第七話 貴種の責務-6
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後始末を任せて空き部屋に戻り、明日に備えて眠ろうとした時。
音を立てないように扉が開き、リーネアが顔を出す。
「もう寝ちゃった?」
「オレはまだ起きてるぞ」
寝床から這い出て彼女の前まで行く。
月明かりに照らされる顔は、少し残念そうだった。
「案山子ちゃんと魔術師殿は寝ちゃったのね。
晩酌に付き合って欲しいなって思ったんだけど」
嫁入り前の貴族令嬢が何をしているんだと言いそうになったが、
彼女にとって今日が最後の自由だという事を思い出した。
「オレだけでよければ、酔わない程度になら付き合うぜ」
「ふふ、嬉しい。それじゃ私の部屋に行きましょう。
お父様の酒蔵から持ってきた美味しいのがあるのよ」
リーネアは静かに眠るライチェとシュペナートを見つめる。
まるで二度と見る事がない大切なものを思い出に刻むように。
彼女が何を思っていたのか、その時のリレックにはわからなかった。
「目標達成を祝って、かんぱーい!」
高そうな葡萄酒が注がれた杯を掲げ、お互いに飲み干す。
貴族令嬢の部屋というには少々殺風景で、調度品の類もほとんどない。
日々を淡々と過ごし、ただ寝るだけの部屋。
部屋の主がもうすぐいなくなるからだと気付くのに、
そう時間はかからなかった。
「それじゃ、未来の旦那様の事を話してもらおうかな」
「二日程度の付き合いだから、そんなに詳しくはないぞ」
リレックはグアントに関する事をできるだけ客観的に話す。
彼の内面、心に抱えていたものについては話さなかった。
それを話すかどうか決めるのは夫婦の問題で、
リレックが口を挟むべき事柄ではない。
いい人だからきっと妻にもよくしてくれる、などの憶測交じりも避けた。
公人や私人としての評価と、
家庭人としての評価が必ずしも一致しない事は知っている。
グアントが妻や実子と奴隷たちを
どう区別して扱うのかなど分かりようがない。
「まあ、悪い人じゃない。顔はなぜか胡散臭い紳士風なんだが」
「聞く限りだと髭と髪型の所為ね。私がちゃんとした紳士に仕立ててあげるわ」
印象に残り過ぎた胡散臭さで話を締めると、
リーネアは二本の指ではさみを作って動かす。
彼女に髭を切られるグアントを想像して、申し訳ないと思いつつも笑った。
ふとリーネアが立ち上がり、側にあった小さな窓に手を掛ける。
寂しげに窓の外を眺める彼女は深窓の令嬢そのもので、美しさに息を飲んだ。
「私がここから出て自由になりたいって言ったら、連れ出してくれるかしら?」
茶化すような口調ではなく、真剣なもののように聞こえた。
リーネアは静かに続ける。
「物語なら定番じゃない。自由に憧れるお姫様が、勇士に連れ出してもらうって。
顔も知らない人と結婚させられるこんな場所より、
外の世界に憧れるのはいけない事かな」
リレックとは視線を合わさず、ただ窓の外を眺めているリーネア。
ごまかすのは優しさじゃないと言った彼女にだからこそ、
思った事をそのまま言った。
「理由は分からねえけど、窓から出ようなんて最初から考えてもいないよな」
わがままな悪戯っ子のようで、その実は聡明で誇り高い貴族令嬢。
彼女がその気になれば行きずりの旅人になど頼らなくても、
自力で自由を勝ち取っているはずだ。
その返事を聞いたリーネアは窓から視線を外し、
リレックを見てくすくすと笑った。
「勘違いしてオレが連れ出してやるなんて言ってたら、
部屋から即座に叩き出していたわ」
「聖火の前でもやられたが、試されるのはあんまり好きじゃねえぞ」
「ごめんなさい、癖になっちゃってるのよ。
それに、後先も考えてない適当を言う人には話したくない事だったから」
リーネアは自身のまぶたを撫でる。
本当に触れようとしているのはその先にある碧眼。
「私は貴族として生まれ、貴族の女として責務を果たす事を考えて生きてきた。
家族と違う青い目をしていようが、そんな事は関係ない。
ベンターナ家のために人生を捧げる覚悟はできている」
強い意志を感じさせる瞳。
それが真っ直ぐにリレックを射抜く。
「貴族……ベンターナ家の女に課された、一番の責務ってなんだと思う?」
首を振って答えとする。農民のリレックに分かる訳がない。
リーネアは両手を広げ、胸の前でその手を合わせた。
「婚姻で実家と嫁ぎ先、双方の家に利益を与える事よ。
嫁ぎ先が実家の不利にならないように誘導する。
嫁いだ先が自分たちを搾取するだけの女を送られたと思わないように尽くす」
リレックが漠然と夢想していた、
可愛い嫁さんとの慎ましやかな結婚生活とは何もかもが違う。
彼女の言葉はまるで戦場を駆ける者のようだ。
己の命すら駒として考えられる、極まった兵士の思考。
幼い頃からそうやって育てられた、定められた運命のようなもの。
「物語では逃げ出したり、色々あって好きな相手と結ばれたりで、
肯定はあまりされない生き方ね。
でも私にとって、この生き方以外を選ぶ事は責任からの逃避だった。
私が美味しい物を食べ、綺麗な服を着て、
昨日や今日みたいなわがまま放題をする権力を振るえるのは何故か。
それを考えたら虫が良すぎるもの」
貴族の娘として生まれたから。
今まで得てきた物の分、責任と義務を果たすだけ。
「青い目であろうと、嫁ぐ相手が貴族でなかろうとやる事は同じ。
生まれつき定められた運命だとしても、これは私が選んだ道。
誰にも否定させない」
誇り高く運命に定められた道を歩む令嬢を前に、
リレックは今の自分はどうなのかと考える。
勇者をぶん殴る復讐。最高の畑を探す。農民がやる事ではない。
彼女に言わせれば、リレックのやっている事は責務からの逃避なのだろうか。
「そんな顔しないで。貴方は私たちに慎ましやかな幸せをくれる人なんだから」
悩みが顔に出ていたのだろう。軽く首を振って気分を落ち着ける。
顔を上げてリーネアを見ると、彼女は窓の硝子を撫でていた。
「私は物語が好き。世の中には色んな物語があるわ。
でも、大抵の人はそれを小さな窓から眺めるだけで、
物語の登場人物にはなれない。当たり前よね。
普通の人が日常を送るだけの日記なんて、物珍しさが終わる数頁で飽きるわ。
誰もが自分の物語の主人公ではあるだろうけど、面白い物語の主人公は少ない」
リレックのような田舎村の農民ならば、日々の畑や作物の手入れ、酒盛り。
数頁で飽きるどころか、豊作や凶作がなければ数行で書き足りる。
「普通の人は窓から眺めるだけなんだけど、稀にいるの。窓から出て行く人が。
例えば、伝説の聖剣に選ばれし勇者。外の光に誘われて窓を出る人」
数多の物語においてもっともありふれた類型にして、
リレックが復讐のために追う者。
「窓を破られて、無理やり外へ引きずり出された人」
日常にいられなくなった人々。今までの旅で何人も見てきた。
父親に見捨てられた炎の魔術を操る少女。
姉を奴隷商人に攫われ、奴隷制に復讐せんとする豪農。
賊と己への復讐として、罪人の魂で豊穣の畑を作る禁術使い。
野盗に両親を殺された熊耳の女の子。
皆、日常から引きずり出された人たちだ。
彼らはきっと、窓から外へ出る事など望んでいなかった。
「そしてリレック、貴方みたいな人」
「自分から窓を出て行く奴か」
「いいえ、後先考えず壁ごとぶっ壊して出て行く人」
人をとんでもない破壊者呼ばわりしながら微笑む令嬢に、
そんなはずがないと言おうとして思い至る。
改めて思い返せば、旅立ちから滅茶苦茶だったではないか。
勝算すらなく恐るべき老剣士に挑み、王都では陛下に向かって無礼を働いた。
窓を壁ごと壊して出て行く。これほどリレックの行動に合った評があろうか。
「貴方みたいな人はね、責任や義務から逃げてはいない。
家の中にいるのが嫌だから窓から逃げたんじゃない。
窓の外にどうしても行かなきゃいけないから壊したはずよ」
確かにそうだった。旅に出る発端は、ツィブレが畑を潰したからだ。
故郷は嫌いでいつか出て行きたいとは思っていたが、
実行したのは奴を殴りにいかねばならなかったからだ。
「そんな事のできる人は一握り。大半は夢想するだけで人生を終える」
もし畑が潰されていなかったら、
漠然とした思いだけを抱えて故郷で一生を終えていた。
新しい農地を開拓するか、諦めて鉱山で働くか。
村から出ようとは思わなかったろう。
「窓から眺める事しかできない私たちは、
物語を通して彼らの人生を体験した気になるの。
貴方のような、日常とはかけ離れた生き方をする人の物語を」
英雄譚に心おどらせた幼い頃を思い出し、
何となく彼女の言葉が理解できた。
幼いリレックは、北方で活躍したという無双の剣士になりきって
棒切れを振り回していた。それと同じ事だと。
それを慎ましやかな幸せ、と言ったのだ。
「オレの物語なんて、誰が読もうとするんだって気がするけどな」
「誰も読まなくたって関係ないでしょ?
貴方は自分がやりたい事をやるだけなんだから」
自嘲すると、リーネアはじっとリレックを見ながら言う。
間違っているとばかり言われてきたし、自分自身ですら思う。
勇者を殴るなんて事をするなら他の事をしたほうがいいと。
そんな事は分かっている。
しかし勇者を殴らねばならなかった。したかった。
誰に何を言われようと、誰もが見向きもしない物語だろうと。
自分の意志のままに。
「誰も読まなくたって、貴方自身はその物語を読むわ。
だから、悔いのないように終わらせて。
どんな結果でもいい、貴方が納得する終わりで」
「終わりって、死ぬ時って事か?」
「主役が死ななくても物語は終えられるわ。
死の瞬間まで書かれる英雄譚なんて稀。
殴って終わるのか、殴れずに諦めるのか、それとも保留して違う事を始めるか。
貴方が納得できればどんな結果でもいいの。でも、区切りはつけないと駄目。
永遠に終わらない物語も、書き手に見捨てられた物語も悲しいだけだわ」
かつて、シュペナートの家である物語を読ませてもらった事がある。
題名は"裸のフラーシェク"。いつも上半身裸な魔術師の珍道中を書いた物語。
彼の母が息子に力ある言葉を覚えさせようと書いたらしく、
上巻と中巻の二冊だけが置いてあった。
息子が魔導書を読むようになったので、下巻を書くのを止めたらしい。
シュペナートが寂しそうに言っていたのを思い出す。
俺はフラーシェクの話を最後まで読みたかった。
彼がどういう結末を迎えるのか知りたかった。
せめて中巻の最後に"彼の旅はこれからも続く、おしまい"とでも
書いてくれていれば、と。
下巻でどんな珍道中をしたのかはもう分からない。
シュペナートの母が亡くなった時に、それを知る術は失われたのだから。
他の誰が続きを書いても本来の物語ではない。
シュペナートのために作られた物語だが、彼にだって続きを書けやしない。
裸のフラーシェクの物語は、永遠に終わらなくなってしまった。
自分が知り、読む物語がそうなってほしくないという令嬢のわがまま。
二日間わがままを聞くという仕事だった。
ならばそれも聞こうと口元が笑みを作る。
「奴の顔面をぶん殴って、勇者を殴る馬鹿の物語は終わりだ。
例えそうでなくても、終わらない物語にはしねえよ。
その後は壊した窓を直して、最高の畑でまた農民として暮らすさ」
「わざわざ窓を直すあたりが貴方らしいわ」
何となくおかしくて、二人で笑い合う。
終わらせよう、復讐の物語を。願わくば最高の結末で。
「さてと、ここからは報酬の話ね。プルエバ村に勇者がいるという情報があるの」
公の表情になるリーネア。リレックも背筋を正す。
「その、呆れないで聞いてね。
件の勇者だけど、三十日ほど前にプルエバに着いてから一切動いていない」
「動いていない!? どういう事だ?」
「村でわがまま放題、食っちゃ寝の生活で自堕落に暮らしてるそうよ……。
村の人たちは陛下の後ろ盾がある勇者が相手じゃ逆らえないし」
「あの野郎……!」
あまりの怒りで手に持つ杯が震える。
今までの旅路は何だったのかという脱力感も凄まじい。
無駄だというつもりはない。
得る物もあったし、熊耳の少女はこの旅路でなければ救えなかった。
しかし酷い遠回りをさせられたとあっては、腹立たしい事この上ない。
それ以上に許しがたいのは、ツィブレが責務を放棄しているという事だ。
やりたくないならできないと最初から断ればよかった。
それなのに勇者として好き放題にしつつ、義務や責任を放り出して遊び惚ける。
王都であれだけやったにも関わらず、プルエバ村でまで同じ事をするのか。
「貴方が殴りたいと言うのも分かるわ。私の分もついでに殴っておいて。
恩恵を貪るだけで責務を果たさない者を、私は許さない」
拳を突き出すリーネア。
その拳に、己の拳を軽くぶつけた。
「任せろ。あいつが吹っ飛ぶくらいにぶん殴ってやる」
「お願いね」
お互いに、杯に残った葡萄酒を飲み干す。晩酌もお開きだ。
立ち上がって部屋を出ようとすると、リーネアに呼び止められた。
「明日、私は行けないから西門まで誰か見送りに行かせるわ。
貰ってほしい物の準備もあるし」
「追加報酬とかは別に要らないぜ?
それに今日はこの屋敷に泊まるんだから、朝にでも……」
「準備があるって言ったじゃない。領主のお嬢様に恥をかかせるつもり?」
いかにも何かを企んでいる悪い笑みを浮かべ、
リーネアは小さく手を振っていた。
何をしでかしてくれるのかと考えるが、
彼女がリレックたちを悪いようにはしないだろうと分かっていたので、
苦笑しながら部屋を後にした。




