第六話 熊耳の幼子-4
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いつも呑気に歩いていた道が、
崖の淵を歩いているような不安な物に思えてくる。
皆が無言でただ歩く。
土を踏む音だけが響き、今までならあったライチェの歌声も聞こえない。
先頭に立ってみて初めて、
ライチェの索敵にどれだけ助けられていたのかを痛感した。
後ろ以外の全てを警戒しなければいけない事が、
精神的な疲労となってのしかかってくる。
しかし歩みを遅らせてはいけない。できるだけ距離を稼いでおきたい。
コロコニに目をやると、緊張こそあるものの疲労は見えない。
シュペナートがリレックの背の荷物を軽く叩く。
コロコニの様子は自分が見ているという事だろう。
そして、自分たちもいるから気負うなと伝える意図も。
大きく息を吐き、集中する。
目を凝らし異変を見逃さぬよう、しかし足早に進む。
食事休憩が唯一落ち着ける時間だ。
昼は森から少し離れ、開けた場所で保存食を食べながら体を休める。
本来ならどこから奇襲を受けるか分からないので避けるべきだが、
ライチェは太陽が出ている間休む必要がなく、
全周囲を見渡せるので障害物がない方が奇襲を受けにくい。
昼は火を使わず、夜だけ火を使う料理をする。
位置を推測されるような焚火の跡などはなるべく残したくない。
日が沈む直前まで歩き、身を隠せるような場所を探し、
そこで焚火を囲んでの夕食。
火はどうするか迷ったが、料理が終わったら消す事にした。
薪となる物を探すのを最低限にしたかったからだ。
「……こんなに疲れると思わなかった」
「いつも先頭を歩くライチェの苦労がどんなものか、身をもって知ったぜ……」
精神的に疲労してため息をつくコロコニにつられて、
リレックもため息が出てしまう。
今までの旅でも警戒を解いた事はなかったが、ここまでの疲労ではなかった。
ライチェはそれを聞いて自慢げに胸を張っている。
感謝を込めて頭を撫でてやった。
「確実に自分たちを狙っている相手がいて、
そいつらがいつどこから来るか分からない。
恐怖を感じない方がどうかしている」
シュペナートが鍋で煮える野菜スープをよそってくれる。
暖かく野菜の甘味が染み出た味に心が癒される。
追われる身というのはここまで恐ろしく、心細いものだったのか。
改めて実感した。
勇者を殴り、お尋ね者になったならこのような逃亡生活が生きている限り続く。
たった一日でこの有様だというのに。
自分一人でやらなければいけないと思った。
ライチェとシュペナートをこんな事に巻き込むわけにはいかない。
勇者を殴るのは一人でやる。
リレックだけがお尋ね者となるようにしなければならない。
そんな事を考えていると何かに頬を押される。
ライチェが腕の先をリレックの顔に押し当てていた。
「いきなり何してんだよ」
「わたしは、リレックさんと一緒にいますからね」
眉の形は怒っているようだが、強い意志を示しているのだろう。
リレックの心中を見透かしたかのような宣言に何も言えなくなる。
シュペナートに助けを求める視線を送るが、そっぽを向かれてしまった。
ならばとコロコニに話しかけようと思ったが、
彼女はスープの揺れる水面に何かを見ているように、じっと考え込んでいる。
「どうした?」
「復讐って、どういう事をしたらいいのか考えてたの」
コロコニはスープをすくう。匙には一切れの野菜。
それを一口で食べる。
「ただ単に殺したら、この具みたいに一瞬でなくなっちゃう。
お父さんとお母さんはあんなに辛くて苦しい思いをしたのに。
あたしたちはこんなに怖い思いをしているのに」
死んだ後どうなるかは誰にも分からない。
死後の世界というものがあるのか、死した瞬間にすべて消えるのか。
国教では善き魂は天の楽園に、悪しき魂は地の底に落ちるとされている。
本当かどうかは誰も知らない。
土の魔術師であるシュペナートはこの教えを非常に嫌っている。
農民のリレックもあまり好きではない。
大地と共に生きる者と、大地を不浄な物とする考えとが相容れるはずもない。
言い分からしてコロコニもあまり信じてはいないのだろう。
そんな彼女にリレックが言うべき事は一つだった。
「別に殺すだけが復讐じゃねえだろ。
自分が納得できればそれが復讐だとオレは思う。
結局のところ誰かのためにっていうんじゃなく、
自分のためにやるものだからな」
「リレックさんは、勇者を殺したいと思った事ないの?」
「潰された畑を見た直後はぶっ殺してやるって思ったし、
目の前にいたらそうしてたかもな。
だが、今は違う。一発ぶん殴れればそれでいい」
「どうして?」
リレックは拳を前に突き出す。
その手に乗せたものをあらためて確認するように。
「勇者であっても悪い事をしたら罰を与えられる。叱られる。
それを示したと、オレ自身が納得できるからだ。
どうせ畑の事を謝りなんかしねえだろうが、構わない。
オレが、これでもういいと思える事が重要だ」
「……なんだか、自分勝手だね」
「復讐なんて自分勝手なもんだ。
そいつが納得してるんなら、誰が何を言おうがそいつの復讐なんだから」
奴隷として買われていった姉を想い、
奴隷制度への復讐として奴隷を育て一人立ちさせていた豪農。
妻と娘を奪われた憎悪から野盗や罪人を禁術の生贄とし
誰も食べない野菜を作り続け、己への復讐を果たし続ける魔術師。
リレックの復讐も、彼らの復讐も、自分のために。
自分が納得したいからやっているだけなのだ。
「だから、お前も自分の思うようにやればいいんだ。
復讐すべき奴以外に迷惑をかけなきゃな」
そう言った途端、ライチェとシュペナートが無言で顔を近づけてくる。
そして、珍妙な動きをしながらリレックの頭を舐めまわすように見る。
何が言いたいのかなど聞くまでもない。
「悪かった、オレが言う事じゃなかったよ! 迷惑かけまくりですみません!」
なおも寄ってくる二人の顔を押し返していると、
コロコニは軽く吹き出して笑った。
翌日。空が明るくなり始めたらすぐに動き出す。
どうしても前日の疲労は残る。
荷物は軽くなっているのだが、昨日より足が重くなる。
コロコニはしきりに目をこすり、足取りがふらふらしている。
昨夜はまったく眠れなかったのだろう。
「シュペ、場所を代わってくれ。ライチェは荷物を」
シュペナートと隊列を交代し、ライチェに荷物を持ってもらう。
そして槍を手に取り、コロコニの前で背中を見せて屈んだ。
「背負っていくから寝てていいぞ。揺れるから寝にくいとは思うが」
「で、でも、出発の時に……」
「途中で倒れられたらそれこそ困る。
問答してる時間が惜しいんだ、乗ってくれ」
リレックが急かしたからか、
コロコニはそれ以上反論する事もなく背におぶさった。
女の子に対して失礼かもしれないが、子供とはいえ軽くはない。
熊人との混血だからか、見た目よりも筋肉の重量があるらしい。
これで歩き続けるとなると、体力のないシュペナートでは恐らく無理だろう。
苦肉の策としてシュペナートに先頭に立ってもらい、
ライチェに荷物を持ってもらった。
「よし、しばらくはこのまま行くぞ」
再度歩き始めてしばらく、首に回された小さな腕の力が抜ける。
左肩に乗る頭から規則正しい寝息が聞こえてきた。
「安心したんですかね、人の温もりを感じられるから」
冷たい木と鉄の体である事を気にしてか、
どこか寂しそうに言うライチェ。
彼女の心の温もりには何度も助けられているのだが、
それは本人にとって代替にはならないのだろう。
「どのくらいまで追ってきてると思う?」
前を歩くシュペナートに聞いてみると、腕を組んでしばらく思考した後、
振り向かずに手を上げてひらひらと動かした。
「連中の進む速度が分からないから、勝手な想像にしかならん。ただ……」
「何だ?」
「いつもの考えすぎだとは思うが。
もし追うのではなく、待ち伏せするのならどこかを考えていた」
突拍子もない事を言い出したシュペナートに、
リレックは少しの間だけ言葉に詰まった。
自分たちを後ろから追ってくる相手が待ち伏せなどと。
「オレたちをわざわざ追い抜いて待ち伏せ? 何の意味があるんだ」
「追い抜くんじゃない、最初から先に行かせて待ち伏せをするんだ。
あの罠にかからない事を見越して」
空に向けられていた手が、南の森を指差す。
宿場で聞いた話では、この森はベンターナとの中間あたりで途切れるらしい。
「野盗の親玉は狡猾で頭の切れる奴だ。
あれは見せ罠でしかなく、本命は待ち伏せの方かもしれない。
しかし、それなら部下を殺さず二手に分けた方がいいから不自然。
村を出てからこんな事ばかり考えさせられたから、つい思い浮かんでな」
シュペナートは自嘲気味に笑うが、もしそれが正しかったら。
草を結んだような簡素な罠でも、
三対七で子供を守りながら戦う時に引っかかれば致命的だ。
いつも頼りにしている親友が導き出した推論、
気にかけておく価値はあるとリレックは思う。
だから、茶化さず真剣に聞いた。
「シュペが待ち伏せするんなら、何処だ?」
シュペナートの指は道の先、ベンターナの方向を示す。
「森が途切れる場所。森から襲えば、森に逃げ込まれる事がない。
そして、宿場と町のほぼ中間点。
奇跡でも起こらない限り助けなんぞ来ない。俺ならそこで仕掛ける」
それ以上はお互いに何も言わず、ただ歩き続ける。
最終的な判断はリレックに任せるという事だろう。
考えすぎといえばそれまで、不安を恐れていては進めない。
しかし、もしもの時の備えをしないのはただの思考停止だ。
遺体を撒き餌に使った罠が、宿場からコロコニを、
ひいては護衛のリレックたちも含めて引き離す見せ罠かもしれない。
理には適っている。宿場には警備隊がいて、三人の手下を倒した旅人もいる。
罠におびき出しても戦力差を考えれば危険度が大きい。
ならばベンターナに向かう所を狙う。
旅人、つまりリレックたちが少人数である事は
手下を一人だけ連行した事から気付かれているだろう。
逃げる相手を追うより、待ち伏せの方が圧倒的に有利だ。
勇者を追う旅の中で何度思ったか。
しなくてもいい警戒で疲弊しながら待ち伏せに自分から飛び込んでくる。
格好の獲物だ。
道を外れるわけにもいかない。
南の森は論外として、北は目印らしい物がない草原。
地理に詳しくないリレックたちでは確実に迷う。
今の状況が、待ち伏せはあるかもしれないと思わせてくる。
だからシュペナートはリレックにそれを伝えた。
「じゃあ、いつも通りわたしが前の方を警戒しますか?」
「……いや、このまま行く。ライチェはこのまま後ろを頼む。
シュペ、待ち伏せがあったらどうするか、今晩までに考えておいてくれるか」
リレックの指示に二人は頷く。
追われているのか、待ち伏せされているのか。
分からない以上とにかく進むしかない。
背中で寝息をたてるコロコニに、
一日でも早く安心して眠れる夜を過ごさせてやりたい。
しかし焦りはしないし、楽観もしない。
"あり得ない"という事はない、それをよく知っている。
旅のきっかけがそうだった。いくら悪童でも畑を潰すなどあり得ないと
楽観していた結果が今の旅なのだから。




