第二話 荒れ狂う大蛇-3
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暖炉の薪はほぼ使い切られていて、そこに生木で作られた薪が入れられる。
雨に濡れた生木は、暖炉の熱を受けても焦げ目すらつかなかった。
リレックとライチェはミーテと共に暖炉のそばにいる。
シュペナートは村人を集め、ミーテに聞こえないように説明をしている。
説明の内容は事前に聞いている。
生木を燃やすのは非常に難しい魔術で術者の負担も大きい。
何度か失敗するし少し時間がかかる、黙って見ていてほしい。
本当かどうかは分からなかったが、村人たちは信じてくれたようだった。
「"灯れ炎よ、乾きし薪の如くに燃え、我らに温もりを"」
ミーテの詠唱によって現れた火は、
わずかに木の表面を焼いただけで消えてしまう。
これでもう五回目。
少女は今にも泣きそうになっていて、必死に堪えているのが分かる。
ちらちらと村人たちの方に視線が動いており、彼らに怯えていた。
火がつかなければ殺されてもおかしくはない。
こんな提案をしたリレックたちも含めて。
自分の魔術に五人の命がかかっている。
こんな恐怖の中で魔術を使った事などないだろう。
「落ち着いて、怯えるな。魔術に集中するんだ」
「何度やっても、火がつかないの……こんな濡れた木になんて……」
リレックを見る少女の目から涙がこぼれ出す。
村人たちには背を向けているので、それは見えていない。
「わたしみたいな動いて喋る案山子がいるくらいですし、
濡れた木だろうと燃えますよ!」
案山子の姿勢をとっておどけて見せ、ミーテを励ますライチェ。
しかし、少女の口は六回目の詠唱を始めようとせず、固く結ばれたまま。
ふと、少女の肩に手が置かれる。
小さな悲鳴を上げて身を縮めてしまうミーテ。
「もっと詠唱を長くしろ。力ある言葉を紡げばそれを意志に変えられる」
「でも! 濡れた木なんかが、燃えるわけない……」
心に限界が来ていたのか、
ミーテは肩に置かれたシュペナートの手を掴んで泣き出す。
魔術師は、その手を力強く握り返した。
「意志で世界を変えるのが魔術師だと言っただろう。
俺たちにとっては全てが可能な事だ。
これは自分にできる事だと信じろ。
できないかもしれないけどやるんじゃない、お前にはできるんだ。
魔術師の炎は、水の中だろうと消えない。
魔術師がそう信じ、意志によってそうしたいと願う限り」
リレックとライチェがよく聞かされた、シュペナートの魔術講釈。
普段と違うのは、それが酒の肴にしていたようなものでなく、
泣く少女のためのものである事。
シュペナートが手を離すと、ミーテは袖で涙を拭い再度暖炉に向き直る。
そして、再度の詠唱。今までの数倍近い長さのそれは歌にも似ていた。
「"乾きし薪の如くに燃え、我らに温もりを"ッ!」
はっきりとした少女の声と共に、暖炉に火が入った。
まるでただの薪が燃えているように白煙を全く出していない。
村人たちの感嘆の声が聞こえる。
ミーテはそれが聞こえていないかのように詠唱を続ける。
その姿を、シュペナートがどこか辛そうに見つめていた。
避難所で一夜を明かす。
窓から朝日が差し込み、雨が上がった事を知らせてくる。
リレックは眠らなかった。いや、できなかったというべきか。
村人も同じ気持ちだったようで、一睡もしなかった者が数人いた。
暖炉の前で火を絶やすまいと
夜通し詠唱を続けている少女を見て、眠る気にはなれなかった。
声はかすれ、目は虚ろ。強靭な意志の力だけで立っているような状態。
シュペナートに、ミーテには一切触れるなと言われている。
集中を乱すだけだから何もするなと。
日が昇る少し前、女性がシュペナートに食ってかかった事があった。
あれじゃ酷すぎる、あんたが代わりに火をつけられないのかと。
それに対する返事は冷酷の一言。
「薪を勝手に使った泥棒への罰だ」
リレックはその時、シュペナートが何をしたかったのかが、
はっきり分かった。
口籠る女性と、ばつが悪そうな村人たち。
一切休む事なく半日間、火を維持する少女。
償い。少女がこれ以上責められる事のないように。
ミーテが何を思っているのかは分からないが、
半日間も魔術を維持し続けた姿を見て、
責めようとする村人はいないようだった。
窓の方へと目をやり、朝日に目を細める。
その時、かすれた声が途切れ、激しい咳き込みへと変わる。
暖炉の火は幻のように一瞬で消え、ミーテがその場にうずくまる。
すぐに駆け寄ったリレックだが、そばにいたシュペナートの方が早かった。
シュペナートが癒しの魔術を使って少女の体を癒す。
ずっとこの時のために待機していたのだろう。
村人たちが口々に労いの言葉をかける。
それを聞いたミーテは申し訳なさそうに、
それでいてやり遂げた喜びの笑みを浮かべ、意識を失った。
避難所を出て、村へと帰る。
疲れ果てて眠っているミーテはリレックが背負い、朝日の中を歩く。
遠くから見た限りでは水は引いているように見える。
堤防は増設した部分が一部壊れていて、
そこから水が入ってきたのだと分かった。
歩いている途中、ライチェがきょろきょろと村人たちを見渡して言う。
「あれ? ミーテさんの父親はどこですか?」
村人たちと確認してみると、確かにあの男がいなかった。
薪を作る時は監視どころではなかったので、
恐らくその時に逃げたのだろう。娘を置き去りにして。
村人たちが激怒の声を上げる。
リレックも声こそ出さなかったが、怒りで体が震えた。
娘に罪を押し付けて、一人だけ逃げ出すなどと。
その怒りの中、ふと思った事があった。
もし、ツィブレがミーテのように償いをしたなら、自分は許しただろうか?
村長に殴られ、腫れた顔で畑を一人で直したのなら許せただろうか?
許さなかったかもしれない。
それでも、旅をしてまで殴りに行くなどという事はしなかっただろう。
奴が罪から逃げた。だからこそリレックは追うのだ。
***
避難所には力自慢の男二人が残る事となり、他の村人と共に村へと到着する。
地面はぬかるみ、不快な臭いが鼻をつく。
不幸中の幸いか、浸水は一階まででとどまっていた家がほとんどだった。
宿の二階も無事だったので疲れ切った体を休める事ができた。
村人たちは慣れた様子で床を掃除し、
汚れた家具を洗って元の場所に戻していた。
ゲシェムや村人たちはこれ以上仕事を持ってくる事はなく、
乗合馬車が来る日までのんびりとした日々を過ごした。
宿代がミーテも含めて無料になった事は、
水害に巻き込まれた中で唯一の収穫だったろうか。
報酬は予定通りの額しか貰えなかったので
収穫とは言い難いと、シュペナートが嘆いていた。
「……何となくそんな気がしてた。
薪を持ってきた時、お父さんの姿が見えなかったから」
父親に置き去りにされたミーテには包み隠さず全てを話した。
少女は悲しむでもなく、怒るでもなく、淡々と寂しそうに言った。
「大丈夫ですか?」
「心配してくれてありがとう、ライチェちゃん」
気丈に笑顔を見せるミーテだったが、無理をしているのは明らかだ。
「これでも旅人だから、いつか一人になるって覚悟はしてたんだ。
だから大丈夫だよ」
目的を違えて別れる事もあれば、死別する事もある。
普通の生活であっても起こりうる事だが、
基本的に根無し草の旅人にとって離別はより近しいものだ。
自分よりずっと幼い少女の覚悟を前にリレックは何も言えなかった。
日々を農民として生きてきたリレックには持ち得ぬ、
これから持たなければいけないもの。その重さで。
「あたしは火の魔術が使えるから、何とかやっていけると思うんだ。
問題はお父さんかな、あたしがいないと
火口箱さえまともに使えないのに。あはは……」
空元気で作られた笑顔は痛々しく、視線を下げて目を逸らしてしまう。
これ以上は声をかけられない。
リレックたちは結局のところ他人であり数日後には別れる。
少女にしてやれる事など殆どなく、そのような余裕や義務もない。
「どうせ馬車が来るまで暇だから、
オレたちにしてほしい事があったら気軽に言ってくれ」
「じゃあ、魔術の心得とかをもっと教えてほしいです」
「リレックやライチェは聞いてもくれないからな、
俺からお願いしたいくらいだよ」
おどけながら了承するシュペナート。
それを聞いたミーテの笑顔は少しだけ気力を取り戻したように見えた。
しかし、夜になって薄壁の向こうから聞こえたすすり泣き。
どれほどのクズであったとしても、少女にとっては父親だったのだ。
リレックたちにはこれ以上どうする事もできない。
後はミーテの問題なのだから。
それでも自分たちにできる事を考え、思いついた。それを二人に伝える。
「あの子がもしオレたちと一緒に行きたいって言ったら連れて行く。
いいよな?」
「ミーテがそれを望んだらな」
シュペナートの返事に、怪訝な顔をするライチェ。
「シュペさんが一番仲良くしてたと思ったんですけど、
一緒に行きたくないんですか?」
人を駄々っ子か何かのように言うなとばかりに、
シュペナートはライチェの額を指でつついた。
リレックもそう思っていたし、
多分賛成してくれるだろうと思っていただけに予想外だった。
「ミーテの意志を侮るな。
彼女は俺たちに縋らなくても魔術師として歩んでいけるよ。
まあ、ミーテが一緒に行きたいって言うのならそれでいい」
それだけ言うと、さっさと毛布をかぶり寝てしまうシュペナート。
ライチェは呆れ顔でそれを見ているが、
魔術師同士にしか分からない事もあるのだろう。
***
乗合馬車が村に到着する日。
ゲシェムに呼ばれ、リレックたちは川の近くに来ていた。
橋は流されており、代わりに簡素な吊り橋のようなものが架かっている。
あれだけ荒れ狂った大蛇は穏やかで、普通の川にしか見えない。
「あんた、最高の畑を作るって言ってたろ? 今の畑を見てほしいと思ってさ」
簡素な橋を恐る恐る渡ると、絶句する光景が広がっていた。
全てを飲み込む、というのが比喩ではない事を思い知る。
濁流が押し流し、畑は跡形もなくなっていた。
ゲシェムは、かつて自分の畑があった所へ棒を刺す。
「この辺りの土地が肥沃なのは、こうやって大蛇が土を持ってくるからなんだ。
最高の畑とは言い難いが、ナハル村を支える畑と川さ」
諦めと受け入れが混じった表情の理由。
全てを奪い尽くし、そして豊穣を与える川との共存。
水が近いのはいい事ばかりではないが、悪い事ばかりでもない。
荒野に作った畑も、何もかもが足りていなかったが水害だけはなかった。
ただよりよき場所に作るだけでは最高の畑にはならない。
当たり前の事に改めて気が付いた。
「ありがとう、ゲシェム。ナハル村で見たもの、忘れはしない」
「最高の畑、あんたたちならきっと作れるよ」
しっかりと握手を交わす、ゲシェムとリレック。
乗合馬車の到着を示す鐘が鳴る。リレックたちは畑を後にする。
橋の下では、ゆるゆると流れる川が
日向ぼっこをしているように、日の光できらめいていた。
「あたし、北の方へ行こうと思ってるんです」
乗合馬車の前でミーテははっきりと言った。
一緒に行かないかというリレックの提案に首を振って。
「もう大丈夫。あたしは自分の足で進んでいきたい。
意志によってそうしたいと願う限り、あたしの炎は何でもできるから」
照れ臭そうに笑うミーテ。空元気を出している事は一目瞭然だが、
その笑顔にははっきりとした意志を感じた。
あの夜にシュペナートの言った通りだった。
少女の意志は、心は、支えが必要なほど脆くなかった。
そんな彼女にシュペナートが魔導書の一冊を手渡す。
「大した事のない魔導書だが売れば路銀にはなる。
俺は全部覚えたからもう必要ないしな」
受け取れないと慌てるミーテに、強引に魔導書を渡すシュペナート。
困ったような表情をしていたが、根負けして大事そうに書を抱え込んだ。
そして、少女は真っ直ぐにリレックを見つめる。
はっきりとした意志を感じる瞳。故郷を出る時に別れた剣士に似ていた。
「あたし、叱られるまで野菜泥棒も、
薪を勝手に使うのも仕方ないって思いこもうとしてた。
でもそれじゃ駄目なんだよね。
必死に作った物を奪い取るなんて許される事じゃないもの」
ライチェが何度も頷く。案山子にとってそれは絶対の真理だ。
「だから、リレックさん。勇者を叱ってあげて」
潰された畑の復讐のため、罰を与えるために旅をしている。
叱る。村長一家がしなければいけなかった事をリレックがやる。
それは更生を信じ、愛をもって行わなければならない行為だ。
憎悪をもって拳を叩きつけるのか、更生を願って拳を叩きつけるのか。
迷いはあるが、どちらにせよやる事が同じなら、
断って少女との別れを嫌なものにはしたくない。
「ああ、分かった」
リレックの返事を聞き、ミーテは嬉しそうに微笑んだ。
そろそろ馬車が出発する。
リレックたちが馬車に乗り込むと、他の客は誰もいない貸し切り状態だった。
幌から顔を出すと、ミーテが大きく手を振っている。
馬車が動き出す。徐々に離れていくミーテは大きな声で叫ぶ。
「ありがとうございました! リレックさん、ライチェちゃん!
……お師匠様!」
姿が見えなくなるまで、少女はずっと手を振っていた。
「お師匠様ですって」
「名前が言いにくかっただけだろ」
にやにやしながら腕をくねくねと動かすライチェに背を向け、
照れ隠しにしか聞こえない事を言って寝転がるシュペナート。
復讐と最高の畑。色々と考えたい事はあるが、
馬車の旅は暇なものだ、時間は十分にある。
シュペナートとは反対側に寝転がるリレック。
真ん中の開いた場所を軽く叩く。
そこに笑顔のライチェが寝転がる。故郷の家ではよくこうして寝たものだ。
三人並んで頭を同じ方向に向けて寝ていると、
穏やかな川の流れが思い起こされた。
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『暖める者たち』
北方に居を構えるとされる魔術師の一団。
炎を破壊に使わず、
誰かを照らし暖めるために使ったという女魔術師がその始まりとされる。
彼女の姿に感銘を受けた魔術師たちが集い、
いつしか彼らはこの名で呼ばれるようになった。
孤独に凍える者たちに手を差し伸べ、その心身を暖め、癒す者たち。
苦しみの中で焚火を象ったシンボルを見たならば、
それこそが救いであるとまで語られるほどに。
開祖の女魔術師の力は凄まじいものであったとされ、
水の中で燃える炎を苦もなく操ったという。
彼女は師としても優れ、幾人もの優秀な魔術師を世に送り出している。
弟子たちは師を敬愛し、彼女の教えを胸に抱いて各々の人生を生きた。
雪山の村を雪崩が襲った時、
青い炎で雪崩を逸らし村を守った名も知られぬ魔術師。
焚火のシンボルをつけた彼の話がその村で語られている。
師がいつも語っている教えは、受け売りなのだと笑っていたらしい。
それでもその教えは、今の自分を形作ってくれているものなのだ。
村を守った魔術師はそう村人たちに話してくれたと伝わっている。
その教えと共に。
"魔術師にとっては全てが可能な事。自分にできる事だと信じなさい。
魔術師がそう信じ、意志によってそうしたいと願うなら、
炎は水の中だろうと消えない"。