校か大学に通っている。

「今、彼女のプロフィールを送る。君の暗証コードで読める。言っておくが、これを知ったからには全面協力してもらうしかない。しかも極秘扱いだ」


 渡辺のノートパソコンにデータが転送されてきた。写真の少女は絹のような髪質の茶色の髪を長くたらしており、利発で自信のある目をしていた。

「少女は外国育ちで激しく飛び級もしており名だたる大学院を複数出てる。この度の大掛かりな捜査に借りてきた。竜神商事のめどがついたので、後始末はこっちですることにして、病院ぐるみの不法臓器売買事件の解決をお願いした。臓器はガレージセールみたいに誰にでも売れる物ではない。手術のうまい外科医の他に、内臓専門の輸送チームに販売ルートも必要だ。組織ごと壊滅させたい。あのかっこは自分をおとりにつかったんじゃないかと危惧しているんだが、昨晩から信号がとだえた」

「信号って?」

「周りに誰もいないな?」

「はい」

「個体識別番号チップを脳に埋めてある。政府直轄の秘密の財団法人で研究所を作り、最高の遺伝子で創った。だから少女には家族も戸籍もない。万一遺体で発見された場合は、こういうとき用の仮の身元で内密に処理する。いいな、なにかあったらその辺はお前の責任でつじつまをあわせるんだ」

「つまり、助けるべき女性は藤堂課長を名乗っていたこの少女なんですね?」

「ああ」

「研究所で遺伝子で創られたということは、彼女は複数いるんですか?」

「いや、一人だ。規格量産したかったが、クローンは失敗した。彼女は一人だ。二三〇億円もつぎ込んだプロジェクトで、ここまでくるのに二〇年かかった。彼女を無事に取り戻したい」

「これまで掴んでいた臓器不法売買事件のデータと、彼女を特定するための個人データを送ってください。それに細かいミッションスケジュールも。彼女の行動パターンを読んで、どういう作戦に出たかトレースしてみましょう。それで誰と接触したかが推測できます」


 今回は行動パターンがいつもと違うな。常の藤堂課長は仕事一徹の効率至上主義の働き者、問題を論理と理性でさくさくと解決してゆくタイプ。一つのミッションに一週間を割り当てているが、それより早く解決する。優秀さを見せつけ、優位に立ちたがるタイプ。どのミッションをお願いするかは、政府の上層部内の匿名組織、長老会が決め、それをどう解決するかの計画は全て彼女に一任されるので、事後報告書となっている。


 今回は基本は同じでも、バリエーションが加わっている。渡辺はこの別の行動パターンにジュリエットという可憐な名をつけた。恋をした若い娘ならこんな行動をするのではないかと思えたからだ。村瀬と彼女が二人で行動したのはこの日だけか。しかも通話記録から、引切り無しに他のメンバーと連絡しながらだとわかるから、二人だけの落ち付いたデートというわけではない。


 高級紳士服店の防犯ビデオが届いた。客が少なくても高級品を扱う店に多い、自動追尾システムで入店客を追ってゆくタイプだ。世界の王室ご用達商品を扱うセレクトショップだけあって、防犯カメラも最高級品ですばらしい解像度だ。

 これだな、シャツに手形が残ったデートみたいなシーンは。ジュリエットはネクタイを直そうと彼の胸に手を置く。逞しい胸だ。彼の体温と鼓動を感じる。思わずうっとり彼を見上げる。視線はネクタイの上の彼の唇を見ている。無意識に唇が半開きになる。まるでキスを誘うように。彼はその瞳を、唇をよく覚えていた。握ってみたいと思ったその手も。どんなに姿が違っていてもまちがえないほどに。瞳が合った瞬間に、彼ははっと、手を固く握りしめた。一瞬抱いた妄想を実行しないよう、最後の理性を振り絞ったようだ。


 防犯ビデオ映像からはこの店の店長がさりげに見てないようでしっかり見ている男だと言うこともわかった。念のためこの店のことも調べた。消費税がまた上がり、人が不要不急の物は一切買わなくなって久しい不況下なのにこの店がVIP御用達店として儲かっているのは、顧客の好みを細かく把握し、記憶しているからだろう。細部に至る観察情報が得られるとふんで、プロファイラーである渡辺自らが彼の店に出向き、事情聴取を行った。この男が家族でなくて本当によかったと思える細かさで、慇懃無礼に答えてくれた。


「あのお客様のお召物は絹百%で、皇室御用達染色作家による草木染め。化学染料による安っぽいクリームイエローなどと呼ばれるケバい色ではございません。靴はイタリアデザイナーによる同系色のヤギ革。どちらもオーダーメイドで、一流の職人の縫製によるものでございます」

「いや、服とか靴ではなく、顔や体の特徴は? 痣とかは?」

「顔は薄化粧で、整形の跡はございませんでしたね。見える限りの手足にも。結婚指輪なし。家事を一切なさらない方の手でした。たとえどれほど腕のいい整形外科医が縫合しようと、厚化粧で隠していようと、私の目が縫い目を見逃すことはございません。縫い目チェック歴五〇年。良い物は縫い目でわかるんでございます」

「はあ、そうですか」

「二人の関係をどう思った?」

「美男、美女の組み合わせですが、肉体関係はない。二人は明らかに命令する側、される側。決定権は百%彼女にある。あの若者は、彼女にあこがれていると、目の表情ですぐにわかりました。でも、彼女に胸に手を置かれた時に、大変なことになりました」

「どんな風に?」

「あの若者は消防隊も諦めるような大火災で、彼女に私の気に入りの宝石がまだあの中に、と言われたら、間違いなく火中に飛び込み探し廻り、骨まで焦げるレベルまで惚れたとお見受け致しました。若いですし、無事を祈ります」

「うん。彼女の方はどうだった?」

「感情を見せない抑制の効いたタイプ。でも、彼に対して好意はあった」

「その根拠は?」

「百色ほどグラデーション状に並べたネクタイの中で、本当に彼に似合う色を選んでいたからですよ。その色を見つけた時、ちらっとですが嬉しそうに微笑みました。そして彼の予算の都合でしょう。二本のうちの一本を選ぶ時、彼女の気持ちがわかりました」

「どんな風に」

「彼に本当に似合うのは紺色の方でした。でも彼女は二番目に似合う臙脂色を選びました」

「してその心は?」

「彼女はネクタイ売り場にたどり着く前に、ちらっとですが、英国王室御用達のクラッシックな髭剃りセットを見て微笑んだのですよ。そしてネクタイ売り場に。彼に合わせて見ている時、本当に幸せそうでした。まるで新婚の妻が夫のために選んでいるようでした」

「ではなぜ二番目を?」

「幸せそうに彼のことを見ていたのに、ふと、彼女の瞳に深い孤独が見えたから。何らかの理由で、彼にこれ以上近づくことはできない。でも、彼の元気な姿は見たい。だから紺色の多いビジネス街で、遠くからでも彼が識別できるように、赤の強い色を選んだ。あるいは彼が一人でこの色を選ぶとはとても思えない。これを見て私を思い出して。深い赤は私の愛の色なの、と言っているようにも思えました。一見冷静に見えて、心はごうごうと燃えているタイプかもしれません」

「うん」

うちの使えない若い連中と違って、なんて役に立つんだ。大学でプロファイリングの授業を受けてきました、なんて連中、吐いて捨てるほどいるが、素人同然、通用しない。経験が物をいうのだ。いつも忙しくて若手の教育が後回しになっていた。

「良いものをお召しですね。奥様のお見立てで?」

「なぜ妻の見立てだと? あ、結婚指輪か」

「入ってきた瞬間からわかりましたね。あなたの目は世界の一流品を並べたこの店の商品に全く興味を示さなかった。唯一見たのは防犯カメラ。前置き無しですぐに事情聴取。普通は買わなくても興味をそそられる服、靴、バックに見とれたりするものですよ。あなたは興味のない物には見向きもしないタイプ。本来なら時間短縮のために量販店の吊るしを選ぶタイプですが、あなた様の服・靴どちらもオーダーメイドの最高級品で、コーディネイトも完璧となれば、それはもう、完璧な趣味をお持ちの奥様のお見立てでしょう。その服がよく手入れされているけど新品ではないことから、あなたは奥様のお見立てに不服を申し立てる根拠も時間もないので、出されたものをそのまま着て出る。それがあなただ」

「一本とられたね。プロファイリングの仕事に興味は?」

「この店で十分でございます」


 渡辺は鑑識フロアの室長室に戻り、藤堂と村瀬が立ち寄ったレストランの外側の防犯カメラをモニターに映した。


 ジュリエットが彼を食事に誘った。事件解決のための一秒を惜しみ、ほぼ毎食サプリメントですませるいつもの藤堂課長の行動パターンではない。子犬とたわむれ、小さな生命を愛しむ。これも違う。事件解決の速さを誇る藤堂課長は寄り道をするタイプではない。


 村瀬は彼女を立たせる時に自然に手を貸していた。車の助手席のドアも開けてやり、シートベルトも閉めてやっていた。都会では見かけなくなって久しい古い騎士道精神だ。村瀬の出身地ではまだその習慣が残っていたのだろう。彼女の受けてきた訓練、運動神経を持ってすれば、そのような騎士道は全く必要ない。普段の彼女ならそのような気遣い無用、とびしっと一言で切り捨てていただろう。だが、彼女はそれを少し恥じらいながらも嬉しそうに受け入れていた。


 スクリーンセイバー仕様の助手席の窓ガラスに透明化処理を施すと、助手席に座る彼女はうっすらと頬が上気し、幸せ感が漂っている。これを恋と言わず何と言う? 彼女は自分の状況に気づいているのか? ミッション中に彼女の生地の部分が出て来ているのだ。


 分かる限りの最近の彼女の動向に関する報告書がメールに添付されてきた。ああ、また、いつもとパターンが違う。効率至上主義の彼女はいつもはミッション毎に最適の宿を選んでいた。その度に前の宿は引き払う。だが、今回は、警視庁の傍の高級マンションを引き払っていなかった。ジュリエットはここへ戻れば、彼とまた会えるかもしれないって思ったんだ。たとえ藤堂課長の役柄であっても。きっと服も靴も車も何もかもそのままにしているはずだ。それどころか早く次のミッションを終わらせて、ここへ戻ろうとしていたんだ。


 今まで通り、ミッションを訓練された人格の藤堂課長でやり通していたら、相当危険な相手でも、やりおおせるだろう。だが、今、ミッション中にジュリエットの判断が出ている。このミッションを早く終わらせて、村瀬に会いたいと思って、常の藤堂課長の作戦行動より、無謀でも早めに終わらせる作戦に出たかもしれない。いや、もうそうしてしまったんだ。


 いつもは内情を精査して一番弱いところを迷わず一気に突き崩すのがパターンだ。だが今回は、リスクを取って自分をおとりに使い、わざとつかまり、やつらの本拠地に一直線に行った。で、脳の信号が途切れるようなことに? いや怪我はどうってことないが、信号がこわれた。あるいは中程度の傷で、どこかへ隠れ、回復を待ってミッションを続けようとしてるってこともある。いや、ある程度元気があれば本部にコンタクトをとるはず。救援だって呼べるはず。だが、それがないから泡食って、あんなくさい行方不明ニュース流して目撃情報を求めたんだな。ジュリエット、俺は悲劇は嫌いなんだよ。堪えろよ。


この私が捕まるなんて。

藤堂は縛られてベットに転がされており、注射器が迫っていた。三本目の自白剤だ。このような緊急事態に陥ったことは今までなかった。捕らわれて自白剤で組織や仲間のことを口走るのを防ぐには、死ぬか、強い自己暗示をかけて全てを忘れるしかない。それが非常時のルールだ。遺体で発見された場合、架空の戸籍と名前を与えられ、速やかに焼却処理される。嘆いたり、祈ったりしてくれる身内はいないから当然だが、葬式などの儀式無しの焼却処理はゴミ処理とどこか似ていて嫌な感じがする。


 エースの成績で訓練所の同期を蹴散らし、生真面目に納税する日本国民の皆さまを守る花形のこの仕事を取った。天職とも思えるほどうまくいっていた。

でも、もう私の人生は終わりなわけ?


 子供の頃から秘かに抱いていた夢があった。私はエースを決め、日本社会に大きく貢献する。ご褒美に普通の戸籍を持った国民にしてもらえ、誠実で心の温かい男性と結婚して家庭を持つ。その男性は太陽みたいに眩しい笑顔で私を見てくれて、子供も生まれる。休日ともなれば木がたくさんある公園の木漏れ日の中で、家族と楽しいひと時をすごす。その世界では私はミッションをこなしていなければ無意味な存在ではなく、夫と子供に必要とされる私なのだ。


 ほんの少しの間だったが、村瀬と組んで過ごした一日は夢が実現したかのような一日だった。私は彼の妻か恋人しかできないようなことをした。ネクタイを選んで結んであげたのだ。彼の胸は逞しく、温かく、そこにいると安全な感じがした。彼は私を大切な女性にするようにエスコートしてくれ、微笑みかけてくれた。うちとけて自分の家族や故郷の話をしてくれた。こんなに心が温かく、楽しい気持ちになったのは初めてだった。彼の眩しい瞳と唇が目に浮かんだ。この生涯で一番楽しかった日の思い出だけはなんとかとっておく方法はないのか。


 六本目が迫ってきた。華奢な自分の体重を考えると、とっくに限界を超えている。彼に累が及ばないように彼のことも忘れなければならない。いっそ彼の記憶を持ったまま死にたい。

いや、最後まで任務を遂行しなければ私ではない。そうだ、暗示を解くキーワードを設定しよう。夏至の日に野の花をつんで枕の下に入れて寝て、未来の夫の夢を見る。夏至祭り、この言葉で私は全てを思い出す。不安だ。もう一度会いたかった。

もう何年も泣いたことはなかった。声は立てなかったが幾筋もの涙が頬を伝った。


「目が覚めたかい? 粗忽者の製造ナンバー999君」

ここは病室のようだ。目が覚めると頭が痛かった。包帯が巻いてあるようだが、とても痛む。入院患者みたいにベットで寝ている。私はなぜここに? 思い出せない。

「自白剤をマックスまで使ったが、君は壊れたみたいに何も知らないと繰り返すだけだ。

粗忽品君、うちの病院をどこまで調べたのかい?」

「何も知らない」

「壊れちゃったのかな。最高機密として売り物にならないようなら、内臓を売って残りは捨てる」


 あら、そう。あなたから、もう色んなことがわかったわ。うちの病院って言ったから、ここは研究所じゃなく、病院。私は事故にあったか拉致された。普通の人なら人が倒れていたら救急車を呼ぶ。病院は身元を証明するものが何もなかったら、警察を呼ぶ。彼はどっちもしないで、禁止されてる自白剤を使い、内臓を売って残りは捨てるですって? 完璧法律違反。わかったわ。私はあなたの組織を調べてたのね? 手足の拘束器具は外されていた。


 渡辺は鑑識フロアの一番奥の室長室にいた。万一を考え、部屋には鍵を掛けた。常はやらないことだった。データを慎重に読む。

 篠崎病院、もとは都内にあるベット数二〇の個人病院。普通なら赤字に苦しむ規模だ。だが、一昨年、高層の新築病棟を建て、ベット数を一気に三百に増やしている。この類の規模は法人でないと銀行ローンは組めないはずだ。赤字を補うために闇で患者の臓器を売ってるのかもしれん。捜査二課に入金先と患者名を調べさせるのが突破口になるかもしれん。


 ジュリエットの写真をじっと見る。髪をおろしていた若い頃の妻と似ている。不妊症検査は今と違ってかなり屈辱的なものだった。痛みも伴い妻は検査の後、いつも泣いており、もう、こんな検査を受けるのを止めよう、と言っても、妻はやはり子供を欲しがり、夫婦そろってあちこちの評判のいいといわれる病院の治療や検査に出かけた。金を惜しまず最善と言われたことはみなやった。年数をかけ、再三の不妊治療を受け、最後の検査の結果、今や妻の卵子は老化してしまい、妊娠には適さない状態だと言われた。他人の卵子提供に頼るほかはないと宣言された時の妻の落ち込み方は半端じゃなかった。


「あなたは本当は男の子が欲しかったのよね」

渡辺が妻が自分の部屋にこもってこっそりかわいらしい女の子用の服を作っていることに気が付いていたように、妻は夫がガレージで古いバットやグローブに磨きをかけていることに気が付いていたのだ。妻は泣きながらも気丈に言った。

「あなたの精子はまだ大丈夫なのよ。他の女性の卵子で子供を創れるわ」

「俺は君との子供が欲しかったんだ。浮気じゃあるまいし、他の女性の子供なんて欲しくない。子供がいなくても君が俺の大切な人生パートナーであることになんら変わりはない」


 二人は待ち望んだ子供をあきらめた。仕事に打ち込むことで心の隙間を塞げた渡辺と違い、裕福な家で叶わぬ願などない状況で育った妻はショックで泣き続け、体重が十キロ減った。

今や社会事業という自分の打ち込む道を見つけて立ち直り、健康を取り戻したが、一時は本気で入院を検討したほどだった。妻との間に妻の待ち望んだ女の子が生まれていたらこの位の年頃か。ジュリエット、必ず助けてやるからな。


 渡辺は剛田に指示を出した。

「都内にある篠崎病院の財務状況を調べてくれ。個人でやるにしては大きすぎる。特に調べるべきは、入金先だ。患者とのリストも照合して欲しい」

「了解」

内線電話を切ると聞き耳を立てていた二課の面々が剛田を取り囲んだ。

「俺達も手伝わせろ。あれは藤堂課長の近親者だったんだな?」


 剛田はどうしても合点がいかなかった。あの不明少女が藤堂課長の近親者だというのなら、率直にそう言えばいいのに。別に機密をべらべらしゃべったりしない。署員の家族が事件に巻き込まれたことは以前にもあった。そんな時もいつもどおり最善を尽くした捜査をするだけだ。渡辺は何か隠している。いつも何でも包み隠さず話し合ってきたのになんだか様子が変だった。


 剛田は狭苦しい2DKの家族用官舎に戻った。妻子は夕食を終え、三人の息子はダイニングキッチンの食卓テーブルで勉強し、妻の恵子は皿を洗っていた。上の二人は年子で、二人とも大学生。一人は宇宙物理学、一人は分子応用化学を専攻している。二人ともとても優秀で、博士号取得を目指しており、大学の実験室に深夜まで籠ったり、泊まり込んだりすることもあり、久しぶりにみかけた。たまに家にいるとこの食卓テーブルでパソコンを使い、論文を書いている。記号が多すぎて、剛田にはもはやそのテーマが高等物理だか高等化学だか高等数学だかまるでわからない。二人とも子供時代はかわいい丸顔だったというのに、今や驚くほど顔がイースター島の巨石像と似ている。はっきり言って剛田とそっくりになってしまったのである。

神には慈悲ってもんが無いのかい? 性格がハードでも顔はかわいい妻に一ミリも似ていないってどういうこと?


「おまえら、少しは進化しろよ。こともあろうに顔が俺と似るとはね」

二人の息子はニッと笑って口々に軽口をたたいた。

「俺達は進化形だよ。キャンパスでかわいい女の子を見かけたからって、動物の雄みたいな唸り声あげて襲いかかったりしないよ。ちゃんと後先のことを考えてます」

「結婚したのはちゃんとお母さんに交際を申し込んだ後の話だし、襲ったわけじゃねえ」

高度な専門職に就くほど給与も高額になるから、学生結婚など信じられない。今の時代の常識だ。無論、剛田が学生だった頃だって、晩婚があたりまえで、学生結婚など稀だった。

「警察に住居手当がなくてもこの道選んでた? 司法試験に備えてた法学部さん?」

「妻子が養えないで正義もへったくりもあるか」


 息子達は両親が中絶という選択肢を採らなかったことに感謝していた。父親はもう少しで手が届きそうだったキャリアを棒に振って、結婚を選び、生活のための仕事を選んだ。母ときたら、苦労知らずの箱入り娘として育った上に、大学に入学したばかりだというのに男の愛だけを頼りに、生きる技術を何も持たずに嵐のような不況社会に飛び出してしまったのだ。そして父親はどんなに生活が苦しくても、母子と繋いだその手を決して離さなかった。自分達には恐ろしくてそんなまねはとてもできない。そして秘かに自分のキャリアを棒に振ってもいいと思うような相手に自分はまだめぐり逢っていないことに、感謝してたし、少し淋しくも思っていた。


「お父さんはどんなど不況の最中でも、中絶を口にしたことは一度もなかったし、職業を危うくしても、親友を守ったわ。私はそういうところを高く買ってるの」

恵子は腰に手を当て、剛田家の男達に言った。黒い大きな瞳がショートカットの黒髪によく似合う。学生結婚だったので、まだ若く、とても大学生の息子がいるようにはみえない。今だに生意気な女学生といった感じだ。会うたびに喧嘩して、派手に仲直りして、妊娠に驚き、二人は結婚した。


 恵子の両親は、片親で奨学金で大学に通う剛田との結婚に猛反対して、娘を勘当した。送金を打ち切られ、子供も生まれ、彼女は大学を中退せざるを得なかった。二人目の息子が生まれたのは警官一年目で、まだ奨学金の返済に追われており、やはり貧しかったが、二人は中絶を考えたことは一度もなく、家族が増えたことを喜んだ。もちろん、まったくの予想外に三人目の子供を授かった時もである。


 三人目はとんでもなく年が離れており、まだ三才である。この子だけは顔立ちが妻に似てかわいい。みんなついついこの小さな末っ子をかわいがってしまう。

2DK、二つしかない個室を五人でいかにして分けるか。

上の二人の息子は生まれた時から一つの部屋を分け合ってきた。個室を欲しがった時もあったけど、無い袖は振れないと言うと納得した。今や忙し過ぎて研究室の床で寝たりしてる。今日は会議室で寝られるから絨毯が敷いてあるから少しは寝心地がいいなんて言っていたりする。寝られりゃどこでもいいのか。渡辺もそうだったが理系の人間とはそいうものなのだろう。二人の息子は母親の手作り料理が食べたくなると示し合せて帰ってくる。


 もう一つの部屋は夫婦の寝室。狭いながらもしっぽりしていて、剛田は気に入っていたのだが、予期せぬ赤ん坊が誕生し、ベビーベットをここに入れた。

ダイニングに置くのはあんまりだし、息子達の部屋は、ここに入れていいと言ってくれたが、パソコン機器の配線がすごすぎて万一出火でもしたら大変だった。

ベビーはとてもかわいらしいが、ベビーベットがいらなくなっても、口をとがらせてさも当然のように

「僕はママに本を読んでもらって一緒に寝るから」

 というから、逆らえない。

「気が散るからパパは入ってきちゃダメ」とも言う。時間をもてあまし、一人淋しくダイニングで酒など飲んでいると、通りすがりの息子が、クスクス笑ってよせばいいのにもう一人の息子をひっぱってきて二人で笑う。

「僕もママと一緒に寝たいって言ってみれば?」


 いつもの平和な食後の光景だ。彼は上着を椅子にかけ、恵子の隣に立つと皿を拭いた。結婚依頼ずっと続けている彼にもできる手伝いだ。剛田が考え事をしているようなので、皆、無言でそれぞれの作業に没頭した。末っ子は論文を書く兄達を真似、黙って文字の練習をしていた。


「なあ、俺のシャツに手を置いて見てくれよ。こんな風に両手を」

彼女は手を拭いて両手を彼の胸のあたりに置いた。

「こう?」

何が起きるのか見守っていた子供達が、ヒューヒューと囃したてた。

「して、何を考えた?」

「そうね、この白シャツにアホみたいにソースやケチャップを跳ね飛ばしてないでしょうね? とか」

「まあ、そうだろうな。じゃあ、お前ぐらいの背丈の一七才の小娘が、金がなくても身長一八〇センチのハンサムな若い男を前にしてたら?」

彼は自分の頭上にこの辺だと、手を置いた。彼女の瞳がいたずらっ子のようにきらっと輝き、彼の胸をポンと叩き、笑いながら言った。

「ばかね、背伸びして彼の首に手を回せば、キスができるかしら、よ。私達が出会った頃とたいして変わらないじゃないの」

子供達が、再びヒューヒューと囃したてた。

「ぼくも弟がほしいよう」

幼児用の椅子で脚をばたつかせ、末の息子が言った。

プランク定数? ハミルトニアン演算子? 兄達の会話は難しすぎて訳がわからない。時に両親もだ。同じ年頃の仲間が欲しいのだ。

「私を見て。どこか違うと思わない?」

彼女はミュージカルスターのように両手を広げた。ほっそりしていて子供をうんだようにはとても見えない。女学生だった頃と変わらないように見える。

「さてね、ついに双子を授かったとか?」

「ばかね、私もついに学士様になったの。通信授業をずっと受講してて、ついに卒業証書をもらったの」

「おめでとう、ああ、本当に、おめでとう」

今度こそしっかり抱きしめ、昔、子供達にしたようにくるくる回した。

 長い青春の戦いが一段落し、肩の荷が下りた気がした。出会った時、剛田は学部学生で二十一、彼女は飛び級していて生意気盛りの一七だった。未成年だ。箱入り娘として大事に育てていた両親が怒り狂い、剛田を訴えると息巻き、彼女が泣きながらそれを止めた。私を犯罪者の妻にするつもり? 生まれてくる子を犯罪者の子にするつもり? 妻の両親とは今だに口をきいたことはない。一人娘を盗られた怨念は孫がもうじき成人する年齢になっても、おさまらないものらしい。無謀な青二才だった。剛田は妻を下ろした。


「そういや、村瀬も二十一。大変だ。あいつの暴走をとめなきゃ! あいつ今頃やばっぽい病院に行ってるかも!」

「どうしたの? あなたどこへいくの?」

「新入りが、らしくもなく定時ですっと帰ったんだ。まず確認を取らないと」

村瀬に携帯をかけるが、電源が入っていませんとのアナウンスが流れた。非常事態発生用に電源を切ってはならないことになっている。

「あのバカ! 二十一の俺が怪しい組織に君を拉致されたら、警察に止めろと言われても、居てもたってもいられなくて、無謀を承知で、助けに行ってしまうと思わないか?」


 夕闇迫る篠崎病院の入院患者フロアを村瀬は赤いバラの花束を抱えて歩いていた。

膨大な仕事量を割り振られており、残業必至だというのに、五時の終業チャイムと共に飛び出してきたから、新任の金田課長にギロっと睨まれた。二課の面々は気づかないふりをしてくれた。


 病院の受付の女性は、スーツ姿で赤いバラの花束を抱えて駆け込んできた若い男を見て、笑って入れてくれた。どうみても社会人一年生の恋人のお見舞い姿だ。

「本当はお見舞いは四時までなのよ。早めに戻ってね」

「はい、すみません。これから気をつけます」


 上層階は植物状況の入院患者専用だった。病室はとてもクリーンに保たれていて、小学校の時に社会科見学で訪れたハイテク植物工場と同じような印象を受けた。とてもクリーンで、不自然なほど何も匂いがない。皆、穏やかな顔で眠っているようだ。


 フィンランドからの移民一代目の祖父が死に際に、高校生になっていた村瀬に、

「おばあちゃんとママを頼んだよ。オーロラを見たら私を思い出しておくれ」

と言ったのを思い出す。やはり、このような穏やかな、微笑むような顔で家族に見守られて眠るように逝った。


 藤堂がいないことを確認して、どんどん下のフロアへ下りて行った。中層以下は普通に意識のある人たちの入院フロアで、話し声がし、まだ、お見舞いに来ている人達もちらほら残っていたりして、バラを抱えた村瀬を見かけると、にやっと笑い、

「よお、兄さん、この六人部屋は男性専用だよ」

「おじいさん、下品な言葉を口走ったら来てあげませんからね。もう帰らなきゃ、時間過ぎちゃったわ」

みんな退屈していて協力的だった。藤堂課長のスーツ姿の写真とこの度のティーンエイジャー姿の両方の写真を見せたのだが、、

「どっちも美人だね。残念だけどいないねえ」

「看護士や女医にも、いないね」

「お見舞いに来た人の中にもこの子はいない。こんな美人やかわいい子、来たら絶対覚えているね」

 この近代的な棟に彼女はいなかった。


 独身寮の遊び人、小林は他人の部屋を管理人に開けさせる言い訳を百は知っていたが、手っ取り早く正直に言った。時間を無駄にしている場合ではない。

「緊急電話が通じないんですが、住民が部屋で倒れていないか確かめさせて下さい」

 狭いワンルームは整頓されていて、村瀬が不在と一目で分かった。俺も見習うべきだろう。色とりどりの衣類をまき散らした中で倒れていたら、救急隊員に不在と間違われ引き返されてしまうかもしれない。ここで倒れていないということは、村瀬の行き先はあそこしかない。 やっちまったか。


 鑑識室長の渡辺と二課の面々はワゴン車の中に集合し、病院の見取り図を拡げた。

夜間行動に備え、全員動きやすい黒い服だ。渡辺はSATで使う夜間作業用のサーチライトとマイク型無線を準備しており、使い方を説明して配った。


 二課の仕事は財務諸表や申告書類の数字をパソコンでチェックするデスクワークだけだから、慣れぬマイク型無線なぞして、興奮でハイになり、目をらんらんと輝かせていた。


 さっそく病院の見取り図を見て

「病院の敷地には新築の棟と、古い棟があるじゃないか。あいつどっちへ行ったかね」

「臓器の取り出し手術は、設備の新しい新築の方でやるんじゃないか?」

渡辺がプロファイラーらしく言った。

「いいや、旧館だと思う。内蔵を売る立場になるんだ。臓器は鮮度が命。何月何日何時の受け渡しで、心臓何個、腎臓何個というオン・デマンド方式だ。新館は人の出入りが多すぎる。目撃者を最小限にするため、人の出入りの少ない旧館で摘出し、冷蔵保存容器に入れて、脚のつかぬよう、車でキャッシュで受け渡し。幹線道路に近いしね。それに手術と言っても取り出すだけだ。治療目的の数時間かかる難しい脳や心臓の手術をするわけではない。いつ死んでも不思議でない患者がついに亡くなりましたというだけだから、時間もそんなにかからない」

「なるほどね。それでいつも植物状況の入院患者が多いんだ。政府は寝たきり防止のための早期退院報奨金を出しているから、どんどん退院させた方が得なのに変だと思った」

「おお、やだやだ、脳死してても延命装置で呼吸と血液循環を維持して臓器の培養床にしてるんだ。それで必要な時にプラグを抜いて収穫するんだ」

「遺族は葬式用に遺体を引き取るけど、手術痕を開いて内臓の数が合ってるかなんて、決して確かめないからな」

「それじゃ旧館を分担して調べる。入口までは私と一緒だ。私が鑑識特製の万能キーと万能暗証コードで入口を開ける。七階建で、七人、一人一フロアということで。この病院近くのファミレスの駐車場にこの車を停める。そこで一二時に再集合でいいな?」

「おう」


 普段デスクワークのメンバーだが、やる気満々、スパイ気分だ。

ワゴン車は運転に慣れている小林が運転した。小林の一年上の佐藤は妻、母、姑共に学校教師なのだが、目を輝かせ、

「警察に入った時からこういうことを一度はやってみたかった。このミッションを成功させたら、俺たちゃ007だぜ」


 渡辺は夜間スパイ活動など一度としてしたことのない二課の面々に不安を感じた。情報漏洩がなんだ? SATか、せめて捜査一課に声をかけるべきだった。いやだめだ。連中を動かすには正式な許可と手続きに時間がかかる。秘密捜査官を不明少女で通すには人が介在しすぎる。やはり、自分達から捜査協力と守秘義務を申し出たこの連中を使うのが早い。


 藤堂課長は特殊訓練を受けている。いざって時も粘りを見せるだろう。だが、恋人が拉致されたと信じている村瀬は男性ホルモンが逆流して冷静さを欠いている。骨まで焦げるようなことになっても不思議ではない。一刻を争う。


「みんな、確認するぞ。この犯罪者達は商人だ。普通なら若い二人をキープしておき、老人の臓器を先に売りたいと思うはずだ。だが、へたに抵抗したため殺されて、二人のうちのどちらか、あるいは両方、臓器だけのお姿になっているかもしれん。保冷容器に入っていても外箱に臓器名の他に、日付けと血液型は必ず表記されてるはずだから、ラベルをよく見て。村瀬はO型RH+、少女のは珍しいから高額取引されるAB型RH-だ。本日と昨日の日付のものを選んで。証拠になるから必ず夜間専用写真で撮ってから持ち出すように」

「おうっ」


 小林は三階を受け持っていた。一番奥の最後の部屋である。鍵がかかっていない。はずれかな? そっと扉を開ける。

懐中電灯で照らしてみると、表本棚があり、ずらっとホルマリン漬けの臓器が並んでいた。

「うわわ! 村瀬! もうこのようなお姿に!」

「その声、小林先輩?」

「む、村瀬か?」

「なんでここに? 潜入捜査ですか?」

窓辺のカーテンが動き、村瀬が出てきた。

「お前を探しに来たんだ、このアホ、あーびっくりした、もう、ビン詰めになっちまったのかと思ったじゃねーか」

「僕、心臓五つもありませんよ」

心臓ばかり五つ並んでる。やけに肥大してたり変形してたりしてる。

「不良品サンプル置き場かよ。例の少女は見つかったのか? お前どこから来た?」

「一階から順番に上がってきたんです。新築病棟にはいませんでした」

「仲間に連絡しよう」


 無線を作動させ、村瀬無事発見と、四階より上の階にいる可能性が高いと告げると、最上階の7階の一番奥から人の声がすると連絡があった。渡辺から指令が出た。


「全員が七階に行くのは危険だ。逃げられるやもしれんから由井と剛田は一階入り口、岡田、佐藤は一つ下の六階で待機、状況を見てから加勢しろ。私と村瀬、小林、加藤が七階だ。乱闘になりながらの証拠集めになるやもしれん。私の指示をよく聞け。由井と剛田は万一の落下に備え、マットレスを探して下に敷く作業も頼む。気をつけろ」


 二課は若い村瀬と小林、新婚で、妻に嫌われたくない一心で体を鍛えていた加藤を除けば、デスクワークの人間特有の体格で、格闘に全然むいてないのは一目瞭然である。剛田は自分より一年後輩なだけの由井に、

「俺達は戦力外通達かよ。年寄り扱いはひどくねえか?」

背がひょろ高く痩せており、頭脳に神経が巻き付いた火星人を思わせる由井は、もちろんペンより重い物を持ってる姿が想像できない。冷静で温厚な彼は良き家庭人で、音大付属小学校へ通う女の子のパパである。

「年よりの知恵を期待されたんですよ。物置にしちゃがらんどうの部屋が多かったじゃないですか。電話一本でレンタル屋でベットマット多数とサーカスなんかで使ってるセイフティネットを頼むのはどうです? それで配送員にセッティングまで頼むんです。その方が安全、確実、スピーディだと思いませんか?」

「その通りだ。うちの息子のベビーベット借りる時、仲良くなったレンタル屋がいるんだ。業務に明るいし、顔も広い。やつの支店で扱ってなくても、こっちの指定した時間までに何とかするはずだ」


七階の四人、村瀬、小林、加藤、渡辺はドア前に揃った。急襲は一気にやらねば意味はない。ドカっとドアを蹴破ると後ろからどどどと押され、人数が増加した。正義感に火がついた六階待機組のムーミン岡田と佐藤が我慢できずに同時に押し寄せてきたのだ。


「これだからど素人は! 待てと言っただろ! 互いを傷つけないよう気をつけろ」

渡辺がどなっても、みんな聞いちゃいなかった。狭い部屋でのど素人の大乱闘は危険が増すのだ。狭い部屋で互いに壁や棚に体をぶつけながらイモ洗いのような乱闘だ。銃などどうせ使いなれてないからと、市販の痴漢撃退電気グッズを持たせていたのが役立った。あっちでびりびり、こっちでびりびり、火花が散っている。

「娘を拉致するようなやつはこうだ!」

怒れるムーミン、お前だな我慢できなかったのは!


 村瀬は椅子に縛られ、ぐったりしている少女にかけ寄った。顔が見慣れぬ金髪で隠れていても全体のシルエットですぐに誰だか分かった。

「藤堂課長!しっかりして」

ひもが固く、万能カッターで切る。彼女は意識が朦朧としていた。化粧をしていないせいか、いつもよりずっとあどけなく見えた。腕に注射針のあとが沢山あった。

「床に落ちているペン」

消え入りそうな声で言った。

「証拠がペンに。床よ」

ペン型レコーダーかカメラの類だろうが、人が多すぎてすぐには見つからない。

院長の篠崎が液体燃料をまき始めた。

「証拠もろともおまえらみんな焼き払ってやる」

渡辺は篠崎の襟首を掴み、ばしばしと両頬を殴り、

「証拠を出せ!」

と吠えるように言った。篠崎の手の液体燃料入りの瓶が倒れ、床にトクトクと流れた。

いつも温和な学者然としている渡辺ではなく、怒れるヒグマと化していた。

「ペンの中だそうです。床に落ちてるって」

村瀬が叫ぶと

「それじゃないんだ、その証拠じゃないんだ!こいつしか知らない」

篠崎は、にやついて、吐かない。

「ええ、くそっ、どこだ?」

篠崎を捨て、渡辺が机をひっかきまわし、書類が散乱した。

「とにかく、早く逃げましょう。引火したら大変です」

「だめ、ペンよ、ぺんを拾って」

「あなたの命より大事なものなんてありません。後で拾いに行きます」

「だめ、だめなの、私はミッションを片づけないと、私の命なんて無意味なの」

「無意味な命なんてありません、そんなこというと僕がもらっちゃいますよ」

気を失う寸前、彼女は微笑んだように見えた。


 村瀬は床に這いつくばってペンを探した。篠崎が最初に座っていた机の下にあった。うまい隠し場所だ。捕まりそうになって彼女が咄嗟にここに転がしたのだろう。急いでシャツの胸ポケットに刺すと、篠崎のどなり声が聞こえた。


「彼らの人格はもう消失してるんだ。有効に臓器を使って何が悪い?」

村瀬の脳裏に祖父と同様の穏やかな寝顔の老人達の姿が浮かんだ

「彼らにも人格も家族もあるんだ。勝手に盗っていいわけないだろ!」

 顔面を殴りつけると、渡辺が篠崎に手錠を掛けた。

急いで彼女の所に引き返したとたん、誰かが電撃銃を使った。渡辺がどなった。

「うわ、ばか、今それを使ったら!」

篠崎の撒いた液体燃料に引火して部屋が爆発し、色んなものが飛んできた。

村瀬は咄嗟に彼女をかばったが、何かの破片が彼の背中に突き刺さった。


 ほぼ全員が窓から飛び出した。そして、途中階のセイフティネットに引っ掛かったが、定員オーバーで中央からびりびり破け、ぼたぼたと下のマットレスに落ちたが、掠り傷ですんだ。

無傷の一階待機チームが待ってましたと加わり、犯罪者達に手錠を掛けて回った。

七階に残った村瀬が一階の連中に窓辺で叫んだ。


「室長と篠崎がまだ中です。あと、課長も動けない状態です」

階段は燃えていて使えなかった。昔の建物なので今では貴重な木材が内装に使われていて、メラメラと火の勢いが増していた。内側は通れない。セイフティネットは大きく破れ、マットレスに火の粉がついて燃え始めていた。仲間が必死で消火器を使っているが間に合わない。

消防車のサイレンは遠い。なぜか消防車より早くテレビ局が来ている。備え付けの非常用ロープで、壁をつたって降りるしかなかった。


 落ち着け、俺はこの日のために山岳救助のバイトで鍛えまくったんだ。

むき出しの重量鉄骨の骨組みにロープを巻き付け、もう一方の端を藤堂の腰に巻きつけた。

これで万一自分が落下しても、彼女は途中でぶるさがる。

「室長、先におりますよ」

 渡辺は足元で倒れている篠崎に目もくれず、書類をあさっていた。


 村瀬は両脚で壁をそっと蹴りながら、慎重に急いだ。火でロープが切れるまでにせめて二階の高さまで降りておきたかった。手が摩擦で火傷しそうだった。

再び爆発が起き、渡辺と篠崎が降ってきた。

彼は左手でロープ、右手で渡辺の手を取った。藤堂は腰のロープでぶる下がっていた。渡辺と篠崎は手錠で繋がっておりすごい重量に腕が抜けそうになり、彼は悲鳴を上げたが、手は離さなかった。

「手を離せ」

「まだ三階です。危険すぎます」

「三人は無理だ」

 渡辺は気を失っている少女に言った。

「真由、お父さん手を離すけど、うちを訪ねて。その家にいる人をママってよんであげて」

「室長!」

 彼は腕をふりほどくと無言で落ちて行った。大した音はしなかった。

「室長―!」

 見ると、燃えているネットやマットは撤去され、小さくてカラフルなベビー用布団が花の様に幾重にも重ねられた中央に、篠崎と手錠で連結した室長が、一直線に吸い寄せられて、ワンバウンドして周囲を取り囲む大勢の男達に助けられていた。男達はテレビCMで誰もが知っているレンタル会社のロゴ入り作業着姿だった。なんでこんなにたくさんのレンタル屋さんがいるのかわからないが、とにかく助かった。村瀬はしっかりロープを握り、そっと気を失っている藤堂をおろした。なんて可憐できゃしゃなんだ。


 剛田は自分の知り合いのレンタル業者の営業マン一人に電話しただけだったのだが、

「了解した。俺達も参加させろ。未来の果てまで他人の借物商品を運ぶだけの人生なんて冗談じゃねえ。人生一度くらいヒーローになってみたかったんだ!」


 普段の営業用の丁寧口調はどこかに行って、本音を吐いていた。酒を飲んでいたのか。

彼の隣で酒を飲んでいたのは経理部の同期だった。隣で電話を聞いていた彼は

「よお、商品にゃ保険がかかっているが、これは通常の使い方じゃない。ひょっとして保険屋が支払いを拒否するかもしれん。念のため、会社の宣伝行為にはなっていると上に言い訳できるように、会社のロゴ入り作業着で行った方がいいよ。俺はテレビ局に電話しておく。一五秒もロゴが映れば三〇〇万円の宣伝効果があるから、それで元が取れてるって、俺が上に言ってやるよ」


「俺もヒーローになるんだああ! 」

レンタル会社の男達は営業車両にネットとマットの他にも、役に立つと思われたベビー布団を満載した。昨今の超少子化で在庫は大量にある。近道、抜け道もよく知っている彼らは、幹線道路の渋滞の中をサイレンで車をどけながら進む消防車両を追い抜き、先に現場について作業を始めたのだ。TV視聴率ナンバーワンのチャンネルセブンも早かった。隠密行動は全国生中継された。


警察病院は人であふれていた。

「皆、なんで僕を見てウギャーって言うの?」

「ウギャーッ、バカ! こっちへ来るな! お前はもう死んでいる!」


 小林は村瀬を見て飛び退いた。夜勤看護士達も次々通路を飛び退く。村瀬は不安になり、ズボンの前を見た。大丈夫。渡辺室長はただの打ち身、あこがれの藤堂課長ときたら、かすり傷ひとつなかったっていうじゃないか、ああ、よかった。救急隊員が村瀬にワゴンベットを大急ぎで寄せた。

「ワゴンベットにうつ伏せで乗れ!」

「ER特別手術室へ直行!」

「大げさな! 僕は一人で歩いて行けますよ」

「問答無用!」

 血管ブチ切れそうな救急隊員に怒鳴られ、最後の救急車にうつ伏せで乗せられた。

彼の姿を見てマスコミ連中がウギャーと叫びながら眩しいほどフラッシュを光らせ、撮影しまくった。僕みたいなペーペー撮ってもどうしようもないのに、皆、何やっているんだろう?

 生まれて初めて救急車なんて大げさなものに乗ってしまった。


 知らぬは本人ばかりなり。村瀬の背中には巨大なガラス片と木片が恐竜の背びれみたいに突き刺さっおり、ペラペラした薄い化学繊維でできた安物のスーツは、突き刺さった破片からワイシャツごと左右に真っ二つに裂け、腰のベルトからデロリンと先の割れたマントのようにぶるさがっていたのだ。その姿たるや、背面から杭を打たれたドラキュラだった。大事故の患者を見慣れている看護士達ですら、村瀬の姿に恐怖で飛びのいた。病院で先に手当てを受けていた二課の面々は消毒薬で済み、既に帰宅していた。


 ERの特別手術室は宇宙船の内部みたいにハイテク機器が揃っており、多数の看護士に囲まれ、医師が待ち受けていた。昼以上に明るい照明で、医師は夜だとゆうのにサングラスをして偉そうにふんぞりかえって立っていた。胸のネームプレートにDR神とある。異常なオーラを発しているみたいで何か怖い。

「やっと来たか、つける薬のないドラキュラめ」

「え、誰のことですか?」


 医師は村瀬をうつぶせにベットに寝かせると、サングラスを外し、透明な手術用眼鏡に切り替えた。ものすごいデカ目の釣り目で、サングラスの方が怖くなかった。着ていたシャツをメスで裂き、背後のゴミ箱に投げ捨て、モニターを見ながら、アンドロメダ星雲の塵まで見渡せそうな巨大レンズを傷口に近づけた。


「なんだよ、やっと私の出番が来たと思ったのに、筋骨たくまし過ぎて、肺や心臓に刺さっていないじゃないか。破片の細かい飛び散りもない。神経も無事。おまけに健康ピチピチすぎて血も止まって来ているじゃないか」

別のモニターを素早くチェックし、

「免疫力ありすぎ。消毒薬もいらないくらいじゃないか。君たち帰ってよし」

看護師達はほっと溜息をつき、部屋を出て行ってしまった。気まずい沈黙が漂う。

「褒めてくれたんですよね?」

「天はこの私にこんな底の浅い傷を三〇〇針も縫えとおっしゃるのですかっ!」

村瀬の手足をガシャンと固定具でつなぐと、ガラスと木片を素早く抜き去り、すごいスピードで消毒と部分麻酔と縫合をほとんど同時に始めた。

「神がこれを新橋駅にしろと言っておられる。昔遺棄された銀座線の新橋駅、ゆりかもめの連絡通路、浜松町へむかう山手線、途中まで並行して走る京浜東北線、浜松町から羽田に向かう東京モノレール」

「せ、先生、ちょっと待って! 僕の背中で何を縫っているんですかああ!」

 村瀬はベットに手足を拘束器具で固定されており、逃げようにも逃げられない。外科医は村瀬の恐怖の疑問を無視し、手早く皮膚の縫合をすませた。


 ERの神としてサミット同行の御殿医も務める彼は、TV取材の中で、鉄オタの神、アメリカでの修行時代にはアニメキャラをぬいつけていたのでアニオタの神と言われていた。どういうデザインになるかはその時の傷の形による。患者のその後の人生など微塵も顧みない天才中の天才である。夜中に大量の負傷者発生の緊急招集で叩き起されて出てきた彼は、重傷者待ちの時間に飲んだコーヒーですっかりハイになっており、うれしそうに、うひっ、うひっ、と笑い、村瀬の固定具を外した後も、すぐには解放しなかった。勢い余ってまだ縫いたりないのである

「最近大きな事故もないしさ」

「いいことなんじゃないですか?」

「私の得意技は地下五階まである都営新宿線心臓周り、膀胱周りのトンネルなんかもいけるがね」

「もう、大丈夫です。ありがとうございました。失礼します」

村瀬はベットから飛び降り、上着を探した。無い。医師は鞭のように鋭い動きで村瀬のズボンに飛びついた。

「そこは結構です! 絶対怪我してません!」

 村瀬はあわててズボンを押さえた。煙を吸ったせいか、声がしゃがれていた。

医師は残念そうに手を離すと、

「煙を吸って、声がエルトン・ジョンみたいだ。普段の声はポール・スチュワートと似てるんじゃないか?」

 じりじりと医師が迫り、村瀬はじりじりと後ずさった。ネームプレートのDR神の文字が手術室の強い光で反射してまぶしい。まさかここが天国? 違う。お祖父ちゃんやお祖母ちゃん、パパがいないわけがない。僕の愛用の化学雑巾上着はどこ? あの火事で燃えたのか? 

「もう終電も行ってしまったし、タクシーも走ってない。病院に一泊していかないか? 

くそまずいが、朝食も付く」

「いえ、何が何でも帰ります」

 身を翻し、ベット脇の籠に入れてあった入院患者用の検査着を掴むと廊下に飛び出した。待合室に駆け込むと、帰りかけていた看護師達に小林が片端から声を掛けていた。筋肉質の村瀬を見て看護師達がキャーと喜びと興奮の悲鳴をあげた。慌てて検査着を着ようとして鏡に縫合したての背中が映った。

「ひいっ! 地図!」

「無礼な! それはアート作品だ。もっとあれこれ突き刺さっておればグーグルアースみたいに山脈つきの鳥瞰図にしてやれたのに」


 ドクター神が来ると、看護師達は本物の恐怖の悲鳴を上げながらも転ばぬよう気をつけながら一人残らず逃げ去った。後には懲りもせず看護士達を口説いていた小林と、祭りの後の静けさが残った。村瀬はしみじみと傷跡を見た。文字まで入っている。へえ、廃棄された新橋駅は昔は新橋ステンションって言ってたのか。瞬時にこれだけのことを成し得るとは大した技量だが、ペーペーの背中にしては迫力ありすぎである。これで公衆浴場、プールの類は一生入れないことは間違いない。すごすぎる、この背中!


「あの、僕、女の子の手も握ったことないのに、こんな凶状持ちみたいな体に?」

神はしゅんとした村瀬を上から下までCTスキャンの眼差しで見た。思春期外来は専門外だが、若い男が一度は経験する青くて傷つきやすいデリケートな時期にいると察した。ここを乗り越えられないと一生独身を選ぶかもしれない。超高齢化、超少子化進む昨今、ここでこの若者を救わなければ年金受給資格をはく奪されるというものだ。


「え、御冗談、君ならセクシーダイナマイツとか呼ばれて、キャンパスクイーンとだってデートできただろ? このゴージャスボディと甘いマスクでビーチを歩けば、女の子達が抱えきれないほど飛び込んできて、ハーレムの王様みたいに無分別な愛の行為もやり放題」

わざと元気づけるように明るく言う。

「僕、ビーチなんて一度も行ったことないし、夏休みは山岳救助のバイトしてたけど、僕の出動日に女性ハイカーが遭難することはなく、男だけを救助する人生でした。キャンパスでは女の子達に笑われているような気がして話しかけることもできずに」

「何ですと?」


 ナンパに失敗した小林は、村瀬が縫い足りない医師にどこをどこまで縫われようと知ったことかと、先に帰ろうとしていたが、会話が耳に入り、ついつい耳をダンボにして聞いていた。

「バカモノ、青春を浪費しよって。俺たちの仕事はずっとパソコン相手で、女性と知り合う機会なんてないんだぞ! お前はその遠巻きにしてクスクス笑っている女の子の中から、一番タイプの女の子に、俺とデートしない?って言えばいいだけだったんだ、ばか、まぬけ、暗い青春送りよって。ネット紹介デートで当たりが出たためしはないんだぞ!」

めまいを感じたのは傷のせいだけではなかった。僕の今までの人生はなんだったんだろう?

もう少しだけ積極的に行動したら人生が驚くほど明るくなっていたってこと?

 成功とは失敗続きのすぐ隣にあったりするものなのだ。


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